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乗鞍岳・黍生(きびう)川―2日目

2020.09.15 Tuesday

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 上部にある長い滑滝

 

829日(日)晴れ

早朝冷えて、薄いシュラフの隠居はなんともなかったが、シュラフカバーだけの人は寒かったようだ。

 

前日重荷に耐えた老骨を恐る恐る始業点検したが、幸いなんともなくひと安心。

 

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 キャンプ地の上はサラシナショウマの群落地

 

河原で朝食をとったあと出発。

 

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ここからは鬱蒼たる森林帯は終わってダケカンバが現れる。

 

谷は広くなって美しい小滝、滑滝が次々と現れ、高山植物も多くなってきた。

 

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千町尾根が大きく見え出し、水流がだんだん細くなって、源流部に近くなったことがわかる。

 

標高2200mを過ぎたあたりで谷は二つに分かれるので、右にはいる。左は水流がなかった。

 

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真谷にもあった火山活動で出来たと思われる最上流部の断崖が現れ、左を巻く。

 

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 このあたりは岩が滑り、草付きを登る

 

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 遡ってきた谷を振り返る

 

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 御嶽山

 

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 源流から谷の全容を望む

 

谷が終わってすぐ阿多野道に出るかと思ったら、結構なハイマツ漕ぎが待っていた。

 

久々のハイマツ漕ぎで体力を使う。

 

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ハイマツの樹海の途中で二手に分かれ、左へ泳いだFさんとNさんは阿多野道に出て中洞権現まで往復。

 

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 中洞権現(Fさん提供)

 

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 中洞権現から屏風岳(2968m)と大日岳(3014m) Fさん提供

 

隠居と若いほうのNさんは右へ泳いで阿多野道へ。

 

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阿多野道は、9年前に真谷を遡行した時以来だったが、その後上部は完全にハイマツに覆われ道がわかりにくくなり、森林帯以外は背丈ほどの笹が茂り、歩行がたいへんだった。

 

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 山岳会が32年前、創立80周年記念に設置した道標か健在

 

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 林道終点の登山口

 

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林道終点から少しの間は今回同行のNさんが奉仕で刈っておられるが、行政は金を出す気がないようなので、近い将来消滅が懸念される。

 

足弱隠居は、遅れがちながらバテずに2日間歩くことができ、山と若い人に感謝。

 

キャンプ地6:00 稜線9:00 駐車場所13:40

 

今回久々に正しい沢登り(=上流に人工物が無い清冽な谷で、大滝、滑滝がある。宿泊をし、流木でたき火をして酒を飲む。谷が尽きる高山帯まで遡行)ができ、大満足だった。

 

この黍生川遡行で、乗鞍南面の谷11本にすべて入ったことになり、冥途へのいい土産になった。

 

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渓谷歩きの元祖冠松次郎は、「山の楽しみは山頂より谷にある」と言い、「よい山には、よい谷が必ずあり、その山のよさを知るには谷から」と言ったが、やはり名山乗鞍にはよい谷があった。

 

ひとえにFさんのおかげである。

 

台風10号の後も秋雨前線の影響で雨が多く、もう朝夕涼しくなって、今年の短い沢登りシーズンは終わった。

 

今年はコロナ禍の影響もあり「年寄りの冷や水山行」は2回だけだった。

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乗鞍岳・黍生(きびう)川=1日目

2020.09.09 Wednesday

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 黍生川の大滝

 

報告が遅れたが、乗鞍の谷の精通者Fさんのお誘いにのって、8月末の暑い日に黍生川へ行ってきた。

 

どういうわけか川の名がついているこの谷は、乗鞍千町尾根の中洞権現(2662m)から石仏山森林尾根と中洞権現ノ尾根の間を流れ下り、山麓には黍生集落がある。

 

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実は今回が3回目の入渓だった。

 

Fさんもまだ入っていなかったこの谷、3年前に一度偵察に入り、2年前には車1台を下山側の阿多野集落林道末端に置いて入渓したが、計画が甘くて途中で時間切れとなり、往路を戻った。

 

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 3年前偵察時の下部の滝

 

意外と長い谷で時間を喰うことがわかり、今回は一昨年と同じメンバー=隠居のほかFさんとNさん(いずれも50歳代)に40歳代の若い人1名を加え、途中1泊の計画で入山した。

 

829日(土)晴れ

早朝、車1台を阿多野林道ゲート前に置いてくる。

 

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集落から牧場への林道を歩き、昨年入った標高1550m地点から急斜面を100m降りて入渓。

 

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 御嶽山

 

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2017年に、集落からここまで偵察遡行して上がっているが、途中小さな滝が少しあっただけだった。

 

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 早速谷の主さんがお出迎え

 

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 家来衆も

 

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一昨年引き返した標高1750mあたりを過ぎてもしばらくは平凡な谷だったが、その後小さい滝が現れはじめ、直登を楽しんだり、巻いたりした。

 

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この渓谷と深林に分け入る登山は、田部重治の言う「大自然と全人的に融合する登山」に他ならない。

 

重荷の足弱老人は遅れがちだったが、若い人が気を使って待っていてくれ、ありがたかった。

 

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やがて標高2000mあたりに落差30mくらいの待望の美しい大滝が現れる。

 

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この滝は左の斜面を高巻く。

 

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 落ち口から覗く

 

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宿泊場所を探すが適当なところがなく、さらに上へ。

 

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22条の美しい滝が現れる。

 

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 上部に稜線が見え出した

 

この上の谷から一段高い草地に決める。

 

各自ツエルトを張るスペースはないので、一枚のツエルトを広げ、ストックを支柱にして平面状に張り、雁首を揃えて寝ることに。

 

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流木の焚火で衣服を乾かしながら少々の酒を飲む。

 

早々と寝床へ入ったすぐに、にわか雨があった。

 

ねぐらが少し傾斜していたので端に寝ていた隠居は押し出され、夜半目が覚めたら上は降るような満天の星。

 

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柄にもなく哲学的になり、一瞬の星のまたたきのように短い人間の一生を考えたりした。

 

望んでいた深山の夜だった。

 

歩行開始8:00 入渓9:30 キャンプ地16:20

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奧又白池と前穂高岳東壁

2020.08.26 Wednesday

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独りテント泊で、三密にならない山へ行ってきた。

 

もういちど奧又白の池に立って東壁を仰ぎ見たいと思ったのは、201399日から10日、Sさんと明神岳主稜を縦走した時であった。

 

明神主峰の下でビバークをし、翌日前穂高の直前で右の谷を覗いたらそこがA沢で、はるか下になつかしい池が光っていたのだった。

 

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 A沢上部から見た奧又白池

 

なかなか果たせず今回ようやく実現したが、年齢的にはおそらく「見納め山行」になるだろう。

 

池畔までテントを担ぎ上げるのは大変だし、今は幕営禁止になっているので、徳沢からの往復とする。

 

久しぶりの上高地はコロナ禍の影響で閑散としていた。

 

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小梨平のキャンプ場は、先日の熊騒動で閉鎖中。

 

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徳沢も人もテントも少なく、気に入った大樹の下に設営し、ビールと読書で過ごす。

 

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翌日5時半に出発し、新村橋を渡って対岸に。

 

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ここからの記憶があいまいで、GPSを見ながら進む。

 

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 涸沢との分岐点

 

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 松高ルンゼ

 

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 中畠新道は右の岩壁基部から尾根に取り付く

 

