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涸沢岳西尾根・鉱石沢へ追悼登山

2019.08.23 Friday

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 涸沢岳西尾根と蒲田富士(4月・西穂高北西尾根から)

 

お盆明けの今週にテント泊山行を計画していたが、連日の雨で断念。今年はこのまま秋になってしまいそうだ。

 

こういう記事を載せることについては迷うところもないではないが、隠居なりの追悼と、この遭難の実態を知ってもらうことによって再発を防げればと思い、あえて。

 

山岳会の後輩Mさん(58歳)が、涸沢岳西尾根であっけなく逝ってしまったのは今年の324日のことだった。

 

奥穂高岳へ登頂すべく、仲間3名と前日蒲田富士手前の標高2500mでテント泊。

 

翌朝6時に出発して蒲田富士直下をトラバース中、ラストのMさんが声もなく鉱石沢へ滑落。

 

雪面は、クラストした上に10センチの新雪があった。

 

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後続パーティの知らせで、あとのメンバーがすぐ沢の途中まで下ったが見つからず、県警のヘリを要請。

 

ヘリは1125分に鉱石沢下部2050m地点でMさんを発見しピックアップしてくれたが、標高差600m、約40度の斜面を1000m近く滑落していたため、残念ながら遺体の収容になってしまった。

 

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収容してくれた県警の隊長Sさんは隠居がよく知っている人で、「ここは地形的に雪崩のデブリがあり、以前にもこの地点で収容したことがあるので、直感でここへ飛んだ。」と言っておられた。

 

事故原因と再発防止策については、先般会の事故検証委員会から詳細な報告書が出された。

 

この具体的な内容は省くが、敷衍して言えば、この滑落事故はなんでもない場所で起きており、これは常に我々にも起こり得るということと、その場合の滑落停止など基本的な対応技術をしっかり身に着けておかなければならないということだ。

 

遅くから山岳会へ入ったMさんとはだいぶ年が違うが、沢登りや山スキーに何回も行っている。

 

沢登りでは、特に乗鞍阿多野川・真谷でのうまいクライミングが印象に残っているし、今年になってからは1月に斑尾山へ行っているが、テレマークが上手だった。

 

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阿多野川・真谷 2011.7.24 

Mさんがモデルの上の写真は山岳連盟のカレンダーに採用された

 

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 2011.2.6 乗鞍岳

 

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 白鳥山 2013.3 途中Mさんの締具が故障し、徒歩で頂上へ

 

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 今年1月の斑尾山 深雪でテレマーク

 

もともとクロスカントリースキーの選手で陸上競技もやっていて、体力は抜群。最近は同年輩の会員とレベルの高い山行をやっていたようだ。

 

お盆過ぎに、ご遺族(ご長男と親戚の男性)と山岳会員11名で白出沢に入り、滑落した鉱石沢の下部まで慰霊に行ってきた。

 

白出沢は若い頃、北穂高の滝谷、前穂高の東面の岩場を登るため涸沢で定着合宿をした時、重荷を背負ってよく往復した。

 

近年は数年前に西穂から奥穂へ日帰り縦走した時下った以来だったが、その時すでにこの沢コースを利用する人は減っており、この日も23パーティを見たのみであった。

 

鉱石沢下部の河原に遺影とMさんが好きだった酒を置き、会歌を斉唱したあと自称山岳修験者見習いの隠居が、般若心経などの読経を行って慰霊を行った。

 

以下は当日の様子。穂高山麓に咲いていた夏の花を手向けて、若い岳友Mさんの冥福を祈りたい。

 

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 穂高平の避難小屋で小屋主のMさんに挨拶

 

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 蒲田富士

 

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 昔は小屋があって売店もあった

 

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 白出沢

 

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 天狗沢

 

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 鉱石沢

 

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 穂高平からは4人が近道を下山

 

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山での我々は誰しも常に遭難と紙一重と言え、長いあいだ山と関わっている隠居も今まで多くのヒヤリ・ハットを経験している。

 

恥ずかしながら昔の正月合宿で、この蒲田富士の東から滝谷方向へ出ている北西尾根を登っていてスリップし、滑落停止技術で助かったことがあるし、冬の岩登りでは墜落もしている。

 

あまり技術や知識を身に着けていないのに今日まで遭難もせずに生きながらえてきたのは、運がよかっただけであろう。

 

それほど厳しい登山をやってこなかったということもある。

 

このMさんや既に鬼籍に入った同級生などを見ていると、「いい人は早く逝ってしまう」ということにも最近気がついた。

 

隠居はまだ馬齢を重ねそうだ。

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白山美濃禅定道

2019.08.16 Friday

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「山の日」には、日本古来の信仰の山に登ってきたといったら聞こえはいいが、なんのことはない、白山を縦走する東京の山仲間を車で石徹白登山口まで送りがてら、日帰り登山をしただけ。

 

登山口の駐車場には10台くらいの車があったが、途中で会った登山者は45人で、あとは釣り客だと思われた。

 

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3年ぶりに対面した1800歳という長寿の大杉に、崇敬の念をもって挨拶をする。こちらはまだ70年と少々だ。

 

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彼ら2人は美濃禅定道から白山に登って、北尾根を野谷荘司山まで縦走する計画だが、この日は神鳩ノ宮避難小屋泊なので、早々に別れて隠居だけ上部へ向かった。

 

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昔「登り千人、下り千人」というほどにぎわったという古道を、往時をしのびながら味わって登る。

 

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ご存知美濃禅定道(石徹白道)の経路は、次の様なものであった。

 

〇美濃洲原神社(=「里の宮」「白山前宮」「一の門」「前宮」)―〇白山宮長滝寺(=「馬場」)―桧峠―〇石徹白白山中居神社―美女下―神鳩ノ祠―母御石―銚子ヶ峰―三ノ峰―追分―別山―南竜ヶ馬場―室堂―◎白山

