Calendar

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
<< February 2020 >>

Recommend

MOBILE

qrcode

Link

Profile

Others

Search this site.

Blog

笠ヶ岳・穴毛小屋のこと

2019.09.10 Tuesday

s-06.8.3 笠ヶ岳遠望1_1.jpg

 抜戸稜線からの笠ヶ岳

 

s-ana1.jpg

 西穂高岳からの穴毛谷 左が2ノ沢 頂上下が4ノ沢

 

9月に入っても天候不順が続いて山へ行けなかったので、登山史のこぼれ話を。

 

もともと9月は、花が少なく紅葉には早いので山行には中途半端な月だが、若い頃は花や紅葉より岩のほうがよくて、この時期に結構岩登り山行をしている。

 

その時期笠ヶ岳東面の岩場へ通っていて泊まったのが、今はなき穴毛小屋だ。

 

s-ana2.jpg

 

今ではこの小屋のことを知る人は少なくなった。

 

昭和30年から40年代にかけ、先鋭的なアルピニズムを実践する若者が「未知と困難」を求めて、谷川岳や穂高岳など各地の岩場に新しいルートを拓くことに熱中した時期があった。

 

パイオニアワークという言葉に支えられた行為は、今思えば一種の熱病みたいなものだったと言えないこともないが、その後彼らの一部は小さな安定に背をむけ、ヒマラヤの未踏峰、未踏ルートへと向かっていった。

 

ちょうど高度成長期と重なり、日本人がエネルギッシュに世界中を駆け回っていたころだ。

 

笠ヶ岳東面穴毛谷の2ノ沢、4ノ沢の奥に聳える岩壁群もその対象になり、大学山岳部や都会の山岳会、そして地元飛騨山岳会も初登攀を競って入山していた。

 

s-ana3.jpg

 穴毛谷 本谷

 

s-ana4.jpg

 2ノ沢 →小屋の位置

 

s-笠ヶ岳四の沢左.jpg

 4ノ沢

 

s-ana6.jpg

 穴毛大滝

 

s-ana7.jpg

 

この時期クライマーたちが宿泊に利用したのが、2ノ沢下部左岸の台地にあった通称「穴毛小屋」だった。

 

s-ana9.jpg

 

s-ana8.jpg

 

 

これは廃鉱になった鉱山の建物を勝手に利用していただけだったが、半壊ながら2階もあり、畳の部屋も残っていて、小屋の裏にはまだ鉱口があった。

 

s-ana10.jpg

     

この開拓ブーム後半に加わった隠居はまだ20代。

 

小屋の板壁には誰が書いたのか「強く、激しく、美しく生きた若き日の紋章をあの岩壁に刻む」の大きい墨書があった。

 

隠居はこの文におおいにかぶれ、今は亡きH氏と土曜日の夜に小屋まで入って泊り、翌朝4ノ沢の雪渓を登って第1岩稜の未踏の岩場へせっせと通った。

  

そして岩壁に多くのハーケン、ボルトを打ってしまったが、クリーンクライミング全盛の現在ならA級戦犯ものであろう。

 

s-穴4−14.jpg

 4ノ沢第1岩稜

 

s-ana5.jpg

 4ノ沢第1岩稜(中央)左側壁に新ルートを拓いた

 

s-第1岩稜P2フランケ.jpg

 第1岩稜左側壁新ルート 約200m

 

s-笠ヶ岳第一岩稜フランケ大スラブルート.jpg

 取りつきからテラスまでのピッチ

 

s-ana11.jpg

 テラスから上の大スラブ

 

s-ana12.jpg

 このあと間もなく夭逝してしまった後輩H氏の華麗なクライミング

  H氏とは錫杖岳でもよく組んだが、天才的なクライマーだった 

 

この小屋は昭和50年代に雪で全壊し、草に埋もれてしまった。

 

その後穴毛谷には砂防堰堤が多く造られ、遭難が多いため危険区域に指定されて、入る人がいなくなった。

 

実は最近になってこの小屋の持ち主が判明した。

 

近年山スキーのクラブで京都のTさんと知り合いになったが、笠ヶ岳の話をしていて、Tさんの父君がこの鉱山を経営しておられたことを知ったのだ。

 

笠ヶ岳鉱山は、戦前から2ノ沢出合いで亜鉛を採掘していたが、採算が採れず昭和20年代に閉山にしたそうだ

 

採掘した鉱石はケーブルで今の新穂高にあった選鉱場まで下しており、Tさんは中学生の時に見学に来たという。

 

父君は、飛騨では天生峠付近に金鉱山も持っておられたとのと。

 

話は穴毛小屋から飛ぶが、昭和23年の春、新穂高にあった鉱山の社宅は、登山客を泊める「中崎山荘」という宿になった。

 

ここに勤めたのが、井上靖の山岳小説『氷壁』のモデルになった高山出身の芳田美枝子。

 

錫杖岳へ登りにきて、開業間もないこの宿に泊まった登山家松濤明と知り合いになり、その後冬の北鎌尾根から西穂高まで縦走し上高地へ下山するはずの松濤を、美枝子は上高地で待ち続けた。

 

上高地へは、新穂高から単身雪の西穂稜線を越え、失意のうちにまた往路を戻っている。

 

井上靖がこの悲恋話を拾い、前穂高東面でのザイル切断事件とからめて小説にしたのはご存知のとおりだ。

 

s-IMG_1844.jpg

 

その後この宿は「氷壁の宿」として売っていた。

 

近年中崎山荘は河川改修で立ち退きとなり、ロープウェイ駅の下へ移転した。

 

余談は続くが、この地を「新穂高」と命名したのは、美枝子の父親で飛騨山岳会の副会長をやっていた芳田武雄だった。

 

芳田は高山で教員をしていてスキーも国体選手で、美枝子も国体に出場している。

 

鉱山社主の依頼でこのあたりの観光開発の可能性を探るため、毎日新聞の竹節作太(1936年立大ヒマラヤ・ナンダコット遠征隊員)と芳田の父親など飛騨山岳会員数名がこのあたりに入り、そのとき命名したという。

 

s-ana14.jpg

 

