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加藤文太郎と飛騨の関わり

2018.12.12 Wednesday

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 12月10日の飛騨山脈

 

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飛騨山脈もしっかり雪をまとい、いよいよ冬山、山スキーシーズンの到来だ。

 

隠居の年代の登山者なら、冬山に殉じた不世出の単独行者=加藤 文太郎(明治38年〜昭和1115日)を知らない人はいないだろう。

 

新田次郎の山岳小説『孤高の人』を読んだ人も多いと思う。

 

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昭和初期に単独行で積雪期の峰々に登頂をし、なかでも槍ヶ岳冬季単独登頂や、厳冬期富山県から長野県への飛騨山脈単独縦断によって一躍有名になった。

 

昭和11年(19361月、数年来のパートナーであった吉田富久と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑むが、猛吹雪に遭い天上沢で行方不明となった。

 

このとき飛騨の槍見温泉に泊まり、右俣から槍ヶ岳へ入山していたため、地元の飛騨山岳会へも捜索の協力依頼がきて出動したようだが、結果発見できず捜索はうち切られた。

 

このほど山岳会の古い書類のなかからその時の礼状が見つかった。

 

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そして3月には、職場や地域山岳会による遺体捜索組織ができ、5月中旬に現地へ入る旨の連絡と、情報提供の依頼がきている。

 

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捜索隊が入る前の427日、天上沢にて遺体が発見され、遺骨が神戸へ帰った旨の報告、礼状が届いている。

 

発見したのは松本高校の木村、中島氏であった。

 

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加藤は享年30。当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じた。

 

今改めて『単独行』を読んでみると、超人的な登山歴に驚いてしまう。

 

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登山をはじめて間もない頃の夏山の記録を見ると、その健脚ぶりにまず驚愕。

 

大正15年、燕岳から槍穂を縦走して上高地へ下り、焼岳から安房峠へ出ていったん平湯へ下山。大滝コースから乗鞍に登頂し、南面の阿多野コースを下って日和田に向かう。日和田から御嶽継子岳に登り、縦走して王滝村へ下り上松へ。上松から木曽駒ケ岳へ登って空木岳、南駒ヶ岳へと縦走し、難路の黒覆尾根を国鉄飯田線の飯島駅まで下っている。

 

圧巻は、先に書いた昭和6年の1月に行われた10日間の厳冬期飛騨山脈縦断だ。

 

国鉄高山線の猪谷駅から歩いて大多和峠を越え有峰へ入り、真川―薬師岳―北ノ俣岳―黒部五郎―三俣蓮華―鷲羽―烏帽子―大町へと抜けている。

 

以下『山と溪谷』200411月号から

 

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昭和72月に行われた槍ヶ岳から笠ヶ岳の往復の記録にも驚く。

 

2日かかったが、夜間も少し休んだだけで歩き通している。粗末な装備でよくもまあ・・・。

 

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それにくらべ軟弱な山行しかやってこなかった隠居は、今になってもう少し厳しい山をやるべきだったと悔いているが、もう遅い。

 

文太郎のの心を捉えて離さなかった飛騨山脈は、今年も白く装い、静かに横たわっていた。

 

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 12月10日の乗鞍岳と飛騨山脈

 

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乗鞍での不思議な話 その5 行者が雪山岳の石で目を治した話

2018.12.06 Thursday

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 権現池をとりまく左から屏風岩 薬師岳 雪山岳

 

先回、すぐれた修験者(山伏)は病気を治したり、旱天に雨を降らせたり、いろんな修法を心得ているという話をした。これは真言密教の修法だという。

 

これも乗鞍にいた不思議な力をもった修験者の話。

 

以前民俗学者で飛騨山岳会員でもあった代情通蔵(山彦)が書き残した話を紹介したが、この話も昭和23年地元の雑誌『新飛騨』に載っているもの。

 

ある年の秋遅く、乗鞍南山麓の石仏という集落(現在の黍生か阿多野集落だろうか)へ、乗鞍から行者が下りてきて、集落の病人を加持祈祷で治して歩いた。

 

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 阿多野集落と乗鞍岳

 

