Calendar

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< August 2019 >>

Recommend

MOBILE

qrcode

Link

Profile

Others

Search this site.

Blog

飛騨山脈を越えた古代の瓦職人

2018.12.26 Wednesday

s-IMG_4425.jpg

 12月25日の乗鞍岳

 

今回はマニアックな話で恐縮です。

 

飛鳥時代後半(白鳳期)に天武、持統両朝の政策で全国的に寺院が造られ、飛騨でもその時期にいくつもの寺院が建立された。7世紀末から8世紀はじめの話。

 

飛騨の寺院はなんと17ヶ寺もあり他国と比べて圧倒的に多かったが、その後皆廃寺になっている。

 

s-寿1.jpg

 寿楽寺廃寺の古代瓦

 

大宝元年(701)に制定された大宝令に斐陀国条が定められていて、飛騨は庸調が免ぜられる代わりに里ごとに匠丁10名を出さねばならず、藤原宮などの造営にあたった。

 

飛騨から毎年100人程が、14日かけて 都へ上ったという。

 

後に「飛騨の匠」と称せられた人々が、帰ってきて身に付けた技術で飛騨の寺の建立に携わったのであろう。

 

そのうち飛騨市古川町太江にあった寿楽寺は飛騨地域で最古の寺院で、『日本書紀』にある「飛騨伽藍」

とされていて、以前から岐阜県の文化財保護センターが発掘調査をしている。

 

現在の禅寺寿楽寺の裏で県道新設時に発見され、研究者の間では全国的に有名らしい。

 

s-寿12.jpg

 現在の寿楽寺 遺跡はこの裏

 

s-寿13.jpg

 

このほど一般向けに調査結果の中間報告会があったので、参加した。

 

s-寿2.jpg

 

s-寿3.jpg

 左下のものは法隆寺系統とか パルメット文様が同じ

 左上のものは信州安曇野明科廃寺と同じもの

 

s-寿4.jpg

 

s-寿5.jpg

 

s-寿6.jpg

 

発掘した寺院の配置や出土した土器や瓦の説明があったが、隠居の興味をひいたのはこの廃寺の軒丸瓦。

 

これがなんと、信州安曇野の明科廃寺のものと同じ木型で作られていることが判ったそうだ。

 

s-寿7.jpg

 左飛騨寿楽寺 右安曇野明科寺

 

木型の傷がまったく同じであることから、瓦職人(当時はハイテク技術者で、渡来人の場合は瓦博士と言った)が型を持って飛騨山脈を越えて来たか、あるいは越えていったはずだとの説明であった。

 

s-寿7−1.jpg

 信州と飛騨のものの傷が同じ

 

峠に興味を持っている隠居としては、瓦職人がそんな時期にどこの峠を越えたのか気になるところだ。

 

安曇野から近いのは中尾峠か古安房峠だが、雪が少なくて通りやすいのは野麦峠か長峰峠ということになる。

 

中尾峠は、大和朝廷が東国平定のため命名したという神坂峠の別名があるし、古安房峠と長峰峠は東山道だったという伝承もある。

 

1300年も前に、どこの峠をどんないでたちで、どんな使命感を持って越えたかなどをあれこれ考えると夜も眠れなくなる。

 

なおこの近くには7世紀末に創建された杉崎廃寺跡があり、遺構がよく保存されている。

 

s-寿8.jpg

 飛騨市古川町 杉崎廃寺跡

 

s-寿9.jpg

 

s-寿11.jpg

 杉崎廃寺想像図

 

こちらは瓦でなく、檜皮葺きだった。

 

『日本書紀』に、朱鳥元年(686)大津皇子の謀反に関わった新羅の僧行心(こうじん)が飛騨の伽藍の流されたという記述があり、これは前述の寿楽寺だともいわれている。

 

山もいいが、古代史もなかなか面白い。

 

あれこれ想像することが、隠居のボケの進行を少しは遅くしてくれそうだ。

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

大箕山・管山寺―道真が幼少期に学んだ山寺

2018.10.30 Tuesday

s-管山寺山門k.jpg

 

10月中旬に近江の小さな山を歩いてきた。

 

平安時代、政敵の藤原時平に讒訴されて太宰府へ左遷された菅原道真のことは誰もが知っている。

 

s-菅0.jpg

 大宰府跡

 