小屋の話が回顧談になってしまったが、今でも新穂高に立って穴毛谷を望むと、穴毛小屋に泊って岩壁登攀に熱中した若き日の自分とH氏の姿が彷彿として蘇る。

 

s-ana13.jpg

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

笠ヶ岳と南裔(なんねい)禅師

2019.07.02 Tuesday

s-1.jpg

 笠ヶ岳の馬も首だけになった(6月26日)

 

笠ヶ岳の登頂者は、富山出身の僧播隆(ばんりゅう)が有名だが、実はその播隆より40年前に地元高山宗猷寺10世の南裔(なんねい)禅師が登頂していることはあまり知られていない。

 

s-2.jpg

 

天明3年(1783)に登頂して仏像と鉄札を安置しており、播隆はその40年後に登ってこのことを知り、再興を思いついた。

 

南裔の登山の目的は、天明年間が全国的に天災地変の多い年で大規模な飢餓が発生、天明3年の春には浅間山が噴火して死者2万人が出ているので、これらの災いの鎮護祈願であったともいわれている。

 

登山ルートは播隆と同じ笠谷からと思われるが、登山記が見つかっていないのでよくわからない。

 

 

s-笠ヶ岳頂上南裔の鉄札.jpg

 南裔が頂上に残した鉄札を、40年後に登った播隆が持ち帰った。

 同行した宗猷寺の北洲禅師や案内の今見右衛門の名が刻まれている。天明2年になっているが、実際は天明3年説が有力。

 

一昨年(2017年)が南裔禅師入寂(没)210年にあたることから、禅師の偉業を顕彰し、宗猷寺住職はじめ有志で笠ヶ岳に登り、山頂で慰霊祭を行った。

 

s-3.jpg

 僧形の住職

 

s-2-1.jpg

 

s-5.jpg

 

s-4.jpg

 

s-6.jpg

 

s-7.jpg

  

南裔は若い時期に江戸で仏教を学ぶ傍ら書の大家三井親和に篆書と篆刻を学び、飛騨に多くの書を残している。

 

このたびその墨蹟を集めて、宗猷寺で展示を行った。

 

s-8.jpg

 臨済宗の名刹宗猷寺 山岡鉄舟の両親の墓がある

 

s-9.jpg

 住職が書いた篆書の看板「南裔禅師展」

 

隠居が「南裔禅師と笠ヶ岳」と題して、南裔の登山について駄弁を。

 

そこで飛騨では播隆より地元の人南裔を顕彰すべきだと訴えた。

 

s-10.jpg

 

s-22.jpg

  

南裔がよくした篆書体(てんしょたい)は、漢字の書体の一種。「篆書」「篆文」ともいう。

 

広義には秦代より前に使用されていた書体全てを指すが、一般的には周末の金文を起源として、戦国時代に発達して整理され、公式書体とされた小篆とそれに関係する書体を指す。

 

公式書体としての歴史は極めて短かったが、現在でも印章などに用いられることが多く、「古代文字」に分類される書体の中では最も息が長い。パスポートの表紙「日本国旅券」もそうだ。

 

南裔禅師の篆書は呪術的な雰囲気もあるが、どこかおどけたユーモラスな感じもあり、意味はわからなくても眺めているだけで飽きない。

 

今回は寺所有のもののほか、市内在住A氏の収集品も多く貸していただいた。その一部をご覧ください。

 

s-11.jpg

 

s-12.jpg

 

s-13.jpg

 

s-14.jpg

 

s-17.jpg

 

s-18.jpg

 草書も書いている

 

s-18-1.jpg

 これははじめ解らなかったが、書道の先生が「眉寿」と解読

 

s-19.jpg

 

s-21.jpg

 

隠居は2011年に地元の歴史の会の紀要『斐太紀』に南裔のことを書いたが、そのとき旧丹生川村に生家が残っていることを知り、取材に行った。

 

そして書などを見せてもらうことができた。

 

s-23.jpg

 生家にあった書

 

s-24.jpg

 

その紀要には『南裔禅師と笠ヶ岳』という題で駄文を載せたが、文末に以下のような文を書いて「まとめ」としている。

 

 「江戸まで書や篆刻を学びに行くなど好奇心旺盛な教養人、風雅人の禅僧南裔。苦業僧としての円空や播隆とはちがったタイプの人物  

 だったようで、同郷人の身びいきもあり、魅力を感じる。

  江戸の中期頃から、人々の自覚なしに「近代」という潮が次第に満ちてきていたが、登山に関しても宗教的登山とは別に大淀三千風、 

 橘南谿、池大雅など文人墨客が趣味としての旅行と登山を盛んに行うようになっていた。明治になって西洋から移入された「近代登山」 

 が、既に日本で独自に行われていたことに驚かざるを得ない。

 江戸でこの空気に触れたはずの南裔の登山は、宗教目的のほか、趣味人として登山そのものを楽しむ目的もあったような気がする。」

 

今年も慰霊登山が予定されている。

 

s-06.9.30笠ヶ岳4_1.jpg

 

s-25.jpg

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

加藤文太郎と飛騨の関わり

2018.12.12 Wednesday

s-飛5.jpg

 12月10日の飛騨山脈

 

s-飛2.jpg

 

飛騨山脈もしっかり雪をまとい、いよいよ冬山、山スキーシーズンの到来だ。

 

隠居の年代の登山者なら、冬山に殉じた不世出の単独行者=加藤 文太郎(明治38年〜昭和1115日)を知らない人はいないだろう。

 

新田次郎の山岳小説『孤高の人』を読んだ人も多いと思う。

 

s-か2.jpg

 

昭和初期に単独行で積雪期の峰々に登頂をし、なかでも槍ヶ岳冬季単独登頂や、厳冬期富山県から長野県への飛騨山脈単独縦断によって一躍有名になった。

 

昭和11年(19361月、数年来のパートナーであった吉田富久と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑むが、猛吹雪に遭い天上沢で行方不明となった。

 

このとき飛騨の槍見温泉に泊まり、右俣から槍ヶ岳へ入山していたため、地元の飛騨山岳会へも捜索の協力依頼がきて出動したようだが、結果発見できず捜索はうち切られた。

 

このほど山岳会の古い書類のなかからその時の礼状が見つかった。

 

s-か3.jpg

 

s-か4.jpg

 