なかに眼病(そこひ)を患い、失明寸前の宗兵衛という老人がいた。

 

老人が診てもらった結果、行者は「乗鞍岳絶頂の雪山岳に氷石がある。これは幾千年もの雪の精が岩に閉じ込められてできたもので、それを打ち割ってその水で洗眼し、岳のお鳥(雷鳥)の白羽の付いた足の爪で目をつつけば見えるようになる」と言った。

 

宗兵衛は藁にも縋る気持ちで雪山岳行き頼み込んだため、行者はやむなく宗兵衛の手を引いて乗鞍へ登った。それは困難な登山であった。

 

そして雪山岳の氷石の水で目を洗ってやり、雷鳥を捕まえてその爪で目を掻いた。

 

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 雪山岳 2891m

 

激痛が走り血が出たが、時間が経つと光が少し見えるようになった。

 

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その日は下山途中で日が暮れてしまい、やむなく岩穴に泊まった。

 

そのうちだんだん物が見えるようになってきたので喜んだ宗兵衛は、行者に庵を建ててやる約束をした。

 

翌日下山するにしたがってさらに鮮明に見えるようになった宗兵衛は、もともと強欲な男だったので庵を建てる金が惜しくなり、石畳ヶ原で行者を撲殺してしまった。

 

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 石畳ヶ原

 

なんとこの時刻、里へ一羽の白い雷鳥が飛んできたと思うと宗兵衛の家が火炎に包まれ、焼け落ちてしまった。

 

家に帰った宗兵衛はこれを見て気が狂い、焼け跡へ飛び込んで焼死してしまったのである。

 

村人は行者の魂が雷鳥に姿を変えて復讐をしたのだと噂をし、病気を治してもらった者が石畳ヶ原に自然石で慰霊碑を建てた。

 

それは今も千町尾根に残っている。

 

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なお当時雷鳥は「岳のお鳥」と呼ばれ、蚕の掃きたて(微細な蚕の幼虫を移す時つかう)や茶道の茶室の羽箒として、他の鳥のものより霊山の鳥ということでたいへん重宝された。

 

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かつて白山山頂で参拝者に高額で売っていたというが、白山に雷鳥が絶えたはずだ。

 

明治25年にウェストンが乗鞍岳へ登ったときにも、下山時に案内者が雷鳥狩りをした記述が出てくる。

 

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現代科学では説明できない修法を使えた行者は、つい最近まで高山の町にも住んでいた。

 

隠居の親の世代が、医者でわからない病気の原因を診てもらったリ、治してもらったリするのを見たり聞いたりしたことがある。

 

そういう人がいなくなり、山から魑魅魍魎などが消えてしまった今の世は、なにか味気ない。

 

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『飛騨の山小屋』が面白かった

2018.11.30 Friday

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図書館をブラついていたら、『森林官が語る 山の不思議―飛騨の山小屋から』という本が目に留まった。

 

「飛騨の山小屋」とあったので借りて読んでみたら、これが意外と面白かった。

 

1948年に『飛騨の山小屋』として他社で刊行された著作を、2017年に河出書房新社が再刊したものだが、著者加藤博二氏の略歴の記載がなく、巻末には「著者および家族に心当たりがあれば編集部へ連絡を」とある。

 

どういう事情なのかわからないが、著者は森林官とあるので、戦前に宮内省帝室林野局が管理する御料林の森林技術者で公務員だったのだろう。

 

著者が森林官時代に人里離れた湯治場や山小屋で聞いた不思議な話や体験が、山で長く生活していた人ならではの精緻な自然描写とともに綴られている。

 

以前紹介した郷土の民俗学者代情(よせ)通蔵の書いたものにも、御料林の役人からの聞き書きが出てくるが、近代文明の光が及ぶ前の日本の山々には魑魅魍魎が棲んでいて、不思議な話が多かったようだ。

 

主として何かの事情で山奥に住まねばならなかった人々の哀しい人生を拾い集めてあるが、猿が造った酒を盗んで飲む話、猿でもない人間でもない怪物(山和郎)が捕まった話などの奇談もある。

 

この森林官が出会った、戸籍を持たない薄倖の人々を温かい眼差しで見ているところがいい。

 