道真の死後天変地異が多発したため、天満天神として祀って怨霊を鎮め、その後学問の神様になっていることも。

 

その道真が幼少の頃学んだ寺が北近江の山中に残っているというので、岐阜の歴史研究家K氏と行ってきた。

 

s-管山寺地図.jpg

 

s-管山寺.jpg

 

生誕地は奈良や京都など諸説あるが、近江余呉湖のそばもその一つで、近くにあるこの菅山寺で6歳から11歳まで勉学に励んだと伝わっている。

 

長浜市余呉町の坂口という小さな集落に駐車して参道に入る。

 

s-管1k.jpg

 

s-管2.jpg

 

あまり人が登っていないと思われる山道には、随所に弘法大師の石仏があった。

 

s-管3.jpg

 

s-管4.jpg

 

s-管5.jpg

 

s-管6.jpg

 

s-管7.jpg

 

s-管8.jpg

 

s-管9.jpg

 

1時間半くらい登って少し下ると林の中に忽然と建物が姿を現したが、広い境内は訪う人もなくしずまっていた。

 

s-管10.jpg

 

s-管11.jpg

 山門

 

s-管12.jpg

 

s-管13.jpg

 護摩堂

 

764年創建といわれるこの寺は、藤原時代から鎌倉時代にかけて最も栄え、僧房が105、末寺が70余もあって、極めて大きい寺だったというが、今は無住になって朽ちかけていた。

 

s-管14.jpg

 庫裡

 

s-管15.jpg

 

s-管16.jpg

 道真が植えたといわれる大ケヤキ

 

s-管17.jpg

 

s-管18.jpg

 本堂

 

s-管19.jpg

 

s-管19−1.jpg

 鐘楼

 

s-管19−2k.jpg

 経堂

 

s-管20.jpg

 

s-管21.jpg

 

寺にあった宋版一切経七千余巻は、徳川家康の命で芝の増上寺へ移され、国の重要文化財になっている。

 

s-管22.jpg

 

s-管23.jpg

 

そして仏像などは坂口集落の里坊「弘善館」に移されているが、残念ながら当日は休館で見ることができなかった。

 

s-管24.jpg

 弘善館

 

こうした大きい山岳寺院はかつて伊吹山や霊仙山の山中にもあって、多くの僧が修行に明け暮れていた。

 

真に求道の者もおれば、口減らしで入れられた者もいたであろう。

 

重なるのはチベットの山寺にいた多くの若き僧達だ。

 

他人との戦いに明け暮れた侍の城より山岳寺院のほうに惹かれるのは、多くの若者が信仰を拠り所として自分との戦いに日々を過ごしていたから。

 

入相の音のみならず山寺は ふみ読む声もあはれなりけり 西行

 

 

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

飛騨の古墳展

2017.11.20 Monday

s-古1.jpg

 11月17日 上野平から乗鞍岳

 

s-古2.jpg

 穂高岳

 

s-古3.jpg

 笠ヶ岳

 

一時化粧がはげかけていた飛騨山脈もようやく真っ白になり、山スキーシーズンも間近になった。

 

さて、自然と共生し1万年以上も戦(いくさ)のない平和な生活を送っていた縄文人への関心は尽きない。

 

現代の山や自然か好きな人は、縄文人の血を多く残しているのではないかなどと思っている。

 

その後大陸から稲作と鉄の武器を携えて渡ってきた弥生人が、縄文人を山や北方へ追いやり、あるいは同化していったことは周知の事だ。

 

今回はその弥生・古墳時代の話。

 

弥生・古墳時代、飛騨にも多くの墓、古墳が造られたが、その中心は高山市国府町、飛騨市古川町、その次が旧高山市であり、旧宮村以南には無い。

 

これは日本海側からの文化伝播のルートがあったからだと言われている。

 

それがよくわかるのは、旧国府町にあった亀塚古墳から出土した鉄の甲冑。

 

s-古4.jpg

 

s-古5.jpg

  

この甲冑は、大正時代に国府小学校敷地造成のため古墳を取り壊してしまった時に鉄剣などとともに出土したもので、東海地方でも出土例がない三角板皮綴製。朝鮮半島で作られたものだという。

 

s-古4−1.jpg

 取り壊し中の亀塚古墳

 