そして3月には、職場や地域山岳会による遺体捜索組織ができ、5月中旬に現地へ入る旨の連絡と、情報提供の依頼がきている。

 

s-か5.jpg

 

s-か6.jpg

 

捜索隊が入る前の427日、天上沢にて遺体が発見され、遺骨が神戸へ帰った旨の報告、礼状が届いている。

 

発見したのは松本高校の木村、中島氏であった。

 

s-か7.jpg

 

s-か8.jpg

 

加藤は享年30。当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じた。

 

今改めて『単独行』を読んでみると、超人的な登山歴に驚いてしまう。

 

s-か1k.jpg

 

登山をはじめて間もない頃の夏山の記録を見ると、その健脚ぶりにまず驚愕。

 

大正15年、燕岳から槍穂を縦走して上高地へ下り、焼岳から安房峠へ出ていったん平湯へ下山。大滝コースから乗鞍に登頂し、南面の阿多野コースを下って日和田に向かう。日和田から御嶽継子岳に登り、縦走して王滝村へ下り上松へ。上松から木曽駒ケ岳へ登って空木岳、南駒ヶ岳へと縦走し、難路の黒覆尾根を国鉄飯田線の飯島駅まで下っている。

 

圧巻は、先に書いた昭和6年の1月に行われた10日間の厳冬期飛騨山脈縦断だ。

 

国鉄高山線の猪谷駅から歩いて大多和峠を越え有峰へ入り、真川―薬師岳―北ノ俣岳―黒部五郎―三俣蓮華―鷲羽―烏帽子―大町へと抜けている。

 

以下『山と溪谷』200411月号から

 

s-か9.jpg

 

s-か10.jpg

 

s-か11.jpg

 

s-か12.jpg

 

昭和72月に行われた槍ヶ岳から笠ヶ岳の往復の記録にも驚く。

 

2日かかったが、夜間も少し休んだだけで歩き通している。粗末な装備でよくもまあ・・・。

 

s-IMG_4390.jpg

 

それにくらべ軟弱な山行しかやってこなかった隠居は、今になってもう少し厳しい山をやるべきだったと悔いているが、もう遅い。

 

文太郎のの心を捉えて離さなかった飛騨山脈は、今年も白く装い、静かに横たわっていた。

 

s-飛4.jpg

 12月10日の乗鞍岳と飛騨山脈

 

s-飛3.jpg

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

レルヒ少佐の一本杖スキーがすぐ飛騨へ伝わった

2018.02.01 Thursday

s-2.jpg

 レルヒのことを語る大正期の新聞(飛騨山岳会所蔵)

 

このところ毎週山スキーに惚けている傍ら、ある歴史研究会の紀要に載せてもらうべく「飛騨のスキー小史」みたいなテーマでパソコンのキーをたたいている。

 

もちろん隠居は歴史の門外漢だから、登山史的なものしか書けない。

 

登山史は歴史の専門家が手を付けない、いわば「すき間産業」なので、浅学菲才を顧みずに今までずいぶん恥をかいて(書いて)きた。

 

今書いているスキー史のうちから珍しい、面白い話を少々。

 

よく知られているように、日本へはじめてスキー術を伝えたのは、日露戦争に勝利した日本陸軍を研究する目的で来日したオーストリア・ハンガリー帝国(当時)の軍人テオドール・フォン・レルヒ少佐である。

 

彼は明治44年(1911112日、新潟県中頸城郡高田町の陸軍第13師団歩兵第58連隊に1本杖での滑降技術を伝授した翌年、北海道の旭川第七師団へ転じ、札幌でも指導を行っている。

 

実はちょうどこの時期、高山の造り酒屋の二木長右衛門が札幌農学校(途中で東北帝大農科大学に)に学んでいて、1本杖のスキー術を習得している。

 

ひよっとすると、レルヒ少佐からの直伝かもしれない。

 

しかしレルヒは主に将校団に伝えたという記録があるので、おそらく札幌近郊の山で間接的に学んだのであろう。

 

翌大正2年(1913)、二木は高山へ道具とともに技術を持ち帰り、母校斐太中学(現斐太高校)の裏山で滑って見せ、指導を行った。

 

s-3.jpg

 一本杖の練習をする斐太中学生徒(『斐太高校100年史』から)

 

これが飛騨におけるスキーの初伝来といわれる。

 

スキーの本場長野県の白馬地区に高田から伝わったのも同じ年だから、飛騨への伝来は全国的に見てもかなり早い時期であった。

 

そして大正8年(1919)には体育教師石川三雄の尽力で、斐太中学にスキー部が創設された。

 

この頃から高山で急速にスキー熱が高まり、斐太中学では授業に組み込まれ、城山などで滑った。

 

スキーは高価なので生徒は自分で木を削り、町の鍛冶屋に金具を作らせたものが多かったという。

 

s-4.jpg

 二木酒造所蔵の古いスキー

 

s-5.jpg

 

さらにスキーは急速に飛騨一円に広まり、大正15年には古川小学校に1本杖のスキーが3台置いてあった記録がある。杖にワッパはついていなかった。

 

実はこのことは、吉城郡旧坂下村(旧宮川村)の教員水畑重平が、『宮川村誌』に当時の様子を詳しく書いていることからわかったもの。

 

彼は新任の古川小学校ではじめてスキーというものを見た。そのうち先輩の先生の指導で昼休みに裏の桑畑を歩いてみたが、転倒の連続だったという。

 

それでも面白くてならないので、昭和2年古川町の岩崎運動具屋で新潟高田製の2本杖スキーを12円、軍隊式の編み上げ靴を350銭で購入し、万波高原などへ行って我流で滑ったそうだ。

 

s-9-1.jpg

 

s-9.jpg

 

はじめは直滑降だけだったが、そのうち本を見たり、隣村(富山県猿倉村)の講習会に出たりして回転ができるようになった。

 

その頃坂下村では後に郵便局長になる中学生ひとりだけがスキーを持っていたそうだ。

 

以下山岳資料館所蔵の古いスキー道具。

 

s-6.jpg

 

s-8.jpg

 

s-10.jpg

 

s-7.jpg

 

調べると、昭和初期の飛騨にはスキー場がたくさんあった。

 