 

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 長滝馬場

 

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 白山中居神社

 

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 中居神社境内にある古道入口

 

長滝寺から神鳩までは、毘沙門岳、大日ヶ岳、芦倉岳の山稜を通る修験者専用の行者道もあった。

 

それとここを歩いていていつも思うのは、天正13年(15858月(新暦9月はじめ)、秀吉の命で金森長近の軍勢が飛騨進攻のため石徹白から禅定道を登り、銚子ヶ峰を越えてから尾上郷川へ下ったことだ。

 

ただでさえ暑いさなか軍装でよく登ったと思うが、ルートはこの禅定道でなく、石徹白集落から北東の芦倉山と天狗山の中間にある保川に上り、尾上郷川の支流小シウド谷へ下ったという説もある。

 

銚子ヶ峰周辺から東の尾上郷川側はかなり急峻な地形なので、保川経由だったかもしれない。

 

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 避難小屋

 

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 神鳩ノ宮

 

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 歴史の道を味わって辿る

 

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 スキーの山野伏ヶ岳

 

森林帯は涼しかったが、木がない主稜線へ出たら一挙に暑くなった。

 

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今までここへは紅葉の時期か、積雪期にスキーできているので、この暑い時期ははじめてだった。

 

昔の登拝の人たちは健脚とはいえ、水をどうしていたのだろうか。

 

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 丸山、芦倉山

 

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 母御石 

 

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銚子ヶ峰の頂上に今はやりのトレイルランの若い男性がいたので行く先を尋ねると、「わかれやま」へ行くというので「べつざん」だと教えてやった。

 

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 三ノ峰 別山

 

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 願教寺山から薙刀山へと続く尾根

 

三ノ峰まで行く予定だったが、年寄りはひどい暑さに参ってしまい、銚子ヶ峰から引き返すことにした。

 

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 スキーでよく歩く野伏ヶ岳と薙刀山

 

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 別山が顔を出した

 

小屋へ寄って彼らと少し駄弁り、ブナ林で森林浴をしながら下る。

 

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往路は白山中居神社の鳥居前で拝礼しただけだったので、帰路本殿まで行ってお参りをしてから帰途に就いた。

 

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石徹白の歴史を今に残すものといえば、参拝した白山中居神社と中在所に安置してある国指定重要文化財の虚空蔵菩薩だろう。

 

明治の神仏分離令以来ここに安置されている虚空蔵菩薩像は、天暦元年(1184)奥州の藤原秀衡が寄進したもので、当時平泉からここまで1年かけて上村十二人衆が付き添って運び、今もその子孫の方が守っておられるというのだから驚く。

 

事前に予約しないと拝観できないが、3年前に古代史を学んでいる仲間と見せていただいた。

 

市役所に聞いて電話を入れた先がこの上村さんだった。

 

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拝観は以前からの念願だったし、ちょうどその年に発刊された『藤原秀衡』(入間田宣夫著・ミネルヴァ書房)を読んでいたので、威厳に満ちた端正なお顔、お姿に接することができ、感激もひとしおだった。

 

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虚空蔵菩薩は智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらし、菩薩の真言を百万回唱える修法「虚空蔵求聞持法」を修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。空海もこれを修した。

 

源義経が都から奥州へ逃れるときに通ったとも伝えられている石徹白という集落は、今なお神さびた、独特の雰囲気があるところだ。

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浅間・黒斑山(くろふやま)

2018.10.26 Friday

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高い山にはもう冠雪があって、山スキーシーズンも間近になった。

 

このほど山スキー同好会の全国集会が信州の高峰高原であり参加。

 

ホテルに泊まって懇親を行った翌日(21日)、皆で浅間山の外輪山=黒斑山(2404m)へ登ってきた。

 

ちょうど前日に降雪があって浅間山が白くなっており、絶景であった。(最近噴火レベルが下げられ、前掛山まで登れるようになった。)

 

なおこの山スキークラブは隠居より年上の方も多く、なかには未だ無雪期にテント泊で長期縦走をやっておられる方もみえて、励みにさせてもらっている。

 

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 富士山も(右)

 

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 岩尾根頂上にカモシカ

 

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 黒班山

 

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 家族連れが多い

 

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浅間山は太古から近年まで絶えず噴火を繰り返しているが、多くの死者が出て「鬼押出」ができた天明3年(17834月からの大噴火では、飛騨地方まで灰が降って農作物が不作になり、翌年大飢饉になった。

 

この年の夏に高山宗猷寺の南裔禅師が笠ヶ岳に登頂しているが、浅間山噴火の鎮静を祈願する目的もあった気がする。

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籾糠山へ紅葉狩り

2018.10.23 Tuesday

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「時雨を急ぐ紅葉狩り、深き山路を尋ねん」と謡いだす能の『紅葉狩』の場所は、信濃国戸隠山。

 

戸隠の山奥で美女に化けた鬼たちが酒盛りをしているところを、鹿狩りにきた平惟茂が通りかかるという設定だ。

 

隠居がよく紅葉狩りに訪れる場所は、泉鏡花の幻想小説『高野聖』に出てくる天生峠周辺。

 

そういえば『高野聖』も、この峠に住む妖怪が妖艶な美女に化け、旅の僧を誘惑する話だ。

 

これは紅葉の時期ではなかったかもしれないが、紅葉というのはなにか人の気持ちを妖しく、高ぶらせるものがあるような気がする。

 

なお小説の峠は、信濃、飛騨境になっているので、鏡花が安房峠と間違えたようだ。

 

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 天生峠・1289m

 