なおこの亀塚古墳は2段式の円墳で、幅6190、高さ7m88、西暦420年頃造られたといわれている。

 

このほど岐阜県文化財保護センターが、国府町で「飛騨の古墳展」を開催したので見に行った。

 

今までに発掘した弥生時代(方形周溝墓)から古墳時代にかけての墓・古墳の出土品が展示してあった。

 

s-古6.jpg

 

s-古8.jpg

 

s-古10.jpg

 

s-古11.jpg

 

s-古12.jpg

 

s-古13.jpg

 

s-古14.jpg

 

s-古15.jpg

 鉄剣

 

s-古17.jpg

 

s-古18.jpg

 

s-古19.jpg

 

s-古20.jpg

 

s-古21.jpg

  

この展示とは別の話だが、隠居の関心は国府町三日町にある未発掘の「三日町大塚古墳」。

 

この古墳は今まで円墳とみられていたが、最近の再調査で前方部が確認され、飛騨で一番大きい長さ86.4mの前方後円墳であることがわかった。

 

s-古22.jpg

 

周囲には水を流した円溝、そしてその外側には弥生時代の周溝墓も確認されている。

 

s-古23.jpg

 

s-古24.jpg

 

造られた年代について、旧国府町史では5世紀の中頃とされていたが、近年専門家が他地域の多くの古墳と形状を比較した結果、3世紀までさかのぼれる飛騨では一番古い古墳で、纒向型の可能性があることがわかったそうだ。ただこれはあくまでの仮説で、発掘しないとわからない。

 

もし3世紀ということになると飛騨の古代史が大きく変わるのでまことに興味深いが、この「古墳展」にいた係りの県職員に聞くと、その場所が公共事業などにかからない限り発掘は難しいとのこと。

 

なんといっても人の墓だ、むやみに掘ってはならないだろう。

 

昨日今日と冬型の気圧配置になり、山は大雪のようだ。

 

何時でも出かけられるように山スキーと冬山装備の準備は万端整えたが、問題は年々低下の一途をたどっている体力と気力。

 

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

最初のアメリカ人は縄文人

2016.12.13 Tuesday

s-縄2.jpg

 

今のアメリカはヨーロッパから来た白人が威張っているが、最初のアメリカ人は縄文人だったという学説があることをテレビで知って驚愕。

 

BS6で、9日、10日と2夜連続放映していた「地球創世記―生物大絶滅と縄文人の謎」という番組。

 

今までアメリカの原住民は、約13000年前にシベリアからきたと言われてきたが、その少し前(約14500年前)に日本から縄文人が海岸沿いにアメリカ大陸へ到達していたというのだから、縄文フアンとしてはうれしい学説だ。

 

s-縄1.jpg

 

オレゴン大学の考古学者などが研究しているそうだ。

 

これは洞窟遺跡から出た人骨鑑定がきっかけで、それがアイヌと共通点が多いことがわかったのだ。

 

s-縄9.jpg

 

その他の証拠は、.錺織螢ラスをアイヌ、イヌイット、エスキモー、アメリカインディアンが共に崇めていること。▲レゴン州の洞窟から出た糞石(14500年前)のDNAを解析したところアイヌと同じであった。そこから日本のワラジと同じものが出た。だ倆掘覆笋犬蝓砲覆匹寮亟錣寮作方法が縄文とよく似ている、など。

 

s-縄3.jpg

 

s-縄4.jpg

 

s-縄5.jpg

 

s-縄10.jpg

 糞石(ウンチ)

 

s-縄6.jpg

 

s-縄7.jpg

 

s-縄8.jpg

 日本のもの

 

s-縄17.jpg

 

s-縄18.jpg

 

縄文人は丸木船で来たということで、実際にカヌーで実験してみて成功したアメリカ人がいる。

 

s-縄12.jpg

 

s-縄14.jpg

 

s-縄13.jpg

 

南米エクアドルのバルディビアから出土した土器が、縄文土器と酷似してことは以前から言われていた。

 

s-縄16.jpg

 

s-縄15.jpg

 

なお縄文学の権威である國學院大學の小林達雄名誉教授はこの渡来説に否定的だし、南米の土器も偶然だといっておられる。

 

s-縄19.jpg

 

その理由は、当時は気候が温暖で食料も豊富、満たされた生活をしていた縄文人は、危険を冒してまで他国へ行く必要がなかったというもの。

 