今ではその名前を初めて聞くスキー場がいくつかあるが、そのうちの一つ「西霧野スキー場」を紹介しよう。

 

場所は現在の古川町黒内区にある「飛騨古川桃源郷温泉」付近のリンゴ園あたりの緩斜面。

 

s-11.jpg

 昭和初期にカラーの宣伝リーフレットを作っている

 

s-11-2.jpg

 

昭和4年にはもうスキー大会を開いている。

 

主催は西霧野スキー倶楽部、後援が小鷹利村教育会。競技種目は小学生の部、青年の部があり、それぞれ百m、三人連鎖、スラローム、ジャンプ、リレーなどがあり多彩だ。

 

当時はスキーが買えない子供が大部分で、皆竹スキーや箱ソリで遊んでいた時代だから、競技の間だけ教育会で貸し出したのであろう。

 

s-12.jpg

 竹スキー(飛騨市美術館展示品)

 

s-13.jpg

 

s-14.jpg

 「パンパン下駄」という名の竹スケート(飛騨市美術館展示品)

    隠居の子供の頃もまだあった

 

当日は処女会の簡易食堂を開設可仕候とある。

 

後に有名になる流葉、位山、舟山などのスキー場は、まだこのころなかったか、開設準備中だった。

 

s-11-1.jpg

 開設した年の流葉スキー場の新聞報道 

 「モンペでスキー」の表題(飛騨山岳会所蔵)

 

飛騨には全国的にみてもかなり早い時期にスキーが伝わり、飛騨人はずいぶん早くからスキーを楽しんでいたことがわかった。

 

しかし、スキー場にリフトが出現したのは昭和22年に進駐軍が志賀高原丸池につくらせたのが最初で、それが次第に普及していった。

 

それまでは滑ったあと担いで登るか、シール(あざらしの毛皮)を裏に張って登るしかなく、皆「山スキー」であった。

 

s-1.jpg

 昭和9年の乗鞍スキー登山(神通寺所蔵)

 

s-15.jpg

 昭和11年の乗鞍スキー登山(神通寺所蔵)

comments(1) | trackbacks(0) | - | -

松濤明の錫杖岳登攀ルート

2017.11.23 Thursday

s-PB040069.jpg

 

先に井上靖著『氷壁』のモデルということで紹介した稀代の登山家松濤明。

 

松濤が北鎌尾根で逝く前年の秋、飛騨の錫杖岳に2度訪れ、前衛フェースを初登攀しているという説があるので調べてみた。

 

若い人は知らないであろうが、松濤は戦前の若い卓越したクライマーで、今なら山野井泰史みたいな存在であった。

 

16歳で早くも谷川岳や穂高岳でレベルの高いクライミングを実践しており、谷川岳一ノ倉沢第二ルンゼ、北穂高岳滝谷の第四尾根はいずれも単独初登攀だと言われている。

 

そして昭和14年(19391223日には、上条孫人と北穂滝谷第一尾根の冬季初登攀をしている。その翌日には、滝谷第二尾根を冬季単独初登攀。なんとこの時17歳であった。

 

その後昭和18年(1943121日に学徒出陣で入営するまで、剣岳、八ヶ岳、穂高岳など広範な山域に足跡を印し、北岳バットレス中央稜初登攀、第二尾根第2登をはじめ多くの記録は枚挙にいとまがない。

 

昭和21年(19464月復員。戦後の登山活動は、26歳で北鎌尾根に逝くまで残念ながら実質2年間に過ぎなかった。

 

それでも昭和22年(19471月には八ヶ岳立場川狼火場沢冬季初登、阿弥陀岳南陵冬季単独初登などを行い、翌昭和23年(19487月には、北岳バットレスの各ルートで初登や第2登など意欲的な登攀を実践している。

 

その年の8月末に単独で徳本峠、中尾峠を越えて錫杖岳に入っている。

 

s-PB040068.jpg

 

831日、クリヤ谷から錫杖沢に入り、本沢右俣を遡行して本峰正面壁の下部をトラバース。

 

s-P9240183.jpg

 本沢右俣取り付き

 

s-P9240190.jpg

 本沢右俣

 

s-P9240216.jpg

 

s-P9240189.jpg

 右俣の途中から見える本峰正面フェース

 

s-P9230050.jpg

 

烏帽子岩西肩へ登り、ここでこの山の全容を把握。

 

s-P9230101.jpg

 

帰路再び右俣を下降し、北沢を偵察してからこの夜は岩屋でツエルト泊。

 

s-P9240164.jpg

 錫杖岩屋 眺めのいいところで隠居もよくお世話になった

 

s-P9240166.jpg

 

s-P9240165.jpg

 岩屋からの前衛フェース

 

91日は岩屋から北沢へ入る。

 

s-北沢1.jpg

 北沢

 

s-北沢2.jpg

 左方カンテ

 

北沢で滝を越える時苦労し、ピトンを打ってセルフビレイしてから登り、上にピトンを打っていったん下ってピトンを抜くという作業を強いられている。よほど技術がないとできない登攀だ。

 

烏帽子は東肩から取り付いている。このルートは隠居も単独で登っているが、シビアな部分もある。

 

s-P9240197.jpg

 烏帽子岩 右下(東肩)から取り付く

 

s-P9240196.jpg

 烏帽子岩東肩と穂高岳

 

途中のチムニー出口に残置ピトンがあったと書いてあるが、この烏帽子岩は昭和2年(19277月に神戸商大の三好毅一ほか2名によって初登されているので、この時のものか。

 

3回のアップザイレンで東肩へ降り立ち、大バンドをトラバースして西肩へ。

 

この後はリッジ通しに本峰へ登っている。このルートは隠居も登ったことがあるが、部分的にクライミング技術を要求される。

 

s-錫23.jpg

 錫杖岳本峰 いつの間にかピッケルが埋められているが

        頂上はなにもないほうがいい

 

本峰に立って「これまで穂高の尾根から笠・錫杖を眺めて、あれが飛騨の山だと思ったことはいくどもあるが、そのまだ先に飛騨の山が拡がっているのを考えたことがなかった。自分が今登ってきたのが飛騨側でありながら、見下ろしているのがやはり飛騨側であることが、どうしてもピンとこなかった。そこはまったく見知らぬ世界だった。―ただ、松風の音ばかり。」と感想を綴っている。