18日にカラ谷から籾糠山(1744)に登り、帰路はブナ探勝路を下降したが、今年はブナの黄葉がことのほかきれいだった。

 

残念ながら妖しい美女はおらず、やかましい婆さんばかりに遭った。

 

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この山域、近年500円の入山料を取るようになったが、そのぶん道をしっかり整備してあり歩き易い。

 

紅葉前線は、その時点で1500mから1400mあたりを下降中だったので、里へ下りてくる日も近い。

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大峯奥駈道を歩く その2 南奥駈

2018.10.16 Tuesday

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 「大峯奧駈」ルート その2  南奧駈(黄線)

 

南奥駈=太古の辻〜大日岳〜涅槃岳〜笠捨山〜玉置山〜熊野本宮大社

 

日本古来の山岳信仰は、外来の道教、仏教(特に密教)、儒教などの影響を受け、平安末期にいたって修験道というひとつの宗教体系になる。

 

修験者は山に入って艱難辛苦し、呪力、霊験を身に着けて、現在から未来永劫の幸福を願うため修行を行った。

 

彼らにとって山は母胎であり同時に宇宙。再び生まれるため、山(母胎)を巡り、修行に励んだ。

 

このため奥駈は吉野や熊野へ往くことが目的でなく、山川草木を悉く神と見て修行する修験者にとって険しい奥駈道自体が道場であり、霊場であった。

 

なお、熊野三山への一般の参詣者は、山岳を避けての中辺路、小辺路など参詣道を通った。

 

6日目:9月28日(金)深仙ノ宿〜太古の辻〜地蔵岳〜涅槃岳〜証誠無漏岳〜平治ノ宿

 

ここ深仙ノ宿は、神仙ノ宿ともいわれ、昔仙人の集まる場所であったという。

 

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『諸山縁起』には、ここをはじめとして大峰山中には多くの仙人が住んでおり、山伏を指導していたと書いてあるそうだ。

 

その後ここのお堂では、奧駈修行中最大の秘儀とされる灌頂が修法されたという。

 

僧は朝4時からお堂で座禅などの修行をされるとのことなので、昨晩お別れの挨拶をしておいた。

 

僧は長年高野山大学におられた方で独身。

 

お年は隠居の一つ下であるが、こうしてまだ修行を続けておられる。

 

この神聖な場所で、こういう生き方をされている方にお会いできたことも今回の収穫の一つだ。

 

ひょっとしたら、この僧は仙人だったかもしれない。

 

5時半ころ出発し、途中で朝日を拝む。

 

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大日岳という岩場の行場を過ぎると太古の辻に出る。

 

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ここからが「南奥駈道」で、この先自信のない者は前鬼という集落へ下るよう書いてある。

 

最近の修験者団体の奧駆は、ここから前鬼へ下ってバスで熊野三山へ行くことが多いそうだ。

 

なお前鬼というのは、役行者につかえた鬼(前鬼、後鬼)の子孫が今でも住んでおられるところ。

 

この年寄りがここから先を歩き通せるだろうかという不安を抱きつつ、南へ踏み込む。

 

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 大日岳

 

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 シャクナゲの群生地 花の時期はすばらしいだろう

 

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4時間ほど歩いたころ、突然森の中から山伏姿の2人の男性が現れた。

 

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 掲載は許可を得てあります

 

お年を聞くと69歳と63歳の方で、熊野から順峰でここまで来たとのこと。

 

彼らから、今までラジオがうまく入らず入手できなかった台風情報を聞くことができた。

 

台風24号はまともに本州を縦断し、30日には紀伊半島に接近、明日(29日)から雨になるとのことであった。

 

このため彼らは釈迦岳に登り、戻って前鬼へ下るかも知れないと言っていた。

 

礼を言って別れる。これ以降熊野大社まで人に会うことはなかった。

 

この後の行程では、ちょうど小屋がないテント泊の場所でまともに台風に遭遇することになるので、行仙ノ宿で停滞3泊やむなしという結論になった。

 

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 持経ノ宿

 

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このため今日は無理をして行仙ノ宿へ入る必要がなくなったので、平治ノ宿泊りとする。

 

平治ノ宿はこじんまりしたいい小屋だった。

 

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歩行12時間。

 

7日目:9月29日(土)平治ノ宿〜転法輪岳〜行仙岳〜行仙ノ宿停滞

 

この宿の玄関横には西行の歌碑がある。

 

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 第21番靡

 

隠居が好きな漂泊の旅人西行は二度の奧駆をしているそうで(その頃は道中に多くの宿があった)、この平治ノ宿に泊って月の歌を詠んでいる。

 

西行の花狂いは有名で、生涯詠んだ約二千首のうち一割強が花をうたったものだが、月の輝きにも心を奪われ、いくつもの歌を残している。

 

ここでは月を見ながら、密教修法の一つである「月輪観」という瞑想を行ったかもしれない。

 

西行フアンとして、はるか昔彼が泊った同じ宿(当然当時と建物は違うが)に泊まるという、僥倖に恵まれた。

 

そしてこの一時的漂泊老人は、台風前兆の激しい雨の中を出発。

 

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今日は行仙ノ宿までなので、半日歩けば着くコースだ。

 

転法輪岳、行仙岳を越えると立派な小屋が現れた。

 

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 土地神といわれる蛙さま

 

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本棟のほかに、礼拝堂、管理棟まである。

 

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昭和59年から、明治以降廃れていたこの南奧駈道を復旧し、途中の宿を新、改築しておられる地元山岳会「新宮山彦ぐるーぷ」さんが建てられ、管理されている小屋だ。

 

すべてボランティアだというから頭が下がる。

 

広い部屋を独り占めにし、薪ストーブに火を入れて濡れたものを乾かす。

 