これについて素人の隠居は異をとなえる。

 

それはどんな時代でも未知へのあこがれを持ち、冒険が好きな少数の人間がいるからだ。

 

そしてわれわれ山屋もその種族である。

 

縄文人がインディアンになったわけだが、そういえば万物自然を恐れ崇めるのは共通している。

 

ほんとうに縄文は面白い。

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

北飛騨の史跡めぐり

2016.12.07 Wednesday

s-宮5.jpg

 

古代史を学んでいる仲間と北飛騨にある史跡などを巡ってきた。

 

まずは旧宮川村塩屋にある「飛騨みやがわ考古民俗館」。ここは事前に飛騨市に予約しないと入館できず、冬季は閉館になる。

 

s-宮1.jpg

 

s-宮2.jpg

 

隠居がこの施設を好む訳は、宮川沿いの縄文遺跡からの出土品が多く展示してあること。

 

特に祭祀に使われたといわれる御物石器、石冠、独鈷石、石棒などがそろっている。

 

この資料館周辺からは、男根をかたどったと見られる石棒の出土が多く、縄文時代のことを知らなかった後世の人は、石棒をご神体にしてここに金精神社を建てた。

 

男根を崇めるものとしては、昔インドへ行った時に見たリンガム。これはヒンドゥー教のシバ神の象徴として崇拝されている。日本には男根を神輿にする愛知県田県神社の奇祭が有名だ。

 

s-宮3.jpg

 

s-宮4.jpg

 

s-宮5−1.jpg

 

s-宮5−2.jpg

 

s-宮5−3.jpg

 

s-宮6.jpg

 

s-宮7.jpg

 

s-宮8.jpg

 

s-宮9.jpg

 

s-宮10.jpg

 石棒

 

s-宮11.jpg

 

一万年以上も自然と共存し、戦(いくさ)もせずに暮らしていた縄文時代への興味は尽きない。

 

次に行ったのは飛騨市古川町杉崎にある古代寺院跡。

 

白鳳時代、飛騨に17もあったという寺院のうちで唯一主要堂塔(金堂、講堂、塔、鐘楼、中門)を備えていたことが確認されており、その遺構(礎石)を見ることができる。

 

s-杉3.jpg

 

s-杉1.jpg

 

日本へ仏教が伝来したのは6世紀中頃で、朝鮮からの技法で中央に寺院が建てられたのが6世紀後半。

 

それから数十年も経たないうちに、古川盆地、高山盆地に限って寺院が多く建てられたことがまことに不思議だ。杉崎廃寺は瓦の出土がなく、檜皮葺きであったらしい。

 

今年の5月にこの地方寺院について出土した瓦からいろいろ研究している専門家の講義を聞いたが、文様から他地方との交流があることがわかったとのことだった。

 

s-杉2.jpg

 この玉石敷は全国的にはじめての発見とのこと

  飛鳥の宮殿遺構を彷彿とさせる

 

s-杉2−1.jpg

 

s-杉4.jpg

 

このあとは国府町三日町にある三日町大塚古墳へ。

 

稲作がもたらされたころ飛騨で一番の穀倉地帯であった荒城川沿いには、いくつもの古墳がある。

 

この大塚古墳は、これは今まで5世紀中葉の円墳といわれてきたが、最近の研究で前方後円墳であり、しかも3世紀代にさかのぼった纏向型である可能性があると言われている。

 

発掘がまだなのでその時点ではっきりするそうだが・・。

 

s-大塚古墳.jpg

 

s-PC060007.jpg

 

帰路高山市役所国府支所に寄って、展示してある鉄の甲冑を見る。

 

これは国府町広瀬にあった径70mの円墳(5世紀前葉)から出土したもので、東海地方では唯一の貴重なもの。

 

朝鮮半島からのものらしい。

 

s-鉄鎧.jpg

 

残念ながらこの亀塚古墳は明治28年小学校の校庭を作るとき全部壊されてしまったが、鎧、兜の他、鉄剣などが出土し、飛騨最大の豪族の墓だったといわれている。

 

s-鉄鎧2.jpg

 住民総出で取り壊している

 

知的好奇心の肉体的表現(=登山)がだんだんできなくなってきたが、まだ好奇心のほうだけは旺盛なので、認知障害老人の歴史学習は続く。

 