 

このあと南峰への尾根を下り、鞍部から本沢に戻っている。

 

s-錫22.jpg

 

s-錫21.jpg

 

s-錫18.jpg

 

s-錫29.jpg

 南峰

 

s-第一回目のライン.jpg

 第1回目のルート 青=8月31日 黄=9月1日

 

s-161_6139.jpg

 松濤が登った全ルート(破線は裏側)

 

この時よほどこの山が気に入ったとみえて、翌10月にもザイルパートナーの権平完と入山。

 

この2回目に前衛フェースを初登攀したといわれているが、そのルートは諸説があり、登攀史に名はない。

 

彼の遺稿集『風雪のビバーク』の手記をよく読んでみた。

 

雨模様で視界が悪く、前衛フェースの全容が見えないままクリヤ道をだいぶ登った地点から森林帯に入っている。

 

このため中央壁あたりに取り付く予定が、前衛フェースのいちばん右端に出てしまい、P4を回り込んでいることがわかった。

 

s-P4.jpg

 P4(右のピーク)

 

北東壁側を登り、荷を置いて「面白そうなピーク」と書いているP4に登頂したあと、3ルンゼ上部からP2側壁を登攀。

 

上部の草付きにハーケンを打って3ピッチで緩いスラブへ。東肩に出て烏帽子岩に登り、アップザイレンで戻って西肩へトラバースし、本沢右俣を下っている。

 

従って、北東壁、P4、前衛フェースP2上部側壁を初登攀しており、下部から登っていないことが判明した。

 

s-IMG_1996.jpg

 

この手記には以下の付記がある。

 

「錫杖岳は訪れる人は少ないがなかなか良い山だ。屏風に似て多少スケールは小さいかもしれないが、変化はむしろ富んでいる。烏帽子岩前衛フェースはブッシュの少ない素晴らしいワントで、近いうちに登られる日が来るだろう。屏風が最近とみに人を呼ぶように見えるが、同じように昭和初年にパイオニヤーワークが行われたまま放置されているこの山も、やがて立ち返る春を迎えるにちがいないと私は思う。」

 

この時期前衛フェースで登られているのは第1ルンゼ(1931年・富田清太郎ほか1名)だけであり、他のルート(=左方カンテ、中央壁、第三ルンゼなど)が登られ出したは昭和35年(1960)頃からである。

 

松濤が生きておればその前にいくつものルートを初登攀したことであろう。

 

なお「前衛フェース」という名は、松濤が命名したともいわてれている。

 

これで「飛騨の登山史」に追補できた。

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

井上靖『氷壁』のモデルは飛騨の女性

2017.10.30 Monday

s-IMG_1844.jpg

 

さらに思わぬ野暮用が入ってきてなかなか山に行けない。今までのツケがどっと回ってきたようだ。

 

さて、先日高山にある井上靖の文学碑の話をしたが、われわれ古い山屋としては彼の代表作『氷壁』のことを語らないわけにはゆかない。

 

この小説は朝日新聞に連載されたあと昭和32年に出版されたが、当時隠居の少し上の世代の人に影響を与え、これを読んで登山を始めた人も多かったという。(不肖隠居がかぶれた話は後述)

 

よく知られているように、この小説には複数のモデルがいる。

 

19551月に前穂高岳東壁で実際に起きたナイロンザイル切断事件の若山五朗、19491月北鎌尾根で遭難死した稀代の登山家松濤明、彼を慕っていた芳田美枝子らだ。

 

この松濤明と芳田美枝子が、小説では主人公の魚津恭太と恋人の小坂かをるになるが、実は芳田美枝子は当時飛騨高山に在住していた。

 

美枝子の父親芳田武雄は高山で教員をしており、飛騨山岳会の副会長を務めるほどの山好きで、スキーも国体選手だった。

 

父親の影響で彼女も山とスキーに打ち込み、スキーのほうは昭和233月に長野県野沢で開催された第3回国体スキー競技会に出場するくらいの腕前。

 

彼女は女学校を出て代用教員をしていたが、山好きが嵩じて新穂高に1軒だけあった山の宿「中崎山荘」へ勤め、ここで松濤に出会ったのだ。

 

この宿は、戦前笠ヶ岳穴毛谷にあった鉱山の社宅を昭和23年の夏に温泉宿にしたもの。

 

余談だが、その年の4月鉱山社主の依頼で、左、右俣合流点あたりの観光開発の可能性を探るため、毎日新聞の竹節作太(1936年立大ヒマラヤ・ナンダコット遠征隊員)と芳田の父親など飛騨山岳会員数名が入った。

 

そのときここの地名を「新穂高」と命名したのが、美枝子の父親芳田武雄であった。

 

松濤明の遺書『風雪のビバーク』によると、昭和23年の秋、松濤はザイルパートナーの権平完と徳本峠、上高地、中尾峠を経て、103日に開業間もないこの宿に泊まっている。

 

s-IMG_1843.jpg

 

彼らの目的は、錫杖岳の岩登りと滝谷の遡行であった。

 

松濤は、この年の9月にも単独で中尾に泊まって錫杖岳の烏帽子岩などを登攀しており、まだ人が入っていないこの山を大変気に入り、近い将来多くのクライマーが入るだろうと予言をしている。

 

彼らが滞在中は秋雨前線のため連日の雨。

 

105日雨と曇りの天候の中、前衛フエイスと烏帽子岩を登攀し、その後また2日間宿に停滞している。

 

s-PB040069.jpg

 

従って新穂高には5泊もしており、その間に芳田美枝子と親しくなったのである。

 

この間のことは、芳田が後に『風雪のビバーク』に寄稿しているが、松濤は山好きな彼女にいろんな話をしてくれ、「山はロマンチストでなければ登れませんよ」と言ったのが印象に残っていると書いている。そして松濤は後日、油まで塗ったスキー靴を送ってくれたという。

 

当時の飛騨山岳会にはまだ本格的な岩登りをする男性はおらず、しかも都会育ちの松濤はロマンロランに傾倒していて愛読書『ジャン・クリストフ』の話などもしてくれたというのだから、飛騨の山娘が夢中になってもおかしくない。

