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奧飛騨の山案内人たち1―ウェストンを笠ヶ岳へ案内した猟師

2020.06.03 Wednesday

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 まだ馬がいた(5月30日・上宝町)

 

富士登山道が閉鎖になり、南アルプスの山小屋や飛騨では笠ヶ岳山荘が休業を決めるなど、コロナ禍で今年の夏山は寂しいものになりそうだ。

 

そもそも登山は衣食住が足りてから行うものなので、今の時期現役の人はそれどころではないだろう。

 

登山者が少なければ、束の間ながら自然回復ができて山は喜ぶが、山で食べておられる小屋関係やガイドなどはたいへんだと思われる。

 

さて隠居は認知障害の頭を騙しつつ、飛騨の登山史を調べて郷土の歴史研究会の紀要などに載せ、悦に入っている。

 

今取り組んでいるのは、明治から昭和初期に飛騨山脈で案内人として活躍した奥飛騨の猟師たちのこと。

                    

穂高の厳冬期初登頂などに貢献しながら、今まで登山史の陰に隠れていた彼らのことを書き残そうと、その末裔を尋ねたりしていろいろ調べているが、知られていなかったことが出てきたりして、なかなか面白い。

 

明治になって西洋から近代登山が移入され、初期は外国人が、そして明治38(1905)に日本山岳会が創立されたころからは日本人が未知の山に登りだし、探検登山黄金時代、アルピニズムの勃興期である銀の時代(岩と雪の時代)へと続いてゆく

 

周知のとおり、その黎明期に案内や荷運びなどで支えたのが、飛騨山脈では越中の芦峅・大山、信州の中房・大町・島々、そして飛騨の中尾・蒲田などの地元の山に精通していた猟師、釣り師、杣人などの山人であった。

 

山岳の情報がほとんど得られなかったこの時代、彼らの協力無しでは学術調査や測量の成果は得られず、近代登山史に残る数々の記録樹立などは到底無理であったろう。

 

現在のような登山道も山小屋もなかった時代である。

 

登山を支えた山人のうちどの地方でも猟師が多かったのは、近世から近代のはじめまで、日本中の標高が高くてコメが採れない山村では、どこでも焼畑農耕のほか狩猟や採集に拠っており、彼らが地元の山に精通していたからである。

 

飛騨高地の山村にも猟師が多く、近代になって山案内人をいちばん多く輩出している焼岳山麓の中尾集落や蒲田集落、そして蒲田川(高原川)沿いのほかの集落もそうであった。

 

熊やカモシカを追っての彼らの行動範囲は驚くほど広かった。

 

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蒲田川右俣谷・左俣谷、笠谷、下佐谷、双六谷とその支谷を中心に、笠ヶ岳から双六岳、西鎌尾根、三俣蓮華岳、黒部五郎岳、北ノ俣岳、薬師岳の稜線にまで及んだ。

 

岩井戸集落の小野という猟師などは、白山、御嶽、立山、黒部まで足をのばしており、17歳から76歳までの間に熊70頭、カモシカ273頭を獲り、そのほかは記憶にないと言っている。(昭和11年小野翁が80歳のときの話)

 

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猟は数人で組んで雪の中で何日も泊まりながら行うが、集落ごとに縄張りが決められていたという。

 

この猟で培われた土地勘や生活技術などは代々受け継がれ、後に登山者を案内する時におおいに役立つことになる。

 

飛騨で最初に登山史に名前が出てくる案内人はやはり猟師で、明治27年(1984)8月ウェストン一行3名が、3度目の挑戦で笠ヶ岳に登り

に来た時だ。

 

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またも蒲田集落の区長に案内人不在を告げられて途方に暮れていた時、案内を買って出てくれたのが栃尾集落の猟師奥村市次郎であった。

 

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 栃尾の猟師 奥村市次郎

 

ウェストンはこの奥村市次郎のことを、この階級では珍しく眉目秀麗で、レバント海岸(東部地中海)にいる人のようだと書いている。

 

奥村は中尾集落の猟師頭中島市右エ門宅にウェストンを泊め、翌日同じく中尾集落の猟師山本竹次郎と笠ヶ岳(実際は小笠=抜戸岳だったが)へ案内をしてくれたのである。

 

ウェストンはこの中島市右エ門も「がっちりした顔形の整った、今まで見なことがない容貌の持ち主」と書いている。

 

ルートは猟師たちがいつも通っている穴毛谷(この時期クリヤ道はまだない)を往復したが、ウェストンはこの時の奥村市次郎の的確な案内ぶりをいたくほめている。

 

穴毛谷は、隠居も若い時に4の沢の岩場に通ったリかなりの回数入っているが、河原を歩くので道はなく、中ほどから雪渓に覆われていて、8月に入ると雪渓の崩落がはじまる危険なコースで、熟知していないと通過できない谷。

 

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 穴毛谷

 

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 穴毛大滝

 

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 穴毛谷上部しゃくし平から稜線

 

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 稜線からしゃくし平と穴毛谷上部

 

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 抜戸岳(小笠)

 

以前にも書いたが、隠居が数年前にウェストンの手記を検証した結果、猟師たちはウェストン一行を笠ヶ岳でなく抜戸岳へ案内していたことが判明した。

 

奥村は信心深い蒲田集落の人々の気持ちを忖度し、播隆などの仏像が安置されている本峰を避けて抜戸岳へ案内したのである。

 

当時は穂高同様この山塊一体を笠ヶ岳と呼び、抜戸岳は小笠とも呼ばれていたので、3度も登りに来た外人を気の毒に思ってのやさしさ、義侠心から案内をかって出たと思われる。

 

報酬が主目的でないかとするむきもあるが、明治初期の特に農山村の人々はまだ報酬というものに淡白で、特に外国人からそれを得ることを恥ずかしいとだ感じていたという。(イザベラ・バード『日本奥地紀行』)

 

その夜は中尾に泊り、翌日猟師頭中島から猟の時の服装装備などを詳しく聞き、ハミルトン(当時名古屋在住の聖公会派宣教師・カナダ人)はそのいでたちを写真に撮っている。(ウェストン著『日本アルプス登山と探検』から)

 

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 武器は旧式の銃と槍と重いナイフ(鉈のこと?)