佐藤一斎の「老いて学べば即ち死して朽ちず」に励まされて。

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

三内丸山遺跡

2016.10.13 Thursday

s-100_5521.jpg

 

我々が山に登り森を歩くとリラックスでき、あとすっきりした気持ちが持続するのは、日本人の深層意識のなかに縄文的な世界、一種の文化的遺伝子が残っているからと言われる。

 

素人ながら、山好きな日本人の古層を探るのがこの「古代史の森」というカテゴリー。

 

1万年以上戦もせずに自然の中で平穏に暮らしていた縄文人への関心は尽きない。

 

最近の研究では、全国の縄文遺跡で出土した人骨を調べて暴力による死亡率を分析した結果、欧米などのデータと比べ5分の1以下の「1%台」だったそうだ。

 

行かれた方も多いと思うが、今年のみちのく山スキーツアーの途中、青森の三内丸山遺跡へ寄った。

 

ここは今から約5500年前〜4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていた。

 

平成4年からの発掘調査で、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかった。

 

s-三1.jpg

 

s-三2.jpg

 

s-三3.jpg

 

s-三4.jpg

 

s-三5.jpg

 

s-三6.jpg

 大人は副葬品とともに海へ続く道の両側に埋められ 

 子供はカメに入れて家の玄関下に埋葬された

 

s-三7.jpg

 

s-三8.jpg

 

s-三9.jpg

 

また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土。

 

s-三11.jpg

 

s-三12.jpg

 

s-三13.jpg

 

s-三14.jpg

 

s-三15.jpg

 

s-三16.jpg

 

s-三17.jpg

 

s-三18.jpg

 

s-三18−1.jpg

 

s-三19.jpg

 

s-三20.jpg

 

s-三21.jpg

 

s-三22.jpg

 

ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えたという。

 

平成1211月には国特別史跡に指定された。

  

学者は、縄文期の日本列島は、狩猟採集できる食糧がまんべんなく分布し、人口密度も低いことから集団間の摩擦が少なく平和だったと分析している。

 

特にこのころの青森は食べ物が多く住みやすかったといわれる。

 

その後気候変動もあり、適さない稲作で飢饉にあえぎ続け、けかち(飢饉の方言)の国といわれるようになったが、司馬遼太郎は、豊かだった昔を想い、「まほろばの国」と名付けた。

 

s-三10.jpg

 犬も大事にされ、人間と一緒に葬られていて

 愛犬家としてはうれしい

 その後大陸から犬を食べる文化がきた

 

今年91日の中日新聞に、縄文人の歯のDNAから遺伝情報(核ゲノム)の解読に成功したことが載っていた。

 

それによると、現代日本人の12パーセントは縄文人から伝わっており、アジア人より古い段階で他の集団から分岐していることがわかったという。

 

これはアメリカ先住民がアジアから別れた15000年前より古く、20000年以上前にさかのぼるらしい。

 

縄文人起源の地や、それ以前に住んでいた旧石器時代人との関係はまだわからないという。

 

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

沖の島の国宝

2016.05.30 Monday
yjimageHDGCRBR5.jpg


我々が山に登り森を歩くとリラックスでき、あとすっきりした気持ちが持続するのはなぜか?

 

これについて山折哲雄氏は、「日本人の深層意識のなかに縄文的な世界、一種の文化的遺伝子が残っているからだ」「心の原型が縄文、美の原型が弥生」と言っておられる。

 

素人ながら、山好きな日本人の古層を探るのがこの「古代史の森」というカテゴリー。

 

以下突然山でなく海の話になるが、隠居は以前から玄界灘の孤島=沖の島(おきのしま)に関心を持っていた。

 

この島は福岡県宗像市に属し、九州本土から約60キロメートル離れたところにある周囲4キロメートルの島で、宗像大社の沖津宮(おきつぐう)が鎮座する。

yjimage[3].jpg

 

古代小さな船で漁労をしていた安曇や宗像といった海洋族、そして朝鮮半島を往来する人々にとって、この絶海の孤島(=巨大な岩礁)はよほど神秘的なものに見えたらしく、この島を神として崇めた。

 

この島の磐座で4世紀から10世紀の約600年にわたり大和王権による国家的な祭祀が執り行われ、出土した約8万点の遺物は現在国宝に指定されていることから、「海の正倉院」と称されているのだ。

