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奧飛騨の山案内人たち3―「上高地の常さん」

2020.07.07 Tuesday

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しばらく治まっていた焼岳あたりを震源とする地震が、この5日にまた何回か起きた。

 

槍平小屋からの情報によると、右俣登山道は4月からの群発地震で大きい落石があり、土砂崩れで何箇所か崩壊していて、コロナ対策より登山道の安全対策の方がハイリスクな課題となっているとのこと。

 

今年の槍・穂高あたりの夏山は、コロナと地震のダブルパンチだ。

 

さらにこのところの豪雨で、登山道の崩壊がよりひどくなっているのではなかろうか。

 

今年槍平小屋は宿泊受け入れを止め、テント泊(要事前予約)だけにしたようだが、もし梅雨明けに入山する場合には、登山道の状況をしっかり確認する必要があるだろう。

 

隠居が毎夏幹事で開催している岐阜の方々との乗鞍沢登りは、多人数が岩場で濃厚接触するし、万一の場合救助で迷惑をかけるので、中止にした。

 

さて、奥飛騨の案内人のうちいちばん知られていたのは、なんといっても「上高地の常さん」こと内野常次郎(1884〜1949)だろう

 

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彼のことは亡くなったあとも語り継がれ、牛丸工の『内野常次郎小伝』はじめいろんな書籍、新聞などに書かれ、知る人は多い。

 

近年では平成23年(2011)岐阜新聞が、「山と酒を愛した自由人・上高地の名ガイド」として「ぎふ快人伝」というシリーズにとりあげ、詳しく書いている。

 

過日取材に行った中尾集落には、常さんが「ひい叔父さん」にあたる内野政光さん(元北山岳救助隊隊長)が住んでおられ、常さんのいろんな話をお聞きし、いろんな資料を見せていただくことができた。

 

内野政光さんは小学校1年生の時、上高地で倒れて中尾へ運ばれていた常さんに水を飲ませたことを覚えているとのこと。

 

近代になって槍・穂高岳周辺で最初に山案内人の名が登山史に登場するのは、よく知られている島々の猟師上条嘉門次である。

 

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 ウェストンと嘉門次(左)

 

明治26年(1893)8月、参謀本部陸地測量部の館潔彦測量掛が三角測量の選点のため前穂高に登った時同行し、この2週間後にはウォルター・ウェストンを明神岳東稜から前穂高岳へ案内している

 

嘉門次は14歳で上高地へ入り、杣小屋のカシキからはじめて杣仕事に従事。その後明神池畔に小屋を作ってイワナ漁や狩猟をするようになった。

 

カモシカや熊を追って穂高周辺を広く歩き回るうち、登山者を安全に導くことができる卓越した知識、技術を身につけていった。

 

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この嘉門次に弟子入りしたのが常さんで、明治34年、17歳の時であった。

 

口利きは中尾集落の猟師頭中島市右衛門。中島はウェストンが笠ヶ岳へ登るため奥飛騨へ入った時世話をした人だ。(前々回を参照)

 

同時期に岐阜県細江村数河出身の大井庄吉も弟子入りし、2人とも嘉門次の助手になって猟を学び、嘉門が大正6年に亡くなった後もイワナ漁や登山者の案内をしてそれぞれ上高地に住んでいた。

 

酒好きで「天衣無縫」「無欲恬淡」の常次郎のほうは、慶応や学習院などの学生に「常さん」といって慕われた。

 

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大正7年8月には英国人W・H・エルウィンを槍ヶ岳北鎌尾根の上部へ案内している。

 

昭和2年八月、秩父宮が槇有恒のリーダーで奥穂高岳から槍ヶ岳、双六岳から笠ヶ岳まで縦走されたとき、常次郎は中畠政太郎、今田重太郎、大井庄吉とともに選ばれ、案内についた。

 

昭和9年、秩父宮ご夫妻が常さんを伴って明神池でイワナ釣りをした時、妃殿下を「おかみさん」と呼んだエピソードが残っている。

 

昭和10年には、慶応大山岳部創部20周年記念に、中尾の中島作之助、立山のガイド佐伯栄作ほか1名と東京へ招待された

 

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行く前に背広を仕立ててもらい、東京には3週間も滞在した。

 

一流のホテルに泊まり、帝国ホテルでごちそうを食べるなど大歓待してもらったが、常さんは上高地の小屋と比べると居心地が悪いので早く帰りたいと言っていたという。

 

「銀座の道は山より危ない」というので理由を聞くと、「スベスベしていて指先がひっかからないので」といった話が残っている。「車が多くて怖い」とも言っていたそうだ。

 

常さんは後々までなぜこれだけ慕われたのだろうか。

 

これは登山家加藤泰安と松方三郎が書いていることに尽きるであろう。

 

学生時代に常さんの小屋に入り浸りだった加藤は、「常さんは小屋代や岩魚代を一切受け取らなかった」「途方もない超好人物」と言い、

 

松方は「いつも変わらぬ温かい心の持ち主」と書いている。

 

彼らは、都会にはいない、会うと心が安らぐ、無欲な人柄に傾倒していたようだ。

 

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 いつも愛犬と

 

中国の老子思想では、人はことさらに知や欲をはたらかせず、すべてを分かち合って自然に生きる(無為自然)のをよしとするが、常さんはそのような人物だったようだ。

 

ウェストンは、まだ西洋文明が及んでいない日本の山村の人々に接した時、その素朴さ、思いやりの深さに何度も感動している。

 

そして「われわれ(西洋人)が誇る20世紀の人工的物質文明の魔の手が届いていないので、汚れや人擦れがない」「一生そこから出たことがなく、また教育もないのに、真の意味での紳士がいた」と書いている

 

本人の資質が大きいであろうが、昔の日本の農山村にはこのような人がいたことは確かだ。

 

そんな常さんは、一時清水屋付の小屋、五千尺脇の小屋、温泉ホテルの豆腐小屋などを転々とせざるを得なかった。

 

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これは、大正13年釜トンネルが手掘りで開けられ、昭和8年大正池まで乗合バスが入り、同年帝国ホテルが開業すると次第に観光地になり、ここでの金儲けがあたりまえになるのにしたがって、学生を小屋に無料で泊め、ただ飯をくわせている常さんが煙たかったからだ

 

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小屋を追われて途方にくれている姿は、先日読んだ加藤博二著の『山の彼方の棲息者たち』にも出ていた。

 

加藤は、「上高地の主常さん、上高地を追わる」と新聞に出ているのを見て、金儲けのために理不尽なことをする連中に憤慨し、上高地が山の資本家によって都会化してゆくのを嘆いている。

 

その後慶応山岳部のO.Bなど支援する人も現れ、昭和7年奧飛騨登山者案内組合の出先の名目で営林署から土地を借り、国民新聞社脇に小屋を建ててもらい、昭和24年まで住んだ。

 

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ここへは槇有恒、田口二郎、松濤明、加藤喜一郎など多くの登山家が訪れている。

 

戦地から帰った松濤明が、戦後久しぶりに常さんに会った時の様子が『風雪のビバーク』に載っている。

 

昭和22年10月12日、夜島々から入ってイワナ止めに泊まり、翌朝徳本峠を越える。

 

峠で穂高との再会の感激に浸ったあと、上高地で常さんの変わりようにショックを受け、初めて自分の変わりよう人の変わりように気づく。

 

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 『風雪のビバーク』から

  3人とも昭和24年に逝去している

 

この時の様子を、「脚が痛んでならんのじゃとつぶやく声も嗄れてめっきり弱々しくなった」

「激しい時の流れがこの素朴な山人にも最も強く現れているとしても仕方がないことだ」と書いている。

 

そして「私たち若いものにはまだ夢が持てるが、常さんはそれも難しいだろう」などと書いていた松濤は、昭和24年1月6日北鎌尾根で逝ってしまった。享年28。

 