後ろから若い男女が追い付いてきたので聞くと徳沢園の人で、池まで行くと言って追い抜いていった。

 

松高ルンゼと中畠新道の分岐も記憶が無く、昔途中までルンゼを登った気がするが、今回は道を忠実に辿る。

 

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道はかなり急峻で、こんなところを往時重荷でよく登ったものだと思った。

 

登攀具のカラビナは鉄の時代、炊事具や食料などもすべて重く、40kg近かったはずだ。

 

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やがて前穂、北尾根が見え出す。

 

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 宝の木が見え出す

 

ようやくなつかしの池に出る。

 

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池はテントもなく全く静かで、前に到着していた2人だけ。

 

彼らに褒められ、ついうれしくなる。

 

若い男性は徳沢園の三男さんでこのあたりに詳しく、Aフエィスを登ったことがあるとか。

 

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女性は従業員さんで、池ははじめてとのこと。

 

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このあと東壁と北尾根四峰正面壁を見るため基部への道を途中まで進んで、各岩場ルートの記憶をたどる。

 

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緑の草地の上に日当たりがいい岩壁が立ち並び、いつもガスが巻いている暗い滝谷と対照的だ。

 

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東壁はいつぞやの地震で大崩壊したと聞いていたが、今は亡きI先輩と登ったDフエィスは健在であった。

 

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2人ともこのルートにはあこがれていて、オーバーハングではIさんの希望でトップを譲ったが、巧みな人工登攀でハングの上に彼の姿が消え、夏雲が眩しかったことが昨日のことのように思い出された。

 

まだ2人とも20歳代半ばで、まさに青春の山。

 

その後この合宿で一緒だった写真のIさんもHさんも早く逝ってしまった。

 

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   昭和43年8月 東壁の下で

 

崇高で美しい山は変わらないが、まさに「歳々年々人同じからず」だ。

 

崩壊個所はDフエィスと北壁ルートの間、北壁大テラス一帯であり、その他はA.B.Cフエィスなどもなんともなっていなかった。

 

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 崩壊箇所は頂上からの白い部分 右Dフエィス

 

北壁〜Aフエィスルートは今も若い人に登られているようだ。

 

右側には北尾根の4峰正面壁が一望できた。

 

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 右4峰正面壁

 

ここも涸沢のベースキャンプからきてよく登ったものだ。

 

時々振り返りながら、下山の途についた。

 

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ここまでの登りの途中にいくつもの慰霊碑があるが、この奧又白の岩場でも多くの若者が冒険に殉じた。

 

その後時代は変わって、現在では命がけの登攀に固執するクライマー、死ぬほど真剣に遊ぶ若者は希少となった。

 

この時代の彼らの登り方は、その後登山を始めた人にとっては異人種の行為に見えるかもしれない。

 

しかしこの時期パイオニア・ワークという言葉に支えられ、安逸を嫌って山へ向かった若者の行動の美しさは永遠に讃えられるべきであろう。

 

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こんなことを考えながら、安逸にしがみついてまだしぶとく生きながらえている老骨の追憶、感傷山行は終わった。

 

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<追記>

今回徳沢へ入る前に西糸屋さんへ寄って、3代目の経営者奥原宰さんに、先々回ブログで紹介した版画のハガキをすべてお渡しすることができた。

 

祖父の代の貴重なものだとお礼を言っていただいた。

 

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版画の作者は安曇野出身の日本画、版画家の加藤大道さん(18961965)であることも教えていただいた。

 

松本電鉄上高地線の終点新島々駅の隣にある喫茶店で原画を見ることができるとのこと。

 

https://cafe-pleyel.com/katodaido

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沢上谷

2020.08.11 Tuesday

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残暑お見舞い申し上げます。

 

あまり暑いので、昨日の「山の日」に今年初めての沢登りに行ってきた。

 

近年沢入門コースとして人気がある沢上(そうれ)谷。

 

移動自粛ムードで空いているかと思ったが、他県の車が何台もきていて、ツアーらしき団体も見られ、賑わっていた。

 

梅雨末期の豪雨で、飛騨の山間部は各所で道路決壊など甚大な災害が起きていて、まだ乗鞍へも行けないままだ。

 

この時期いつも入る旧朝日村の九蔵谷などの林道にも被害が出ているようだが、沢上谷あたりだけはなんともなかった。

 

昨日は山岳会の若い人4名に遊んでもらったので、谷の涼風をどうぞ。

 

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 隠居はこの大滝に打たれて滝行を行ったが、翌日もマイナスイオンで体の調子がよく、疲れも残らなかった

 

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 大滝は高巻く

 

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 急斜面を下降し、再び谷へ

 

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 林道に出て終了

  

<以下余談>

日本独特の登山方式である沢登りは、山スキー同様シーズンは限られ、梅雨明けから九月中旬までといたって短いが、登山の原点である「未知へのあこがれ」を十分満たしてくれ、まことに楽しい。

 

静観派の元祖田部重治は「渓谷遡行の喜び」と題して、「仰ぐ流れの彼方を包む山々、樹林、谷間のなんと複雑な包容的なものだろうか。もし日本においてまだ人間の足を踏み入れない場所があるとすれば、渓谷においてこそその可能性が最も多いと言わなければならない」と書いている。

 

これは昭和15年に書かれたものだが、今でも十分通用する文だ。

 

隠居が沢登りを始めたのは、笠ヶ岳や錫杖岳での岩登りに少々飽きがきていた昭和四十年代後半で、笠ヶ岳の西面にある笠谷本谷だった。

 

現在は沢登り専用の靴が販売されているが、その頃は地下足袋にワラジといったいでたちで、昔の旅のように予備のワラジも持って行った。

 

次々と現れる大滝に心を躍らせ、積極的にクライミングを楽しんだ。

 

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 笠谷本谷 昭和45年9月

 

夜は河原で流木のぜいたくなたき火を囲んで酒を飲み、満天の星を仰いでごろ寝をした。

 

そして翌日は、源流部の広大なお花畑を通って笠ヶ岳の頂上へ出た。

 

この初回の沢登りは、それまでの岩登り山行と違って、なにか懐かしい日本的な山旅の楽しさみたいなものをはじめて知った山行として、今でも強く印象に残っている。

 

あと笠谷の支谷を何本か踏査し、小倉谷、打込谷を遡行したが、なかでも錫杖岳の西面へ突き上げている笠谷の右俣B沢は、美しい滝が多いすばらしい谷であった。

 

その後本谷へは、播隆仏探索がてら何回か入ったが、そのたび谷の様子が変わっていた。

 

顕著な大滝を除いて、小さい滝は埋まったり、新たに違うのが現れたりしていたが、これは毎年の豪雨によるもので、谷は常に変化しているのだ。

 

沢登り愛好家のなかには、どの位置に何メートルの滝があるなどと、谷の全容を詳細に書く(遡行図)こまめな人がいるが、あまり意味がない気がする。

 

それと個人的な好みかも知れないが、沢の遡行は次にどんな地形、滝が現れるかハラハラ、ドキドキするのが楽しみなので、遡行図があるとそれが半減してしまう。

 

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 笠谷右俣A沢 B沢 昭和47年

 

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 笠谷ヒアケ谷 昭和48年

 

その後中断していたが、近年乗鞍岳の山麓にいい谷があることを山岳会の若い人に教えてもらい、自分で「年寄りの冷や水山行」と名付け、自然豊かな清冽な谷で遊んでもらっている。