外は雨がますます激しくなり、木々が揺れ出したが、こういうときの小屋はほんとうにありがたい。

 

午後座禅をして過ごす。

 

8日目:9月30日(日)行仙ノ宿停滞

 

台風通過で外は大荒れとなり、小屋周辺の木々の揺れはひどく、倒れる木も出てきた。

 

室内のムロの板が風で飛び、水が入ったポリタンクで押さえる。

 

軒からは雨が入ってきた。

 

建物自体は頑丈でなんともないが、倒木で小屋の窓が破れた時のことを考え、雨具をつけ、ザックをまとめて外でのビバークも考えて通過を待つ。

 

9日目:10月1日(月)行仙ノ宿〜笠捨山〜玉置山〜玉置辻(テント泊)

 

夜半まで雨がひどかったので翌日も残るのではと心配したが、朝になってみると台風一過の晴天。

 

小屋の周辺を片付け、宿泊させてもらった志納金を置き、お堂で般若心経を唱えてから出発。

 

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 隠居の人生のように屈折した木

 

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 笠捨山 登りのつらさに西行が笠を捨てたとか

 

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笠捨山への長い登りのあとは、槍ヶ岳、地蔵岳など鎖場がある小さいピークをいくつか越えながらどんどん高度を下げてゆく。

 

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 靡(なびき)にはこういうお札が納めてある

 

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途中送電鉄塔が現れ、里山に近づいていることがわかる。

 

玉置山まで再びゆるい登りになるが、自動車道が並走していて、途中に展望台まで現れた。

 

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玉置山を下ると玉置神社。ここで水を汲み、さらに玉置辻まで下る。

 

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 境内最上部には古神道の崇拝の対象=磐座があった

 

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十津川村にある玉置神社は昔玉置権現といわれ、中世以前から存在した山岳信仰の霊地。

 

広い境内で道を間違えて日が暮れてしまい、ヘッドランプを点け、GPSで奧駈道に戻る。

 

境内から30分ほど下り、満天の星の下でテントを張る。歩行12時間。

 

10日目:10月2日(火)玉置辻〜大森山〜五大尊岳〜七越峰〜熊野本宮大社

 

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今日も晴天。いよいよ最終日だ。

 

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標高差200mの大森山への登りのあとは、急な下りを経て五大尊岳へ。

 

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ここからはまた小さい峰をいくつも越えながら高度を下げてゆく。

 

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途中から熊野川が見え出したが、道は忠実に山脈の稜線をたどるため、まだアップダウンが続き、うんざりした頃熊野川へ降りた。

 

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古道はここから川を渡って熊野本宮大社(昔は対岸の中州にあったが、明治22年水害に遭い現場所に遷された。今は旧社地=大斎原として保存)へ行くのだが、台風後のダム放流をやっていて濁流で水量が多くあきらめる。

 

昔行ったガンジス川のベナレスのように濁った水辺で上半身裸になり、斎戒沐浴の代わりに体を拭く。

 

橋を渡ってまず旧社地へ寄ってから本宮大社へ。最後の長い石段登りはこたえた。

 

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老骨が無事完歩できたことのお礼を言い、10日間の長旅を終えた。

 

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歩行11時間。

 

<山旅を終えて>

大島が言ったとおり、修験道はまさに日本版アルピニズムであった。

 

コース上随所にある岩場は、クサリやハシゴが取り付けてない頃、綱を使っての難しいロッククライミングが必要なところも多く、転落して命を失った者もいたはずで、修行は命がけだったと思われる。

 

もちろん自然への接し方は、アルピニズムは征服、片や融合という大きい違いはある。

 

この隠居、「にわか修験者」としての10日ばかりの修行では生まれ変わることもできず、煩悩などそのままで何も変わっていない。

 

ただ、すべてのものに対する感謝の念だけは増した気がする。歩いている途中の草木、岩、道、そして山旅を支えてくれている山道具にまで感謝している自分がいた。

 

生まれ変わりはできなかったが、毎日霧に包まれた幽玄な古樹の森や巨岩の中を歩き、深い自然に身を委ねることによってこの老体が少しは純化され、少しは今までの罪障が消えたのでは、などと都合のいいことを考えている。

 

ただ、10日間バテることなく順調に歩けたのは、霊山からもらったエネルギーのおかげであることだけは確かだ。

 

2回に亘る長ったらしい駄文にお付き合いいただき、感謝申し上げます。

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大峯奥駈道を歩く その1 北奥駈

2018.10.11 Thursday

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    「大峯奧駈」ルート(赤線)

 

北奥駈道=吉野六田駅〜大天井ヶ岳〜山上ヶ岳〜八経ヶ岳〜釈迦ヶ岳〜太古の辻

 

このほど老体を励まし、騙しながら、吉野から熊野までの大峰山脈の古道約90辧閉樟)を独りで歩いてきた。

 

途中台風24号に遭い山中で停滞を余儀なくされたため、近鉄吉野六田駅から熊野本宮大社まで10日間という長旅になってしまった。

 

「修験道は日本版アルピニズムだ」と言ったのは、若くして前穂高岳の北尾根に逝った大正期の不世出の登山家大島亮吉であった。

 

剣岳で奈良時代後期の錫杖が発見されるなど、修験者は古い時代から粗食で野宿をしながら険しい未踏の山野、急峻な岩場を跋渉しており、大島が言ったようにその行為は近代登山の先鋭的なクライマーとよく似ている。

 

ご存知のように、修験道の開祖は役行者(えんのぎょうじゃ)。

 

大峰山は役行者が拓いたといわれ、峻険な山域全体を行場とし、今でも修験の根本道場になっている。

 