 

そのほか縄文や弥生時代のものもあるという。

 

普段は神官だけしか上陸できず、一般人は年に一度(527日)抽選で選ばれた200人程の男性のみ上陸できるが、現地に着いたあとは御前浜でまず全裸で海に入って禊(垢離)をしなくてはならない。

 

島全体が天然記念物であるため、「一草一木一石」たりとも持ち帰ることは許されず、島での滞在は2時間のみという。

 

いちど応募して島へ渡ってみたいと思うがとりあえず本年4月のある日、この島からの出土品の一部が展示してある宗像市の宗像大社神宝館を訪ねてみた。

 

国宝である大和朝廷の奉納品は、銅鏡、金製指輪、馬具、ガラス製品などすばらしいものばかりだったが、ほかに中世の海洋族=宗像(胸肩)一族の遺品や、神社伝来の古文書なども展示してあった。

 

もちろん館内は写真撮影禁止なので、パンフの内容をご覧あれ。

s-沖1.jpg
宗像大社

s-沖2.jpg
紳宝館

s-沖3.jpg

s-沖3−1.jpg

s-沖4.jpg

s-沖5.jpg

s-沖6.jpg

s-沖10.jpg

近代この沖の島を有名にしたのは、明治38527日にこの島のそばでバルチック艦隊との大海戦が行われたこと、そしてその海戦の一部始終を木に登って見ていた唯一の民間人=神官の従者である佐藤市五郎という少年がいたことだ。(神官は潔斎のあと、社殿で必勝祈願の祝詞をあげていた。)

 

この話は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』に出てくるので、ご存知の方も多いと思う。

 

なお、前述の海洋族安曇氏はその後中部地方に進出し、渥美半島などのほか、なぜか山に囲まれた松本盆地にも住むようになった。

 

安曇野の穂高神社に祭ってある穂高見命は海神族 (かいしんぞく)の祖神(おやがみ)でわだつみの神だ。

 

その奥宮が上高地の明神、 そして嶺宮は奥穂高岳の頂上に祀られているのだから驚く。

s-北尾根49.jpg

 

飛騨山脈の盟主の上になぜ海の神が鎮座しておられるのだろうか・・・・?

 

松本盆地へ来た海洋族安曇氏は穂高の偉大な岩塊を見て驚き、先祖が崇めた沖の島の巨大な岩礁を思い出したのではないだろうか、というのは隠居の勝手な説。

s-奥穂高.jpg

 

山の中ばかりに住んでいると、たまには海の広がりがいい。

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

諏訪大社の御柱祭

2016.04.11 Monday
s-御柱祭.jpg


週末に浅草岳山スキーのお誘いがあったが、残念ながら野暮用で行けなかった。

 

さて、このカテゴリー「古代史の森」は、なぜ日本人には山や自然が好きな人が多いのか、その基層を探るのが目的。

 

1万年以上もの間自然と共存し、戦(いくさ)もせずに平和に暮らしていたという縄文時代への興味は尽きない。

 

最近縄文人の多くの骨を科学的に分析した結果、そのことが再立証されたという。

 

弥生時代になって大陸から稲作と武器がやってきて、争いがはじまったのだ。

 

今年は縄文時代から続いている信州諏訪大社の御柱祭りなので、見に行ってきた。

 

なにせ7年に一度なので、見損なうと次回はおそらく見ることができないだろうということで。

 

ご存じ諏訪大社は、上社の前宮、本宮、下社の春宮、秋宮の四社一括で諏訪大社というが、四社のうち三社は本殿がなく、拝殿のみある。

 

これは拝殿のむこうにある山や森、岩を拝む、神社神道以前の古い信仰形態を残しており、縄文を継承しているというのだから縄文ファンとしてはうれしくなる。

 

一般にはここの祭神は、タケミカズチ(建御雷神)に敗れて諏訪に逃げた出雲のタケミナカタ(建御名方・オオクニヌシの息子)であることは知られているが、諏訪信仰は、弥生以降に成立した神道と、縄文時代から連綿と続く土俗信仰とが共存している。

 

つまり、縄文の精霊神=ミシャグジ神と、弥生の軍神=モレヤ神の二重構造。

 