 

山スキー同様、道がない山はいい。

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上高地からの素敵な山の便り

2020.07.26 Sunday

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 新緑の上高地と西糸屋(ベランダの白いてすり)

 

このところ新型コロナの感染が拡大傾向になり、年寄りは家に閉じ籠っているほかななそうだ。

 

このためにわかに書斎の人となり、飛騨の登山史を書くため戦前の山岳会の書類を漁っていたら、色刷り版画のきれいなハガキが出てきた。

 

昭和12年、上高地の西糸屋山荘が顧客に春の開業案内をしたもので、昭和17年まであった。

 

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その後は戦時色が濃くなって止めたのだろう。

 

西糸屋山荘は、大正期に上高地でキャンプをする登山者相手の売店をやっていたが、昭和3年河童橋のたもとに小さな山宿を開き、今に続いている。

 

創業者の奥原英男氏は、大正11年上高地を拠点とした「島々登山案内者組合」も設立し、組合長に就任、ガイドには前回書いた内野常次郎もいた。

 

現在は3代目の奥原宰氏。

 

ハガキには、見どころの焼岳、大正池、岳沢などをうまい構図で彫り、61日開業したので新緑の上高地へぜひとある。焼岳小屋のほうは6月上旬。

 

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上高地は大正13年に釜トンネルが手掘りで開通し、昭和8年には乗合バスが大正池まで入り、帝国ホテルが開業した。

 

焼岳は大正4年に大噴火して大正池をつくったあと、大正131116日に小噴火し、大正141012日にまた大噴火している。

 

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 大正14年の焼岳噴火 高山市の中村平一氏撮影

 

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版画にはその噴煙が描いてあって面白い。

 

さらに昭和14年の賀状も1枚見つかった。

 

雲海の上に穂高と乗鞍と思われる山魁が浮かび、日の出の方向には富士山らしき山も見える。

 

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3色が使ってあるが、その技巧には舌を巻くばかり。

 

いろりがある部屋を描いたものもあるが、当時の西糸屋は、登山者専用の山小屋みたいなものだったのだろう。

 

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窓から岳沢らしき景色が望め、炉端にザックとピッケルが置いてあって、いろりには大きな樺の木が横たえてある。

 

なにか泊ってみたくなる山宿だ。

 

いろりの火を囲んで一杯やればいうことがない。

 

余談ながら、昔いろりにはよく燃えて火持ちがいい樺の木を置くことが多かったようで、山岳俳人前田普羅が、今は廃村になった飛騨山中の笈破(おいわれ)という集落で、「白樺を横たふる火に梅雨の風」という句を詠んでいる。

 

これらの秀作ハガキは山岳会で持っていても散逸してしまうので、近々西糸屋さんに返す予定だ。

 

その時に作者がわかるかもしれない。

 

今年の上高地は、先日豪雨で道路が崩れたし、長梅雨やコロナ禍で観光客や登山客が減って、しばし昔常さんがいたころの静かな姿を取り戻していることだろう。

 

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奧飛騨の山案内人たち3―「上高地の常さん」

2020.07.07 Tuesday

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しばらく治まっていた焼岳あたりを震源とする地震が、この5日にまた何回か起きた。

 

槍平小屋からの情報によると、右俣登山道は4月からの群発地震で大きい落石があり、土砂崩れで何箇所か崩壊していて、コロナ対策より登山道の安全対策の方がハイリスクな課題となっているとのこと。

 

今年の槍・穂高あたりの夏山は、コロナと地震のダブルパンチだ。

 

さらにこのところの豪雨で、登山道の崩壊がよりひどくなっているのではなかろうか。

 

今年槍平小屋は宿泊受け入れを止め、テント泊(要事前予約)だけにしたようだが、もし梅雨明けに入山する場合には、登山道の状況をしっかり確認する必要があるだろう。

 

隠居が毎夏幹事で開催している岐阜の方々との乗鞍沢登りは、多人数が岩場で濃厚接触するし、万一の場合救助で迷惑をかけるので、中止にした。

 

さて、奥飛騨の案内人のうちいちばん知られていたのは、なんといっても「上高地の常さん」こと内野常次郎(1884〜1949)だろう

 

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彼のことは亡くなったあとも語り継がれ、牛丸工の『内野常次郎小伝』はじめいろんな書籍、新聞などに書かれ、知る人は多い。

 

近年では平成23年(2011)岐阜新聞が、「山と酒を愛した自由人・上高地の名ガイド」として「ぎふ快人伝」というシリーズにとりあげ、詳しく書いている。

 

過日取材に行った中尾集落には、常さんが「ひい叔父さん」にあたる内野政光さん(元北山岳救助隊隊長)が住んでおられ、常さんのいろんな話をお聞きし、いろんな資料を見せていただくことができた。

 

内野政光さんは小学校1年生の時、上高地で倒れて中尾へ運ばれていた常さんに水を飲ませたことを覚えているとのこと。

 

近代になって槍・穂高岳周辺で最初に山案内人の名が登山史に登場するのは、よく知られている島々の猟師上条嘉門次である。

 

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 ウェストンと嘉門次(左)

 

明治26年(1893)8月、参謀本部陸地測量部の館潔彦測量掛が三角測量の選点のため前穂高に登った時同行し、この2週間後にはウォルター・ウェストンを明神岳東稜から前穂高岳へ案内している

 

嘉門次は14歳で上高地へ入り、杣小屋のカシキからはじめて杣仕事に従事。その後明神池畔に小屋を作ってイワナ漁や狩猟をするようになった。

 

カモシカや熊を追って穂高周辺を広く歩き回るうち、登山者を安全に導くことができる卓越した知識、技術を身につけていった。

 

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この嘉門次に弟子入りしたのが常さんで、明治34年、17歳の時であった。

 

口利きは中尾集落の猟師頭中島市右衛門。中島はウェストンが笠ヶ岳へ登るため奥飛騨へ入った時世話をした人だ。(前々回を参照)

 

同時期に岐阜県細江村数河出身の大井庄吉も弟子入りし、2人とも嘉門次の助手になって猟を学び、嘉門が大正6年に亡くなった後もイワナ漁や登山者の案内をしてそれぞれ上高地に住んでいた。

 

酒好きで「天衣無縫」「無欲恬淡」の常次郎のほうは、慶応や学習院などの学生に「常さん」といって慕われた。

 

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大正7年8月には英国人W・H・エルウィンを槍ヶ岳北鎌尾根の上部へ案内している。

 

昭和2年八月、秩父宮が槇有恒のリーダーで奥穂高岳から槍ヶ岳、双六岳から笠ヶ岳まで縦走されたとき、常次郎は中畠政太郎、今田重太郎、大井庄吉とともに選ばれ、案内についた。

 

昭和9年、秩父宮ご夫妻が常さんを伴って明神池でイワナ釣りをした時、妃殿下を「おかみさん」と呼んだエピソードが残っている。

 

昭和10年には、慶応大山岳部創部20周年記念に、中尾の中島作之助、立山のガイド佐伯栄作ほか1名と東京へ招待された

 

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行く前に背広を仕立ててもらい、東京には3週間も滞在した。

 

一流のホテルに泊まり、帝国ホテルでごちそうを食べるなど大歓待してもらったが、常さんは上高地の小屋と比べると居心地が悪いので早く帰りたいと言っていたという。

 

