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白山美濃禅定道

2019.08.16 Friday

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「山の日」には、日本古来の信仰の山に登ってきたといったら聞こえはいいが、なんのことはない、白山を縦走する東京の山仲間を車で石徹白登山口まで送りがてら、日帰り登山をしただけ。

 

登山口の駐車場には10台くらいの車があったが、途中で会った登山者は45人で、あとは釣り客だと思われた。

 

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3年ぶりに対面した1800歳という長寿の大杉に、崇敬の念をもって挨拶をする。こちらはまだ70年と少々だ。

 

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彼ら2人は美濃禅定道から白山に登って、北尾根を野谷荘司山まで縦走する計画だが、この日は神鳩ノ宮避難小屋泊なので、早々に別れて隠居だけ上部へ向かった。

 

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昔「登り千人、下り千人」というほどにぎわったという古道を、往時をしのびながら味わって登る。

 

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ご存知美濃禅定道(石徹白道)の経路は、次の様なものであった。

 

〇美濃洲原神社(=「里の宮」「白山前宮」「一の門」「前宮」)―〇白山宮長滝寺(=「馬場」)―桧峠―〇石徹白白山中居神社―美女下―神鳩ノ祠―母御石―銚子ヶ峰―三ノ峰―追分―別山―南竜ヶ馬場―室堂―◎白山

 

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 長滝馬場

 

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 白山中居神社

 

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 中居神社境内にある古道入口

 

長滝寺から神鳩までは、毘沙門岳、大日ヶ岳、芦倉岳の山稜を通る修験者専用の行者道もあった。

 

それとここを歩いていていつも思うのは、天正13年(15858月(新暦9月はじめ)、秀吉の命で金森長近の軍勢が飛騨進攻のため石徹白から禅定道を登り、銚子ヶ峰を越えてから尾上郷川へ下ったことだ。

 

ただでさえ暑いさなか軍装でよく登ったと思うが、ルートはこの禅定道でなく、石徹白集落から北東の芦倉山と天狗山の中間にある保川に上り、尾上郷川の支流小シウド谷へ下ったという説もある。

 

銚子ヶ峰周辺から東の尾上郷川側はかなり急峻な地形なので、保川経由だったかもしれない。

 

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 避難小屋

 

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 神鳩ノ宮

 

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 歴史の道を味わって辿る

 

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 スキーの山野伏ヶ岳

 

森林帯は涼しかったが、木がない主稜線へ出たら一挙に暑くなった。

 

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今までここへは紅葉の時期か、積雪期にスキーできているので、この暑い時期ははじめてだった。

 

昔の登拝の人たちは健脚とはいえ、水をどうしていたのだろうか。

 

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 丸山、芦倉山

 

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 母御石 

 

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銚子ヶ峰の頂上に今はやりのトレイルランの若い男性がいたので行く先を尋ねると、「わかれやま」へ行くというので「べつざん」だと教えてやった。

 

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 三ノ峰 別山

 

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 願教寺山から薙刀山へと続く尾根

 

三ノ峰まで行く予定だったが、年寄りはひどい暑さに参ってしまい、銚子ヶ峰から引き返すことにした。

 

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 スキーでよく歩く野伏ヶ岳と薙刀山

 

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 別山が顔を出した

 

小屋へ寄って彼らと少し駄弁り、ブナ林で森林浴をしながら下る。

 

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往路は白山中居神社の鳥居前で拝礼しただけだったので、帰路本殿まで行ってお参りをしてから帰途に就いた。

 

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石徹白の歴史を今に残すものといえば、参拝した白山中居神社と中在所に安置してある国指定重要文化財の虚空蔵菩薩だろう。

 

明治の神仏分離令以来ここに安置されている虚空蔵菩薩像は、天暦元年(1184)奥州の藤原秀衡が寄進したもので、当時平泉からここまで1年かけて上村十二人衆が付き添って運び、今もその子孫の方が守っておられるというのだから驚く。

 

事前に予約しないと拝観できないが、3年前に古代史を学んでいる仲間と見せていただいた。

 

市役所に聞いて電話を入れた先がこの上村さんだった。

 

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拝観は以前からの念願だったし、ちょうどその年に発刊された『藤原秀衡』(入間田宣夫著・ミネルヴァ書房)を読んでいたので、威厳に満ちた端正なお顔、お姿に接することができ、感激もひとしおだった。

 

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虚空蔵菩薩は智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらし、菩薩の真言を百万回唱える修法「虚空蔵求聞持法」を修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。空海もこれを修した。

 