松濤が凍死の寸前に手帳に書いた「有元ヲ捨テルニシノビズ、死を決ス」に始まる遺書は今でも胸を打つ。

 

恐らく松濤の悲報を聞いていただろう常さんは、その年の10月に倒れ、中尾集落へ運ばれて12月に息を引き取った。享年66。

 

岳人にとって桃源郷であった上高地は、この頃観光地となってしまい、山人の常さんが住めるとろでは無くなっていた。

 

彼はいい時期に上高地を去ったといえるだろう。

 

亡くなる前に「上高地の土になりたい」と言っていたという。

 

昭和42年秋、上高地の彼の小屋跡(現中日新聞そば)に石碑が建立された。その下には遺髪だけが埋めてある。

 

石碑の建立が遅れたのは、彼が信州の人ではなかったからだそうだ。

 

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 槇有恒の揮毫

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奧飛騨の山案内人たち2―北穂高岳の積雪期初登頂や滝谷初登攀などの裏方

2020.06.14 Sunday

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 久方ぶりの御嶽山 まだ噴煙が昇っていた(6月7日)

 

自粛解除後の登山再開にあたり、山岳四団体がガイドラインを示し、山小屋やガイドなど山を生業としているグループが「登山withコロナ」としてリスクマネジメントを発表している。

 

読んでみると、登る前の準備、登山中、下山後とも、感染防止対策は多岐にわたる。

 

移動先の医療リソースを調べる、休業の山小屋もあるので情報を入手、飛沫対策用品や消毒用のジェル、スプレーの携行、すれ違いのあいさつはほどほどに、クサリ場、水場のコップ、他人の道具などの接触注意、休憩では混む場所を避ける、小屋での過ごし方はこれまた注意が多すぎて読んでいるうち面倒になり、これならいっそ行かないほうがいいとの結論になった。

 

「コロナはこわいが、なんとか山へ来てもらいたい」という、山で食べている方々の切実な気持がわからないではないが・・。

 

もともと隠居は混む山や山小屋には近づかないようにしているが、今年のお年寄り諸賢の山は、密を避けるため、仕事現役の若い人に譲ったほうがいいのではないかと思う。

 

ただこのところ飛騨では焼岳付近を震源とする群発地震が続き、右俣の登山道に大きい落石があったリ、林道に亀裂が入ったりの被害が出ていて、稜線など登山道の浮石が心配だ。

 

さて奥飛騨の猟師=山案内人の続き。

 

その後奥飛騨の猟師たちは、大正3年日本アルプスにおける探検黄金時代の棹尾を飾ったと言われる小島烏水の双六谷探検に同行する。

 

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 双六谷上流部

 

小島を案内したのは下佐谷集落の猟師高田勘太郎大倉弁次らで、彼らにとっての双六谷は庭みたいなもの、この探検の成功は二人に負うところが大きかった。

 

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 源流から双六池へ到達

 

小島は後に書いた『飛騨雙六谷日記』に、「高田(50歳)と大倉(20の二人は路案内に精(くは)し、大倉は少年にして精悍なり、高田は一徹なれどさすがに落ち着きありて、人夫中の頭領なる貫目あり、豪謄にして恐れず」と、高田の頑固さに少々閉口しながら、結果褒めている。

 

もちろん会ったことはないが、この文から山中でどんなことに遭遇しても動じない頼もしいベテラン猟師高田の、一面融通がきかない飛騨の山人特有の縄文顔まで想像してしまった。

 

この頃高田の弟子だった大倉弁次は、後に双六谷や黒部渓谷へかの冠松次郎を案内できるまでに成長し、穂高あたりへも客を案内している。

 

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 大倉弁次

 

大倉は、大きい体ながら小心で大人しい性格だったという。

 

彼は猟師が使うカンジキ作りの名人で、壊れないことで定評があった

 

近代登山の黎明期、はじめは無雪期各地の主な山の登頂が目的になっていたが、大正後期から登り方が大きく変わり、岩登りや積雪期登山など、よりスポーツ性が強くなる。

 

これは大正10年(1921)9月にヨーロッパ・アルプスでアイガー東山稜初登攀を果たした槇有恒が帰国し、「岩と雪」の山を登攀する技術と思想を伝えたからだ。

 

この頃から早大や慶大、学習院などの山岳部の学生が中心になって、剣岳や槍・穂高岳でより困難な登高が行われてゆく。

 

厳冬期の初登頂などこの時期の登山記録は、日本近代登山史に今も金字塔として聳えているが、これを裏で支えたのが、奥飛騨の中尾、蒲田などの山に精通していた猟師たちであった。

 

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 厳冬の穂高

 

彼らは顧客を導いて現在でも難しい厳冬期の槍・穂高岳を歩いたり、ザイルを結んで滝谷を攀じたりする高度な登山技術を習得しており、ヒマラヤ登山のシェルパと同じであった。

 

しかしこれらの案内人たちの名は登山史にほとんど残っていない。

 

これは明治生まれの飛騨人というより、この頃の山人特有の過剰ともいえる謙虚さから、彼らは皆自分の山歴をなんら語ることなく鬼籍に入ってしまったからだ。

 

もちろん顧客への遠慮はあっただろう。

 

登山史の陰に隠れていた飛騨人の輝かしい功績を改めて世に紹介しようと、その末裔が住んでおられる中尾集落などへ足を運んで調べている。

 

飛騨の山案内人は次のような人々だったが、一般にもよく知られているのは、上高地に住んでいて有名だった常さんこと内野常次郎(次回詳しく)と、穂高小屋を建てた今田重太郎、あと中畠政太郎くらいだろうか。

 

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 今田重太郎

 

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 大正14年穂高小屋が完成 白出沢から材を担ぎ上げた

 

中畠は、徳沢園から前穂高東面登攀のベースキャンプ地奧又白池へ至る道を拓き、隠居が奧又白へ通っていたころ「中畠新道」と呼ばれていた。

 

〈中尾集落〉中島作之助・杉本為四郎・滝沢喜一郎・中畠政太郎・内野政之助・(内野常次郎)

〈蒲田集落〉今田金次郎・今田由勝・今田重太郎・今田友茂・下毛熊次郎

〈栃尾集落〉松井憲三・松葉菊造 

〈下佐谷集落〉大倉弁次・高田勘太郎

柏当集落〉向丸清丸

〈上地ヶ根集落〉小瀬紋次郎

 

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 完成間もない穂高小屋の前で後列左から

 今田重太郎 中畠政太郎 今田由勝 杉本為四郎 小瀬紋次郎 

  前に犬といる人 内野常次郎

 

いちいち彼らの活躍を書くと長くなるので、以下よく知られている記録を少しだけ紹介したい。

 

大正元年(1912)8月13日、中島作之助は、槍ヶ岳〜穂高岳の初縦走者鵜殿正雄と上高地から天狗のコル経由で奥穂高岳に登頂して上高地へ戻り、翌14日上高地から再び天狗のコルを経て西穂高岳に登頂。あと西穂高沢から下降した。

 

中島は蒲田川筋一番の山の精通者で、松井、杉本など多くの後輩を育成している。

 

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 中島作之助 

 いちばん経験が深く、案内人を育成した

 

大正4年(1915)8月には、今田金次郎(今田兄弟長兄)が飛騨山岳会員の中野善太郎と白出沢を登って奥穂高岳から西穂高岳への初縦走し、小鍋谷を下っている。(大正5年5月号日本山岳会『山岳』に記録が掲載)

 

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大正13年(1924)3月には、松井憲三、杉本為四郎、下毛熊次郎が慶大の大島亮吉ら八名を案内して涸沢に入り、3月31日に奥穂高岳の積雪期初登頂に成功した。

 

そして4月6日には、大島亮吉と松井憲三が悪天の中、北穂高岳に積雪期初登頂をした。

 

このとき松井は頂上直下の氷の急斜面に鉈でステップを刻んで大島を導いた。

 