「銀座の道は山より危ない」というので理由を聞くと、「スベスベしていて指先がひっかからないので」といった話が残っている。「車が多くて怖い」とも言っていたそうだ。

 

常さんは後々までなぜこれだけ慕われたのだろうか。

 

これは登山家加藤泰安と松方三郎が書いていることに尽きるであろう。

 

学生時代に常さんの小屋に入り浸りだった加藤は、「常さんは小屋代や岩魚代を一切受け取らなかった」「途方もない超好人物」と言い、

 

松方は「いつも変わらぬ温かい心の持ち主」と書いている。

 

彼らは、都会にはいない、会うと心が安らぐ、無欲な人柄に傾倒していたようだ。

 

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 いつも愛犬と

 

中国の老子思想では、人はことさらに知や欲をはたらかせず、すべてを分かち合って自然に生きる(無為自然)のをよしとするが、常さんはそのような人物だったようだ。

 

ウェストンは、まだ西洋文明が及んでいない日本の山村の人々に接した時、その素朴さ、思いやりの深さに何度も感動している。

 

そして「われわれ(西洋人)が誇る20世紀の人工的物質文明の魔の手が届いていないので、汚れや人擦れがない」「一生そこから出たことがなく、また教育もないのに、真の意味での紳士がいた」と書いている

 

本人の資質が大きいであろうが、昔の日本の農山村にはこのような人がいたことは確かだ。

 

そんな常さんは、一時清水屋付の小屋、五千尺脇の小屋、温泉ホテルの豆腐小屋などを転々とせざるを得なかった。

 

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これは、大正13年釜トンネルが手掘りで開けられ、昭和8年大正池まで乗合バスが入り、同年帝国ホテルが開業すると次第に観光地になり、ここでの金儲けがあたりまえになるのにしたがって、学生を小屋に無料で泊め、ただ飯をくわせている常さんが煙たかったからだ

 

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小屋を追われて途方にくれている姿は、先日読んだ加藤博二著の『山の彼方の棲息者たち』にも出ていた。

 

加藤は、「上高地の主常さん、上高地を追わる」と新聞に出ているのを見て、金儲けのために理不尽なことをする連中に憤慨し、上高地が山の資本家によって都会化してゆくのを嘆いている。

 

その後慶応山岳部のO.Bなど支援する人も現れ、昭和7年奧飛騨登山者案内組合の出先の名目で営林署から土地を借り、国民新聞社脇に小屋を建ててもらい、昭和24年まで住んだ。

 

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ここへは槇有恒、田口二郎、松濤明、加藤喜一郎など多くの登山家が訪れている。

 

戦地から帰った松濤明が、戦後久しぶりに常さんに会った時の様子が『風雪のビバーク』に載っている。

 

昭和22年10月12日、夜島々から入ってイワナ止めに泊まり、翌朝徳本峠を越える。

 

峠で穂高との再会の感激に浸ったあと、上高地で常さんの変わりようにショックを受け、初めて自分の変わりよう人の変わりように気づく。

 

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 『風雪のビバーク』から

  3人とも昭和24年に逝去している

 

この時の様子を、「脚が痛んでならんのじゃとつぶやく声も嗄れてめっきり弱々しくなった」

「激しい時の流れがこの素朴な山人にも最も強く現れているとしても仕方がないことだ」と書いている。

 

そして「私たち若いものにはまだ夢が持てるが、常さんはそれも難しいだろう」などと書いていた松濤は、昭和24年1月6日北鎌尾根で逝ってしまった。享年28。

 

松濤が凍死の寸前に手帳に書いた「有元ヲ捨テルニシノビズ、死を決ス」に始まる遺書は今でも胸を打つ。

 

恐らく松濤の悲報を聞いていただろう常さんは、その年の10月に倒れ、中尾集落へ運ばれて12月に息を引き取った。享年66。

 

岳人にとって桃源郷であった上高地は、この頃観光地となってしまい、山人の常さんが住めるとろでは無くなっていた。

 

彼はいい時期に上高地を去ったといえるだろう。

 

亡くなる前に「上高地の土になりたい」と言っていたという。

 

昭和42年秋、上高地の彼の小屋跡(現中日新聞そば)に石碑が建立された。その下には遺髪だけが埋めてある。

 

石碑の建立が遅れたのは、彼が信州の人ではなかったからだそうだ。

 

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 槇有恒の揮毫

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乗鞍岳で滑り納め

2020.06.27 Saturday

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この年になってもまだシーズン20回以上行っている山スキーは、今年326日の乗鞍(12回目)で中断したままだ。

 

いつもは4月、5月に東北などへ遠出をし、6月はじめに立山で滑り納めとするのだが、他県への移動自粛で中止に。

 

自粛解除で立山黒部アルペンルートも地元の乗鞍登山バスも619日(土)から営業再開になったが、今年は近場の乗鞍で「納め」をすることにした。

 

登山バスは土日臨時便が出るくらいたいへんな混みようで、三密状態だったとのこと。

 

このため老人は平日にということで、梅雨の晴れ間に1人で行ってきた。

 

755分の始発に乗ったが空いていて、数人の登山者のほかスキーを持った人は隠居を含めて3名のみ。

 

畳平駐車場はいつも貸切バスで混雑しているが、ご覧の通りガラガラ。

 

はや高山植物が咲いていた。

 

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 木道はまだ立ち入り禁止

 

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 不消(きえず)ヶ池と不動岳

 

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肩の小屋のすぐ下から下部まで滑ってシール登高で戻り、こんどは朝日岳からの雪渓へシール登高。

 

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 老骨の軌跡

 

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いつもは朝日岳下の登山道から滑るのだが、今年は時期が少し遅かったのと寡雪で雪渓が切れていたので、この最上部まで登る。

 

途中でシュルンドを覗いたりして高山気分を味わいながら、朝日岳の下へ。

 

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 上部に登山者が

 

途中いつも口を開けているクレバスは、今年小さかった。

 

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 欲が出てこの最上部まで登る

 

ここまできていたのは隠居だけ。

 

はじめクレバス横の急斜面でスリルを楽しみ、あと緩斜面を一気に下まで滑って悦に入る。

 

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シール歩行で小屋の下へ戻り、もう一度途中まで滑って、老骨が悲鳴をあげる前に止めとする。

 

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かくして不完全燃焼を少し解消し、今シーズンを終えた。

 

この老生、来シーズンのことはわからない。

 

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<以下まためんどうくさい余談におつきあいいただけるお方のみご入場を>

 

今年の3月一面雪に覆われていた山も、残雪の中にもうシナノキンバイやキバナシャクナゲが咲いていて、いつもながら生命のリズムの不思議さを思わざるを得ない。

 

宇宙は膨張、収縮の循環を永遠に繰り返し、生命も循環し、自然のリズムで動いているという。

 

「天のもとのすべてのことには季節があり、すべての業には時がある」と、聖書だったかに書かれていたが、これをよく理解しているものを賢者というらしい。

 

宇宙の生命のリズムをいちばん知っているのは女性で、男性は押したり引いたり流れを変えようと抵抗するが、女性は流れを感じ取り、流れに合わせて生きているという。

 

最近ある本を読んでいたら、この生命のリズムのことで、半ボケの隠居が日頃漠然と考えていることをうまく書いてあって、ほぼ納得。

 