  さらに熊と組んだときの小刀も ワカンジキを履いて見せている

 

翌日奥村と山本は、ウェストン一行を送って中尾峠を越えて上高地へ下り、徳本峠から島々へ出

て梓川対岸の橋場で別れるが、そのときハミルトンは2人の写真を撮った。

 

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 中尾峠

 

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 徳本峠

 

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 橋場にて 左山本竹次郎 右奥村市次郎

 

ハミルトンは、後日律儀にもこの写真を岐阜の写真館から高山の瀬古写真館経由で中尾集落へ送っている。

 

なお、ウェストンの登山を助けた3人の猟師のご子孫訪ねてみたが今もその場所に住んでおられ、いずれも明治期に先祖が外人さんを笠ヶ岳へ案内したことを知っておられた。

 

栃尾の奥村家では市次郎の写真(前に掲載)をお借りすることができた。

 

お仏壇にあった市次郎の写真をよく見ると、ハミルトンが橋場で撮ったものをトリミングしてあることがわかった。

 

平成が終わって令和に入り、ウェストンが日本の山を楽しんだ明治はさらに遠くなった。

 

<以下余談 民俗学などにご興味のおありの方どうぞ>

 

宮本常一著『山と日本人』(八坂書房・2013)のこと

 

先に「日本中の標高が高くてコメが採れない山村では、どこも焼畑農耕のほか狩猟や採集に拠っていた」と書いたが、歩く民俗学者宮本常一は、日本に「山岳民」なるものが存在したという話を『山と日本人』に書いていて、昔の山村の暮らしに関心を持っている隠居はたいへん興味深く読んだ。

 

日本の標高800mから1000mくらいの山岳地帯には、水田耕作をする「平地民」とはちがう、焼畑耕作にはじまる畑作を中心とする文化をもった「山岳民」と呼ばれる民族が存在しており、彼らは縄文文化の系譜を継ぐものだと言っている。

 

たとえば九州の米良(めら)、椎葉、諸塚、五木、近畿では吉野の天ノ川、大塔、十津川、長野県伊那の下栗など。

 

飛騨でも即座に何箇所か思いつく。

 

この説は柳田国男の「山人」を意識して書かれたとも言われるが、柳田との違いは、宮本が漂泊民や被差別民などによりあたたかい眼差しを注ぎ、民俗誌だけでなく生活誌にまで踏み込んだことだろう。

 

日本は豊かな森林地帯を抱え、その半分以上に天然林が残されている稀有な国で、様々な山の民俗を育んできたが、その豊かな自然に育まれた山村の暮らしが過疎化で急速に失われつつあるのは残念なことだ。

 

もともと山と里の生活には優劣がなかったのだが、このバランスが崩れたのは米の石高制が敷かれた近世以降、近くは高度成長期といわれる。

 

飛騨でもすでに何箇所かの山の集落が消えている。

 

宮本は生涯日本各地をフィールドワークし、主に離島など海で生活している人々のレポートを多く書いているが、山村も結構歩いている。

 

その調査記録の大部分は未来社から刊行されていて、著作集は50巻にも及ぶ。

 

宮本は飛騨へも何回かきており、郷土史研究会の紀要『ひだびと』に寄稿している。

 

隠居は山村を歩くとなぜか心がなごむが、これは「山岳民」のDNAのせいであろう。

 

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 黒部五郎岳(5月30日・上宝町)

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柏原峠(千光寺峠)2―古刹千光寺の境内を歩く

2020.05.25 Monday

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 笠ヶ岳の雪形=代掻き馬

今年はシャッターチャンスを逃し、2017年5月19日のもの

 

人々から忘れられ、埋もれてゆくものを惜しんで、古い峠歩きは続く。

 

乗鞍岳の剣ヶ峰あたりが冠雪した日(令和元年119日)、反対側(千光寺側)の下保集落から登ってみた。

 

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真言宗の袈裟山・千光寺は、約1600年前の仁徳天皇の時代飛騨の豪族両面宿儺(りょうめんすくな)が開山し、約1200年前に平城天皇の第三皇子である真如親王が弘法大師の弟子になり、諸国行脚の途中に建立したという古刹。

 

標高900mの山中にあり、「飛騨の高野山」ともいわれる。

 

江戸期には、木彫り仏で有名な円空が3年続けて千光寺へ通い、作仏を行った。

 

現在寺には円空が遺した両面宿儺座像、観音郡像など50余体が収蔵されている。

 

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両面宿儺座像

 

寺へは参拝用の自動車道が付けられているが、昔の歩く参道は自動車道入口から300mほど南に残っている。

 

下保集落の人に聞くと、こちらでは柏原峠と呼んでいるとのこと。

 

同集落のHさん(61歳)は、「小学生の頃学校の先生に連れられて行った時(昭和40年頃)は既に通る人がいなく、道が一部ヤブで埋もれていて道に迷ってしまった覚えがある。」と話してくれた。

 

旧道の石の山門を通過する。

 

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 左千光寺 右桐山

 

広い道はすぐにヤブに覆われていたが、それでも国指定の天然記念物の五本杉まで難なく歩けた。

 

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この杉は、本尊の千手観音とともに千光寺の信仰のシンボル。

 

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このあとは新参道の自動車道に寸断されていたが、途中から仁王門までの旧道が残っていたので歩く。

 

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山門の金剛力士像は、昔一の宮水無神社の仁王門にあったものだが、明治の神仏分離でここへ移された。

 

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旧道は仁王門からか石段を登って境内に入り、先日出てきたところへつながっていた。

 

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なお仁王門下の右に大きい尾根が派生しているが、ここに鳥越砦があり、鳥越峠があったと言われている。

 