昨年読んだ戸矢学著『諏訪の神』−封印された縄文の血祭り(河出書房新社・201412)によると、御柱はご神木でなく古代神への「生贄の人柱」だったというのだ。

 

他の神社のご神木は注連縄を張り、引きずったりせずに大切に運搬されるが、ここは突き落とし、引きずり、川に放り込み、傷だらけになるので、御贄柱であり、昔は人柱だったというので驚く。

 

柳田国男は「ずっと昔は、祭りの度ごとに一人ずつ神主を殺す風習があつた」と書いているそうで、奈良時代になって人間の生贄が木の柱で代用されたという。そういえば今でも木落としや建柱祭では死人が出る。

 

ご存知のとおりこの祭りは、山から巨木(樅)を切り出し、それを人力で里へと曳いてきて神社の四隅に建てる。

 

途中いろんな神事があるが、圧巻は途中の急坂を落とす「木落とし」。

 

今回は下社秋宮の木落とし坂までの曳行の一部と、「木落とし」を見てきた。

 

多数の観客の眼前で行われた最大傾斜35度、100mの斜面を滑り落ちる「木落とし」は、一瞬ながら男たちの熱気に満ち、迫力満点だった。

s-柱1.jpg

s-柱2.jpg

s-柱3.jpg

s-柱4.jpg

s-柱5.jpg

s-柱6.jpg
 末端

s-柱8.jpg

s-柱9.jpg

s-柱10.jpg
 木落とし坂の最上部から観覧席をのぞく

s-柱11.jpg

s-柱12.jpg

s-柱13.jpg

s-柱14.jpg

s-柱15.jpg
 いよいよ落下開始

s-柱16.jpg

s-柱17.jpg

s-柱18.jpg

s-柱19.jpg

s-柱20.jpg

s-柱21.jpg

s-柱22.jpg
 怪我人も出ずに済んだようだ

s-柱23.jpg

s-柱24.jpg

s-柱24−1.jpg

  

戸矢学著『諏訪の神』でさらに驚いたのは、もともと諏訪四社は、糸魚川静岡構造線とフオッサマグナの真ん中にあり、大昔大地震で大災害をもたらして出来た諏訪湖を封じ込めているという話だった。

 

そしてそれぞれの神域が四本の柱で封じられているというのだ。

 

帰路諏訪湖を見てその話を思い出した。

s-柱25.jpg

s-柱26.jpg

 

初めて見た御柱祭だったが、なにやらなつかしかった。

 

その理由を今考えている。

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

継鹿尾山(つがおさん)と木曽街道

2015.12.17 Thursday
s-つが16.jpg
 木曾街道の石仏

岐阜へ用事に行ったついでに、知人の歴史研究家氏の案内で近くの史跡を巡ってきた。

 

まずは各務ヶ原市役所のロビーにある村国男依(むらくにのおより)像を見る。

s-つが1.jpg
 

7世紀後半に各務野の里を治めていた豪族で、壬申の乱では大海人皇子(のちの天武天皇)を助け、勝利へ導いた。

 

各務野の黎明期に出た郷土の大英雄として、この立像が市役所へ出入りする人を見守っているが、知っている人は少ないようだ。

 

あとは中山道鵜沼宿にある二の宮神社の古墳。

67世紀の円墳で、石室は市内最大という。このうえに神社がつくられている。

s-つが2.jpg

s-つが3.jpg

s-つが4.jpg
 鵜沼宿が眼下に
 

この日の主目的は、木曽街道(別名上街道、本街道、小牧街道)を歩くこと。

 

木曽街道とは、尾張藩が藩所有の木曽の山林へ行くため、名古屋城から直接北上して中山道へ合流するための藩営街道のこと。

 

東海道など主要5街道と同じ規格で造られ、宿場もあった。

 

小牧宿、善師野宿、土田宿を経て中山道に合流する。

 

今回はこのうち善師野宿周辺を歩いてきた。

 

コースはまず犬山の名刹寂光院に参拝してから、本堂そばの東海自然歩道を登り継鹿尾山(つがおさん)へ。

s-つが6−1.jpg

s-つが5.jpg

s-つが6.jpg
 御嶽神社と駒神社の石碑があった 木曽駒ヶ岳?
 