平安中期に大峰山(山上ヶ岳)への入峰が盛んになり、平安末期から鎌倉にかけ、修行のため熊野から吉野へ至る「大峯奥駈」が確立したというから、この道の歴史は古い。

 

隠居は昔から修験道に興味を持っており、今回念願であった彼らの修行の場を「にわか修験者」として歩かせてもらったが、20繕瓩げ戮鯒愽蕕ぁ岩場が多い難路を毎日長時間歩くという、予想通りの難行苦行であった。

 

山岳信仰の神髄は「自然への回帰と魂の再生」と言われるが、飛騨山脈とは一味違う深い自然の中を何日も独りで歩いていると、下界でのいろんな囚われから自由になり、空っぽになり、それは歩く瞑想でもあった。

 

登山人生終盤のこの充実した山行は、冥途へのいい土産になった。

 

1日目:9月23日(日)高山=京都=近鉄吉野六駅〜蔵王堂〜上千本(民宿泊)

 

正式な奥駈道は、美吉野橋を渡ったところにある「柳の宿」という75番靡(なびき)から始まるので、近鉄吉野線六田駅から歩き始めなければならない。なお、靡とは行場や礼拝ポイント。

 

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橋のない頃は、吉野川に柳の渡しがあった。

 

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 柳の渡し跡

 

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 75番靡

 

75番靡に参拝したあとは車道を歩き、吉野神宮を経て、修験道のご本尊蔵王権現がおられる金峰山寺(蔵王堂)に参拝し、道中の無事を祈願。

 

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この日は駅から宿泊地の上千本口の民宿まで約2時間半歩いただけだったが、テントと一週間分の食料を詰め込んだザックが老骨の肩に食い込み、先が思いやられた。

 

2日目:9月24日(月)吉野〜大天井ヶ岳〜山上ヶ岳〜子笹ノ宿(テント泊)

 

この日は吉野から山上ヶ岳までの標高差1200mを登る長丁場だ。

 

はじめ民家などが点在する車道をどんどん登るが、途中で単独の若い男性が追い抜いていった。

 

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 吉野蔵王堂を俯瞰

 

若い人のスピードは老人とは違うので、あせらずに進む。

 

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 吉野水分神社

 

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 役行者に挨拶

 

吉野分水神社を過ぎ、奥千本の「修行門」と書いた大きい鳥居をくぐって急な坂を上ると、金峯神社。

 

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横の休憩所に登山届受付の箱があるので提出。ここから登山道になり、少し歩くと西行庵との分岐に出る。

 

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山上ヶ岳(1719m)へと続く尾根を、アップダウンを繰り返しながら標高を稼いでゆく。

 

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二蔵宿小屋からは大天井ヶ岳の巻き道をとる。水がない山だがこのコースには水場があり、のどを潤す。

 

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やがて女人結界の門がある五番関へ。

 

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ここからブナ林のなかの道をたどると、見覚えがある洞辻茶屋へ。

 

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この茶屋へは以前洞川から登ってきているのではじめてではない。その時は山上の宿坊に泊まって山上ヶ岳から別ルートで洞川へ戻っている。

 

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 以前来たとときの西の覗

 

山上ヶ岳手前で日が暮れてしまい、ヘッドランプを点灯しての歩行となる。

 

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山上の宿坊群は昨日で山を閉じたので真っ暗。

 

暗闇の国宝大峰山寺(おおみねさんじ)の前で般若心経を唱える。

 

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 以前きたときの大峰山寺

 

ここの平地から小笹ノ宿へ下ったが、到着時間は20時に近かった。

 

修行場の宿には3人泊まれるという小さな小屋があったが、今朝追い抜いていった若い人がもう休んでいたので、迷惑をかけないよう小屋の前でテントを張る。

 

構内には離れたところにもう一張テントがあった。歩行14時間。

 

3日目:9月25日(火)小笹ノ宿〜大普賢岳〜行者還岳〜行者還避難小屋

 

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そのテントの主は若い男性で、順峰(じゅんぷ・熊野から)でここまで来たとのこと。途中倒木で大変だったとも。

 

小屋の若い男性は、隠居と同じ逆峰で熊野までと言って、早々と出発していった。

 

近年は修験者でも逆峰コースを歩く人が多いという。

 

今回全行程10間で出会った奥駈者は、この若い2人の登山者と、6日目に会った山伏2人だけだった。

 

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南側の女人結界になっている阿弥陀森分岐あたりから雨になり、雨具をつける。

 

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小大普賢岳を過ぎ大普賢岳の手前で、標識を見誤るという大失態をおかした。

 

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和佐又山へ下る道を大普賢岳の巻き道と勘違いし、絶壁のハシゴ、クサリ場をどんどん下ってしまったのだ。

 

途中で気が付き戻ったが、ここで3時間のロスとなり、登り返しでかなり体力を消耗。

 

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このためこの日は時間的に弥山へ届かないので、やむなく行者還避難小屋泊とした。

 

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 近年世界遺産になって地元の村が建てたが水がない

 

歩行11時間。

 

4日目:9月26日(水)行者還避難小屋〜弥山小屋

 

朝から雨が降っており、この日は弥山小屋までとした。

 

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雨が激しくなり、テントは無理なので営業小屋に泊めてもらう。宿泊者は隠居一人。

 

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雨は午後からさらに激しくなり、夜中も降っていた。

 

5日目:9月27日(木)弥山小屋〜八経ヶ岳〜釈迦ヶ岳〜深仙ノ宿(テント泊)

 

午後は止むとの予報で雨の中を出発。

 

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大峯山脈の最高峰八経ヶ岳を踏む。ここは昔行者還トンネル西口から日帰りしたことがある。

 

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仏性ヶ岳を過ぎたところの断崖が、金剛界と胎蔵界の分かれ目と言われる。

 