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永禄7年(1564)甲斐武田信玄の武将山県昌景が古安房峠を越えて飛騨へ侵入し、千光寺を焼き討ちしたと伝わるが、この時の砦跡らしい。

 

これで全線を歩いたことになり、「古峠コレクション」に一つ加えることができた。

 

それにしても、往来した多くの人々の祈りをやさしく受け止め、哀歓を見つめてきた、あのいいお顔の地蔵様のことが気になる。

 

おそらくこの先訪れる人はいないだろう。

 

初出「飛騨学の会」紀要『斐太紀』24号・202041日発行

 

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近代資本主義とグローバリズムの一帰結などと、「コロナ以前、以降」が語られ始めている。

 

「これからはアニミズムとトーテミズムが、人間社会を構成する鍵になってくる」などと示唆する人もいる。

 

そうすると、峠を歩いた時代までの日本人の自然観、死生観というものは、想像ながらまんざら捨てたものではないということになる。

 

この半呆け老人は「我々はもう不便な生活には戻れないが、自然を崇め、自然に謙虚だったかつての文化が、今後のわれわれの生き方、自然との関わり方を示唆しているのではないか」などと考えたりしている。

  

<以下余談 相変わらずの閉じこもりで、お時間のあるお方どうぞ>

 

千光寺峠(柏原峠)のことを書いていて、「幽霊街道」など普通の人が歩かない尾根道のことが気になったが、民俗学者宮本常一著の『山に生きる人びと』(河出書房)に「カッタイ道」という記述があったことを思い出した。

 

「カッタイ」とは、ハンセン病(らい菌による感染症)の差別用語だが、宮本は昭和16年、四国の山中で風呂敷包を背負い、ボロボロの着物を着たハンセン病の老婆に出会った。

 

顔はくずれてしまっていて、杖をついていたが、手の指もほとんどなかった。

 

人目を避け、山中を5〜6日歩いてきたとのことであった。

 

彼らは一般人に嫌われるので、山中の専用の道を通って行き来していたというが、これが「カッタイ道」といわれていたのだ。

 

四国にはこれらの人も歩ける八十八箇所の巡礼道があるが、土佐の国だけは藩主がカッタイの通過を嫌い、こういう道を歩かざるをえなかったという。

 

この頃はまだこの病気のことがわかっていなかったとはいえ、まことに痛ましい話だ。

 

昔の日本には、「カッタイ道」のほか、里を通らず山中にいろんな道があり、秋田マタギなどは山の尾根ばかり歩いて奈良県まで行き来していたという。

 

日本には、「山地民」といわれる木地師か修験者、マタギ、鉱山師、樵、炭焼き、あるいは「歩き筋」と言われるサンカ、鋳物師、ゴゼ、巫女、などが歩く専用の道があったらしい。

 

飛騨でも「山の尾根は魔物が通るところなので近寄るな」と言われており、昔こういう道が存在した。

 

先に書いた「幽霊街道」もそのうちの一つであろう。

 

隠居は今でも登山で尾根の縦走を好むが、登山が好きな者は皆前述の職業の人の末裔だろうか。

 

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千光寺峠(柏原峠)―「幽霊街道」にある峠で、千光寺へお参りの衆がよく通った

2020.05.17 Sunday

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 笠ヶ岳の雪形=代掻き馬もだいぶ出現(15日・上野平)

 

相変わらず山へ行けないので、去年秋の峠歩きを。

 

平湯峠の上にある輝山(てらしやま・2063m)から長大な尾根が西へ延びている。

 

尾根の途中には、金森藩の鷹狩りの場であったという広大な八本原、十二ヶ岳(1326m)があり、名刹千光寺を経て宮川へと落ちている

 

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 広大な八本原と笠ヶ岳(日影平の「乗鞍青少年の家」から)

 

この長い尾根は昔「幽霊街道」と呼ばれ、夜中に得体の知れない者の群れが通るので、山仕事の者は夕方早めに山を下りることになっていたという。

 

山窩など山で暮らす無宿の人々の通り道だったかも知れない。

 

十二ヶ岳から宮川までの尾根上には、折敷地集落から大萱集落へ越す恵比寿峠、大沼集落から大萱集落への大萱峠(別名巡見使街道)、三の瀬集落から桐山集落へ抜ける三之瀬峠(峰越え一里の峠)、柏原集落から千光寺を経て下保集落へ下る千光寺峠(柏原峠)があった。

 

このうち自動車道路になっているのは恵比寿峠のみで、あとの三つはとうに役目を終えてヤブに埋もれつつあった。

 

大萱峠、三之瀬峠は数年前に探索し、歴史遺産として地元歴史研究会の紀要に書き残すことができたので、残っていた千光寺峠へ昨年の11月に入ってみた。

 

この峠、柏原集落では千光寺峠、下保集落では柏原峠と呼んでいる。

 

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 柏原集落から見た千光寺峠

 

まず荒城川沿いにある旧丹生川村柏原集落側から入ることにし、峠道入口にあるK家で道の様子を尋ねると、近年通った人などなくかなり荒れているだろうとの話だった。

 

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 柏原集落

 

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そばの公民館に駐車させてもらい入ってみると、やはり谷沿いの道は取りつきからひどいヤブに覆われていた。

 

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 峠道入口

 

冬山のラッセルのように体力がいるヤブ漕ぎで、サングラスを紛失したり、トゲで衣服が破れたりでくじけそうになったが、上部の森林帯に入るとヤブが薄くなり、ようやく歩き易くなった。

 

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 谷沿いなので流れている個所も

 

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谷へ入ったすぐにルートを見失い、右の尾根に登るのを反対の尾根に取りつき、さらに左へ大きくそれてしまったが、GPSで修正して戻ることができた。

 

戻ったところにはっきりした道が残っていた。

 

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地形は次第に平らになり、大きい杉の木の下に地蔵様がポツンとさみしそうに座っておられた。

 

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 ようやく峠に出る

 