なかには創作と思われるものもあり、全編が短編小説のようで面白かった。

 

場所は飛騨だけでなく尾瀬、白馬など広範だが、これはすべて森林官の任地だったのだろう。

 

そのうち「飛騨の山小屋」は、信州と飛騨の国境の深山で暮らす父と娘の小屋に泊めてもらった時の話。

 

彼らのたつきは「せんぶり」を採ってきて煮詰め、薬にすること。その小屋にはどういうわけか赤子もいて、2人の留守中に何匹かの猿がお守りをしていた。

 

口が重い父になぜここで暮らしているかを尋ねると、「わしは山がいちばんいいのですわ」との一言だけだった。

  

著者は民俗学にも興味があったようで、山で生きる山窩(サンカ)の哀しい話もいくつか出てくる。

 

もう一つ印象に残ったのは「峠の湯」

 

山中の鉱泉宿を独りで守っている老人の部屋には、新聞紙を張ったミカン箱の仏壇に、妻の位牌と兵隊に行ってまだ帰らないせがれの白木の位牌があった。

 

月夜の晩の、この老人とのしみじみとした話がとてもいい。

 

そして翌朝、炭焼きの少年が鳥もちでつかまえてきた小鳥を、このやさしい老人は買い取って逃がしてやるのだった。

 

筆者はこの宿をでて峠を越える時の気持ちを次のように綴っている。

 

「峠に浮かぶ雲を仰いで、自然に生まれ自然に帰る人の命の無限を知る。人を恨み、人を叱った寂しさを私は初秋の峠を越える時ひしひしと想う。」

 

これは隠居の山旅への憧れをかきたてるものであった。

 

今頃の雪に覆われる前の山は、すべての木々が落葉してしまい妙にひっそりとしていて、そこには一種の明るい空虚と哀愁があるが、これがこの本の読後感に似ている。

 

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隠居が生まれる前の時代の話だが、なぜか懐かしく心が安らいだ。

 

懐古癖の強いロマンチストの方におすすめ。

 

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山のカレンダー

2018.11.26 Monday

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岐阜県山岳連盟が作成した来年のカレンダーが出来てきた。

 

毎年加盟の各山岳団体から写真を募り、山岳写真家を交えた選考会で選んでいる。

 

撮影場所は原則として岐阜県と隣県の山に限定したもの。

 

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不肖隠居も応募したところ2点が選ばれ、1月と9月に載せてもらった。表紙下の山スキーの小さい写真も。

 

終わりかけの隠居としては光栄なことであった。

 

隠居のものを除いて傑作ばかりなので、月順にご高覧を。

 

 

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 1月 厳冬の錫杖岳 隠居

 

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 2月 氷瀑を登る 乙女溪谷  多治見山岳会 酒井英和氏

 

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 3月 雷倉から花房山 大垣山岳協会 丹生統司氏

 

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 4月 残雪の若丸山 大垣山岳協会 衣斐剛人氏

 

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 5月 屏風岩と槍ヶ岳遠望 大垣山岳協会 丹生統司氏

 

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 6月 ナイスクライミング 福井国体 岐阜スポーツクライミングクラブ

 

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 7月 北岳大樺沢とミヤマハナシノブ 岐阜やまびこ山岳会 中村貞夫氏

 

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 8月 籾糠山のカツラ門 各務原山岳会 横山英明氏

 

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 9月 朝の笠ヶ岳稜線 隠居

 

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 10月 勇壮なる穂高岳 美濃山岳会 山内 健氏

 

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 11月 双六岳の初冠雪 ぎふ山彦山岳会 中村貞夫氏

 

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 12月 乗鞍岳遠望 西穂山荘から 日本山岳会岐阜支部 梅田直美氏

 

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 表紙 2月 御嶽継子岳を登る 隠居

 

自分が撮った山の写真は、「一粒で二度おいしい」グ〇コのキャラメルみたいなものだ。

 

その時の風の匂いまで思い出される。

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神坂峠ーウェストンが越えた小さな峠

2018.11.19 Monday

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紅葉が終わった今頃の時期は、山スキーに早いし、隠居にとっては「山の端境期」だ。