「生命のリズムの輝かしさのひとつは陰と陽があることで、男性と女性のどちらがすぐれているということではない。」

 

「ただ、男性であることは試練。長い間男性でいると、自分の愚かさに苦しみ、自分が創造したわざわいを通じて人を苦しめ、人に苦痛を与え続けたため自分が嫌になってくる。すると攻撃が理性に、軽蔑が同情に変わり、いつも勝ちたいというのでなく、誰も負けなければいいと思うようになってくる。」

 

「力は正義ではない。強いというのは力をふるうことでなく力をもっていること。」などなど。

 

これに気が付いた時、女性なるものの粋をついに理解したことになるというのだ。

 

わかりやすく言えば、一般的にじいさんになると柔和で優しくなるということだが、その逆の人もいるので人間は面白い。

 

経験と思索を重ね過ぎ、自身でも一筋縄ではゆかない世界観を持ってしまった老人などもそうだ。

 

こういう人は一見好々爺風なので見分けが難しい。

 

もしこんなじいさんが禅門へ入ると、師家(座禅の師)から、「お前さんの背負っている役に立たないもの(分別知)をすべて捨てよ!」「かーつ」と一喝されることは間違いないが・・。

 

(隠居がどちらかは、ご推察におまかせいたします。)

 

話しは飛躍するが、かの敬愛するメスナーは、40歳過ぎに垂直の世界から水平の世界に興味が移り、南極の徒歩横断の時に静寂と安らぎと無限を体験し、仏教の滅諦を感じたと書いている。(『ラインホルトメスナー自伝』)

 

これは一種の悟りであろう。

 

そしてアルピニズムの根底には破壊的な精神があるとも。

 

やはりこだわってきたアルピニズムは、男性だけの、しかも若い時だけのもののようだ。

 

なお山のレベルは雲泥の差があるが、メスナーと隠居は同い年。

 

こちらのじいさんは、いまだ悟りとは程遠い、自己顕示むきだしの生活を送っている。

 

高山植物の話からなにかへんな方へ滑っていってしまい、ご容赦ください。

 

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 久しぶりに亀ヶ池をのぞいて見た

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奧飛騨の山案内人たち2―北穂高岳の積雪期初登頂や滝谷初登攀などの裏方

2020.06.14 Sunday

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 久方ぶりの御嶽山 まだ噴煙が昇っていた(6月7日)

 

自粛解除後の登山再開にあたり、山岳四団体がガイドラインを示し、山小屋やガイドなど山を生業としているグループが「登山withコロナ」としてリスクマネジメントを発表している。

 

読んでみると、登る前の準備、登山中、下山後とも、感染防止対策は多岐にわたる。

 

移動先の医療リソースを調べる、休業の山小屋もあるので情報を入手、飛沫対策用品や消毒用のジェル、スプレーの携行、すれ違いのあいさつはほどほどに、クサリ場、水場のコップ、他人の道具などの接触注意、休憩では混む場所を避ける、小屋での過ごし方はこれまた注意が多すぎて読んでいるうち面倒になり、これならいっそ行かないほうがいいとの結論になった。

 

「コロナはこわいが、なんとか山へ来てもらいたい」という、山で食べている方々の切実な気持がわからないではないが・・。

 

もともと隠居は混む山や山小屋には近づかないようにしているが、今年のお年寄り諸賢の山は、密を避けるため、仕事現役の若い人に譲ったほうがいいのではないかと思う。

 

ただこのところ飛騨では焼岳付近を震源とする群発地震が続き、右俣の登山道に大きい落石があったリ、林道に亀裂が入ったりの被害が出ていて、稜線など登山道の浮石が心配だ。

 

さて奥飛騨の猟師=山案内人の続き。

 

その後奥飛騨の猟師たちは、大正3年日本アルプスにおける探検黄金時代の棹尾を飾ったと言われる小島烏水の双六谷探検に同行する。

 

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 双六谷上流部

 

小島を案内したのは下佐谷集落の猟師高田勘太郎大倉弁次らで、彼らにとっての双六谷は庭みたいなもの、この探検の成功は二人に負うところが大きかった。

 

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 源流から双六池へ到達

 

小島は後に書いた『飛騨雙六谷日記』に、「高田(50歳)と大倉(20の二人は路案内に精(くは)し、大倉は少年にして精悍なり、高田は一徹なれどさすがに落ち着きありて、人夫中の頭領なる貫目あり、豪謄にして恐れず」と、高田の頑固さに少々閉口しながら、結果褒めている。

 

もちろん会ったことはないが、この文から山中でどんなことに遭遇しても動じない頼もしいベテラン猟師高田の、一面融通がきかない飛騨の山人特有の縄文顔まで想像してしまった。

 

この頃高田の弟子だった大倉弁次は、後に双六谷や黒部渓谷へかの冠松次郎を案内できるまでに成長し、穂高あたりへも客を案内している。

 

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 大倉弁次

 

大倉は、大きい体ながら小心で大人しい性格だったという。

 

彼は猟師が使うカンジキ作りの名人で、壊れないことで定評があった

 

近代登山の黎明期、はじめは無雪期各地の主な山の登頂が目的になっていたが、大正後期から登り方が大きく変わり、岩登りや積雪期登山など、よりスポーツ性が強くなる。

 

これは大正10年(1921)9月にヨーロッパ・アルプスでアイガー東山稜初登攀を果たした槇有恒が帰国し、「岩と雪」の山を登攀する技術と思想を伝えたからだ。

 

この頃から早大や慶大、学習院などの山岳部の学生が中心になって、剣岳や槍・穂高岳でより困難な登高が行われてゆく。

 

厳冬期の初登頂などこの時期の登山記録は、日本近代登山史に今も金字塔として聳えているが、これを裏で支えたのが、奥飛騨の中尾、蒲田などの山に精通していた猟師たちであった。

 

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 厳冬の穂高

 

彼らは顧客を導いて現在でも難しい厳冬期の槍・穂高岳を歩いたり、ザイルを結んで滝谷を攀じたりする高度な登山技術を習得しており、ヒマラヤ登山のシェルパと同じであった。

 

しかしこれらの案内人たちの名は登山史にほとんど残っていない。

 

これは明治生まれの飛騨人というより、この頃の山人特有の過剰ともいえる謙虚さから、彼らは皆自分の山歴をなんら語ることなく鬼籍に入ってしまったからだ。

 

もちろん顧客への遠慮はあっただろう。

 

登山史の陰に隠れていた飛騨人の輝かしい功績を改めて世に紹介しようと、その末裔が住んでおられる中尾集落などへ足を運んで調べている。

 

飛騨の山案内人は次のような人々だったが、一般にもよく知られているのは、上高地に住んでいて有名だった常さんこと内野常次郎(次回詳しく)と、穂高小屋を建てた今田重太郎、あと中畠政太郎くらいだろうか。

 

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 今田重太郎

 

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 大正14年穂高小屋が完成 白出沢から材を担ぎ上げた

 

中畠は、徳沢園から前穂高東面登攀のベースキャンプ地奧又白池へ至る道を拓き、隠居が奧又白へ通っていたころ「中畠新道」と呼ばれていた。

 

〈中尾集落〉中島作之助・杉本為四郎・滝沢喜一郎・中畠政太郎・内野政之助・(内野常次郎)