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飴玉をお供えしてお参りをしたあと、後ろ髪を引かれる思いでお別れをする。

 

杉林の中の笹に覆われた平坦な道を進むと、千光寺の八十八箇所巡りの参道に飛び出た。

 

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千光寺から下柏林道を歩いて柏原集落まで下る。

 

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 林道途中から笠ヶ岳が

 

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K家へ寄ると奥さん(72歳)がおられ、いろいろ話を伺うことができた。

 

「町方から郵便配達さんがこの峠を越えてやってきた。」

「町方への買い物や、坊方の親戚へ行くのにこの峠を越えた。」
「ある時坊方の親戚の子供が1人で峠を越えて来た時は心配した。」

「国府の衆が、千光寺へお参りによく通った。」

「遠足にも利用された。」

 

(次回千光寺側探索行につづく)

初出「飛騨学の会」紀要『斐太紀』24号・2020年4月1日発行を改稿

 

<以下余談 お時間の許すお方、お立ち寄りください>

 

老生つれづれに飛騨の登山史余話みたいなものを書いていて再読したのは、加藤博二著『森林官が語る山の不思議―飛騨の山小屋から』。

 

戦後間もなく他社で刊行されたものを、2017年に河出書房新社が再刊したもの。

 

著者の略歴記載がなく、巻末に「著者および家族に心当たりがあれば編集部へ連絡を」とあるので、著者及び関係者の所在が不明らしい。

 

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著者は戦前に宮内省帝室林野局が管理する御料林の森林技術者で、公務員だったのだろう。

 

森林官時代に人里離れた湯治場や山小屋で聞いた不思議な話や体験が、山で長く生活していた人ならではの精緻な自然描写とともに綴られている。

 

主として、何かの事情で山奥に住まねばならなかった人々の哀しい人生を拾い集めてあるが、猿が岩の窪みに山ブドウで造っていた酒を木こりが盗んで飲んだ話、猿でもない人間でもない怪物(先回紹介した「わろ」と同じ)が捕まった話などの奇談もある。

 

この森林官が、山で出会った戸籍を持たない薄倖の人々を常に温かい眼差しで見、やさしく接しているところがいい。

 

この人の人柄なのだろう。

 

なかには創作と思われるものもあり、全編が短編小説のようで面白い。

 

場所は飛騨だけでなく尾瀬、白馬など広範だが、これはすべて森林官の任地だったのだろう。

 

そのうち「飛騨の山小屋」は、著者が信州と飛騨の国境の深山(乗鞍と御嶽の間くらいだろうか)で暮らす父と娘の小屋に泊めてもらった時の話。

 

彼らのたつきは「せんぶり草」を採ってきて煮詰め、薬にすること。

 

その小屋にはどういうわけか赤子もいて、2人の留守中に何匹かの猿がお守りをしていた。

 

口が重い父になぜここで暮らしているかを尋ねると、「わしは山がいちばんいいのですわ」との一言だけだった。

 

小屋の主は山窩(サンカ)かそれとも犯罪者かもしれないが、詮索する気はないとも書いている。

 

もう一つ印象に残った話を紹介すると、深い山中の小さな鉱泉宿を一人で守っている老爺の話=「峠の湯」

 

この宿に泊まるのは、炭馬曳きか、まれに峠を越えてくる旅人、山女魚釣りくらい。

 

老人は、みかん箱に新聞紙を貼った仏壇に亡妻の位牌と、戦地へ往ったまま3年も音信がない一人息子の白木の位牌をおいて、静かに暮らしている。

 

この夜の泊りは著者だけで、老爺と月明りの露天風呂でしみじみと語り合う。

 

そして朝になると老爺は、炭焼きの少年が捕まえて持ってきた小鳥を買い取って逃がしてやるのであった。

 

著者は登ってきた初秋の峠で一休みし、浮かぶ雲を仰ぎ、眼下に小さく見える宿の老爺のことを思いながら、「自然に生まれ自然に帰る人の命の無限を知る」「人を恨み人を叱った寂しさを峠を越えるときひしひしと想う」などと考えて旅愁に浸っている。

 

あと美しいサンカの娘の哀しい恋物語など、山で生きる放浪民の話もいくつか。

 

なおこの本のカバー装画は、山岳画家吉田博が猟師小林喜作を描いたもので、「猟師の話」(1922年)。

 

戦前アメリカで最も有名だった日本画家吉田については、日本山岳会会報『山岳』2017年Vol.112に関塚貞亨氏が詳しく書いておられる。

 

44歳で木版画をはじめ、新境地を開いた。

 

小林喜作をガイドによく山を歩き、山岳画も多く残している。

 

次の絵は吉田 博の木版画の代表作「劔山の朝」(1926年)。 

 

冷池テント場から見た剣岳だが、構図、色使いともすばらしく、この年に多く制作された木版画のうちの白眉の一点であるとの評に頷ける。

 

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 日本山岳会会報『山岳』から複写

 

次のものも、小林喜作へのオマージュといわれる木版画「針木雪渓」(1926年)。

 

下部の二人が吉田と喜作。

 

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 日本山岳会会報『山岳』から複写

 

雪渓を見ていたら、年甲斐もなく無性に滑りに行きたくなった。

 

そういえば、今年はまだ滑り納めを済ませていない。

 

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金山峠(御坂峠)2―昔上宝の衆が、高山日枝神社払い下げの神輿(みこし)を担いで越えてきた

2020.05.10 Sunday

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 子供の日の乗鞍岳

 

相変わらずの蟄居生活だが、終日書斎に籠っていても苦にならないので、隠居はどうも生来の「閉じこもり型人間」だったようだ。

 

では先回の御坂峠の続編を。

 

他日、反対側から登るべく旧上宝村堂殿集落に入る。

 

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 堂殿集落

 

集落最奥の峠入口にあるNさんの家で道を尋ねると、ご主人(83歳)から「旧道が林道で何箇所も寸断され分かりにくいので案内してやる」と言っていただけ、ありがたく甘える。

 