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その後一行はベースキャンプを岳沢に移し、4月11日には前穂高岳の登頂に成功している。

 

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 松井憲三 北穂へ登った時は29歳、滝谷に登った時は30歳

 後に初代北飛山岳救助隊長に

 

大正14年(1925)8月13日には、日本の登山史上今でも語り継がれている偶然にも同じ日に2つの隊による初登攀が北穂高滝谷で行われた。

 

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 滝谷出合

 

松井憲三は関西RCCの藤木九三と組み、(下毛熊次郎と富田砕花はテントキーパーで残る)今田由勝と向本清丸は早大の四谷竜胤と小島六郎を案内してそれぞれ滝谷を初登攀したのである。

 

時間的には藤木隊がA沢をつめて先に登っているが、核心部を通過したのはD沢を登った早大隊といわれている。

 

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翌大正15年7月31日、今西錦司ら三高のメンバー五名が奧又白から前穂北尾根4、5峰のコルへ達し、コルから涸沢への雪渓を下降中、今西など3名がクレバスに転落し重傷を負った。

 

近くにいた慶大、明大のメンバーのほか飛騨のガイド中畠政太郎、内野常次郎らが救出にあたったが、翌日1名が死亡した。

 

昭和3年(1928)3月には、日本の山岳界で将来を嘱望されていた慶大の大島亮吉が前穂高北尾根で墜落死するというアクシデントが起きた。

 

その後2回の遺体捜索でも発見できなかったが、6月1日に内野常次郎、中畠政太郎、今田重太郎が四・五コルのルンゼで発見し、収容された。内野が連れていた愛犬が見つけたといわれている。

 

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 前穂北尾根

 

昭和6年12月20日から翌年の1月1日には、今田由勝が立教大の二名に同行して槍ヶ岳から奥穂高岳への厳冬期初縦走を行っている。

 

同年12月26日から翌年1月6日にかけて、中畠政太郎は学習院の加藤泰安と、槍ヶ岳から西穂高岳という長躯の初縦走を行った。

 

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 中畠政太郎

 

このように彼らは数々の登山記録樹立に貢献してきたが、この頃で飛騨山脈北部の積雪期初登頂時代は幕を下ろし、前穂高東壁や滝谷、屏風岩などを登るバリエーションルートの開拓時代へと入ってゆく。

 

そして今まで早大が行っていたサン・ギイド(ガイドレス登山)が各大学に広まったこともあって、顧客は一般登山者が主体となっていった。

 

従って飛騨の案内人が登山史に残る活躍をしたのは、大正から昭和のはじめにかけての10年間ほどといえようか。

 

特筆しておかなければならないことは、学生たちとの関係は単なる報酬による雇用関係だけではなかったことである。自身も山に情熱を燃やして登山技術を習得し、命がけで厳しい登山を支えた彼らは、もう学生たちの山仲間、同志であった。

 

素朴で誠実な人柄は学生たちに愛され、後々まで交流があった。そして学生の人生観にも大きい影響を与えたようである。 

 

<以下余談―しょせん山は「好きだから登る」だけでいいのだが、御託を並べる癖がある隠居におつきあいいただける方のみ覗いてみてください。>

 

紹介した大正末期から昭和の戦前にかけて穂高岳などで行われた積雪期、厳冬期のピークの初登頂争い、それに続く北穂滝谷、前穂高東面、屏風などの岩場で華々しく展開された初登攀争いのことなど、今の登山者で知る人は少ないだろう。

 

この未知と困難を求め、生命を賭した冒険的な登山はアルピニズムと呼ばれ、戦後も昭和40年代頃まで続き、不肖隠居もその戦列にほんの少し加わったことがある。

 

その間多くの若者がその冒険に殉じた。

 

「知的欲求の肉体的表現」「純粋遊戯」とかいわれるこのやっかいな思想については、長くなるのでまたの機会に語ることにしたいが、今の若い人にとっては「戦争に行った話」を聞かされるようなもので、いやがられると思う。

 

また年を取ってから登山をはじめ、山小屋でごちそうがないと不満を言うなど、山の中でも安穏や快適さを求める今の中高年登山者には、かつて冒険を求めての厳しい登山があったことなど理解されないだろう。

 

アルバート・フレデリック・ママリーなどというと、ママレードの一種かと言われそうだ。

 

ただここで分かりやすく日本古来の信仰登山に当てはめれば、アルピニズムが「弧高の修験者」であり、百名山巡りや無雪期のピークハント、低山ハイキングなど危なくない登山を行っている今の中高年の登山は、「講中登山」と言えるだろう。

 

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 2018年、10日間の大峰山中で唯一出会った修験者(掲載了解ずみ)

 

現代は講中登山者ばかりが多くなって、奈良時代に剣岳に登った修験者のような命がけの冒険(二元論とはちがう個々の内面への旅)にこだわる登山者は希少種になってしまった。

 

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 御嶽山の講中登山

 お年寄りや子供も交じり、助け合って登っていてほほえましい

 

ただ、登山の方法としてどちらがすぐれているとは言えない。

 

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奧飛騨の山案内人たち1―ウェストンを笠ヶ岳へ案内した猟師

2020.06.03 Wednesday

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 まだ馬がいた(5月30日・上宝町)

 

富士登山道が閉鎖になり、南アルプスの山小屋や飛騨では笠ヶ岳山荘が休業を決めるなど、コロナ禍で今年の夏山は寂しいものになりそうだ。

 

そもそも登山は衣食住が足りてから行うものなので、今の時期現役の人はそれどころではないだろう。

 

登山者が少なければ、束の間ながら自然回復ができて山は喜ぶが、山で食べておられる小屋関係やガイドなどはたいへんだと思われる。

 

さて隠居は認知障害の頭を騙しつつ、飛騨の登山史を調べて郷土の歴史研究会の紀要などに載せ、悦に入っている。

 

今取り組んでいるのは、明治から昭和初期に飛騨山脈で案内人として活躍した奥飛騨の猟師たちのこと。

                    

穂高の厳冬期初登頂などに貢献しながら、今まで登山史の陰に隠れていた彼らのことを書き残そうと、その末裔を尋ねたりしていろいろ調べているが、知られていなかったことが出てきたりして、なかなか面白い。

 

明治になって西洋から近代登山が移入され、初期は外国人が、そして明治38(1905)に日本山岳会が創立されたころからは日本人が未知の山に登りだし、探検登山黄金時代、アルピニズムの勃興期である銀の時代(岩と雪の時代)へと続いてゆく

 

周知のとおり、その黎明期に案内や荷運びなどで支えたのが、飛騨山脈では越中の芦峅・大山、信州の中房・大町・島々、そして飛騨の中尾・蒲田などの地元の山に精通していた猟師、釣り師、杣人などの山人であった。

 

山岳の情報がほとんど得られなかったこの時代、彼らの協力無しでは学術調査や測量の成果は得られず、近代登山史に残る数々の記録樹立などは到底無理であったろう。

 

現在のような登山道も山小屋もなかった時代である。

 

登山を支えた山人のうちどの地方でも猟師が多かったのは、近世から近代のはじめまで、日本中の標高が高くてコメが採れない山村では、どこでも焼畑農耕のほか狩猟や採集に拠っており、彼らが地元の山に精通していたからである。

 

飛騨高地の山村にも猟師が多く、近代になって山案内人をいちばん多く輩出している焼岳山麓の中尾集落や蒲田集落、そして蒲田川(高原川)沿いのほかの集落もそうであった。

 

熊やカモシカを追っての彼らの行動範囲は驚くほど広かった。

 

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蒲田川右俣谷・左俣谷、笠谷、下佐谷、双六谷とその支谷を中心に、笠ヶ岳から双六岳、西鎌尾根、三俣蓮華岳、黒部五郎岳、北ノ俣岳、薬師岳の稜線にまで及んだ。

 