〈蒲田集落〉今田金次郎・今田由勝・今田重太郎・今田友茂・下毛熊次郎

〈栃尾集落〉松井憲三・松葉菊造 

〈下佐谷集落〉大倉弁次・高田勘太郎

柏当集落〉向丸清丸

〈上地ヶ根集落〉小瀬紋次郎

 

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 完成間もない穂高小屋の前で後列左から

 今田重太郎 中畠政太郎 今田由勝 杉本為四郎 小瀬紋次郎 

  前に犬といる人 内野常次郎

 

いちいち彼らの活躍を書くと長くなるので、以下よく知られている記録を少しだけ紹介したい。

 

大正元年(1912)8月13日、中島作之助は、槍ヶ岳〜穂高岳の初縦走者鵜殿正雄と上高地から天狗のコル経由で奥穂高岳に登頂して上高地へ戻り、翌14日上高地から再び天狗のコルを経て西穂高岳に登頂。あと西穂高沢から下降した。

 

中島は蒲田川筋一番の山の精通者で、松井、杉本など多くの後輩を育成している。

 

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 中島作之助 

 いちばん経験が深く、案内人を育成した

 

大正4年(1915)8月には、今田金次郎(今田兄弟長兄)が飛騨山岳会員の中野善太郎と白出沢を登って奥穂高岳から西穂高岳への初縦走し、小鍋谷を下っている。(大正5年5月号日本山岳会『山岳』に記録が掲載)

 

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大正13年(1924)3月には、松井憲三、杉本為四郎、下毛熊次郎が慶大の大島亮吉ら八名を案内して涸沢に入り、3月31日に奥穂高岳の積雪期初登頂に成功した。

 

そして4月6日には、大島亮吉と松井憲三が悪天の中、北穂高岳に積雪期初登頂をした。

 

このとき松井は頂上直下の氷の急斜面に鉈でステップを刻んで大島を導いた。

 

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その後一行はベースキャンプを岳沢に移し、4月11日には前穂高岳の登頂に成功している。

 

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 松井憲三 北穂へ登った時は29歳、滝谷に登った時は30歳

 後に初代北飛山岳救助隊長に

 

大正14年(1925)8月13日には、日本の登山史上今でも語り継がれている偶然にも同じ日に2つの隊による初登攀が北穂高滝谷で行われた。

 

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 滝谷出合

 

松井憲三は関西RCCの藤木九三と組み、(下毛熊次郎と富田砕花はテントキーパーで残る)今田由勝と向本清丸は早大の四谷竜胤と小島六郎を案内してそれぞれ滝谷を初登攀したのである。

 

時間的には藤木隊がA沢をつめて先に登っているが、核心部を通過したのはD沢を登った早大隊といわれている。

 

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翌大正15年7月31日、今西錦司ら三高のメンバー五名が奧又白から前穂北尾根4、5峰のコルへ達し、コルから涸沢への雪渓を下降中、今西など3名がクレバスに転落し重傷を負った。

 

近くにいた慶大、明大のメンバーのほか飛騨のガイド中畠政太郎、内野常次郎らが救出にあたったが、翌日1名が死亡した。

 

昭和3年(1928)3月には、日本の山岳界で将来を嘱望されていた慶大の大島亮吉が前穂高北尾根で墜落死するというアクシデントが起きた。

 

その後2回の遺体捜索でも発見できなかったが、6月1日に内野常次郎、中畠政太郎、今田重太郎が四・五コルのルンゼで発見し、収容された。内野が連れていた愛犬が見つけたといわれている。

 

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 前穂北尾根

 

昭和6年12月20日から翌年の1月1日には、今田由勝が立教大の二名に同行して槍ヶ岳から奥穂高岳への厳冬期初縦走を行っている。

 

同年12月26日から翌年1月6日にかけて、中畠政太郎は学習院の加藤泰安と、槍ヶ岳から西穂高岳という長躯の初縦走を行った。

 

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 中畠政太郎

 

このように彼らは数々の登山記録樹立に貢献してきたが、この頃で飛騨山脈北部の積雪期初登頂時代は幕を下ろし、前穂高東壁や滝谷、屏風岩などを登るバリエーションルートの開拓時代へと入ってゆく。

 

そして今まで早大が行っていたサン・ギイド(ガイドレス登山)が各大学に広まったこともあって、顧客は一般登山者が主体となっていった。

 

従って飛騨の案内人が登山史に残る活躍をしたのは、大正から昭和のはじめにかけての10年間ほどといえようか。

 

特筆しておかなければならないことは、学生たちとの関係は単なる報酬による雇用関係だけではなかったことである。自身も山に情熱を燃やして登山技術を習得し、命がけで厳しい登山を支えた彼らは、もう学生たちの山仲間、同志であった。

 

素朴で誠実な人柄は学生たちに愛され、後々まで交流があった。そして学生の人生観にも大きい影響を与えたようである。 

 

<以下余談―しょせん山は「好きだから登る」だけでいいのだが、御託を並べる癖がある隠居におつきあいいただける方のみ覗いてみてください。>

 

紹介した大正末期から昭和の戦前にかけて穂高岳などで行われた積雪期、厳冬期のピークの初登頂争い、それに続く北穂滝谷、前穂高東面、屏風などの岩場で華々しく展開された初登攀争いのことなど、今の登山者で知る人は少ないだろう。

 

この未知と困難を求め、生命を賭した冒険的な登山はアルピニズムと呼ばれ、戦後も昭和40年代頃まで続き、不肖隠居もその戦列にほんの少し加わったことがある。

 

その間多くの若者がその冒険に殉じた。

 

「知的欲求の肉体的表現」「純粋遊戯」とかいわれるこのやっかいな思想については、長くなるのでまたの機会に語ることにしたいが、今の若い人にとっては「戦争に行った話」を聞かされるようなもので、いやがられると思う。

 

また年を取ってから登山をはじめ、山小屋でごちそうがないと不満を言うなど、山の中でも安穏や快適さを求める今の中高年登山者には、かつて冒険を求めての厳しい登山があったことなど理解されないだろう。

 

アルバート・フレデリック・ママリーなどというと、ママレードの一種かと言われそうだ。

 

ただここで分かりやすく日本古来の信仰登山に当てはめれば、アルピニズムが「弧高の修験者」であり、百名山巡りや無雪期のピークハント、低山ハイキングなど危なくない登山を行っている今の中高年の登山は、「講中登山」と言えるだろう。

 

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 2018年、10日間の大峰山中で唯一出会った修験者(掲載了解ずみ)

 

現代は講中登山者ばかりが多くなって、奈良時代に剣岳に登った修験者のような命がけの冒険(二元論とはちがう個々の内面への旅)にこだわる登山者は希少種になってしまった。

 

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 御嶽山の講中登山

 お年寄りや子供も交じり、助け合って登っていてほほえましい

 

ただ、登山の方法としてどちらがすぐれているとは言えない。

 

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奧飛騨の山案内人たち1―ウェストンを笠ヶ岳へ案内した猟師

2020.06.03 Wednesday

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 まだ馬がいた(5月30日・上宝町)

 

富士登山道が閉鎖になり、南アルプスの山小屋や飛騨では笠ヶ岳山荘が休業を決めるなど、コロナ禍で今年の夏山は寂しいものになりそうだ。

 

そもそも登山は衣食住が足りてから行うものなので、今の時期現役の人はそれどころではないだろう。

 

登山者が少なければ、束の間ながら自然回復ができて山は喜ぶが、山で食べておられる小屋関係やガイドなどはたいへんだと思われる。

 