源義経が都から奥州へ逃れるときに通ったとも伝えられている石徹白という集落は、今なお神さびた、独特の雰囲気があるところだ。

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乗鞍岳・九蔵本谷

2019.08.09 Friday

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残暑お見舞い申し上げます。

 

あまり暑いので、乗鞍の谷で遊んできました。飛騨の谷の涼風をお届けします。

 

乗鞍岳の奥座敷である広大な千町ヶ原を源とするのが、九蔵本谷。

 

今年も日本山岳会岐阜支部と大垣山岳協会の方8名(年齢構成は506070歳代)と一緒に、本谷約6舛鯀鵡圓靴拭

 

昨年は支流の小俣谷へ入ったので、このグループとの遡行はこれで3回目になる。

 

青屋集落を過ぎて九蔵川沿いの林道に入り、森林管理署ゲート600mくらい手前に駐車。

 

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林道を少し歩いてから、砂防堰堤上の広い河原へ入渓する。

 

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数日前、林道上から偵察した時は雨のあとで水量が多く心配だったが、この日はちょうどいい加減に減水していた。

 

今回も両岸の木々の緑を写した美しい谷の澄み切った水と戯れながら、快適な遡行が楽しめた。

 

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 昔の森林鉄道の橋脚

 

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 いつもは右の水流を登るが、今回は安全策で高巻き

 

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 滑り台で遊ぶ

 

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 谷の主さんに挨拶

 

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 この滝は左から巻く

 

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 ここから上流はゴルジュになるので、時間的にここまでとする

 

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 右の沢から林道へ上がる

 

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 林道途中にある太郎之助道の登山口

  地元青屋の修験者上牧太郎之助は、明治28年から4年がかりで乗鞍山頂まで約20舛瞭擦鯊鵑い拭その後沿道88箇所に石仏を2体づつ担ぎ上げ、完成までに39年かかった。戦後バス道路が開通すると登拝路は急速に廃れ、石仏も道も埋もれていたが、平成13年から旧朝日村が道の復旧、石仏の探索を開始した。高山市になってからも道の手入れが行われているので、年に数人の人が登っているようだ。

 

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 千町尾根にある石仏 どれも一体は弘法大師であとはいろんなほとけさま 

 

参加者のHさんはご自分のブログに「スッキリした癒し系の遡行」だったと書いておられるが、言いえて妙だと思う。

 

霊峰乗鞍から豊かな自然のなかを流れ下った清冽な冷たい水の中で遊ぶと、癒され、心身が浄められる気がする。

 

隠居にとっての乗鞍での沢登りは修験者の滝行と同じで、禊(みそぎ)といえる。

 

夏はなんといっても沢登り(=年寄りの冷や水山行)に限るが、昨日はもう立秋、飛騨の夏も沢登りのシーズンもいたって短い。

 

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 立秋(8月8日)の日の乗鞍岳 九蔵谷は右の斜面 

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チベット 8 雲南省のチベット寺院

2019.08.02 Friday

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連日の酷暑お見舞い申し上げます。山国高山も今日は37度の予報です。

 

ではチベット紀行の最終回をご笑覧ください。

 

四川省から揚子江の源流金沙江を渡って雲南省へ入り、麗江にむかって南下する途中にシャングリラという新しい町がある。

 

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  金沙江

 

シャングリラとは、イギリスの小説家ジェームズ・ヒルトンが書いた『失われた地平線』(1933年)に出てくる桃源郷をあらわす言葉で、語源はチベット語「シャング地方のリ(山)のラ(峠)」=「シャンの山の峠」。

 

理想郷、桃源郷を表すには、もともとシャンバラという言葉がある。

 

シャンバラは、チベットのシーター河北岸(この場所に諸説がある)の山中にあるという伝説上の仏教王国のことで、住人は皆長寿で穏やかに暮らしているという。

 

近代になって西洋の神秘思想家たちが探索を行っており、虚実入り混じったような探検記を読んだ覚えがある。

 

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 2004年に入ったニェンチェンタンラ山脈の谷は 

  シャンバラへ通じているかのような美しい谷だった

 

中国政府は、シャングリラをチベット周辺での観光用キャッチフレーズに使い、2002年雲南省デチェン・チベット族自治省の中旬県をシャングリラ県(香格里拉県)に改称し、そのあと2014年にシャングリラ市に改名した。

 

このため古い地図には載っていない。

 

ここには雲南省最大のチベット寺院ソンツェリン・ゴンパがある。

 

漢訳は松賛林寺、帰化寺で、雲南のポタラ宮といわれる壮大なもの。チベット仏教最大宗派ゲルグ派の寺だ。

 

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文化大革命でだいぶ破壊されたというが、現在は復元されている。