岩井戸集落の小野という猟師などは、白山、御嶽、立山、黒部まで足をのばしており、17歳から76歳までの間に熊70頭、カモシカ273頭を獲り、そのほかは記憶にないと言っている。(昭和11年小野翁が80歳のときの話)

 

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猟は数人で組んで雪の中で何日も泊まりながら行うが、集落ごとに縄張りが決められていたという。

 

この猟で培われた土地勘や生活技術などは代々受け継がれ、後に登山者を案内する時におおいに役立つことになる。

 

飛騨で最初に登山史に名前が出てくる案内人はやはり猟師で、明治27年(1984)8月ウェストン一行3名が、3度目の挑戦で笠ヶ岳に登り

に来た時だ。

 

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またも蒲田集落の区長に案内人不在を告げられて途方に暮れていた時、案内を買って出てくれたのが栃尾集落の猟師奥村市次郎であった。

 

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 栃尾の猟師 奥村市次郎

 

ウェストンはこの奥村市次郎のことを、この階級では珍しく眉目秀麗で、レバント海岸(東部地中海)にいる人のようだと書いている。

 

奥村は中尾集落の猟師頭中島市右エ門宅にウェストンを泊め、翌日同じく中尾集落の猟師山本竹次郎と笠ヶ岳(実際は小笠=抜戸岳だったが)へ案内をしてくれたのである。

 

ウェストンはこの中島市右エ門も「がっちりした顔形の整った、今まで見なことがない容貌の持ち主」と書いている。

 

ルートは猟師たちがいつも通っている穴毛谷(この時期クリヤ道はまだない)を往復したが、ウェストンはこの時の奥村市次郎の的確な案内ぶりをいたくほめている。

 

穴毛谷は、隠居も若い時に4の沢の岩場に通ったリかなりの回数入っているが、河原を歩くので道はなく、中ほどから雪渓に覆われていて、8月に入ると雪渓の崩落がはじまる危険なコースで、熟知していないと通過できない谷。

 

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 穴毛谷

 

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 穴毛大滝

 

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 穴毛谷上部しゃくし平から稜線

 

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 稜線からしゃくし平と穴毛谷上部

 

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 抜戸岳(小笠)

 

以前にも書いたが、隠居が数年前にウェストンの手記を検証した結果、猟師たちはウェストン一行を笠ヶ岳でなく抜戸岳へ案内していたことが判明した。

 

奥村は信心深い蒲田集落の人々の気持ちを忖度し、播隆などの仏像が安置されている本峰を避けて抜戸岳へ案内したのである。

 

当時は穂高がそうであったように、この山塊一帯を笠ヶ岳と呼び、抜戸岳は小笠とも呼ばれていたので、3度も登りに来た外人を気の毒に思ってのやさしさ、義侠心から案内をかって出たと思われる。

 

報酬が主目的でないかとするむきもあるが、明治初期の旅行者に擦れていない農山村の人々はまだ報酬というものに淡白であり、特に外国人からお金を受け取って自分たちを貶めるわけにはいかないという気分をもった人が多かったようだ。

 

これは明治のはじめ、東北から北海道へ旅をした英国人女性イザベラ・バード著の『日本奥地紀行』にもある。

 

猟師や樵たちが登山の案内で決まった報酬を得るようになったのは、大正には入ってからだ。

 

その夜は中尾に泊り、翌日猟師頭中島から猟の時の服装、装備などを詳しく聞き、ハミルトン(当時名古屋在住の聖公会派宣教師・カナダ人)はそのいでたちを写真に撮っている。(ウェストン著『日本アルプス登山と探検』から)

 

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 武器は旧式の銃と槍と重いナイフ(鉈のこと?)

 さらに熊と組んだときの小刀も ワカンジキを履いて見せている

 

翌日奥村と山本は、ウェストン一行を送って中尾峠を越えて上高地へ下り、徳本峠から島々へ出て梓川対岸の橋場で別れるが、そのときハミルトンは2人の写真を撮った。

 

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 中尾峠から見た上高地

 

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 徳本峠

 

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 橋場にて 左山本竹次郎 右奥村市次郎

 

ハミルトンは律儀にも、後日この写真を岐阜の写真館から高山の瀬古写真館経由で中尾集落へ送っている。

 

なお、先年ウェストンの登山を助けた3人の猟師のご子孫訪ねてみたが、今もその場所に住んでおられ、いずれも明治期先祖が外人さんを笠ヶ岳へ案内したことを知っておられた。

 

栃尾で旅館をやっておられる奥村家では、仏壇にあった市次郎の遺影(前に掲載)をお借りすることができた。

 

これをよく見ると、ハミルトンが橋場で撮ったものをトリミングして修正をほどこしたものであることがわかった。

 

なおイケメンの市次郎は、生涯独身だったそうだ。

 

奥村家はご長男が継ぎ、現在まで続いている。

 

平成が終わって令和に入り、ウェストンが日本の山を楽しんだ明治はさらに遠くなった。

 

<以下余談 民俗学などにご興味のおありの方どうぞ>

 

宮本常一著『山と日本人』(八坂書房・2013)のこと

 

先に「日本中の標高が高くてコメが採れない山村では、どこも焼畑農耕のほか狩猟や採集に拠っていた」と書いたが、歩く民俗学者宮本常一は、日本に「山岳民」なるものが存在したという話を『山と日本人』に書いていて、昔の山村の暮らしに関心を持っている隠居はたいへん興味深く読んだ。

 

日本の標高800mから1000mくらいの山岳地帯には、水田耕作をする「平地民」とはちがう、焼畑耕作にはじまる畑作を中心とする文化をもった「山岳民」と呼ばれる民族が存在しており、彼らは縄文文化の系譜を継ぐものだと言っている。

 

たとえば九州の米良(めら)、椎葉、諸塚、五木、近畿では吉野の天ノ川、大塔、十津川、長野県伊那の下栗など。

 

飛騨でも即座に何箇所か思いつく。

 

この説は柳田国男の「山人」を意識して書かれたとも言われるが、柳田との違いは、宮本が漂泊民や被差別民などによりあたたかい眼差しを注ぎ、民俗誌だけでなく生活誌にまで踏み込んだことだろう。

 

日本は豊かな森林地帯を抱え、その半分以上に天然林が残されている稀有な国で、様々な山の民俗を育んできたが、その豊かな自然に育まれた山村の暮らしが過疎化で急速に失われつつあるのは残念なことだ。

 

もともと山と里の生活には優劣がなかったのだが、このバランスが崩れたのは米の石高制が敷かれた近世以降、近くは高度成長期といわれる。

 

飛騨でもすでに何箇所かの山の集落が消えている。

 

宮本は生涯日本各地をフィールドワークし、主に離島など海で生活している人々のレポートを多く書いているが、山村も結構歩いている。

 

その調査記録の大部分は未来社から刊行されていて、著作集は50巻にも及ぶ。

 

宮本は飛騨へも何回かきており、郷土史研究会の紀要『ひだびと』に寄稿している。

 

隠居は山村を歩くとなぜか心がなごむが、これは「山岳民」のDNAのせいであろう。

 

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 黒部五郎岳(5月30日・上宝町)

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笠ヶ岳・穴毛小屋のこと

2019.09.10 Tuesday

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 抜戸稜線からの笠ヶ岳

 

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 西穂高岳からの穴毛谷 左が2ノ沢 頂上下が4ノ沢

 

9月に入っても天候不順が続いて山へ行けなかったので、登山史のこぼれ話を。

 

もともと9月は、花が少なく紅葉には早いので山行には中途半端な月だが、若い頃は花や紅葉より岩のほうがよくて、この時期に結構岩登り山行をしている。

 

その時期笠ヶ岳東面の岩場へ通っていて泊まったのが、今はなき穴毛小屋だ。

 

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今ではこの小屋のことを知る人は少なくなった。

 