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家のそばに「金山峠入口」と書いた木柱があった。

 

峠道は10年前くらいから手入れをしてなく、歩く人もいないとのこと。

 

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こちら側では、向こうの集落の名=金山(かなやま)が付けられている。

 

軽トラックで未舗装の林道に入り、途中で京大天文台への道と別れて左折。

 

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所々で軽トラから降りて寸断された峠道を教わり、少し歩いて写真を撮ってはまた上部へ。

 

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中間地点で林道に駐車して尾根上へ案内してもらうと峠道が現れ、役行者の石像があった。

 

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今まで峠道で多くの石仏を見てきたが、役行者像ははじめてだった。

 

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この上に修験の山があったことを聞いたことはないが、Nさんに聞いてもよくわからなかった。

 

さらに崩壊がひどい林道を進むと終点となり、ここから峠道が上部へついていた。

 

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周囲を見回るというNさんに待ってもらって、ここから峠を往復したが、一部ヤブに埋まっていたもののしっかりした道が残っていた。

 

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 先日の峠に到着

 

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 もう会うことがないと思われる地蔵様に別れを告げて戻る

 

道々Nさんからいろんな話を聞くことができた。

  

「昔高山の日枝神社の古い神輿(みこし)を堂殿の神社が譲り受け、この峠を越えて担いできた。」

「こちらからは蚕を高山へ運んだ。」

「農作業の手伝いに、金山の人が堂殿へきていた。」

「若い頃峠の下で堆肥用のワラを刈り、道を滑らせて下したが、重労働だった。」

「金山の人が半僧坊へお参りに通った。」

「この尾根を貫通するトンネルの話があったが、立ち消えになった」。

 

このうち、明治期に高山から神輿を運んできた話には驚いた。

 

堂殿までは、高山市街地のはずれにある「くぬぎ峠」、上野平へ登る「まこも峠」、「三ノ瀬峠」を越え、さらにこの「金山峠」を越えたわけで、たいへんだったろう。

 

帰路旧上宝村の郷土資料館へ寄って村内の石仏を調べた資料を見ていたら、金山峠の石仏は、天明3年(1783)金山集落の蔵柱巴さんほかが上げたことがわかった。

 

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 堂殿集落にあった石仏

 

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初出「飛騨学の会」紀要『斐太紀』24号・2020年4月1日発行

 

<以下余談、ご用とお急ぎでない方はのぞいて見てください>

 

最近テレビで、宇多田ヒカルという若い女性歌手が山を歩いているサントリー天然水のCMが目に留まり、彼女が山中で詩を朗読している場面が気になった。

 

調べてみるとこの詩は、国木田独歩の短編「小春」のなかにでてくるワーズワースの詩「月光をして汝の逍遥を照らさしめ、山谷の風をしてほしいままに汝を吹かしめよ」であることを、浅学の隠居ははじめて知った。

 

明治の登山家で、ワーズワースの研究家でもあった田部重治の訳を見てみると「ひとり寂しく歩く汝の上に月をして輝らしめよ 霧深き山風をして思いのままに汝を吹かしめよ」で、これは「年老いて これらの烈しき喜び熟して・・」と続くが、隠居は田部訳のほうを好む。

 

周知のとおり、静観派の元祖田部重治の登山は、はじめ英国の自然詩人ワーズワースに大きい影響を受けていたが、晩年はワーズワースの世界を脱し、漂泊の俳人芭蕉の境地に行き着いていたと言われる。

 

この老生、この年になってもまだ詩のように独りで山を逍遥し、テントに泊まりたいと思っている。

 

さてこのところ飛騨の登山史の余話=山の奇談、怪談のようなものを書いていて、参考になる本を渉猟しているが、そのうち面白かったのは、岡本綺堂著(東雅夫編)の『飛騨の怪談』。

 

昔の人にとっての山は、一部が神や祖先の棲家として信仰の対象になっていたものの、大部分は魑魅魍魎が跋扈する異界で、そこで見聞きした奇談、怪談が今に語り伝えられている。 

 

それにはブロッケンなど山岳特有の自然現象や、人里にいない動物、あるいは人目を逃れたり、特殊な生業で深山に住まざるを得なかった人間を見間違えたものなど、現代では説明がつくものもあるが、魔訶不思議な話のほうが多い。

 

この『飛騨の怪談』には、昭和初期まで飛騨の深山には「わろ(漢字は獣編に喿という字)」という、猿とも人とも区別がつかない一種奇怪な生き物が住んでいたとの話が出てくる。

 

なかには人間の言葉を解するものもいたそうだ。

 

これは蒙古襲来の元寇の時、捕虜となったモンゴル人(実際はほとんどが高麗人)約100名が飛騨へ連れてこられたが、山中に逃亡してそのまま捕まらなかった。

 

深山に住んだかれらが長年の間に変異したのが「わろ」というのだから、奇想天外で面白く、また哀しい話だ。

 

里へ出てきて悪さをするが、銃で撃つと祟りで熱病になり、一家は根絶やしになるといわれてきたそうだ。

 

彼らは憎めない存在だったようで、銃で撃つなというのは、可哀そうだからという村人のやさしさだったと思われる。

 

こういう山での奇談、怪談話が残っていたのは戦後間もなくまでで、文明の灯りがいちだんと強くなるに従って消えてしまった。

 

魑魅魍魎などがいなくなった世界はなぜか味気ない。

 

今回も老人の繰り言におつきあいいただき、多謝。

 

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御坂峠(金山峠)−もう誰も通らない村境の峠には、地蔵様だけがポツンと

2020.05.03 Sunday

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  5月2日の笠ヶ岳、槍ヶ岳、大喰・中岳(上野平)

 

コロナ禍お見舞い申し上げます。

 

あたらしい山行報告がないので、昨年秋の消えゆく飛騨の峠道探索行をご覧ください。

 

今よりずいぶん貧しかったけれどやさしかった人々が、雨の日も雪の日もひたすら歩いて越えた峠への関心は尽きない。

 