 

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チベットの寺院内はどこも撮影禁止だが、いくつもの大きい仏像や宗派の祖師のリアルな像が並び、壁天井は極彩色の仏画が描かれ、日本の寺院と大きく違う。

 

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 遠くに見えるのがシャングリラの街

 

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中国政府はソンツェリン・ゴンパを観光の目玉にするため、飛行場まで造ってシャングリラ市を整備している。

 

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 観光パンフの撮影のようだった

 

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以下はまた宗教の話なので、ご興味のおありの方だけどうぞ。

 

「老人は青空を見て瞑想をする」

 

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チベット仏教はたいへん奥が深く、隠居の理解などは、せいぜい大寺の山門から首だけ少し入れて覗いて見た程度であろう。

 

禅宗と同様、心の本性の直観的探究のため瞑想を重んじ、修行者は山の中の見晴らしのいい岩の上でひたすら青空を凝視して瞑想するという。

 

この青空をひたすら見つめ、生と死を超えた領域を見出そうとする瞑想方法、実はオーストラリアの原住民アポリジニーも昔から行っていて、これを知った人類学者や宗教学者は驚いたという。

 

余命が少なくなったアポリジニーの老人は、それまでの家族や社会に取り囲まれた生活を捨て、一人で山に入って瞑想の日々を送るそうだ。

 

チベットと同じで、樹木がまばらな山中の岩の上に座り、青空を凝視続けるという。

 

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老人は自分に肉体の死が訪れる前に、生と死のさらに彼方にある宇宙に偏在する力の流れの実在を体験し、死をのり越えようとするらしい。

 

アポリジニーの老人とインドやチベットの修行者は、同じ高度な瞑想を実践して宇宙的なリアリティに触れようとしており、両方とも3万年以上前から続く瞑想文化だという。

 

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ついでながら老人の生き方については、ヒンドゥー教によく知られている「四往期」というものがある。

 

1学生期=勉学に励む時期 

2家住期=家庭にあって子をもうけ商売にいそしむ時期 

3林住期=森林に隠棲して修行する時期 

4遊行期=一定の棲家をもたず乞食遊行する時期。

 

 

年齢的にはそれぞれ1024歳、22549歳、35074歳、47590歳だ。

 

 

そういえば五木寛之が『林住期』という本を書いていて、「林住期」は時間を取り戻す季節で、独りになり人脈、地脈を簡素化し、自己本来の人生に向き合う時期だといっている。

 

そして自分がほんとうにやりたかったことは何かを問いかける時期だという。

 

隠居はそろそろ第4期の遊行期に入るので、一切を捨てて放浪し、山の中で青空を見て瞑想をしなければならないが、まだいろんな「しがらみ」から逃れられそうにない。

 

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ダライ・ラマ猊下はこんな凡夫を憐れんで、日頃の努力次第でなんとかなりそうなことを以下のように言っておられる。

 

「人生の目的は幸福と快さ。幸福になろうと思えば、常に心が平静で安らいでいなければならない。それは心の訓練で善き心を培うことによって、心の安らぎを得ることができる。」

 

猊下は、これは宗教を信じていてもいなくても関係ないと、心の安らぎの重要性を説いておられるのだ。

 

隠居はまだ煩悩にまみれて安らぎとは程遠い生活を送っているので、そろそろなんとかせねば・・・。

 

チベットの話はこれで終わりです。おつきあいいただき、ありがとうございました。

 

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チベット 7 四川省のチベット寺院

2019.07.25 Thursday

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ようやく梅雨もほぼ明けて、いよいよ夏山シーズンの到来だ。

 

穂高に沸き立つ夏雲を見ていると、雪渓を渡る風や岩の匂いなどが思い出され、この年になってもそわそわしてくる。

 

もう少しチベットの話におつきあいを。

 

登山のほうはあっけなく終ったが、そのほかの収穫は、横断山脈の山々を見ることができたことと、以前から関心があったチベット仏教への理解がさらに深まったことだ。

 

四川省や雲南省のチベット寺院を巡って、仏教に帰依している同行の旅行社社長からいろいろ詳しい話を聞き、帰ってからいろんな本を読んでみて、チベット仏教は日本と同じ大乗仏教ながらとても奥が深いことがわかった。

 

普段なかなか外国人が行くことができない、四川省にあったふたつのチベット寺院をご覧ください。(次回は雲南省のお寺を)

 

まずは亜丁(ヤーティン)の山中にあるツォゴ・ゴンパ(漢名=冲古寺)。

 

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3900mにあるチベット仏教ゲルグ派の寺院で、その創建は元代だという。

 