昭和30年から40年代にかけ、先鋭的なアルピニズムを実践する若者が「未知と困難」を求めて、谷川岳や穂高岳など各地の岩場に新しいルートを拓くことに熱中した時期があった。

 

パイオニアワークという言葉に支えられた行為は、今思えば一種の熱病みたいなものだったと言えないこともないが、その後彼らの一部は小さな安定に背をむけ、ヒマラヤの未踏峰、未踏ルートへと向かっていった。

 

ちょうど高度成長期と重なり、日本人がエネルギッシュに世界中を駆け回っていたころだ。

 

笠ヶ岳東面穴毛谷の2ノ沢、4ノ沢の奥に聳える岩壁群もその対象になり、大学山岳部や都会の山岳会、そして地元飛騨山岳会も初登攀を競って入山していた。

 

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 穴毛谷 本谷

 

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 2ノ沢 →小屋の位置

 

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 4ノ沢

 

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 穴毛大滝

 

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この時期クライマーたちが宿泊に利用したのが、2ノ沢下部左岸の台地にあった通称「穴毛小屋」だった。

 

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これは廃鉱になった鉱山の建物を勝手に利用していただけだったが、半壊ながら2階もあり、畳の部屋も残っていて、小屋の裏にはまだ鉱口があった。

 

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この開拓ブーム後半に加わった隠居はまだ20代。

 

小屋の板壁には誰が書いたのか「強く、激しく、美しく生きた若き日の紋章をあの岩壁に刻む」の大きい墨書があった。

 

隠居はこの文におおいにかぶれ、今は亡きH氏と土曜日の夜に小屋まで入って泊り、翌朝4ノ沢の雪渓を登って第1岩稜の未踏の岩場へせっせと通った。

  

そして岩壁に多くのハーケン、ボルトを打ってしまったが、クリーンクライミング全盛の現在ならA級戦犯ものであろう。

 

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 4ノ沢第1岩稜

 

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 4ノ沢第1岩稜(中央)左側壁に新ルートを拓いた

 

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 第1岩稜左側壁新ルート 約200m

 

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 取りつきからテラスまでのピッチ

 

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 テラスから上の大スラブ

 

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 このあと間もなく夭逝してしまった後輩H氏の華麗なクライミング

  H氏とは錫杖岳でもよく組んだが、天才的なクライマーだった 

 

この小屋は昭和50年代に雪で全壊し、草に埋もれてしまった。

 

その後穴毛谷には砂防堰堤が多く造られ、遭難が多いため危険区域に指定されて、入る人がいなくなった。

 

実は最近になってこの小屋の持ち主が判明した。

 

近年山スキーのクラブで京都のTさんと知り合いになったが、笠ヶ岳の話をしていて、Tさんの父君がこの鉱山を経営しておられたことを知ったのだ。

 

笠ヶ岳鉱山は、戦前から2ノ沢出合いで亜鉛を採掘していたが、採算が採れず昭和20年代に閉山にしたそうだ

 

採掘した鉱石はケーブルで今の新穂高にあった選鉱場まで下しており、Tさんは中学生の時に見学に来たという。

 

父君は、飛騨では天生峠付近に金鉱山も持っておられたとのと。

 

話は穴毛小屋から飛ぶが、昭和23年の春、新穂高にあった鉱山の社宅は、登山客を泊める「中崎山荘」という宿になった。

 

ここに勤めたのが、井上靖の山岳小説『氷壁』のモデルになった高山出身の芳田美枝子。

 

錫杖岳へ登りにきて、開業間もないこの宿に泊まった登山家松濤明と知り合いになり、その後冬の北鎌尾根から西穂高まで縦走し上高地へ下山するはずの松濤を、美枝子は上高地で待ち続けた。

 

上高地へは、新穂高から単身雪の西穂稜線を越え、失意のうちにまた往路を戻っている。

 

井上靖がこの悲恋話を拾い、前穂高東面でのザイル切断事件とからめて小説にしたのはご存知のとおりだ。

 

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その後この宿は「氷壁の宿」として売っていた。

 

近年中崎山荘は河川改修で立ち退きとなり、ロープウェイ駅の下へ移転した。

 

余談は続くが、この地を「新穂高」と命名したのは、美枝子の父親で飛騨山岳会の副会長をやっていた芳田武雄だった。

 

芳田は高山で教員をしていてスキーも国体選手で、美枝子も国体に出場している。

 

鉱山社主の依頼でこのあたりの観光開発の可能性を探るため、毎日新聞の竹節作太(1936年立大ヒマラヤ・ナンダコット遠征隊員)と芳田の父親など飛騨山岳会員数名がこのあたりに入り、そのとき命名したという。

 

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小屋の話が回顧談になってしまったが、今でも新穂高に立って穴毛谷を望むと、穴毛小屋に泊って岩壁登攀に熱中した若き日の自分とH氏の姿が彷彿として蘇る。

 

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笠ヶ岳と南裔(なんねい)禅師

2019.07.02 Tuesday

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 笠ヶ岳の馬も首だけになった(6月26日)

 

笠ヶ岳の登頂者は、富山出身の僧播隆(ばんりゅう)が有名だが、実はその播隆より40年前に地元高山宗猷寺10世の南裔(なんねい)禅師が登頂していることはあまり知られていない。

 

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天明3年(1783)に登頂して仏像と鉄札を安置しており、播隆はその40年後に登ってこのことを知り、再興を思いついた。

 

南裔の登山の目的は、天明年間が全国的に天災地変の多い年で大規模な飢餓が発生、天明3年の春には浅間山が噴火して死者2万人が出ているので、これらの災いの鎮護祈願であったともいわれている。

 

登山ルートは播隆と同じ笠谷からと思われるが、登山記が見つかっていないのでよくわからない。

 

 

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 南裔が頂上に残した鉄札を、40年後に登った播隆が持ち帰った。

 同行した宗猷寺の北洲禅師や案内の今見右衛門の名が刻まれている。天明2年になっているが、実際は天明3年説が有力。

 

一昨年(2017年)が南裔禅師入寂(没)210年にあたることから、禅師の偉業を顕彰し、宗猷寺住職はじめ有志で笠ヶ岳に登り、山頂で慰霊祭を行った。

 

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 僧形の住職

 

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南裔は若い時期に江戸で仏教を学ぶ傍ら書の大家三井親和に篆書と篆刻を学び、飛騨に多くの書を残している。

 

このたびその墨蹟を集めて、宗猷寺で展示を行った。

 

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 臨済宗の名刹宗猷寺 山岡鉄舟の両親の墓がある

 

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 住職が書いた篆書の看板「南裔禅師展」

 

隠居が「南裔禅師と笠ヶ岳」と題して、南裔の登山について駄弁を。

 

そこで飛騨では播隆より地元の人南裔を顕彰すべきだと訴えた。

 

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南裔がよくした篆書体(てんしょたい)は、漢字の書体の一種。「篆書」「篆文」ともいう。

 

広義には秦代より前に使用されていた書体全てを指すが、一般的には周末の金文を起源として、戦国時代に発達して整理され、公式書体とされた小篆とそれに関係する書体を指す。

 

公式書体としての歴史は極めて短かったが、現在でも印章などに用いられることが多く、「古代文字」に分類される書体の中では最も息が長い。パスポートの表紙「日本国旅券」もそうだ。

 

南裔禅師の篆書は呪術的な雰囲気もあるが、どこかおどけたユーモラスな感じもあり、意味はわからなくても眺めているだけで飽きない。

 

今回は寺所有のもののほか、市内在住A氏の収集品も多く貸していただいた。その一部をご覧ください。

 

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 草書も書いている

 

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 これははじめ解らなかったが、書道の先生が「眉寿」と解読

 

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隠居は2011年に地元の歴史の会の紀要『斐太紀』に南裔のことを書いたが、そのとき旧丹生川村に生家が残っていることを知り、取材に行った。

 

そして書などを見せてもらうことができた。

 

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 生家にあった書

 