釈迦ヶ岳まではやせた岩尾根など、悪場が続く。

 

岩場の登下降は、昔クライマーだったこともある隠居には技術的に何ともなかったが、荷が重いので体力的にかなりこたえた。

 

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 蔵王権現靡

 

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 釈迦ヶ岳 ある人がいくつかに分けて担ぎ上げたそうだ

 

途中迂回して水を汲み、到着した深仙ノ宿には小さい小屋と灌頂堂というお堂があり、一人の僧がお堂のかたづけをしておられた。

 

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奈良の寺のご住職で、時々十津川村から登ってきてボランティアでお堂の守りをしているとのこと。

 

ここ深仙は、先の小笹と同様に修験者にとって重要な修行の場所らしい。

 

僧は小屋でたき火をされたが煙がひどいので、テント泊とする。

 

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この夜は月がきれいだった。

 

今日で歩きだしてから5日経ったが、まだ全行程の半分だ。

 

歩行11時間。

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乗鞍剣ヶ峰〜千町ヶ原〜丸黒山〜日影平(乗鞍の奥座敷を歩く)

2018.09.08 Saturday

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 乗鞍の奥座敷 千町ヶ原

 

台風一過の好天を期待したが、あと秋雨前線が停滞し、予定していた宿泊山行は延期に。

 

登山寿命が残りわずかになった今、ライフワークのようにして「母なる山乗鞍」にこだわり、調べ、書いている。

 

先般は郷土史研究会の紀要に「乗鞍岳の歴史―信仰登拝から近代登山まで」という駄文を投稿した。

 

それにも書いた、戦前にあった剣ヶ峰から山麓集落までの長大な山岳スキー場=「飛騨乗鞍スキー場」の跡を久しぶりにたどって見たくなり、8月末の平日に歩いてきた。

 

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 昭和9年の乗鞍スキー登山

 

剣ヶ峰から飛騨側の南西面へ派生している千町尾根、丸黒尾根、大尾根が往時のコースで、途中に山岳会管理の山小屋が4軒あって全国からのスキーヤーで賑わっていたが、戦後近場のスキー場にリフトが出現すると急速に廃っていった。

 

さらに畳平へのバス道路が開通すると、無雪期にも入る人はだんだん減ってゆき、現在では中間部にある千町ヶ原周辺は、乗鞍の奥座敷、深南西部といってもいい静かなエリアになっている。

 

千町ヶ原へは旧高根村の子の原尾根から入るのがいちばん近いが、近年地主都合で登山口への車道乗り入れができなくなっているし、その他の登山道も手入れがされず、どこも廃道に近い。

 

このため足弱隠居は、軟弱ながら剣ヶ峰から下山することにした。

 

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このコース、下山といえども年寄りの足では丸一日かかりそうなので、できるだけ早朝に畳平を出発せねばと思っていたところ、今の時期朴ノ木平から「ご来光見学バス」が出ていることを知った。

 

このバス、当然のことながら天気がいい日だけ運行されており、前日の昼に天気予報を見て運行が決められる。

 

朴ノ木平を345分に出発したが、隠居の予想に反し満席であった。

 

大黒岳北裾の桔梗ヶ原がご来光のビユーポイントとかで、バスはここでいったん停まり、ほとんどの人が暗闇のなかへ下車していった。

 

ところがこの日は予報が外れ、外は濃いガスと強風だった。

 

特別料金を払ってのご来光見学バスのパンフには、「ご来光が見られなくても払い戻しはいたしません」とあり、面白い。クレームをつけられたことがあったのだろう。

 

畳平から剣ヶ峰へ向かうのは隠居のほか2名。

 

ヘッドランプを点けて出発したものの、吹き倒されるほどの強風のため、肩の小屋で1時間ほど待機。

 

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少し風がおさまったのでガスの中を出発。頂上の神社に参拝してから3年ぶりに千町尾根に入る。

 

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 大日岳の裾はコマクサの群生地

 

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この古い登山道沿いには石仏が鎮座しておられ、手を合わせながら下る。

 

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これは明治期に麓旧朝日村の修験者上牧太郎之助が道を拓き、頂上まで八十八箇所に2体ずつ計176体安置した石仏だ。

 

2体のうち1体はどこも独鈷を手にした弘法大師さまで、まだ厳しい環境で修行を続けておられる。もう1体は、地蔵菩薩、千手観音菩薩、不動明王などいろいろ。

 

太郎之助が登山道を拓きはじめたのが明治28年で、石仏の設置を終えたのが昭和8年。じつに39年を要した大事業であった。

 

その後この登拝路は廃れていたが、近年旧朝日村が道を復元し、埋もれていた石仏の探索も行っている。

 

往時この重い石仏を担ぎ上げた信仰の力というものを考えながら、霧の中を下る。

 

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いったん皿石原へ下って少し登り、尾根を歩くと広い地形の中洞権現に出る。

 

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 中洞権現

 

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 晴れた日の中洞権現

 

ここ中洞権現は、天明元年に麓中洞集落の中林作右衛門が仏像を頂上へ上げようと単身ここまで登ったが力尽き、その仏像を安置したところ。

 

その後麓の人から「中洞権現」の名で呼ばれるようになった。前出の修験者上牧太郎之助も、この仏像を見て青屋からの登山道開設を思い立ったと言われている。

 

その後大正年間に中洞権現の仏像は盗難に遭った。その仏像は行く先々でいろんな災いをもたらすのだが、その話は後日にして先を急ぐことに。

 

ここからの尾根道は近年ハイマツや笹が覆い、歩きにくい。

 

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 修行中の空海さま

 

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湿原が広がる奥千町ヶ原(田ノ原)には県が建てた立派な避難小屋があり、山スキーで利用させてもらっている。

 