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次は郷城県(チャディン)にあるこの地方最大のガンデンサンベイリン・ゴンパ。

 

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 僧の住居

 

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 マニ車

 

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 この地方のチベット人居住区は麦畑も多く豊かなところなので、寺を維持できるそうだ

 

1959年ダライ・ラマ14世がインドのダラムサラへ亡命されて以来、チベットにはほんとうの仏教は無くなったといわれるが、寺へ行くとまだ少年から老人まで多くの僧が修行しており、お参りの人が絶えない。

 

中国政府は、ポタラ宮をはじめ各寺院を観光施設化しようとしているようだが、人々の信仰を奪うことはできないだろう。

 

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 五体投地をしながら2ヶ月くらいかけてラサへむかう人

 

以下は宗教の話なので、関心がおありの方だけお読みくだされば幸いです。

 

『チベット死者の書』の話

チベット仏教の特徴的なことは、日本とちがって常に死というものを軸において修行、学習が行われており、少年僧は鳥葬の生々しい現場を一部始終見せられるという。

 

現代のわれわれの世界では死のことを話題にしたがらないが、チベット人にとっての死は身近なもので、常に「死を思え」と教育されている。

 

さて、西洋社会にも知られ、心理学者のユングが感激したというチベットの有名な仏典は『死者の書』。

 

『死者の書』というのは、西洋人が『エジプトの死者の書』からの連想で勝手につけた名で、ほんとうは『バルド・トドウル』

 

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西洋に出回った書は誤訳の部分が多いといわれ、実際はさらに深遠な思想だという。

 

端的にいえば、死に臨む人の耳元で死の直前から四十九日間語りかけるための経典だ。

 

死後の世界が時間を追って書かれている。

 

この経典には死はすべての終わりでなく、死者の意識がバルド(中有、今世と来世の間)世界に入って行き、さまざまな体験をする様子が詳しく書かれている。

 

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死の直後はそれまで隠れていた最も微細な心(深層意識のうちの最深のアラヤ識)が現れるので、輪廻をさけて解脱できる最大のチャンスととらえ、死者を解脱へむかわせる経典なのだ。

 

深層意識というものは、フロイトやユングが20世紀になってから発見したが、仏教では2000年近くも前に既にその存在を知っていた。

 

人間が生きている間は、肉体も心も多層的な構造のためわからないが、生命の本質は心であり、その心の本体は純粋な光だという。

 

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 人間の本性は虹光

  

これは最近の臨死体験の実証的な研究でも、生と死のはざまで光を見た経験が語られるのと同じことらしい。

 

なおこの『バルド・トドウル』は、ゾクチェンというチベット古代の思想、密教の教えがベースになっている。

 

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現代社会では死は一種のタブーで、科学万能の考え方では死は敗北ということになり、最後の瞬間まで目をそむけるしかなく、うすっぺらな現実しか生られなくなっている。

 

しかし人間にとって死は悲しみの時でなく、大いなる解放の時だという。

 

生きている苦しみからの解放でなく、死後やってくるバルドの体験を通して生命のもっとも深い真理を理解することができる機会。

 

死はすべてを奪うものでなく、ほんとうの豊かさを与えてくれる機会だというのだ。

 

ダライ・ラマ猊下は、「生の連続性を受け入れたなら、死はひとつの出来事にすぎず、服を着替えるのと変わりない」と言っておられる。

 

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余命が少なくなった隠居はそろそろ仕舞う準備をせねばならないが、この書はそのためのすぐれた案内書のように思える。

 

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大垣山岳協会創立60周年

2019.07.18 Thursday

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 創立時につくられたハッピ 唯一現存する貴重なものとのこと

 

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 畦地梅太郎の画ではないだろうか

 

大垣市にある老舗山岳会=大垣山岳協会(堀 義博会長・会員約100名)が、このほど創立60周年を迎えられ、大垣フォーラムホテルで盛大な記念式典が開催された。

 

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この協会には100名を越す会員がおられ、今までに伊吹山北尾根の新道開発、アフガニスタンのシャー・イ・アンジュマン(6026m)初登頂、日英交流登山、岐阜県境800舛隆袷監破、上石津烏帽子岳の新道開発、揖斐川、長良川など各水系の山を網羅した『奥美濃』3冊の出版など、数々の実績をあげておられる。

 

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今回の記念事業は、美濃の三角点(3等以上)完全踏破、物故者追悼登山(伊吹山北尾根)、記念作品展(写真、絵画、俳句、陶芸など)、記念登山(御嶽山)、記念誌発刊など盛沢山だ。

 