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その紀要には『南裔禅師と笠ヶ岳』という題で駄文を載せたが、文末に以下のような文を書いて「まとめ」としている。

 

 「江戸まで書や篆刻を学びに行くなど好奇心旺盛な教養人、風雅人の禅僧南裔。苦業僧としての円空や播隆とはちがったタイプの人物  

 だったようで、同郷人の身びいきもあり、魅力を感じる。

  江戸の中期頃から、人々の自覚なしに「近代」という潮が次第に満ちてきていたが、登山に関しても宗教的登山とは別に大淀三千風、 

 橘南谿、池大雅など文人墨客が趣味としての旅行と登山を盛んに行うようになっていた。明治になって西洋から移入された「近代登山」 

 が、既に日本で独自に行われていたことに驚かざるを得ない。

 江戸でこの空気に触れたはずの南裔の登山は、宗教目的のほか、趣味人として登山そのものを楽しむ目的もあったような気がする。」

 

今年も慰霊登山が予定されている。

 

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加藤文太郎と飛騨の関わり

2018.12.12 Wednesday

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 12月10日の飛騨山脈

 

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飛騨山脈もしっかり雪をまとい、いよいよ冬山、山スキーシーズンの到来だ。

 

隠居の年代の登山者なら、冬山に殉じた不世出の単独行者=加藤 文太郎(明治38年〜昭和1115日)を知らない人はいないだろう。

 

新田次郎の山岳小説『孤高の人』を読んだ人も多いと思う。

 

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昭和初期に単独行で積雪期の峰々に登頂をし、なかでも槍ヶ岳冬季単独登頂や、厳冬期富山県から長野県への飛騨山脈単独縦断によって一躍有名になった。

 

昭和11年(19361月、数年来のパートナーであった吉田富久と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑むが、猛吹雪に遭い天上沢で行方不明となった。

 

このとき飛騨の槍見温泉に泊まり、右俣から槍ヶ岳へ入山していたため、地元の飛騨山岳会へも捜索の協力依頼がきて出動したようだが、結果発見できず捜索はうち切られた。

 

このほど山岳会の古い書類のなかからその時の礼状が見つかった。

 

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そして3月には、職場や地域山岳会による遺体捜索組織ができ、5月中旬に現地へ入る旨の連絡と、情報提供の依頼がきている。

 

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捜索隊が入る前の427日、天上沢にて遺体が発見され、遺骨が神戸へ帰った旨の報告、礼状が届いている。

 

発見したのは松本高校の木村、中島氏であった。

 

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加藤は享年30。当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じた。

 

今改めて『単独行』を読んでみると、超人的な登山歴に驚いてしまう。

 

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登山をはじめて間もない頃の夏山の記録を見ると、その健脚ぶりにまず驚愕。

 

大正15年、燕岳から槍穂を縦走して上高地へ下り、焼岳から安房峠へ出ていったん平湯へ下山。大滝コースから乗鞍に登頂し、南面の阿多野コースを下って日和田に向かう。日和田から御嶽継子岳に登り、縦走して王滝村へ下り上松へ。上松から木曽駒ケ岳へ登って空木岳、南駒ヶ岳へと縦走し、難路の黒覆尾根を国鉄飯田線の飯島駅まで下っている。

 

圧巻は、先に書いた昭和6年の1月に行われた10日間の厳冬期飛騨山脈縦断だ。

 

国鉄高山線の猪谷駅から歩いて大多和峠を越え有峰へ入り、真川―薬師岳―北ノ俣岳―黒部五郎―三俣蓮華―鷲羽―烏帽子―大町へと抜けている。

 

以下『山と溪谷』200411月号から

 

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昭和72月に行われた槍ヶ岳から笠ヶ岳の往復の記録にも驚く。

 

2日かかったが、夜間も少し休んだだけで歩き通している。粗末な装備でよくもまあ・・・。

 

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それにくらべ軟弱な山行しかやってこなかった隠居は、今になってもう少し厳しい山をやるべきだったと悔いているが、もう遅い。

 

文太郎のの心を捉えて離さなかった飛騨山脈は、今年も白く装い、静かに横たわっていた。

 

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 12月10日の乗鞍岳と飛騨山脈

 

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レルヒ少佐の一本杖スキーがすぐ飛騨へ伝わった

2018.02.01 Thursday

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 レルヒのことを語る大正期の新聞(飛騨山岳会所蔵)

 

このところ毎週山スキーに惚けている傍ら、ある歴史研究会の紀要に載せてもらうべく「飛騨のスキー小史」みたいなテーマでパソコンのキーをたたいている。

 

もちろん隠居は歴史の門外漢だから、登山史的なものしか書けない。

 

登山史は歴史の専門家が手を付けない、いわば「すき間産業」なので、浅学菲才を顧みずに今までずいぶん恥をかいて(書いて)きた。

 

今書いているスキー史のうちから珍しい、面白い話を少々。

 

よく知られているように、日本へはじめてスキー術を伝えたのは、日露戦争に勝利した日本陸軍を研究する目的で来日したオーストリア・ハンガリー帝国(当時)の軍人テオドール・フォン・レルヒ少佐である。

 

彼は明治44年(1911112日、新潟県中頸城郡高田町の陸軍第13師団歩兵第58連隊に1本杖での滑降技術を伝授した翌年、北海道の旭川第七師団へ転じ、札幌でも指導を行っている。

 

実はちょうどこの時期、高山の造り酒屋の二木長右衛門が札幌農学校(途中で東北帝大農科大学に)に学んでいて、1本杖のスキー術を習得している。

 

ひよっとすると、レルヒ少佐からの直伝かもしれない。

 

しかしレルヒは主に将校団に伝えたという記録があるので、おそらく札幌近郊の山で間接的に学んだのであろう。

 

翌大正2年(1913)、二木は高山へ道具とともに技術を持ち帰り、母校斐太中学(現斐太高校)の裏山で滑って見せ、指導を行った。

 

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 一本杖の練習をする斐太中学生徒(『斐太高校100年史』から)

 

これが飛騨におけるスキーの初伝来といわれる。

 

スキーの本場長野県の白馬地区に高田から伝わったのも同じ年だから、飛騨への伝来は全国的に見てもかなり早い時期であった。

 

そして大正8年(1919)には体育教師石川三雄の尽力で、斐太中学にスキー部が創設された。

 

この頃から高山で急速にスキー熱が高まり、斐太中学では授業に組み込まれ、城山などで滑った。

 

スキーは高価なので生徒は自分で木を削り、町の鍛冶屋に金具を作らせたものが多かったという。

 

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 二木酒造所蔵の古いスキー

 

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さらにスキーは急速に飛騨一円に広まり、大正15年には古川小学校に1本杖のスキーが3台置いてあった記録がある。杖にワッパはついていなかった。

 

実はこのことは、吉城郡旧坂下村(旧宮川村)の教員水畑重平が、『宮川村誌』に当時の様子を詳しく書いていることからわかったもの。

 

彼は新任の古川小学校ではじめてスキーというものを見た。そのうち先輩の先生の指導で昼休みに裏の桑畑を歩いてみたが、転倒の連続だったという。

 

それでも面白くてならないので、昭和2年古川町の岩崎運動具屋で新潟高田製の2本杖スキーを12円、軍隊式の編み上げ靴を350銭で購入し、万波高原などへ行って我流で滑ったそうだ。

 

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はじめは直滑降だけだったが、そのうち本を見たり、隣村(富山県猿倉村)の講習会に出たりして回転ができるようになった。

 

その頃坂下村では後に郵便局長になる中学生ひとりだけがスキーを持っていたそうだ。

 

以下山岳資料館所蔵の古いスキー道具。

 

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調べると、昭和初期の飛騨にはスキー場がたくさんあった。

 

今ではその名前を初めて聞くスキー場がいくつかあるが、そのうちの一つ「西霧野スキー場」を紹介しよう。

 