 

このため毎年峠歩きをしている。

 

昨年の11月は、徳本峠、上高地から中尾峠、猪之鼻峠などを越えたが、まったく人に遭わず、落ち葉を踏んで、雪を冠った高山を見ながらの静かな峠歩きが楽しめた。

 

さて、かのウェストンが北飛騨で越えた主な峠は平湯峠、安房峠、中尾峠だが、もう一つ小さな峠があった。

 

それは蒲田温泉手前の神坂(かんさか)峠で、今は下にトンネルが穿たれ、とうに忘れられた峠だ。

 

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なお神坂峠というのは、中津川など他にもいくつかあるが(深坂峠、三坂峠)、1500年以上前に大和朝廷が東国平定のため開いた官道上の峠のみにこの名が使われたという。

 

しかしこの峠は、このあたりの大字が神坂なので命名されたようだ。

 

ついでながら、焼岳の下にある中尾峠の別名は神坂峠といったらしいが、大和朝廷の官道であったかも知れず、その名がこの地域の大字になって残っているのだろうか。

 

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 旧中尾峠

 

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話がそれたが、ウェストンの著書『日本アルプス―登山と探検』に、念願の笠ヶ岳に登ろうと明治27年(1894)三度目に蒲田温泉を訪れた時、この峠を越える記述がある。

 

ウェストン一行3名は、信州から安房峠を越えて前夜平湯温泉の与茂三郎宅に宿泊。

 

「早朝私たちは手足も軽々と、めざす麗峰の灰色の鋸歯状の稜線が日の出の光のなかに輝き、来いとさしまねいているのを見ながら、高原川の峡谷を心もはればれと大股に早く下っていった。神坂峠の頂上から蒲田の谷間風景を眺めようと一度休んだだけで、古風な牧人小屋風の家並みの蒲田の部落に着いた。」

 

この峠が気になって、小春日和の日に探索にいってきた。

 

まず蒲田側から登って見ることに。

 

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 蒲田側

 

トンネルができる前の山腹をまく県道が残っているので、ここを少し歩き、途中から鞍部めがけて入る。

 

峠道と思われる箇所には未舗装の作業道がつけられており、峠と思われる地形の下には土捨場らしき広場が造られて、旧峠道は破壊されていた。

 

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峠と思われる所もだいぶ以前に土木機械で均されたらしく草原になっていたが、ウェストンが書いている通り、ここから蒲田の温泉街が俯瞰できた。

 

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反対側を探ると往時の峠道が残っていたので下って見たが、砂防堰堤で途切れていた。

 

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往路を戻って蒲田まで下り、再びトンネルを抜けて栃尾側へ車を回す。

 

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 栃尾側

 

最上流にある家の前の草原に道があったので入って見ると、途中に石仏群、さらにその先に地蔵堂があった。

 

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土地の人に聞くと、やはり昔ここを峠道が通っていたとのこと。

 

ウェストンはこの峠を越えたあと蒲田で笠ヶ岳への案内人を求めたが、明治27年、28年、29年の三回とも区長に体よく断られ、三回目は見かねた他集落の猟師が案内を買って出てくれた。

 

区長が断った理由は、一度目は「最近の豪雨で蒲田川上流がひどく荒れ、今までのルートが崩壊していて猟師で入るものがいない」二度目は「このところの日照りで作物が枯れそうになり、猟師は皆雨乞いの旅に出ているのでいない」三度目は「年に一度の祭礼で樵や猟師は忙しく、案内はできない」というものであった。

 

しかし本当の理由は、笠ヶ岳頂上には江戸期に南裔禅師と播隆上人が安置した阿弥陀如来像などがおられるため、異教徒を登らせると仏罰があたることを恐れ、案内を拒んだのであった。

 

ウェストンは明治27年、28年とも失意のままこの神坂峠を越えて平湯へ戻り、安房峠に向かった。

 

三度目の明治29年は、中尾と栃尾の猟師が蒲田の衆の気持ちを忖度し、本峰へは行かずに小笠といわれた抜戸岳へ案内していたことが、数年前に隠居がウェストンの記述を検証してはじめて分かった。

 