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記念式典の前に記念講演会があり、不肖隠居が「笠ヶ岳の歴史」と題し、駄弁を。

 

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自分が好きな山の、主に近世の登山史をしゃべっただけなので、退屈されたことだろう。

 

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この会には、H元日本山岳会岐阜支部長、N理事長など昔から存じ上げている方も多く、久しぶりに旧交を温めることができた。

 

N理事長は隠居と同じ元クライマーで、昔K2峰へ遠征され、今も現役で積雪期テント泊縦走などハードな山行を行っておられる。

 

ただ残念なことに、隠居が若い時からお世話になった前会長の高木泰夫先生が4年前に亡くなっておられる。

 

高木先生は奥美濃の山に精通しておられ、『奥美濃―ヤブ山登山のすすめ』(ナカニシヤ出版)を書いて、当時道がある有名山、ルート図がある岩場ばかりに集中している山行方式を批判し、地図と磁石で歩く本来の山登りの楽しさを提唱された。

 

また、若い時登られたヒンズー・クシュ、カラコルムの研究書を出しておられるなど、今では少なくなった「登って書く登山家」で、隠居も影響を受けた。

 

隠居も若い時執筆をさせてもらった『ぎふ百山』(昭和五十年・岐阜県山岳連盟編集・岐阜日日新聞発行)では主に奥美濃の山を担当されたが、民俗学のご造詣が深く、いろいろ学ばせていただいた。

 

葬儀に参列したとき、ご遺族がごあいさつで「山に明け、山に暮れた人生でした」「学校(高校の教師だった)では生徒に山の話ばかりしていたようです」と言われたのが印象に残っている。

 

この会には、今も奥美濃の道が無い山々を四季を通じて歩いておられる会員が多い。

 

昭和15年、奥美濃の山をはじめて世に紹介した森本次男の『樹林の山旅』以来奥美濃フアンは今も絶えないが、その魅力的な山域をホームグラウンドとしてこよなく愛し、地域にしっかりと根をおろしたすばらしい山岳会だ。

 

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大坊本谷

2019.07.10 Wednesday

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今年も沢登りのシーズン=「年寄りの冷や水シーズン」が到来した。

 

沢はじめは、梅雨の晴れ間(7月6日)にFさんのお誘いで大坊本谷へ。

 

乗鞍の沢はまだ水が冷たいので、シーズン初めには装備服装の点検を兼ね、旧久々野町にあって飛騨川の左岸へ注ぐこの谷へ入ることにしている。

 

メンバーは壮年のご夫妻、中年男性2名と隠居の5名。

 

雨のあとで水は多めだったが、少々のクライミングもあり、渕では泳ぎ、結構楽しむことができた。

 

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 林道を少し歩き、砂防堰堤から入渓

 

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 滑落も

 

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 渕で遊ぶ

 

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 帰路は、朝はデポしておいた軽トラで

  

この老体、明日の事はわからないので、山スキーでも沢でもそのコースへ再訪できる確率は限りなく低くなった。

 

このため近年はその山行ごとに、遊ばせてくれる美しい自然、一草一木をしっかり愛で、感謝しながら歩くようになっている。

 

これはもう山仕舞というより、本体の仕舞が近いからであろう。

 

広辞苑には「年寄りの冷や水」のことを、「老人に不似合いな危ないことをするたとえと」とあり、これは我々みたいな老登山者の沢登りが語源かもしれない。

 

<以下余談>

昔から静観派の元祖である田部重冶などが好んだ渓谷と森林の山旅的登山。このうち渓谷を遡ることだけに絞ったのが、今行われている日本独特の登山方式である沢登りだ。

 

山スキー同様シーズンは限られるが、アルパィンの技術と知識が少々必要で、かつ日本的な山旅の要素を含んでいて、道が無いところを歩くのがまことに面白い。そこには手付かずの自然が残っている。

 

隠居の沢登り歴は昭和40年代はじめの笠ヶ岳西面の笠谷にはじまるが、はじめは足袋にワラジを履き、後半はフエルト底の釣用足袋が出てこれを用いたという古い時代であった。

 

その頃は日本中の岩場の開拓がほぼ終わって次のバリエーションルートを沢に求めていた時代で、沢登りは「日本版アルピニズム」などと呼ばれていた。

 

このため岩登りの技術を駆使したシビアなルートが好まれ、初登攀ならぬ初遡行などという言葉も見られたが、一時期ながら今から考えるとまことにおかしな時代であった。

 

田部重治は渓谷遡行の喜びについて、「仰ぐ流れの彼方を包む山々、樹林、谷間のなんと複雑な包容的なものだろうか。もし日本においてまだ人間の足を踏み入れない場所があるとすれば、渓谷においてこそその可能性が最も多いと言わなければならない。」と書いているが、