場所は現在の古川町黒内区にある「飛騨古川桃源郷温泉」付近のリンゴ園あたりの緩斜面。

 

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 昭和初期にカラーの宣伝リーフレットを作っている

 

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昭和4年にはもうスキー大会を開いている。

 

主催は西霧野スキー倶楽部、後援が小鷹利村教育会。競技種目は小学生の部、青年の部があり、それぞれ百m、三人連鎖、スラローム、ジャンプ、リレーなどがあり多彩だ。

 

当時はスキーが買えない子供が大部分で、皆竹スキーや箱ソリで遊んでいた時代だから、競技の間だけ教育会で貸し出したのであろう。

 

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 竹スキー(飛騨市美術館展示品)

 

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 「パンパン下駄」という名の竹スケート(飛騨市美術館展示品)

    隠居の子供の頃もまだあった

 

当日は処女会の簡易食堂を開設可仕候とある。

 

後に有名になる流葉、位山、舟山などのスキー場は、まだこのころなかったか、開設準備中だった。

 

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 開設した年の流葉スキー場の新聞報道 

 「モンペでスキー」の表題(飛騨山岳会所蔵)

 

飛騨には全国的にみてもかなり早い時期にスキーが伝わり、飛騨人はずいぶん早くからスキーを楽しんでいたことがわかった。

 

しかし、スキー場にリフトが出現したのは昭和22年に進駐軍が志賀高原丸池につくらせたのが最初で、それが次第に普及していった。

 

それまでは滑ったあと担いで登るか、シール(あざらしの毛皮)を裏に張って登るしかなく、皆「山スキー」であった。

 

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 昭和9年の乗鞍スキー登山(神通寺所蔵)

 

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 昭和11年の乗鞍スキー登山(神通寺所蔵)

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松濤明の錫杖岳登攀ルート

2017.11.23 Thursday

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先に井上靖著『氷壁』のモデルということで紹介した稀代の登山家松濤明。

 

松濤が北鎌尾根で逝く前年の秋、飛騨の錫杖岳に2度訪れ、前衛フェースを初登攀しているという説があるので調べてみた。

 

若い人は知らないであろうが、松濤は戦前の若い卓越したクライマーで、今なら山野井泰史みたいな存在であった。

 

16歳で早くも谷川岳や穂高岳でレベルの高いクライミングを実践しており、谷川岳一ノ倉沢第二ルンゼ、北穂高岳滝谷の第四尾根はいずれも単独初登攀だと言われている。

 

そして昭和14年(19391223日には、上条孫人と北穂滝谷第一尾根の冬季初登攀をしている。その翌日には、滝谷第二尾根を冬季単独初登攀。なんとこの時17歳であった。

 

その後昭和18年(1943121日に学徒出陣で入営するまで、剣岳、八ヶ岳、穂高岳など広範な山域に足跡を印し、北岳バットレス中央稜初登攀、第二尾根第2登をはじめ多くの記録は枚挙にいとまがない。

 

昭和21年(19464月復員。戦後の登山活動は、26歳で北鎌尾根に逝くまで残念ながら実質2年間に過ぎなかった。

 

それでも昭和22年(19471月には八ヶ岳立場川狼火場沢冬季初登、阿弥陀岳南陵冬季単独初登などを行い、翌昭和23年(19487月には、北岳バットレスの各ルートで初登や第2登など意欲的な登攀を実践している。

 

その年の8月末に単独で徳本峠、中尾峠を越えて錫杖岳に入っている。

 

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831日、クリヤ谷から錫杖沢に入り、本沢右俣を遡行して本峰正面壁の下部をトラバース。

 

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 本沢右俣取り付き

 

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 本沢右俣

 

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 右俣の途中から見える本峰正面フェース

 

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烏帽子岩西肩へ登り、ここでこの山の全容を把握。

 

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帰路再び右俣を下降し、北沢を偵察してからこの夜は岩屋でツエルト泊。

 

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 錫杖岩屋 眺めのいいところで隠居もよくお世話になった

 

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 岩屋からの前衛フェース

 

91日は岩屋から北沢へ入る。

 

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 北沢

 

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 左方カンテ

 

北沢で滝を越える時苦労し、ピトンを打ってセルフビレイしてから登り、上にピトンを打っていったん下ってピトンを抜くという作業を強いられている。よほど技術がないとできない登攀だ。

 

烏帽子は東肩から取り付いている。このルートは隠居も単独で登っているが、シビアな部分もある。

 

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 烏帽子岩 右下(東肩)から取り付く

 

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 烏帽子岩東肩と穂高岳

 

途中のチムニー出口に残置ピトンがあったと書いてあるが、この烏帽子岩は昭和2年(19277月に神戸商大の三好毅一ほか2名によって初登されているので、この時のものか。

 

3回のアップザイレンで東肩へ降り立ち、大バンドをトラバースして西肩へ。

 

この後はリッジ通しに本峰へ登っている。このルートは隠居も登ったことがあるが、部分的にクライミング技術を要求される。

 

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 錫杖岳本峰 いつの間にかピッケルが埋められているが

        頂上はなにもないほうがいい

 

本峰に立って「これまで穂高の尾根から笠・錫杖を眺めて、あれが飛騨の山だと思ったことはいくどもあるが、そのまだ先に飛騨の山が拡がっているのを考えたことがなかった。自分が今登ってきたのが飛騨側でありながら、見下ろしているのがやはり飛騨側であることが、どうしてもピンとこなかった。そこはまったく見知らぬ世界だった。―ただ、松風の音ばかり。」と感想を綴っている。

 

このあと南峰への尾根を下り、鞍部から本沢に戻っている。

 

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 南峰

 

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 第1回目のルート 青=8月31日 黄=9月1日

 

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 松濤が登った全ルート(破線は裏側)

 

この時よほどこの山が気に入ったとみえて、翌10月にもザイルパートナーの権平完と入山。

 

この2回目に前衛フェースを初登攀したといわれているが、そのルートは諸説があり、登攀史に名はない。

 

彼の遺稿集『風雪のビバーク』の手記をよく読んでみた。

 

雨模様で視界が悪く、前衛フェースの全容が見えないままクリヤ道をだいぶ登った地点から森林帯に入っている。

 

このため中央壁あたりに取り付く予定が、前衛フェースのいちばん右端に出てしまい、P4を回り込んでいることがわかった。

 

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 P4(右のピーク)

 

北東壁側を登り、荷を置いて「面白そうなピーク」と書いているP4に登頂したあと、3ルンゼ上部からP2側壁を登攀。

 

上部の草付きにハーケンを打って3ピッチで緩いスラブへ。東肩に出て烏帽子岩に登り、アップザイレンで戻って西肩へトラバースし、本沢右俣を下っている。

 

従って、北東壁、P4、前衛フェースP2上部側壁を初登攀しており、下部から登っていないことが判明した。

 

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この手記には以下の付記がある。

 

「錫杖岳は訪れる人は少ないがなかなか良い山だ。屏風に似て多少スケールは小さいかもしれないが、変化はむしろ富んでいる。烏帽子岩前衛フェースはブッシュの少ない素晴らしいワントで、近いうちに登られる日が来るだろう。屏風が最近とみに人を呼ぶように見えるが、同じように昭和初年にパイオニヤーワークが行われたまま放置されているこの山も、やがて立ち返る春を迎えるにちがいないと私は思う。」

 

この時期前衛フェースで登られているのは第1ルンゼ(1931年・富田清太郎ほか1名)だけであり、他のルート(=左方カンテ、中央壁、第三ルンゼなど)が登られ出したは昭和35年(1960)頃からである。

 

松濤が生きておればその前にいくつものルートを初登攀したことであろう。

 

なお「前衛フェース」という名は、松濤が命名したともいわてれている。

 

これで「飛騨の登山史」に追補できた。

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井上靖『氷壁』のモデルは飛騨の女性

2017.10.30 Monday

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さらに思わぬ野暮用が入ってきてなかなか山に行けない。今までのツケがどっと回ってきたようだ。