今では異文化になってしまった、日本人が自然を崇め、自然と共生してゆったり暮らしていた頃の生活文化を再発見し、それを読み解いて味わうことが楽しいからだ。

 

国土地理院の25000分の1の地形図を見ていると、旧丹生川村の北西部に国見山(1318m)と大雨見山(1336m)があり、この2つの山を東西に結ぶ長い尾根があることに気づく。

 

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 昔頂上から日本海が見えたといわれる国見山

 

旧上宝村と、旧丹生川村の境をなす標高約1200mの尾根だ。

 

この尾根のなかほどに、旧丹生川村の呂瀬金山集落と旧上宝村の堂殿集落とを南北に結ぶ点線(歩く道)があるのが以前から気になっていたので、11月のはじめに行ってみた。

 

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金山側では御坂峠、堂殿側では金山峠と呼んでいる、標高約1100mのとうに役目を終えてヤブに消えつつある峠だ。

 

紅葉の始まった呂瀬金山集落に入る。

 

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 金山集落 正面稜線のくぼみが峠

 

昔は23軒あったというが、今は4軒だけの限界集落だ。

 

ここには江戸期から明治にかけて金鉱山があって栄え、今も鉱口跡が残っている。

 

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 金鉱山跡

 

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集落の入口におられたSさん(59歳)に峠道のことを尋ねると、今から30年くらい前までは毎夏に双方の集落が峠道の草刈りをやって登り、峠で酒を飲んで懇親をやっていたが、今は途絶えてしまった、それまでは両村の子供が遠足で歩いたと言われた。

 

しかし近年歩く人は皆無で、最近は熊が多いので集落以奧の入山はすすめない、先日も釣り人に帰ってもらったとも。

 

隠居は「わしは去年北海道の大雪山でヒグマと闘った男だから大丈夫だ(実際は遭遇してむこうが逃げた)」とは言わなかったが、「撃退用の唐辛子スプレーを持っているから大丈夫」と言った。

 

そうしたら折れて、今はヤブに覆われていて歩きにくいだろうと言いながら入口を教えてくれた。

 

この人は農業のかたわら猟師を兼ねていて、今年はすでに熊を10頭駆除したそうだ。

 

一部ヤブに覆われていたが、しっかりした道が残っていて楽に歩けた

 

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 尾根の低いところに杉の木があるのが峠

 

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 峠が見え出す

  

頂上には期待していた地蔵様が、杉の大木の下にさみしそうに鎮座しておられた。

 

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堂殿側へ少し下ってみたが、しっかりした道が残っていた。

 

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 堂殿側の道

 

幸い唐辛子スプレーを使うことなく往路を戻り、林道に降りたら道端の罠のオリに大きな熊が入っていて出ようともがいていた。

 

開けて逃がそうと思ったが危ないのでやめ、自分で逃げるかもしれないと思い、Sさんなど集落の人には黙っていた。

 

帰路集落の最奥に一人住まいをされているTさん(85歳)に会う。

 

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昔峠を越えて蔵柱の山の中にある「はんそうぼう」へよくお参りにいったことや、自給自足の田舎暮しの楽しさなどを話してくれた。

 

「はんそうぼう」とは「半僧坊」のことで、旧上宝宝村蔵柱田谷集落の裏山標高約1000mに「天ヶ岩屋」という大きい岩屋があり、この下に蚕の守護神という「奥山平半僧坊大権現」が祀ってある。

 

Tさんは昔飼っていた蚕のために峠を越えてお願いに行ったようだ。

 

長年自然の中で暮らし、自然の一部になっておられるような老人と話すことはまことに楽しく、心がなごむ。

 

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 呂瀬集落内にある地蔵様

 

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隠居が関心を持っている老子の「無為自然」の思想では、自然の中で自然の摂理にのっとって自給自足の生活を行う農民を理想としているが、Tさんのような人がそうかもしれないなどと考えながら帰途についた。(次回堂殿側探索行につづく)

 

初出「飛騨学の会」紀要『斐太紀』24号・202041日発行

 

<以下余談なので、ご用とお急ぎでない方はお付き合いください>

 

普段は「晴登雨読」だが、このところの閉門蟄居生活で「晴読雨読」になり、よく読める。

 

図書館が休みなので新刊は無理だが、家にある買いためていたものや、昔読んだものを片っ端から読んでいるが、この年になってはじめて分かることも多く、面白い。

 

問題は、覚えたつもりが翌日になると脳からほとんど消え落ちてしまっていることだ。

 

それでも「浅学をなんとか人並みに」という、このけなげな?老人を励ましてくれる先人の言葉は、ご存じ岩村藩の儒者佐藤一斎が『言志晩録』に書いている「老いて学べば、死して朽ちず」。

 

もうひとつは、南方熊楠が漢籍『説苑(ぜいえん)』から引き出したという「年老いて学問を好むのは燭をともした灯のようなものである 燭をともした灯でも 暗闇を行くよりはよい」だ。

 

今は三島由紀夫の『金閣寺』『葉隠入門』などいくつかを再読しているが、『行動学入門』のなかの「革命哲学としての陽明学」が面白い。

 

隠居が以前から関心を持っている陽明学は、日本の学祖中江藤樹から熊沢蕃山に受け継がれ、山鹿素行、大塩平八郎、吉田松陰、河井継之助、西郷隆盛、乃木希典などに大きい影響を与えた。

 

「知行合一説」「理気一元論」などを柱にした思想だが、徳川幕府はこれを危険思想、異学として嫌った。

 

なお幕府が官学とした朱子学は、「先知後行説」「理気二元論」で、現実より名分を重んじ、空論性が強かった。

  

おのれが是と感じ、真実と信じたことが絶対真理で、それを知った以上は即行動を起こさなければならず、行動を起こして思想は完結するという、王陽明(有名な書聖王義之の子孫)の思想。

 