そのことは今も変わっていないと思う。

 

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 乗鞍の上にはもう夏雲が立っていた(7月10日)

 

なんといっても夏の山は沢登りに限る。

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笠ヶ岳と南裔(なんねい)禅師

2019.07.02 Tuesday

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 笠ヶ岳の馬も首だけになった(6月26日)

 

笠ヶ岳の登頂者は、富山出身の僧播隆(ばんりゅう)が有名だが、実はその播隆より40年前に地元高山宗猷寺10世の南裔(なんねい)禅師が登頂していることはあまり知られていない。

 

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天明3年(1783)に登頂して仏像と鉄札を安置しており、播隆はその40年後に登ってこのことを知り、再興を思いついた。

 

南裔の登山の目的は、天明年間が全国的に天災地変の多い年で大規模な飢餓が発生、天明3年の春には浅間山が噴火して死者2万人が出ているので、これらの災いの鎮護祈願であったともいわれている。

 

登山ルートは播隆と同じ笠谷からと思われるが、登山記が見つかっていないのでよくわからない。

 

 

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 南裔が頂上に残した鉄札を、40年後に登った播隆が持ち帰った。

 同行した宗猷寺の北洲禅師や案内の今見右衛門の名が刻まれている。天明2年になっているが、実際は天明3年説が有力。

 

一昨年(2017年)が南裔禅師入寂(没)210年にあたることから、禅師の偉業を顕彰し、宗猷寺住職はじめ有志で笠ヶ岳に登り、山頂で慰霊祭を行った。

 

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 僧形の住職

 

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南裔は若い時期に江戸で仏教を学ぶ傍ら書の大家三井親和に篆書と篆刻を学び、飛騨に多くの書を残している。

 

このたびその墨蹟を集めて、宗猷寺で展示を行った。

 

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 臨済宗の名刹宗猷寺 山岡鉄舟の両親の墓がある

 

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 住職が書いた篆書の看板「南裔禅師展」

 

隠居が「南裔禅師と笠ヶ岳」と題して、南裔の登山について駄弁を。

 

そこで飛騨では播隆より地元の人南裔を顕彰すべきだと訴えた。

 

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南裔がよくした篆書体(てんしょたい)は、漢字の書体の一種。「篆書」「篆文」ともいう。

 

広義には秦代より前に使用されていた書体全てを指すが、一般的には周末の金文を起源として、戦国時代に発達して整理され、公式書体とされた小篆とそれに関係する書体を指す。

 

公式書体としての歴史は極めて短かったが、現在でも印章などに用いられることが多く、「古代文字」に分類される書体の中では最も息が長い。パスポートの表紙「日本国旅券」もそうだ。

 

南裔禅師の篆書は呪術的な雰囲気もあるが、どこかおどけたユーモラスな感じもあり、意味はわからなくても眺めているだけで飽きない。

 

今回は寺所有のもののほか、市内在住A氏の収集品も多く貸していただいた。その一部をご覧ください。

 

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 草書も書いている

 

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 これははじめ解らなかったが、書道の先生が「眉寿」と解読

 

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隠居は2011年に地元の歴史の会の紀要『斐太紀』に南裔のことを書いたが、そのとき旧丹生川村に生家が残っていることを知り、取材に行った。

 

そして書などを見せてもらうことができた。

 

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 生家にあった書

 

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その紀要には『南裔禅師と笠ヶ岳』という題で駄文を載せたが、文末に以下のような文を書いて「まとめ」としている。

 

 「江戸まで書や篆刻を学びに行くなど好奇心旺盛な教養人、風雅人の禅僧南裔。苦業僧としての円空や播隆とはちがったタイプの人物  

 だったようで、同郷人の身びいきもあり、魅力を感じる。

  江戸の中期頃から、人々の自覚なしに「近代」という潮が次第に満ちてきていたが、登山に関しても宗教的登山とは別に大淀三千風、 

 橘南谿、池大雅など文人墨客が趣味としての旅行と登山を盛んに行うようになっていた。明治になって西洋から移入された「近代登山」 

 が、既に日本で独自に行われていたことに驚かざるを得ない。

 江戸でこの空気に触れたはずの南裔の登山は、宗教目的のほか、趣味人として登山そのものを楽しむ目的もあったような気がする。」

 

今年も慰霊登山が予定されている。

 

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チベット 6 横断山脈の名山・聖山

2019.06.24 Monday

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 ミニヤ・コンカ(7,556m) 現地旅行社H氏提供

 