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千町ヶ原はここから尾根を下り、小さな湿原から2301mのピークを登ってまた下ったところにある。

 

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 2301mのピーク

 

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秘境千町ヶ原は「精霊田」とも呼ばれ、昔から地元ではここに亡者が集まるといわれてきた。そしてここへ入った人は帰ってこられないとも。

 

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昭和初期ここに山スキー用の山小屋が建てられたとき、大工手伝いの少年が、夜池の畔にたたずむ亡母の姿を見たという話も残っている。

 

なおその山小屋は戦後登山者の失火で焼失し、今はない。

 

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この日は終日隠居一人だったので、こんな話を思い出すと少々淋しかった。実は隠居も昔ここで不思議なめに遭っているのだが、その話は後日に。

 

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湿原の途中に青屋道と丸黒尾根の分岐点があり、青屋へ下る石仏の道と別れ、ここで右折する。

 

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 分岐点

 

ここから丸黒山までは、数年前にスキーで下ったことがあるが、雪が無い時はほんとうに久しぶりだった。

 

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通る人がまれな道はほとんど笹に覆われていたが、深い原生林を独りで笹を漕いで歩くのは結構楽しかった。

 

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 中間点の表示

 

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 前方丸黒山

 

長い尾根を歩き、ようやく丸黒山の手前の鞍部=桜ヶ根に出る。

 

ここには山岳スキー場時代に避難小屋があったというが、今は一面の笹原。

 

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数年前長倉本谷の右俣を遡った時にはここに出た。昔岩井谷にあった平金鉱山への物資補給路も長倉本谷からこの鞍部を通っていたという。

 

丸黒山への急な登りがすむと、あとは日影平の国立青少年の家まで国道のようないい道だ。

 

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 丸黒山山頂

 

青少年の家が宿泊者の登山のため絶えず手入れをしているからだ。

 

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 長倉本谷への下降路 数年前に下ったが、笹に埋もれていた

 

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 枯松平の休憩所 昔ここに山小屋があった

 

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バスの便がない青少年の家から自宅までは、前日デポしておいた愛用のマウンテンバイクで一気に下る予定だったが、ちょうど勤務が終わった顔見知りの職員さんに車同乗を強く勧められ、雨模様でもあったので甘えさせてもらった。

 

なんと彼は、駄吉林道経由で朴ノ木駐車場まで送ってくれ、この日のうちに自家用車を回収することができ、助かった。

 

今までにこの山のあちこちを山スキーで歩き、いくつもの谷を遡ってきたが、そのたびに大きさ深さに驚いている。

 

こうして身近にある偉大な山に関わり続けることができるのは、ささやかな山人生終盤の僥倖といえるだろう。

 

畳平440  剣ヶ峰700  中洞権現816 奥千町1020  千町ヶ原1100  丸黒山1417

日影平1710

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乗鞍岳(障がいを持つ若い人と一緒に)

2018.09.02 Sunday

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1週間前の826日(日)、乗鞍へ行ってきた。

 

隠居が所属している、障がい者の野外活動を支援する会(=NPO法人野あそび倶楽部)の事業で、知的な障がいがある若い方11名を、ボランティア23名がサポートして大黒岳、富士見岳などに登ってきた。

 

今回はボランティア体験ということで、神岡の中学生3名も父兄と一緒に参加してくれた。

 

あと肩の小屋前で昼食をとり、帰途についた。

 

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 神岡の中学生諸君を紹介

 

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 この日は自転車レースが行われていた

 

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 コマクサも枯れかけ

 

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 大黒岳頂上

 

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 肩の小屋のトタンがめくれていた

 

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バスで下山途中、Kくんの様子が急におかしくなったので夫婦松で停車し、同行のO医師が診断した結果持病の発作と判明。ここまで救急車にきてもらって、日赤病院へ搬送した。

 

たいしたことにならなかったのは、O医師と2名の看護師のおかげであった。

 

 今回は顔なじみのKくん、Hくんなども参加しており、久しぶりに参加した隠居のことを覚えてくれていた。

 

隠居が4年前にこの会の運営から引退するとき、色紙に見事な絵と字を書いて贈ってくれたY君も。

 

この色紙は、宝物として大切に居間に飾ってある。

 

 

いつも思うのは、彼らはほんとうに純真無垢だということ。

 

以前、別のY君が足の弱い子を背負い、濡れたベンチでは自分の帽子を背負った子の尻に敷いてあげているのを見て心を打たれたことがあった。

 

彼らには、人間が生まれながらに持っていながら世を経るうちに曇ってしまうといわれる「仏性」(純粋な人間性)が、そのまま残っているといえる。

 

今回もすばらしい笑顔の若い人から逆に元気をもらって帰った。いつもながら、このもらった元気は数日間持続する。

 

この会は、「支援される側、支援する側の垣根を取り払って共に自然を楽しむ」というモットーを掲げて設立されてからはや14年になる。

 

今ではそれが浸透し、双方和気あいあいと自然を楽しむことができるようになった。

 

この隠居が支援される側になる日も近い。

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信越トレイル

2017.10.08 Sunday

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山岳会年寄りグループからのお誘いで、昨年に引き続き「信越トレイル」を歩いてきた。

 

ご存じの方は多いと思うが「信越トレイル」とは、長野、新潟県境関田山脈にある1000m級の低山、里山を歩くハイキングコース。

 

多くのボランティアが、かつてあった古道や国有林管理道を人力で復元し、平成20年に全長80劼開通したという。

 

危険個所もなく、アップダウンも少ないので年寄り向きだ。

 

NPO法人信越トレイルクラブが主になって維持管理しているが、今までのスキー場、ゴルフ場など自然に手を入れる大規模な観光開発とは発想を変えた、自然を壊さない持続的な利用が可能な一種の観光施設といえる。