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 左は笠ヶ岳 ウェストンは右の抜戸岳(小笠)へ登頂

 

念願の笠ヶ岳に登頂できたと思ったウェストン一行は、その日遅く中尾集落へ帰って宿泊。翌日中尾峠から上高地へ下り、徳本峠を越えて松本へ帰った。

 

今思えばこれは猟師の悪意でなく、当時は穂高岳同様あの山塊全体を笠ヶ岳と呼んでいたはずだから、ウェストンは本峰登頂は無理だとわかっていて小笠ヶ岳(=抜戸岳)で満足したのではないだろうか。

 

三度(たび)この神坂峠を越えなかったのは、蒲田集落通過時にいざこざが起きるのを避けるためであった。

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飛騨山岳会が創立110周年

2018.11.13 Tuesday

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 明治42年 白山山頂での飛騨山岳会員

 (旧家から見つかった貴重なガラス乾板写真・以下も)

 

隠居が所属する山岳会が今年創立110周年を迎え、このほど記念式典が行われた。

 

明治41年8月に設立され、日本山岳会に次いで日本で二番目に古い山岳会だ。

 

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設立されてから7年目の大正4年8月、中野善太郎会員が白出沢から奥穂高岳を経て西穂高岳へ日本ではじめて縦走し、登山史にその名を留めているが、これは今も会の誇りになっている。

 

その後いろいろと浮沈があったが、近年都会の老舗山岳会が次々と消え、あるいは開店休業になっているなか、他の会の人から「よく100年も続いたものですね」と言われる。

 

半世紀以上在籍している隠居から言わせると、これは田舎にあって無理をせずにじっと過ごしてきたから。

 

バブル期に投機などの冒険をせずに生き延びた地方の信用組合、あるいは昔から細々と続いている村の雑貨屋(いろんな山行方式を許容)などと同じだ。

 

ただ昭和30年代後半から40年代にかけて登山界全体が日本版アルピニズム実践に沸騰し、次々と未踏の岩壁を漁り、その壁の冬季初登攀を競った時期だけはこの会も加わり、少々の分け前にあずかった。

 

そのあと都会の山岳会は余勢を駆ってヒマラヤへと向かっていったが、この会は再びモンゴル草原のタルバガンのように自分の穴に閉じこもったまま、100周年を経て今回110周年を迎えた。

 

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田舎では海外登山の情報入手が困難だったこともあるが、それよりアルピニズムというものが飛騨人の温和な性向にむいていなかったことが大きいと思っている。(それはそれでよかったのだが)

 

その後時代は変わって、全国的に昔のように地域研究などの目的を掲げて厳しい岩登りや冬山をやる山岳会が希少となり、組織登山者と未組織登山者の登山内容が同じようなものになって、どこの組織も「親睦団体」の色彩が濃厚になっている。

 

組織の束縛というものに過敏でない人にとって、似た歳の仲間と同じ嗜好の山へ行き、山を語ることができて居心地がいいこの集団は、教育や遭難対策というおまけもあり、今後も続いていくのであろう。

 

この排他的な部分もある不思議な集団のことを「伝統的社会人山岳会は日本古来の稲作共同体のルーツをもつ」などと言った人がいた。

 

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 白山地獄谷を登る飛騨山岳会員(明治42年)

  この頃は大倉尾根の道がなかった

 

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 白山室堂(明治42年)

 

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 大白川の露天風呂と飛騨山岳会員(明治42年)

 

以下はプライベートなことで恐縮ながら、隠居と山岳会との関わりついて

 

隠居は前述のアルピニズム実践の時代に山岳会で青春期を過ごしたので、そのノスタルジアもあってまだ未練がましく会に残っている。

 

しかし高齢になった今、昔ザイルを結んで厳しい山行を共にした岳友は皆鬼籍に入るか会を去ってしまったので、たまに会へ出ても昔話(アルピニズムの懐古談など)をする相手もおらず、昔の軍(いくさ)話をしても通じず、うとまれている気さえする。

 

組織に長くいることの悲哀であろう。

 

このため「老兵は消え去るのみ」ということで、そろそろいとませねばと思っているが、ありがたいことにまだこの年寄りを山スキーや沢登りに誘ってくれる若い人がいるので、なかなか踏ん切りがつかないでいる。