さて隠居は認知障害の頭を騙しつつ、飛騨の登山史を調べて郷土の歴史研究会の紀要などに載せ、悦に入っている。

 

今取り組んでいるのは、明治から昭和初期に飛騨山脈で案内人として活躍した奥飛騨の猟師たちのこと。

                    

穂高の厳冬期初登頂などに貢献しながら、今まで登山史の陰に隠れていた彼らのことを書き残そうと、その末裔を尋ねたりしていろいろ調べているが、知られていなかったことが出てきたりして、なかなか面白い。

 

明治になって西洋から近代登山が移入され、初期は外国人が、そして明治38(1905)に日本山岳会が創立されたころからは日本人が未知の山に登りだし、探検登山黄金時代、アルピニズムの勃興期である銀の時代(岩と雪の時代)へと続いてゆく

 

周知のとおり、その黎明期に案内や荷運びなどで支えたのが、飛騨山脈では越中の芦峅・大山、信州の中房・大町・島々、そして飛騨の中尾・蒲田などの地元の山に精通していた猟師、釣り師、杣人などの山人であった。

 

山岳の情報がほとんど得られなかったこの時代、彼らの協力無しでは学術調査や測量の成果は得られず、近代登山史に残る数々の記録樹立などは到底無理であったろう。

 

現在のような登山道も山小屋もなかった時代である。

 

登山を支えた山人のうちどの地方でも猟師が多かったのは、近世から近代のはじめまで、日本中の標高が高くてコメが採れない山村では、どこでも焼畑農耕のほか狩猟や採集に拠っており、彼らが地元の山に精通していたからである。

 

飛騨高地の山村にも猟師が多く、近代になって山案内人をいちばん多く輩出している焼岳山麓の中尾集落や蒲田集落、そして蒲田川(高原川)沿いのほかの集落もそうであった。

 

熊やカモシカを追っての彼らの行動範囲は驚くほど広かった。

 

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蒲田川右俣谷・左俣谷、笠谷、下佐谷、双六谷とその支谷を中心に、笠ヶ岳から双六岳、西鎌尾根、三俣蓮華岳、黒部五郎岳、北ノ俣岳、薬師岳の稜線にまで及んだ。

 

岩井戸集落の小野という猟師などは、白山、御嶽、立山、黒部まで足をのばしており、17歳から76歳までの間に熊70頭、カモシカ273頭を獲り、そのほかは記憶にないと言っている。(昭和11年小野翁が80歳のときの話)

 

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猟は数人で組んで雪の中で何日も泊まりながら行うが、集落ごとに縄張りが決められていたという。

 

この猟で培われた土地勘や生活技術などは代々受け継がれ、後に登山者を案内する時におおいに役立つことになる。

 

飛騨で最初に登山史に名前が出てくる案内人はやはり猟師で、明治27年(1984)8月ウェストン一行3名が、3度目の挑戦で笠ヶ岳に登り

に来た時だ。

 

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またも蒲田集落の区長に案内人不在を告げられて途方に暮れていた時、案内を買って出てくれたのが栃尾集落の猟師奥村市次郎であった。

 

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 栃尾の猟師 奥村市次郎

 

ウェストンはこの奥村市次郎のことを、この階級では珍しく眉目秀麗で、レバント海岸(東部地中海)にいる人のようだと書いている。

 

奥村は中尾集落の猟師頭中島市右エ門宅にウェストンを泊め、翌日同じく中尾集落の猟師山本竹次郎と笠ヶ岳(実際は小笠=抜戸岳だったが)へ案内をしてくれたのである。

 

ウェストンはこの中島市右エ門も「がっちりした顔形の整った、今まで見なことがない容貌の持ち主」と書いている。

 

ルートは猟師たちがいつも通っている穴毛谷(この時期クリヤ道はまだない)を往復したが、ウェストンはこの時の奥村市次郎の的確な案内ぶりをいたくほめている。

 

穴毛谷は、隠居も若い時に4の沢の岩場に通ったリかなりの回数入っているが、河原を歩くので道はなく、中ほどから雪渓に覆われていて、8月に入ると雪渓の崩落がはじまる危険なコースで、熟知していないと通過できない谷。

 

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 穴毛谷

 

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 穴毛大滝

 

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 穴毛谷上部しゃくし平から稜線

 

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 稜線からしゃくし平と穴毛谷上部

 

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 抜戸岳(小笠)

 

以前にも書いたが、隠居が数年前にウェストンの手記を検証した結果、猟師たちはウェストン一行を笠ヶ岳でなく抜戸岳へ案内していたことが判明した。

 

奥村は信心深い蒲田集落の人々の気持ちを忖度し、播隆などの仏像が安置されている本峰を避けて抜戸岳へ案内したのである。

 

当時は穂高がそうであったように、この山塊一帯を笠ヶ岳と呼び、抜戸岳は小笠とも呼ばれていたので、3度も登りに来た外人を気の毒に思ってのやさしさ、義侠心から案内をかって出たと思われる。

 

報酬が主目的でないかとするむきもあるが、明治初期の旅行者に擦れていない農山村の人々はまだ報酬というものに淡白であり、特に外国人からお金を受け取って自分たちを貶めるわけにはいかないという気分をもった人が多かったようだ。

 

これは明治のはじめ、東北から北海道へ旅をした英国人女性イザベラ・バード著の『日本奥地紀行』にもある。

 

猟師や樵たちが登山の案内で決まった報酬を得るようになったのは、大正には入ってからだ。

 

その夜は中尾に泊り、翌日猟師頭中島から猟の時の服装、装備などを詳しく聞き、ハミルトン(当時名古屋在住の聖公会派宣教師・カナダ人)はそのいでたちを写真に撮っている。(ウェストン著『日本アルプス登山と探検』から)

 

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 武器は旧式の銃と槍と重いナイフ(鉈のこと?)

 さらに熊と組んだときの小刀も ワカンジキを履いて見せている

 

翌日奥村と山本は、ウェストン一行を送って中尾峠を越えて上高地へ下り、徳本峠から島々へ出て梓川対岸の橋場で別れるが、そのときハミルトンは2人の写真を撮った。

 

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 中尾峠から見た上高地

 

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 徳本峠

 

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 橋場にて 左山本竹次郎 右奥村市次郎

 

ハミルトンは律儀にも、後日この写真を岐阜の写真館から高山の瀬古写真館経由で中尾集落へ送っている。

 

なお、先年ウェストンの登山を助けた3人の猟師のご子孫訪ねてみたが、今もその場所に住んでおられ、いずれも明治期先祖が外人さんを笠ヶ岳へ案内したことを知っておられた。

 

栃尾で旅館をやっておられる奥村家では、仏壇にあった市次郎の遺影(前に掲載)をお借りすることができた。

 

これをよく見ると、ハミルトンが橋場で撮ったものをトリミングして修正をほどこしたものであることがわかった。

 

なおイケメンの市次郎は、生涯独身だったそうだ。

 

奥村家はご長男が継ぎ、現在まで続いている。

 

平成が終わって令和に入り、ウェストンが日本の山を楽しんだ明治はさらに遠くなった。

 

<以下余談 民俗学などにご興味のおありの方どうぞ>

 

宮本常一著『山と日本人』(八坂書房・2013)のこと

 