カンリ・ガルポでの登山は残念ながらあっけなく終ってしまったが、そこへ至るまでの横断山脈で多くの名山・聖山を見ることができた。

 

横断山脈とは、チベット高原の東端でヤルツァンポー川が屈折するあたりから、雲南省北西部、四川省西部にかけて南北に並行するいくつもの山脈のことをいい、未踏峰も多い。

 

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 中村保著『ヒマラヤの東』から

 

そこには、狭い範囲に金沙江(長江源流)、メコン川、サルウィン川(怒江)などの大河が南北に流れ、顕著な浸食の地形をつくっている。

 

このエリアは、いまだ外国人には未知の領域だ。

 

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 日本山岳会『山岳』から中村保作成

 

ちょうどその中間を歴史の道川蔵公路が東西に横切っているので、以前から地図を眺めているだけだった横断山脈の山々、それに名だたる大河を見ることができ、冥途へのいい土産になった。

 

古い宿場モウシから南へ入った四川省カンゼ・チベット自治区には、有名なミニヤ・コンカ(7,556m)があり、驚いたことに山麓の山がよく見える場所までロープウェイがついて、観光地になっていた。

 

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ご存知のとおりこの山は、1981年北海道山岳連盟隊の8名滑落死し、その翌年には市川山岳会隊2名が遭難(その19日後に松田隊員が生還)するなど、事故が多い難峰だ。

 

その後も同じ北東稜で日本ヒマラヤ協会の雪崩遭難があり、日本にとって「悲劇の山」といわれていたが、1997年札幌山岳会が北西稜から登頂に成功した。

 

あいにくガスに包まれ全容は見られなかった。

 

このあとはリタンで川蔵公路を離れて南下し、ヤーティンから三つの聖山を見にいった。

 

ここも昔からシャングリラと呼ばれている景勝地で、今や中国政府の肝いりで観光地化している。

 

いずれも未踏峰のシェンレリ(チェンレースィ・6,032m)、ヤンマイヨン(シャンベーヤン・5,968m)、シャナドルチェ(5,958m)が立ち並んでいて、それぞれ観音菩薩、文殊菩薩、金剛菩薩に見立て、崇められている。

 

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 ヤンマイヨン(シャンベーヤン・5,968m)文殊菩薩

 

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 ヤンマイヨン(シャンベーヤン・5,968m)金剛菩薩

 

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 ヤンマイヨンの看板写真 

 

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最高峰のシェンレリ(6,032m)へは、頂上を踏まないという約束で日本ヒマヤラ協会が1989年に挑んだが登れなかった。

 

よくもこんな山に目をつけたものだと感心した。

 

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 シェンレリ(チェンレースィ・6,032m)観音菩薩

 

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これらの山を眺めながら、知らず知らずのうちに登攀ルートを探している自分がおかしかったが、年齢的にもう登れないと思うとさみしかった。

 

チベットにはカイラスなどの有名な聖山のほか、このように地元で崇めている山がいくつもあり、数年前に西のニェンチェンタンラ山脈でも仲間が入山を拒まれている。

 

2007年に隠居が初登頂したチベットヒマラヤのモンタ・カンリ峰(6,425m)も、登山活動の途中麓のモンタ集落で崇められている山であることを知らされ、最頂部は踏まず、何も残さず帰ってきた。

 

このあと金沙江(揚子江源流)を渡り、雲南省チベット自治州に入る。

 

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 金沙江

 

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ちょっとした町であるディチェン(徳欽)を通って梅里雪山が見える飛来寺へ。

 

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 主峰の北にあるミュンツム・フェン 

 

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 主峰は見えず、ホテルの写真を拝借

 

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 パイマン・シェシャン(白芒雪山)

 

なおディチェン(徳欽)いうところは、明治期に経典を求めてチベット入りをしようとした学僧能海寛(ゆたか)が消息を絶ったところで、キングドン・ウォードや何人かの探検家が足跡を記している。

 

チベット仏教の四大聖山は、1カイラス、2梅里雪山、3アムネマチン(青海省)、4 ネブユゼ?(四川省と甘粛省の境)であると、現地旅行社のハン社長が教えてくれた。

 

そのうちの一つであるこの梅里雪山は、主峰がカワグボ・フェン(6,740m)で、秋には多くの巡礼者が山麓を3週間かけて廻り、五体投地の人も多いという。

 

そんな山を、1991年日中合同登山隊17名(日本11名、中国6名)が登ろうとして全員が雪崩で埋まり、亡くなった。

 

その後19988月以降、氷河の末端から遺体が続々と現れ、村人の協力で回収したが、あと一体が眠っているはずだ。

 