 

昨年の秋に斑尾山から袴岳、赤池、毛無山を経て涌井まで歩いたので、今回は涌井集落から開田峠まで約21km2日にわけて歩いた。

 

紅葉には少し早かったが、ブナ林に癒され、所々にある信州から越後へ越す古い峠に立って往時を偲んだりして、久しぶりにのんびりと山旅を楽しんだ。

 

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 富倉峠

 

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 上杉謙信が陣を張ったという古い峠

 

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 よく山スキーに行った 妙高山と火打山

 

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 初日は戸狩スキー場へ下山

 

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 上越市と日本海

 

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 昨年登った斑尾山

 

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 鍋倉山 以前スキーで滑った

 

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 千曲川

 

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 鍋倉山山頂

 

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 今回の終点関田峠

 

これからはこういう登山をして静かに老いを養っておればいいのだが、体力の低下を考えず、まだ山スキー、沢登りなど危険が同居していてハラハラ、ドキドキ感が味わえる登山に未練があるので、困った年寄りだ。

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笠ヶ岳で南裔(なんねい)禅師の慰霊

2017.09.15 Friday

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 僧形の宗猷寺副住職と笠ヶ岳

 

文政5年(1822)笠ヶ岳に登った播隆上人は、その後槍ヶ岳を開山したため未だその名を知る人が多いが、越中出身の播隆より40年前に登頂したのは、地元高山にある宗猷寺(臨済宗)南裔禅師である。

 

播隆については現在も槍ヶ岳への慰霊登山、慰霊祭が実施され、「ネットワーク播隆」などの研究組織が活動しているが、南裔については地元でも知る人が少なく、今まで顕彰などが行われたことがなかった。

 

没後210年が過ぎたことから、98日から10日、宗猷寺の副住職をはじめ有志で笠ヶ岳に登り、遺徳をしのんで慰霊を行った。

 

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今までに四季を通じて50回近く笠ヶ岳に登っている隠居は、以前からこのすばらしい山の登山史に関心を持ち、始めは未発見の播隆仏探索などに力を入れていたが、そのうち地元の人南裔に魅かれるようになっていた。

 

そして6年前には地元の郷土史研究会紀要『斐太紀』4号に「南裔禅師と笠ヶ岳」を執筆し、飛騨では播隆より南裔を顕彰すべきだと訴えてきたが、宗猷寺の副住職さんが慰霊を考えておられることを知り、今回有志での慰霊登山が実現した。これもなにかの縁であろう。

 

隠居がリーダーの慰霊登山隊は5名。

 

笠ヶ岳が初めての方もおられ、いきなり笠新道はきついので初日は鏡平山荘に一泊し、翌日弓折岳からのんびりと稜線歩きを楽しみながら笠へ向かった。

 

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 若き日に遊んだ穂高滝谷

 

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午後2時半から頂上の祠の前で、ちょうど四国からツアーで来ておられた中高年の皆さんなど一般登山者20数名にも参列していただき、副住職の読経で慰霊を開始。

 

南裔、北洲、播隆の慰霊と併せ、昨今各地で多発している自然災害などで亡くなられた方々の慰霊もおこなって、無事慰霊祭を終えた。

 

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 2008年に山岳会が奉納した銅版 登山史が記してある

 

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この日は山荘に一泊し、翌日笠新道を下った。

 

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 若き日に遊んだ第一岩稜(中央の岩尾根)

 

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帰路一重ケ根の旅館で温泉に入れてもらったが、そばの禅通寺門前に南裔書の大きい石碑があることを宿のご主人に教えていただき、はじめて知った。これも不思議な縁だ。

 

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この慰霊登山を新聞で紹介してもらったため、飛騨の人に南裔のことを知ってもらうことができ、ほんとうによかった。

 

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禅師も泉下で喜んでおられることであろう。

 

<以下南裔の笠ヶ岳登山など豆知識>

宗猷寺10世の南裔は、天明3年(17836月末、地元の有力者今見右衛門の案内で、同寺の後輩北洲禅師、飛騨郡代役所(高山陣屋)の地役人などを伴って登頂し、頂上に仏像と登頂者の名を印した鉄札を奉納した。

 

従ってこれを笠ヶ岳の開山と見てよい。

 

その40年後に登頂した播隆がその鉄札を持ち帰り、頂上にあった仏像のことを『迦多賀嶽再興記』(これは日本最古の登山記録とされる)に詳しく書いている。この著書の題名でもわかるとおり、播隆は南裔が開山した笠ヶ岳を再興したわけである。

 

天明年間は全国的に天災地変の多い年で、天明2年(1782)には長雨などの影響で全国的な飢饉が発生して飛騨でも餓死者が出、これは天明7年(1787)まで続く。そして天明36月には浅間山が大噴火して2万人の死者が出た。

 

南裔の登山の目的はこれらの災いの鎮護祈願、犠牲者の慰霊だったのでは、というのが『斐太紀』に書いた隠居の仮説。

 

江戸で篆書と篆刻を学んだ南裔の書は、宗猷寺はじめ旧丹生川村の生家などに残っているが、まだ見つかっていないものがあると思われるので今後調べたい。

 

禅は、かの白隠禅師にも師事した。

 

どちらかというと、播隆さんは孔子タイプで謹厳実直な感じの人、南裔さんは荘子タイプの融通無碍の人で、酒を飲むのなら南裔さんのほうがいい、などと不埒なことをアホな隠居は考えた。

 

なおこれを機に「南裔顕彰会」を発足させたので、毎年の慰霊登山、禅師の業績研究などの事業にご賛同いただける方は隠居までご連絡ください。 k.kinoshita@hop.ocn.ne.jp

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