先に「日本中の標高が高くてコメが採れない山村では、どこも焼畑農耕のほか狩猟や採集に拠っていた」と書いたが、歩く民俗学者宮本常一は、日本に「山岳民」なるものが存在したという話を『山と日本人』に書いていて、昔の山村の暮らしに関心を持っている隠居はたいへん興味深く読んだ。

 

日本の標高800mから1000mくらいの山岳地帯には、水田耕作をする「平地民」とはちがう、焼畑耕作にはじまる畑作を中心とする文化をもった「山岳民」と呼ばれる民族が存在しており、彼らは縄文文化の系譜を継ぐものだと言っている。

 

たとえば九州の米良(めら)、椎葉、諸塚、五木、近畿では吉野の天ノ川、大塔、十津川、長野県伊那の下栗など。

 

飛騨でも即座に何箇所か思いつく。

 

この説は柳田国男の「山人」を意識して書かれたとも言われるが、柳田との違いは、宮本が漂泊民や被差別民などによりあたたかい眼差しを注ぎ、民俗誌だけでなく生活誌にまで踏み込んだことだろう。

 

日本は豊かな森林地帯を抱え、その半分以上に天然林が残されている稀有な国で、様々な山の民俗を育んできたが、その豊かな自然に育まれた山村の暮らしが過疎化で急速に失われつつあるのは残念なことだ。

 

もともと山と里の生活には優劣がなかったのだが、このバランスが崩れたのは米の石高制が敷かれた近世以降、近くは高度成長期といわれる。

 

飛騨でもすでに何箇所かの山の集落が消えている。

 

宮本は生涯日本各地をフィールドワークし、主に離島など海で生活している人々のレポートを多く書いているが、山村も結構歩いている。

 

その調査記録の大部分は未来社から刊行されていて、著作集は50巻にも及ぶ。

 

宮本は飛騨へも何回かきており、郷土史研究会の紀要『ひだびと』に寄稿している。

 

隠居は山村を歩くとなぜか心がなごむが、これは「山岳民」のDNAのせいであろう。

 

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 黒部五郎岳(5月30日・上宝町)

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柏原峠(千光寺峠)2―古刹千光寺の境内を歩く

2020.05.25 Monday

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 笠ヶ岳の雪形=代掻き馬

今年はシャッターチャンスを逃し、2017年5月19日のもの

 

人々から忘れられ、埋もれてゆくものを惜しんで、古い峠歩きは続く。

 

乗鞍岳の剣ヶ峰あたりが冠雪した日(令和元年119日)、反対側(千光寺側)の下保集落から登ってみた。

 

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真言宗の袈裟山・千光寺は、約1600年前の仁徳天皇の時代飛騨の豪族両面宿儺(りょうめんすくな)が開山し、約1200年前に平城天皇の第三皇子である真如親王が弘法大師の弟子になり、諸国行脚の途中に建立したという古刹。

 

標高900mの山中にあり、「飛騨の高野山」ともいわれる。

 

江戸期には、木彫り仏で有名な円空が3年続けて千光寺へ通い、作仏を行った。

 

現在寺には円空が遺した両面宿儺座像、観音郡像など50余体が収蔵されている。

 

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両面宿儺座像

 

寺へは参拝用の自動車道が付けられているが、昔の歩く参道は自動車道入口から300mほど南に残っている。

 

下保集落の人に聞くと、こちらでは柏原峠と呼んでいるとのこと。

 

同集落のHさん(61歳)は、「小学生の頃学校の先生に連れられて行った時(昭和40年頃)は既に通る人がいなく、道が一部ヤブで埋もれていて道に迷ってしまった覚えがある。」と話してくれた。

 

旧道の石の山門を通過する。

 

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 左千光寺 右桐山

 

広い道はすぐにヤブに覆われていたが、それでも国指定の天然記念物の五本杉まで難なく歩けた。

 

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この杉は、本尊の千手観音とともに千光寺の信仰のシンボル。

 

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このあとは新参道の自動車道に寸断されていたが、途中から仁王門までの旧道が残っていたので歩く。

 

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山門の金剛力士像は、昔一の宮水無神社の仁王門にあったものだが、明治の神仏分離でここへ移された。

 

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旧道は仁王門からか石段を登って境内に入り、先日出てきたところへつながっていた。

 

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なお仁王門下の右に大きい尾根が派生しているが、ここに鳥越砦があり、鳥越峠があったと言われている。

 

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永禄7年(1564)甲斐武田信玄の武将山県昌景が古安房峠を越えて飛騨へ侵入し、千光寺を焼き討ちしたと伝わるが、この時の砦跡らしい。

 

これで全線を歩いたことになり、「古峠コレクション」に一つ加えることができた。

 

それにしても、往来した多くの人々の祈りをやさしく受け止め、哀歓を見つめてきた、あのいいお顔の地蔵様のことが気になる。

 

おそらくこの先訪れる人はいないだろう。

 

初出「飛騨学の会」紀要『斐太紀』24号・202041日発行

 

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近代資本主義とグローバリズムの一帰結などと、「コロナ以前、以降」が語られ始めている。

 

「これからはアニミズムとトーテミズムが、人間社会を構成する鍵になってくる」などと示唆する人もいる。

 

そうすると、峠を歩いた時代までの日本人の自然観、死生観というものは、想像ながらまんざら捨てたものではないということになる。

 

この半呆け老人は「我々はもう不便な生活には戻れないが、自然を崇め、自然に謙虚だったかつての文化が、今後のわれわれの生き方、自然との関わり方を示唆しているのではないか」などと考えたりしている。

  

<以下余談 相変わらずの閉じこもりで、お時間のあるお方どうぞ>

 

千光寺峠(柏原峠)のことを書いていて、「幽霊街道」など普通の人が歩かない尾根道のことが気になったが、民俗学者宮本常一著の『山に生きる人びと』(河出書房)に「カッタイ道」という記述があったことを思い出した。

 

「カッタイ」とは、ハンセン病(らい菌による感染症)の差別用語だが、宮本は昭和16年、四国の山中で風呂敷包を背負い、ボロボロの着物を着たハンセン病の老婆に出会った。

 

顔はくずれてしまっていて、杖をついていたが、手の指もほとんどなかった。

 

人目を避け、山中を5〜6日歩いてきたとのことであった。

 

彼らは一般人に嫌われるので、山中の専用の道を通って行き来していたというが、これが「カッタイ道」といわれていたのだ。

 

四国にはこれらの人も歩ける八十八箇所の巡礼道があるが、土佐の国だけは藩主がカッタイの通過を嫌い、こういう道を歩かざるをえなかったという。

 

この頃はまだこの病気のことがわかっていなかったとはいえ、まことに痛ましい話だ。

 

昔の日本には、「カッタイ道」のほか、里を通らず山中にいろんな道があり、秋田マタギなどは山の尾根ばかり歩いて奈良県まで行き来していたという。

 

日本には、「山地民」といわれる木地師か修験者、マタギ、鉱山師、樵、炭焼き、あるいは「歩き筋」と言われるサンカ、鋳物師、ゴゼ、巫女、などが歩く専用の道があったらしい。

 

飛騨でも「山の尾根は魔物が通るところなので近寄るな」と言われており、昔こういう道が存在した。

 

先に書いた「幽霊街道」もそのうちの一つであろう。

 

隠居は今でも登山で尾根の縦走を好むが、登山が好きな者は皆前述の職業の人の末裔だろうか。

 

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