二等三角点がある273mの頂上からは、木曽川と美濃、尾張平野が一望できた。遠くには鈴鹿、養老山脈と伊吹山も。

s-つが7.jpg

s-つが8.jpg

s-つが9.jpg
 木曽川と正面は伊木山
 

あと東海自然歩道を下り、名鉄の善師野駅へ。

s-つが11.jpg
 

美濃街道が通っていた善師野宿は駅のそばにあった。

里山に囲まれた静かな集落のなかに一本の道がついており、常夜灯、一里塚跡もあった。


s-つが12.jpg

s-つが13.jpg

s-つが14.jpg

s-つが15.jpg

s-つが16−1.jpg

s-つが17.jpg

s-つが18.jpg

s-つが19.jpg

s-つが20.jpg
 

ここを歩いて山道を登り、小さな石拾(いしひろい)峠を経て下ると土田までの道が残っていた。

s-つが21.jpg

s-つが22.jpg
 石拾峠

s-つが23.jpg

s-つが24.jpg
 

我々は駐車場所へ戻らねばならず、途中で木曽街道と分かれ、別の道を下って寂光院の下へ。

s-つが25.jpg
 途中に鳩吹山の登山口があった
 

この時期、歴史がある里山歩きもなかなか楽しいものだ。

s-つが26.jpg

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

謎の豪族息長(おきなが)氏

2015.12.10 Thursday
  s-岡2.jpg


先日里に少し積もった雪は、その後の暖かさですっかり消えてしまった。

 

昨年は1217日から大雪となり、湿雪で多くの倒木が出て交通障害や停電があった。

「今年はなんとかこのままゆけばありがたいなー」というのが今の飛騨人どうしのあいさつだ。

 

7日には岡本展望公園から飛騨山脈が一望できた。

s-岡3.jpg

s-岡6.jpg

s-岡4.jpg

s-岡5.jpg

s-岡1.jpg
 

さて、山(自然)が好きな日本人のDNAが知りたくて、晩学ながら学びはじめた古代史だが、これがまことに面白い。

 

毎月飛騨市古川町で開催される学習会に参加し、あと岐阜在住のアマチュア歴史研究家氏の案内で現地を巡っている。

 

今回は、6〜7世紀の天皇の身内的存在で、隠然たる力を持っていたとされる古代豪族息長(おきなが)氏の話。

 

息長氏は、応神天皇以降の天皇から分かれ出たといわれる皇別氏族のひとつで継体天皇の親族ともされ、近江を本拠とする古代豪族だが、史料が極めて少なく謎の豪族といわれている。

 

応神天皇の母で、仲哀天皇の皇后=神功皇后は息長帯比売だ。

 

『古事記』によると、息長帯比売の母方は新羅から渡来した天之日矛(あめのひぼこ)の末裔らしい。

 

このあと一族は継体天皇を支援し、その後は息長出身の広姫が敏達天皇の皇后となり、舒明、天智、天武へと系譜をつなげた。

 

このほど近江に遺っている息長氏の古墳などを巡ってきた。

s-息1.jpg

s-息2.jpg
霊仙山登山口の丹生集落にある息長の古墳

s-息3.jpg

s-息4.jpg

s-息5.jpg
米原市山津照神社の古墳 神功皇后の父君の古墳との説もある 
金銅製の冠も出土し、朝鮮半島との関わりがわかった


s-息6.jpg

s-息7.jpg

s-息8.jpg
 地名にも残っていてびっくり

s-息10.jpg

s-息9.jpg
 平安時代中期の日本三跡の一人
  小野道風の書


s-息11.jpg

s-息11−1.jpg

s-息12.jpg
息長氏の古墳群

s-息13.jpg

s-息14.jpg
 伊吹山の麓に息長陵がある

s-息15.jpg

s-息16.jpg
 敏達天皇皇后の息長陵
 滋賀県内の宮内庁管理の墳墓は、ここ一か所だそうだ


s-息17.jpg

  

司馬遼太郎は「日本の古代生産社会、もしくは政治社会は、朝鮮半島からの人間の間断なき渡来、時には大量に、時には組織的に渡来してくる人間たちによって多分に形づくられて行ったのではないか。」といっている。

 

このことは上田正昭著の『渡来の古代史−国のかたちをつくったのは誰か』(角川選書)にも詳しく書いてあって、興味は尽きない。

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

(C) 2019 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.