「身の死するを恨まず、心の死するを恨む」と言って、飢饉に苦しむ大阪の貧民のため幕府と闘った大塩平八郎はじめ、信奉者のほとんどが劇的な生涯を送っている。

 

殉死した乃木は「死は美である」と考えており、三島の死も、彼が生涯追求した「終わりの美」の最終の具顕であったとわれる。

 

陽明学的な行動原理は今も日本人のなかに潜んでいるといわれるが、一部の人の先鋭的なアルピニズムとも結びついていたのではないかと、隠居は勝手に考えたりもした。

 

一昔前に西洋の登山家が、日本人のヒマラヤなどでの登山活動について理解に苦しむ場面があると書いていたのを、なにかで読んだ憶えがあるからだが、この隠居説は牽強付会であろう。

 

半ボケ老人のめんどうな話におつきあいいただき、恐縮でした。

 

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コロナ禍お見舞い3ー旧朝日村の花めぐり

2020.04.26 Sunday

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 4月25日午後の乗鞍岳

 

登山自粛の呼びかけで、予定していた月山や立山などの山スキーは中止になって、閉じこもりを余儀なくされている。

 

江戸期の「閉門蟄居」みたいなものだが、そのぶん本はよく読める。

 

不要不急の外出を自粛しなければならないが、25日急ぎの用事ができて旧朝日村方面へ行ったついでに、花を見て来た。

 

ここは高山市内より一週間ほど開花が遅れるのでちょうどよかったし、どこも静かだった。

 

昨日(25日)の花と乗鞍の姿をご覧いただき、少しでも閉じこもりのストレスを解消いただければ幸いです。

 

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 浅井の神明神社

 

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 大廣の神社

 

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 青屋からの乗鞍

 

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 青屋の神明神社

 

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 狛犬の注連縄が面白い

 

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 薬師様の枝垂れ

 

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白い乗鞍岳を見ていると、この時期によく滑りに行ったこと、そしてその時の滑降ルートまでがはっきり思い出される。

 

もう一度滑りたいと思うが、なにせ飛騨側は山深くアプローチが長いので、この老体ではもう無理だろう。

 

単純な隠居にとって年を取るということは、思う山に登れなくなるということなので、さみしいかぎりだ。

 

追伸 

これで里の花の盛りは終わり、あと落花を惜しめば、ようやく騒いでいた心が落ち着く。

 

これからは深山にポツンと咲く山桜がよくなるが、隠居がこの時期新潟県などの雪国へ山スキーに行くたび感動するのは、一面の雪の中にけなげに咲いている桜たちだ。

 

雪解けが待ちきれず満開になっている光景は、飛騨では見られない。

 

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 信越国境 鍋倉山(4月28日)

 

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 新潟県 海谷山系(5月5日)

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コロナ禍お見舞い2ー高山周辺の花めぐり

2020.04.19 Sunday

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 4月16日の乗鞍岳

 

緊急事態宣言の対象が全国に拡大されて、外出や移動の自粛がさらに呼びかけられているので、当分じっと閉じこもっているほかない。

 

しかし老い先短い隠居は、なんとか毎年恒例の花見だけはと思い、16日に高山周辺を車で巡ってきた。

 

一年ぶりに会った木々たちに話しかけながら写真を撮っていると、昔仲間と花の下で酒宴をしたことが思い出され、そのうち何人かが既に鬼籍に入ってしまっていることに気づいた。

 

自然の悠久さと人間の命のはかなさを詠んだ唐の詩人劉希夷の「年年歳歳花相似たり 歳歳年々人同じからず」「応に憐れむべし 半死の白頭翁」を思わずにはいられない。

 

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 桜ヶ丘八幡神社・山口町

 

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 了心寺・山口町

 

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 御旅所・山口町

 

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 山口町からの乗鞍

 

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 賀茂桜・江名子町

 

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 北山・しだれ桜

 

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 万人橋

 

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 万人橋

 

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 万人橋

 

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 上野町

 

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 大新町(宮川下流)

 

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 桜野・国府町

 

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 桜野 いつもは賑わっているのに、今年は全く静か

 

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 宮川・中橋から

 

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 臥龍桜(21日)出店もなく人はまばら)

 

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 漆垣内町・民家のしだれ

 

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もともと風流を解さない隠居だが、毎年この時期だけは花に心が奪われて落ち着かず、花狂いの漂泊者西行法師のにわかフアンになっている。

 

しかしあと何年花を見ることができるだろうか。

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コロナ禍お見舞いに萩原町の桜をどうぞ

2020.04.13 Monday

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「立山黒部アルペンルート」がこの15日に開通するので、立山で滑る予定にしていたが、登山を含む外出の自粛で中止にした。

 

年寄りが怪我でもして医療機関に迷惑をかけてはいけない。

 

アルペンルートのH.Pを見ると、ケーブル、バスなど各乗り物の運行も感染拡大防止のため乗客のマスク着用、消毒、乗車人員制限、改札で並ぶ間隔などいろんな対策が書いてあり、たいへんのようだ。

 

このところの不要不急の外出自粛で、しばらくはお客がいないのではないだろうか。

 

岐阜県の感染者は今日現在(13日)112名だが、今のところ飛騨地方にはまだでていない。

 

県は410日に「非常事態宣言」を発令。高山市も不要不急の外出自粛呼び掛けるとともに、学校、公共施設の休止、イベントの中止などを決めた。

 

隠居は冥途の土産にと、10日恒例にしている萩原町の花見にだけ行ってきたので、今年の花をご覧いただき、閉じこもりのストレスを少しでも解消いただければ幸いです。

 

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 森山神社のしだれ桜

 

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 岩太郎のしだれ桜

 

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 カタクリの群生地

 

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 永養寺のしだれ桜と淡墨桜

 

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 薬師様の桜

 

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 飛騨川公園の桜

 

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この時期になるといつもにわか風流人になって、生涯桜に偏執していた漂泊の人西行のことを思い出す。

 

西行が生涯に詠んだ歌は約二千首で、そのうち桜の花をうたったのが二百三十首あるという。

 