 

松濤はこの宿のことを「ここは温泉がわりあい温まらないのと、ランプの代わりに鉱山用のカンテラを使うので湯治客にはもてないかも知れないが、建物も夜具もよく、泊り代は安く、登山者にはこの上ないベースである。」

 

「宿の人は男一人に女四人という、まさに女護ガ島で、うち二人はうら若いお嬢さんだ。」などと書いている。

 

s-IMG_1846.jpg

 

108日になってようやく晴れ、滝谷を下部から遡行するため、宿の人の見送りを受けて出発した。

 

美枝子はこの時のことを「霧の深い月の朝、滝谷へ入る松濤さんは、二、三度振り返って小鍋谷へ廻り込んで消えた。そしてそれが私の見た松濤さんの最後の生ける姿になってしまおうとは・・・・。」と書いている。

 

s-100_1679.jpg

 滝谷 隠居も若い時よく入った

 

その後どういう手紙のやりとりがあったのであろうか、昭和24年の正月、芳田は北鎌尾根から槍穂高を縦走して最終目的地焼岳から下山してくるはずの松濤を迎えるため、単身上高地へ入って待っていた。

 

手紙には18日には下山すると書いてあったという。

 

予定日を過ぎても帰らないので、西穂高岳の稜線を探してみようと、112日上高地から単身ラッセルして稜線に登ったが見つからないのでそのまま新穂高へ降りた。

 

s-西14.jpg

 正月の西穂高稜線

 

当時女学校を出たばかりの若い女性が、厳冬期の西穂高の山稜越えをしたということで話題になった。

 

おそらく井上靖はこれを新聞などで見たのであろう。

 

知られているように、北鎌尾根で予想外の豪雨に遭遇した松濤と有元は、この頃(16日)すでに千丈沢で疲労凍死していた。

 

4月の遺体捜索時、松濤が凍った手で死の直前までの様子を克明に綴った衝撃的な内容の手記が発見された。

 

昭和36年に発刊された遺稿集『風雪のビバーク』に収録されている「全身硬ッテ力ナシ(略)有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス(略)」という壮絶な手記は、当時も今も涙なしには読めないものだ。

 

s-IMG_1880.jpg

 『山と渓谷』から 実物は大町の山岳博物館にあるらしい

 

s-IMG_1881.jpg

 

小説では、魚津は滝谷で落石に遭い、松濤みたいな手記を遺して死亡。上高地で待っていたかをるが穂高小屋まで登ってこれを知ることになっている。

 

傷心の美枝子は、上京して松濤が所属していた登歩渓流会に入会し、その後会で知り合った登山家奥山章と結婚する。

 

この話は平塚晶人著『ふたりのアキラ』(ヤマケイ文庫)に詳しいようだが、隠居は読んでいない。

 

奥山章にも先立たれた美枝子は、晩年福井県の老人施設に入居したらしいが、その後の消息は聞いていない。

 

正直言うと隠居もこの『氷壁』に少なからずかぶれ、魚津のように仕事と山の両方をうまくこなしたいなどと努力をしたものだ。

 

そして魚津の登山を理解してくれていた上司、常盤大作のセリフまで覚えている。

 

魚津の死後、常盤支社長が社員の前で行った追悼演説は魚津への愛情に溢れたものだが、登山論としても今でも立派に通用するものだ。

 

登山をしたことがないはずの井上の取材力の確かさ深さに驚く。さすが大作家。

 

今の若い人がこのようなフィクションに影響を受けているとすれば、山岳漫画の『岳』か、NHKBS放送の「山女日記」あたりだろうか。

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

志賀重昂の書を発見

2017.03.21 Tuesday

s-P3130002.jpg

 

高山市内と周辺の山の雪がほとんど解けたら、遠くにある北の白い山が目立つようになってきた。

 

まだ雪をたっぷりつけた金剛堂山など飛越の山々だ。

 

隠居にとっての「北に遠ざかりて白き山あり」はこの飛越の山で、今の時期この白い山並を見ていると無性に山旅がしたくなる。

 

さて、志賀重昂(しげたか)といっても、登山史に関心の無い方はご存じないかもしれない。

 

明治27年(1894)に志賀が書いた『日本風景論』は14版まで版を重ね、ロングセラーとなった。

 

s-『日本風景論』第6版.jpg

 小島烏水も買った第6版

 

この本は日清戦争勃発の年に出版され、他国の風景と日本の風景を比較して日本のそれを優位に置いたため、国民のナショナリズム高揚に貢献した。

 

洋書からの剽窃があるなどこの本の評価はいろいろだが、第4章に「登山の氣風を興作すべし」と題した長文があったため当時の青年の登山熱に火をつけ、小暮理太郎や小島烏水なども大きい影響を受けたことはよく知らている。

 

小島は初版が出た時には書生の身分で手が出ず、第六版になってようやく購入でき、貪るように読んだと書いている。

 

明治期の日本人は、この『日本風景論』を読んで登山をはじめたといっていい。

 

志賀の本の感化で登山を始めた人たちが日本山岳会を誕生させたといわれ、ウェストンと志賀が近代登山興隆の祖だという登山史家もいるくらいだ。

 

隠居が好きな山岳俳人前田普羅も、少年期この本の表紙にあった「奥飛騨の春」と題した画を見て以来飛騨にあこがれ続けた。

 

飛騨の登山史を調べていて、明治44年(1911)年発刊された飛騨の地誌『飛騨山川』に、この志賀が題辞として自筆の漢詩を載せていることを見つけた。

 

s-P2140009.jpg

 

志賀がスイスで詠んだというもので「鴻爪雪泥幾往還 安南之海瑞西山 半生著述何邊獲 多在風袗雨笠間」そして「飛騨本邦之瑞西也 偶録舊製代飛騨山川題詞」とあり、貴重なものだろう。

 

s-IMG_20170320_0001.jpg

 

この『飛騨山川』は、明治期高山で「住伊書店」経営していた住廣造(飛騨山岳会員・日本山岳会員=会員番号193)が東京で印刷製本したものである。

 

住は他に飛騨で江戸期に書かれた『飛州志』、『斐太後風土記』など貴重な書籍を多く発刊している。

 