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 メコン川 この上に梅里雪山がある 

 

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 メコン川をはさんで遺体を運んだ氷河が見えた

 

中国側では、2000年この聖山を永久に登山禁止にした。

 

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 ナムチャ・バルワ(7,762m)現地旅行社H氏提供

 

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 カンリ・ガルポ ラロンバー氷河での偵察登山(5月8日)

 

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自然を人間の従属物と考えるキリスト教と近代文明、一方自然を崇め、自然と一体であることを説く仏教など東洋思想の自然観。

 

『荘子』の「斉物論」にも、「天地は我と竝び生じ、万物は我と一(いち)たり」とある。

 

昔から聖山として崇められてきた山の前に立つと、前者の遺伝子を引き継ぎ、登頂だけを目的とする近代登山というものがなんなのかを考えてしまう。

 

それでもチベットにはまだ聖山以外にも6000m級の未踏峰が多く残っており、今後も未知への憧憬を持っている世界中の登山者を虜(とりこ)にするのであろう。

 

隠居はもう山は無理なので、体が動くうちにこんどはカワグボの巡礼道をトボトボと辿ってみたい。

 

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乗鞍岳で滑り納め

2019.06.17 Monday

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先回書いたように、今シーズンは4月、5月のチベット行きで春スキーができなかった。

 

このため老骨は先週の立山のあと欲が出て、梅雨の晴れ間をねらって乗鞍岳へ行き、「納め」とした。

 

同行はテレマーカーのKさん。

 

この日は快晴。

 

蚕玉沢は岩が露出していたのでやめて、蚕玉岳と朝日岳の間の沢を上部から滑り、また途中から登り返して滑り、今シーズンを終えた。

 

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 笠ヶ岳と抜戸岳(バスの車窓から)

 

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 権現池と雪岳

 

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 霊峰白山を遥拝

 

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 滑降ルートとクレバス(青色)

 

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 じいさんの加齢な滑り

 

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 下から登る人も

 

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 再度途中まで登って滑る

 

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今シーズンはこれでまだ17回。昨シーズンは23回で、62日に立山山崎カールを滑って納めている。

 

この年になると来シーズンのことはわからないが、とにかく今シーズンは怪我もなく楽しむことができたので、大いなるものと山に感謝をして下山した。

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立山浄土山

2019.06.11 Tuesday

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浄土山からの剣岳

 

今シーズンの山スキーは、4月にチベット行きがあったため3月末の流葉山で中断していた。

 

旅の終りがけに引いた風邪のセキが帰国後も取れずに再開できずにいたが、「仕舞われる前にもういちど滑りたい」と愛用の板と靴にせがまれ、梅雨に入る直前の晴天の日(6月6日)をねらって立山へ行ってきた。

 

老骨に付き合ってくれたのは、2週間前にも立山へきているスキー仲間のSさん。

 

高山を5時に出たが平日とあって空いており、始発に乗って順調に室堂へ。

 

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いつも滑る雄山からの山崎カールなどはもう岩やクレバスが出ていたため、浄土山(2831m)へ行くことに。

 

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一の越の手前から右折して浄土山方向へとむかい、途中からスキーを脱いで夏道へ入る。

 

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 滑降したルート

 

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チベットでの高度順化のおかげであろう、病み上がりにしては調子よく登ることができた。

 

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 もう花が

 

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頂上からは富山平野や剣岳、そして南に目を転じると飛騨の槍ヶ岳や笠ヶ岳などが遠望できた。

 

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 家人から乞食みたいと言われた隠居の雄姿?

 

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 槍ヶ岳

 

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 わが笠ヶ岳も

 

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誰もいない頂上で心を開放し、この上ない幸せな気分にひたれるのだから、ここはまさに「お浄土」。

 

しかしまだ「お浄土の人」になるわけにはいかないので、頂上からの斜面を大きく左へトラバースし、北側のかなりの急斜面を滑降した。

 

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 雷鳥

 

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 Sさんの滑降(動画から)

 

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あとはそのまま室堂まで滑降となる。

 

この爽快さは何なのだろうか。

 

司馬遼太郎は遊牧民のことを、「騎乗で常にとどまることがなく動いている彼らは、一瞬の光の中にいる」と言ったが、大げさながらこれはわれわれ山スキーヤーにもあてはまるのではないかと思う。

 

われわれ農耕民族は一定の地面で身をかがめ日常の繰り返しで生涯を送るが、たまにこうして速く動くことを好むのは、大陸にいた頃の先祖の血だろうか。

 

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などととりとめのないことを考えながら室堂へ滑り込む。

 

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これで「板納め」となればいいが・・・。

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