西行は六十三歳で高野山から伊勢に移っているが、「歳を加えるにしたがって花狂いの激情をつのらせ、その激情はときに耽美に傾き、濃艶の匂いが漂うようになった。」(山折哲雄)

 

そのころの歌でわかりやすいのは、「春ごとの花に心をなくさめて 六十(むそじ)あまりの年を経にける」「さかりなるこの山桜思ひおきて いづち心のまた浮かるらむ」

 

若い時は心が定まらない「空になる心」だったが、晩年「虚空の如き心」になった西行は、七十三歳で虚空へ帰った。

 

隠居は「妄執を離れぬ心」のままその歳を越えてしまった。

 

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乗鞍岳

2020.04.06 Monday

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新型コロナウィルスの感染は収まる気配がないが、気分転換に清浄な山の写真をご覧ください。

 

今の時期老人はおとなしく家にいたほうがいいようだが、来年のことがわからない隠居は、体が動くうちというより生きているうちに楽しんでおきたいと、平日の天気がいい日(326日)をねらって乗鞍へ行ってきた。

 

同行は平日も休みのSさん。

 

いつも書くように、乗鞍岳は剣ヶ峰から飛騨側に派生している千町尾根がいちばんすばらしい山スキーフィールドだと思うが、なにせアプローチが長いのでなかなか入りにくい。

 

このため、スキー場のリフトで標高2000mまで運んでもらえる信州の乗鞍高原から年に1〜2度登ることにしていて、今年はこれで2回目。

 

このスキー場も休暇村のほうが1週間早く(329日)営業を終えるようなので、その前にということで。

 

リフト3基を乗り継いで上部へ。

 

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平日なのでスキー場にもほとんど人がいなかったし、山へ向かう人も23パーティだけ。

 

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風もなく、春山のような感じで森林限界まで。

 

隠居はまた花粉症がらみのゼンソクが出て、亀の歩行になる。

 

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頂上からの蚕玉沢も寡雪で岩が出ていた。Sさんの遭難地点にむかって黙祷。

 

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 下山してきた登山者

 

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   奥穂高岳  前穂高岳

 

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途中から風が強くなってきたので、老人パーティは無理をせず、トイレ地点までとする。

 

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滑降は氷結箇所もなく、気温が高い割に雪質もよく、スキー場まで快適に滑降できた。

 

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あとガラガラのスキー場を滑り、駐車場のそばの休暇村で温泉に浸かってから帰宅。

 

そしていつもの晩酌の時間には盃を手にし、単純な、豊饒な一日を終えることができた。

 

このところ日本山岳会は、大都市圏の会員に登山を含む不要不急の外出自粛を呼びかけている。

 

特にクライミングや山スキーなどで怪我をして医療システムに負担をかけてはならないとも言っているが、もっともな話だ。

 

欧米ではこの困難を乗り切ろうと、住民同士が虹の絵を家の窓に掲げて励ましあっているのをテレビで見た。

 

虹は苦難のあとに訪れる平和や希望の象徴とのこと。

 

昨年125日、琵琶湖に遊んだとき撮った虹の写真をどうぞ。

 

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乗鞍岳・御越(みこし)尾根の雪上散歩

2020.03.30 Monday

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 3月25日の乗鞍岳

 

3月の飛騨も三寒四温の日が続いて春に近づいて行くが、その間に時々降雪がある。

 

昨日(29日)も10僂曚票樟磴。

 

320にも少し積ったので、まだスキーで遊ぶことしか頭にない能天気な隠居は、近くで滑れるところはないだろうかと考えた。

 

結果営業を終えたばかりの「ほおのき平スキー場」が思い浮かび、翌21日に単独で向かった。

 

例年は3月末まで営業しているが、今年は雪不足と新型コロナウィルスのため入場者が激減し、半月はやく営業を終えていた。

 

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幸い上まで雪が続いており、静かなゲレンデ内をシール歩行。

 

同じことを考える人がいるもので既に先行のトレースがあり、これを辿る。

 

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 乗鞍の第3尾根は雪がない

 

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やがてスキー場のトップに到着。

 

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   大崩山   猫岳   四ツ岳  烏帽子岳  

 

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 恵比寿岳  里見岳?

 

先行者はすでに別ルートを滑って行ったようで人影はなかったが、乗鞍へと続く御越尾根には古いトレースがあった。

 

時間が早いので、久しぶりに御越尾根の散歩をすることに。

 

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この高度にはまだたっぷりの雪があり、眼前の白い乗鞍を見ながら静寂な林間をシール歩行。

 

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こういう急がない単独行は無心になって自然と対話ができ、思索ができるのがうれしい。

 

これを「物我一如」というより「山人一如」というのだろう。

 

今年も厳しい冬をしのぎ、春を迎える準備をしている木々に話しかけながら黙々と歩む。

 

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これは一つの瞑想で、いわゆる「内面への旅」だ。

 

年を取ると、「行動すること」より「在ること」のほうが大事だという。

 

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やがて標高1666mの小さなピークを越えると急斜面になり、スキーを脱いで牛首峠まで下る。

 

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ここは「五色ヶ原の森」のトレッキングルートが南北に通過しているところ。

 

スキーの古いトレースはここから痩せ尾根をまっすぐ登り、猫岳へとむかっていた。

 

隠居は冬の久手御越滝を見たくてツボ足で進んだが雪が深くなってあきらめ、往路を戻る。

 

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 ほおの木平スキー場が見える

 

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 乗鞍スカイライン夫婦松

 

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 白山遠望

 

スキー場内に上から下まで華麗なシュプールをつけるつもりだったが、午後になって雪がくさり、重くなって回すのに力がいり、無様な加齢なシュプールになってしまった。

 

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スキー場の中にある温泉で老体を労わって、晩酌の時間には帰宅。

 

新型コロナウィルスの感染拡大は収束しそうになく、4月末に山形県月山で開催予定だった山スキークラブの全国集会が中止になった。

 

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