住は小島烏水、高頭仁兵衛などとの親交があったので、小島あたりを通じて志賀に揮毫を頼んだのだろうか。

 

この『飛騨山川』には小島が序文を書き、高野鷹蔵が写真を載せているから驚きだ。

 

s-『飛騨山川』掲載・高野鷹蔵蔵の写真.jpg

 

ご存知のとおり、志賀は、岡崎藩の藩校の儒者・志賀重職の長男として生まれ、大学予備門で約2年間学んだあと、明治13年(1880)札幌農学校に転じた。

 

卒業して長野で教師をしていたが、酒席で長野県令(知事)とトラブルを起し辞職。あと海軍兵学校の練習艦「筑波」に便乗して長期海外を回って列強の植民地化競争の状況を視察したり、その後も広く海外を旅行するなど、面白い人生を送っている。

 

和魂洋才の国粋主義者で地理学者、東京地学協会の終身名誉会員、日本山岳会名誉会員、英国王立地学協会名誉会員でもあった。

 

隠居は浅学ながら暇に任せて調べた飛騨の登山史を歴史研究者の紀要『斐太紀』などに載せてもらっている。

 

この地方で他の人があまりやっていない登山史研究という分野は、いわば「すきま産業」といえる。

comments(1) | trackbacks(0) | - | -

昭和3年の登山ガイドブック

2017.03.08 Wednesday

s-P2280015.jpg

 

3月に入ったらとたんに春めいてきて、飛騨山脈の雪肌もだいぶやわらかくなってきた。

 

s-P2280003.jpg

 

s-P2280006.jpg

 飛越国境の山々

 

里山の南斜面の雪もすっかり解けて、「早春賦」を口ずさみながら犬の散歩をしている。

 

しかし昨日からは冬に逆戻りして、「今日もきのうも雪の空・・」の一節がぴったりだ。

 

さて久しぶりに登山史のお話を。

 

大正10年(1921)アルプスのアイガー東山稜初登攀を果たした槇有恒が帰国し、日本にアルピニズムの思想と技術、道具を伝えた。

 

槇有恒の指導で、ほどなく大学の山岳部や旧制高校の部員が主になって、槍穂高岳などで「雪と岩の登山」の実践がはじまる。

 

そして槇は大正12年(19238月、飛騨山岳会の招聘により高山で講演を行っている。

 

来場者は約300名。講演の内容は、欧州での登山、そしてこの年の1月に槇が岳友板倉勝宣を失った松尾峠の遭難についてであった。

 

後に遭難史に残ることになるこの事故から半年経ったばかりであり、事故の内容を語る槇の心痛はいかばかりであったことか。

 

飛騨人はこのときはじめてアルピニズムというものを知ることになる。

 

このころから登山大衆化の時代に入り、飛騨山脈へ多くの人が入るようになったため、飛騨側の案内が必要になった。

 

このため飛騨山岳会では昭和3年に案内のリーフレット「北アルプスは飛騨口から」を作成し、会員の内山智春氏は『飛騨口登山案内』を発刊している。

 

s-案1.jpg

 

s-案2.jpg

 

リーフレットはその後何年かおきに改訂していて今でも残っているが、この『飛騨口登山案内』は発刊の記録が残っているだけだった。

 

このほどそれを高山市内在住の映像作家古滝さんがあるところで発見され、隠居へ連絡があった。

 

s-案3.jpg

 

144ページの案内書で、北アルプスの概説、高山の町への入り方(その頃国鉄高山線が全線開通していなかった)、あと各有名山登山口へのアプローチの案内、そして登山口から目的山までの時間、距離、コースの詳しい説明があり、今のガイドブックより親切な内容だ。

 

s-案4.jpg

 

s-案6.jpg

 

s-案7.jpg

 

巻末には「登山の準備」として、計画の立て方、携行装備、案内者の雇い方、露営地の選定、雪渓や岩場など危険箇所での対応方法などが微に入り細に入り解説がしてある。

 

s-案8.jpg

 

その他の注意として、・山岳道徳を重んずること ・「緩歩不休」を佳とし、「急進数歩」を不可とす・一番弱き者を標準とすること・リーダーの言を絶対に守ること・食料は銘々が持参など現在と同じことが書いてある。

 

s-案5.jpg

 

s-案11.jpg

 

s-案10.jpg

 

s-案9.jpg

 右上の「山刀謹製」の広告

 飛騨山岳会が昭和2年に秩父の宮に進呈した「山刀」は

 ここで作られたことが判明

 

残った記録では、内山氏はかなりの登山経験を積んだ人物だったようだ。

 

高山の繁華街で大きい薬局を経営しておられた筆者の内山氏は、その後いろいろあって店をたたまれ隠棲されたが、そのご子息が都会に出て成功され今もご健在とのこと。

 

古滝さんがそのご子息にこの書を差し上げたところ「父の若い時の業績をはじめて知った」と泣いて喜ばれ、墓前に供えられたそうだ。

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

ウェストンは笠ヶ岳に登頂していなかった(その3)

2016.12.01 Thursday

s-10.2.24笠ヶ岳_1.jpg

 

 それでも猟師たちが案内を買って出たのは、遠路三度も登りに来ている外国人を拒むのは気の毒だからというやさしさからであり、折衷案として阿弥陀如来がおられないもう一つの頂=北峰(猟師たちの遥拝所だったと思われる)の方へお連れすればいいということだったと思う。

 

s-07.5.4 西穂西尾根1_1.jpg

 

遊びで山に登るという近代登山のことがまだよくわかっていなかった当時の人々には、必ず目的の頂上を踏まなければならない、ということが理解できなかったのであろう。

 

それと地図がないころの山は、穂高がそうであったように山域全体が同じ呼称=笠ヶ岳だったのではなかろうか。

 

なおウェストンとも交友があった日本山岳会初代会長の小島烏水は、その著作のなかで抜戸岳のことを笠の形をしているとして「小笠岳」と命名しているが、遠望するとよくわかる。

 

ウェストンは「小笠岳」に登ったのだ。

 

s-PA150095.jpg

 笠ヶ岳(左)  抜戸岳(右)

 