 

しかしもう棺桶に片足を突っ込んでいるので、これも時間の問題だ。

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乗鞍での不思議なできごと その4 法螺貝を吹いて霧を切る話

2018.11.07 Wednesday

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 霧がまく乗鞍岳

 

隠居は先の「大峯奧駆」以来すっかり修験道にかぶれてしまったが、わが乗鞍岳にも昔修験者が跋扈していて、不思議な話をいくつか残している。

 

修験者は山に入って艱難辛苦し、呪力、霊験を身につけるといわれるが、これは修行によって宇宙の普遍的原理の胎内に入り、原理そのものに化すことができるようになるからだそうだ。

 

例えば自在に空中を飛んだり、鉢に米、瓶に水を生じさせたり、病人を癒したり、時には人を呪殺することもできた。

 

地球科学として、旱天に雨を降らせることなどはやさしいことだったという。

 

真言密教は西洋でいう魔法だが、西洋と違う点は魔法が悪魔の側でなく、体制の側にあったことだ。

 

同じ密教の修行者がいるチベットには、今でも「風の行者」という地上を風のように早く移動する人がいると、数年前にチベットへ行った時聞いた。

 

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 今でもチベットの平原には風の行者がいるという

 

乗鞍には明治になってからでも何人もの修験者が入り、新道を拓いたり、仏像を安置したりして村人とも関わりを持っている。

 

明治元年には信州梓村の角心、明治9年には伯耆出身の正法仏徳、明治12年には紀州熊野の田中政俊という行者、明治27年 美濃上麻生出身の修験僧木食秀全などが入っていた記録が見られる。

 

明治28年青屋新道を拓いた上牧太郎之助は、この秀全の弟子である。

 

このうち明治初期に乗鞍に登った修験者正法仏徳は、その後昭和2年に再び弟子を連れて登った。

 

その弟子は何を思ったのか頂上の下の権現池に飛び込み、泳ぎかけた。

 

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 権現池

 

ところが突然濃い霧があたりを覆い、何も見えなくなってしまった。

 

とっさに仏徳は法螺貝を取り出して吹き、十字を切ると一筋に霧が切れ、方向がわからず溺れかけていた弟子を救うことができたという。

 

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 明治の行者上牧太郎之助が使っていたもの

 

これは「霧払いの術」と言って、この時期この術を使えるのは仏徳以外にいないと弟子に語ったという。

 

山間部で音がよく響く修験者の法螺貝は、法要、集合、宿入、宿立などの単なる合図などに使うほか、仏教上もいろんな意味があるようだ。

 

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おおげさに言うことを「法螺を吹く」というのはご存知のとおりだ。

 

隠居にもその傾向がないとはいえない。

 

なお仏徳は、一時廃れていた高山国分寺の堂守を務めていたことがあるという。

 

そのとき高山の町を長い一本歯の下駄で鉄の錫杖をついて歩いたり、ある時は江名子の荒神社で天狗と組打ち、新宮という高山の郊外まで投げ飛ばされたという逸話を残している。

 

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 上牧太郎之助の一本歯下駄

 

なお行者の中には、錫杖や金剛杖をうまく突いて飛ぶように歩くことができた者がいたようで、これは前述のチベットの風の行者と似た術のようだ。

 

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 錫杖(じゃくじょう) 錫杖岳の名はこの形からつけられた

 

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足腰が弱る一方の隠居だが、なんとかこの術を会得し、山を自在歩けないものかと考えている。

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飛騨山脈も冠雪

2018.11.03 Saturday

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昨日所用で蒲田川沿いを通っていたら、わが山々から「今年も夏の間多くの登山靴で踏みつけられたいへんだったが、ようやく白い衾(ふすま)を冠って休むことができるわい。」というつぶやきが聞こえてきた。

 

このところの寒波の南下で、高い山が白くなった。

 

この年になってもまだ白い山を見ると血が騒ぐので困ったものだ。

 