案内の報酬のことも考えられるが、猟師や樵たちが登山者の案内で決まった報酬を得るようになったのは大正時代に入ってからである。

 

明治のはじめ東北から北海道を旅した英国人の女性イザベラ・バードの著書『日本奥地紀行』にもあるように、この当時旅行者に擦れていない農山村の人たちはまだ報酬というものに淡白であり、特に外国人からお金を受け取って自分たちを貶めるわけにはいかないという気分を持った人が多かったようだ。

 

s-P9240014.jpg

 

ここの純朴な猟師たちも結果的には受け取ったかもしれないが、彼らの同行申し出が報酬目的であったとは言い難い。

 

ウェストン師には悪いことをしたが、明治期に日本人にさきがけて多くの山に登り、鳳凰山の岩峰=地蔵仏、奥穂高岳南稜、槍ヶ岳東稜などを初登攀しているウェストンの登山歴の輝かしさは、この一山のことでなんら曇ることはないと思う。

 

あまり語られないが、ウェストンはアルプス仕込みの卓越したクライマーでもあった。

 

s-恵那6.jpg

 

なお、ウェストンは明治44年(1911)に3度目の来日をし、この翌年に上高地から焼岳に登るため中尾峠に立って笠ヶ岳の全容を望んでいる。その時峠からの展望について次のように書いている。

 

 「峠から西の方には、飛騨の笠ヶ岳山塊の均整のとれた美しい諸峰が見える。この笠ヶ岳は私にとっては早くからの憧れの山であり、かなりの年月が過ぎてから、3回目の試登の年にやっと登頂に成功したのであった。」

 

この話をすると参加者の方からは、ウェストンは仏のおられる南峰(本峰)は無理なことを承知しており、北峰(抜戸岳)で満足したのでないか、というご意見をいただいた。

 

s-写真6.jpg

 

隠居は古い時代の日本と日本人をこよなく愛してくれたウェストン師を好きなことには変わりない。

 

s-10.5.15笠ヶ岳_1.jpg

 

そして近代文明にどっぷり浸かってしまった今の日本人は、残念ながら山を崇めることがなくなり、そして下界の生活も経済優先になってしまった。(おわり)

 

<ウェストンの笠ヶ岳登頂を記載した文献> 

『日本登山史』山崎安治

『日本登山記録大成』14同朋社

『明解日本登山史』布川欣一

『日本山岳名著全集』第鬼あかね書房

『登山史の周辺』山崎安治

『われわれはなぜ山が好きか』安川茂雄

『日本山岳会百年史』日本山岳会

『日本アルプス―登山と探検』(岡村精一訳) 

『日本アルプス再訪』(水野勉訳)

『ウォルター・ウェストン未刊行著作集』(三井嘉雄訳)

『上宝村史』 ほか

 

s-平湯から09.2_1.jpg

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

ウェストンは笠ヶ岳に登頂していなかった(その2)

2016.11.27 Sunday

s-10.2.21国見山から笠ヶ岳.jpg

 

昨日は講演会で「笠ヶ岳に登っていなかったウェストン」と題して前回のブログに載せた検証結果を映像で詳しく説明し、あと猟師達がなぜ抜戸岳へ導いたかについて隠居の考えを述べ、参加者の意見を聞いた。

 

これは史料がないのでいろんな推測が可能だが、「阿弥陀如来がおられる頂上へ異教徒を登らせてはばちがあたる」ということでは、中尾、栃尾の猟師たちも蒲田の人と同じ考えであったと思う。

 

s-PA290009.jpg

 ウェストン一行を案内した中尾の猟師 

   山本竹次郎 奥村市次郎

 

その証拠に猟師たちは稜線に出たときローソクを立てて祈っている。

 

これは笠ヶ岳の阿弥陀如来に拝礼し、異教徒を連れてきたことを詫びたのであろう。

 

この時期の山麓の人々にとっての笠ヶ岳という山は、文政7年(1824)播隆上人が頂上へ阿弥陀如来を安置し、同行の人々がブロッケン現象を阿弥陀仏の出現だといって感涙に咽んだ時からまだ70年も経っておらず、依然「聖なる山」であった。

 

s-154_5456.jpg

 

s-154_5438.jpg

 笠ヶ岳頂上にある現在の祠

 

s-笠ヶ岳頂上の仏像.jpg

 当時頂上の祠にあった阿弥陀如来像(現在は村上神社)

 

s-yjimage[8].jpg

 

この話は、昭和20年代後半にネパールヒマラヤのマナスルへの初登頂をめざした日本山岳会の登山隊が、山麓のサマ集落で「異教徒が聖山をけがしたので村へ仏罰が下った」として入域を拒まれた話とよく似ている。

 

s-PB020007.jpg

 マナスル

 

日本隊が偵察などに入った翌年、村の僧院が雪崩に襲われてラマ尼3名が死亡。さらに村に天然痘、腸チフスが流行して死者が続出し、おまけに旱魃に見舞われて災難が続いているとして二次隊も入域を拒まれたのだ。

 

s-PB020004.jpg

 サマ集落で妨害にあう

 

この話はごく最近でもある。

 

平成21年(20099月チベットの未踏峰を登りに行った知人は、麓の人から「皆が崇めている聖山に登らせるわけにはゆかない」と入山を拒まれたのである。

 

ちょうどこの時ヒョウが降って農作物が被害を受け、これも登山隊のせいにされたという。

 

チベットにはカイラスという登山が禁止になっている有名な聖山もある。

 

s-PB270001.jpg

 カイラス(大分県 伊東 亨氏撮影)

 

私ごとながら、隠居も平成19年(2007)にチベットの未踏峰に登ったが、この山が南側(ブータン側)の谷の人々が崇めている山だと聞いたので、最頂上は踏まず、何も残さず下山した。

 

s-モンタ・カンリ前衛峰(峠から1).jpg

 チベット モンタ・カンリ峰

 

s-頂上への道(2峰トラバース).jpg

 

これは山を崇める東洋と、山を征服する西洋の考え方の相違であり、異教徒であるウェストンの入山に難色を示した当時の蒲田川沿いの人々を笑うことはできない。

 

それでも猟師たちが案内を買ってでたのはなぜか?(つづく)

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

(C) 2020 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.