これは年を取って厳しい登山ができなくなり、とうに山旅を好む静観派に転じたはずだが、若い時熱中したアルピニズム(=困難と未知未踏を求めてやまない登山)の残滓が、今でも時々頭をもたげてくるから。

 

雪嶺に駆けのぼりたき夜ぞ街へ 石橋辰之助

 

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 槍ヶ岳〜南岳

 

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 西穂高岳

 

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 笠ヶ岳と緑の笠(右下)

 

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 ジャンダルム  西穂高岳

 

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 笠ヶ岳と抜戸岳

 

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 焼岳

 

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若き日に入り浸っていたのはこの錫杖岳の岩場

と、ある飲み屋 

 

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大箕山・管山寺―道真が幼少期に学んだ山寺

2018.10.30 Tuesday

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10月中旬に近江の小さな山を歩いてきた。

 

平安時代、政敵の藤原時平に讒訴されて太宰府へ左遷された菅原道真のことは誰もが知っている。

 

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 大宰府跡

 

道真の死後天変地異が多発したため、天満天神として祀って怨霊を鎮め、その後学問の神様になっていることも。

 

その道真が幼少の頃学んだ寺が北近江の山中に残っているというので、岐阜の歴史研究家K氏と行ってきた。

 

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生誕地は奈良や京都など諸説あるが、近江余呉湖のそばもその一つで、近くにあるこの菅山寺で6歳から11歳まで勉学に励んだと伝わっている。

 

長浜市余呉町の坂口という小さな集落に駐車して参道に入る。

 

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あまり人が登っていないと思われる山道には、随所に弘法大師の石仏があった。

 

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1時間半くらい登って少し下ると林の中に忽然と建物が姿を現したが、広い境内は訪う人もなくしずまっていた。

 

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 山門

 

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 護摩堂

 

764年創建といわれるこの寺は、藤原時代から鎌倉時代にかけて最も栄え、僧房が105、末寺が70余もあって、極めて大きい寺だったというが、今は無住になって朽ちかけていた。

 

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 庫裡

 

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 道真が植えたといわれる大ケヤキ

 

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 本堂

 

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 鐘楼

 

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 経堂

 

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寺にあった宋版一切経七千余巻は、徳川家康の命で芝の増上寺へ移され、国の重要文化財になっている。

 

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そして仏像などは坂口集落の里坊「弘善館」に移されているが、残念ながら当日は休館で見ることができなかった。

 

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 弘善館

 

こうした大きい山岳寺院はかつて伊吹山や霊仙山の山中にもあって、多くの僧が修行に明け暮れていた。

 

真に求道の者もおれば、口減らしで入れられた者もいたであろう。

 

重なるのはチベットの山寺にいた多くの若き僧達だ。

 

他人との戦いに明け暮れた侍の城より山岳寺院のほうに惹かれるのは、多くの若者が信仰を拠り所として自分との戦いに日々を過ごしていたから。

 

入相の音のみならず山寺は ふみ読む声もあはれなりけり 西行

 

 

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浅間・黒斑山(くろふやま)

2018.10.26 Friday

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高い山にはもう冠雪があって、山スキーシーズンも間近になった。

 

このほど山スキー同好会の全国集会が信州の高峰高原であり参加。

 

ホテルに泊まって懇親を行った翌日(21日)、皆で浅間山の外輪山=黒斑山(2404m)へ登ってきた。

 

ちょうど前日に降雪があって浅間山が白くなっており、絶景であった。(最近噴火レベルが下げられ、前掛山まで登れるようになった。)

 

なおこの山スキークラブは隠居より年上の方も多く、なかには未だ無雪期にテント泊で長期縦走をやっておられる方もみえて、励みにさせてもらっている。

 

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 富士山も(右)

 

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 岩尾根頂上にカモシカ

 

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 黒班山

 

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 家族連れが多い

 

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浅間山は太古から近年まで絶えず噴火を繰り返しているが、多くの死者が出て「鬼押出」ができた天明3年(17834月からの大噴火では、飛騨地方まで灰が降って農作物が不作になり、翌年大飢饉になった。

 

この年の夏に高山宗猷寺の南裔禅師が笠ヶ岳に登頂しているが、浅間山噴火の鎮静を祈願する目的もあった気がする。

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