 

さて、先日高山にある井上靖の文学碑の話をしたが、われわれ古い山屋としては彼の代表作『氷壁』のことを語らないわけにはゆかない。

 

この小説は朝日新聞に連載されたあと昭和32年に出版されたが、当時隠居の少し上の世代の人に影響を与え、これを読んで登山を始めた人も多かったという。(不肖隠居がかぶれた話は後述)

 

よく知られているように、この小説には複数のモデルがいる。

 

19551月に前穂高岳東壁で実際に起きたナイロンザイル切断事件の若山五朗、19491月北鎌尾根で遭難死した稀代の登山家松濤明、彼を慕っていた芳田美枝子らだ。

 

この松濤明と芳田美枝子が、小説では主人公の魚津恭太と恋人の小坂かをるになるが、実は芳田美枝子は当時飛騨高山に在住していた。

 

美枝子の父親芳田武雄は高山で教員をしており、飛騨山岳会の副会長を務めるほどの山好きで、スキーも国体選手だった。

 

父親の影響で彼女も山とスキーに打ち込み、スキーのほうは昭和233月に長野県野沢で開催された第3回国体スキー競技会に出場するくらいの腕前。

 

彼女は女学校を出て代用教員をしていたが、山好きが嵩じて新穂高に1軒だけあった山の宿「中崎山荘」へ勤め、ここで松濤に出会ったのだ。

 

この宿は、戦前笠ヶ岳穴毛谷にあった鉱山の社宅を昭和23年の夏に温泉宿にしたもの。

 

余談だが、その年の4月鉱山社主の依頼で、左、右俣合流点あたりの観光開発の可能性を探るため、毎日新聞の竹節作太(1936年立大ヒマラヤ・ナンダコット遠征隊員)と芳田の父親など飛騨山岳会員数名が入った。

 

そのときここの地名を「新穂高」と命名したのが、美枝子の父親芳田武雄であった。

 

松濤明の遺書『風雪のビバーク』によると、昭和23年の秋、松濤はザイルパートナーの権平完と徳本峠、上高地、中尾峠を経て、103日に開業間もないこの宿に泊まっている。

 

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彼らの目的は、錫杖岳の岩登りと滝谷の遡行であった。

 

松濤は、この年の9月にも単独で中尾に泊まって錫杖岳の烏帽子岩などを登攀しており、まだ人が入っていないこの山を大変気に入り、近い将来多くのクライマーが入るだろうと予言をしている。

 

彼らが滞在中は秋雨前線のため連日の雨。

 

105日雨と曇りの天候の中、前衛フエイスと烏帽子岩を登攀し、その後また2日間宿に停滞している。

 

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従って新穂高には5泊もしており、その間に芳田美枝子と親しくなったのである。

 

この間のことは、芳田が後に『風雪のビバーク』に寄稿しているが、松濤は山好きな彼女にいろんな話をしてくれ、「山はロマンチストでなければ登れませんよ」と言ったのが印象に残っていると書いている。そして松濤は後日、油まで塗ったスキー靴を送ってくれたという。

 

当時の飛騨山岳会にはまだ本格的な岩登りをする男性はおらず、しかも都会育ちの松濤はロマンロランに傾倒していて愛読書『ジャン・クリストフ』の話などもしてくれたというのだから、飛騨の山娘が夢中になってもおかしくない。

 

松濤はこの宿のことを「ここは温泉がわりあい温まらないのと、ランプの代わりに鉱山用のカンテラを使うので湯治客にはもてないかも知れないが、建物も夜具もよく、泊り代は安く、登山者にはこの上ないベースである。」

 

「宿の人は男一人に女四人という、まさに女護ガ島で、うち二人はうら若いお嬢さんだ。」などと書いている。

 

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108日になってようやく晴れ、滝谷を下部から遡行するため、宿の人の見送りを受けて出発した。

 

美枝子はこの時のことを「霧の深い月の朝、滝谷へ入る松濤さんは、二、三度振り返って小鍋谷へ廻り込んで消えた。そしてそれが私の見た松濤さんの最後の生ける姿になってしまおうとは・・・・。」と書いている。

 

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 滝谷 隠居も若い時よく入った

 

その後どういう手紙のやりとりがあったのであろうか、昭和24年の正月、芳田は北鎌尾根から槍穂高を縦走して最終目的地焼岳から下山してくるはずの松濤を迎えるため、単身上高地へ入って待っていた。

 

手紙には18日には下山すると書いてあったという。

 

予定日を過ぎても帰らないので、西穂高岳の稜線を探してみようと、112日上高地から単身ラッセルして稜線に登ったが見つからないのでそのまま新穂高へ降りた。

 

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 正月の西穂高稜線

 

当時女学校を出たばかりの若い女性が、厳冬期の西穂高の山稜越えをしたということで話題になった。

 

おそらく井上靖はこれを新聞などで見たのであろう。

 

知られているように、北鎌尾根で予想外の豪雨に遭遇した松濤と有元は、この頃(16日)すでに千丈沢で疲労凍死していた。

 

4月の遺体捜索時、松濤が凍った手で死の直前までの様子を克明に綴った衝撃的な内容の手記が発見された。

 

昭和36年に発刊された遺稿集『風雪のビバーク』に収録されている「全身硬ッテ力ナシ(略)有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス(略)」という壮絶な手記は、当時も今も涙なしには読めないものだ。

 

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 『山と渓谷』から 実物は大町の山岳博物館にあるらしい

 

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小説では、魚津は滝谷で落石に遭い、松濤みたいな手記を遺して死亡。上高地で待っていたかをるが穂高小屋まで登ってこれを知ることになっている。

 

傷心の美枝子は、上京して松濤が所属していた登歩渓流会に入会し、その後会で知り合った登山家奥山章と結婚する。

 

この話は平塚晶人著『ふたりのアキラ』(ヤマケイ文庫)に詳しいようだが、隠居は読んでいない。

 

奥山章にも先立たれた美枝子は、晩年福井県の老人施設に入居したらしいが、その後の消息は聞いていない。

 

正直言うと隠居もこの『氷壁』に少なからずかぶれ、魚津のように仕事と山の両方をうまくこなしたいなどと努力をしたものだ。

 

そして魚津の登山を理解してくれていた上司、常盤大作のセリフまで覚えている。

 

魚津の死後、常盤支社長が社員の前で行った追悼演説は魚津への愛情に溢れたものだが、登山論としても今でも立派に通用するものだ。

 

登山をしたことがないはずの井上の取材力の確かさ深さに驚く。さすが大作家。

 

今の若い人がこのようなフィクションに影響を受けているとすれば、山岳漫画の『岳』か、NHKBS放送の「山女日記」あたりだろうか。

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志賀重昂の書を発見

2017.03.21 Tuesday

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高山市内と周辺の山の雪がほとんど解けたら、遠くにある北の白い山が目立つようになってきた。

 

まだ雪をたっぷりつけた金剛堂山など飛越の山々だ。

 

隠居にとっての「北に遠ざかりて白き山あり」はこの飛越の山で、今の時期この白い山並を見ていると無性に山旅がしたくなる。

 

さて、志賀重昂(しげたか)といっても、登山史に関心の無い方はご存じないかもしれない。

 

明治27年(1894)に志賀が書いた『日本風景論』は14版まで版を重ね、ロングセラーとなった。

 

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 小島烏水も買った第6版

 

この本は日清戦争勃発の年に出版され、他国の風景と日本の風景を比較して日本のそれを優位に置いたため、国民のナショナリズム高揚に貢献した。

 

洋書からの剽窃があるなどこの本の評価はいろいろだが、第4章に「登山の氣風を興作すべし」と題した長文があったため当時の青年の登山熱に火をつけ、小暮理太郎や小島烏水なども大きい影響を受けたことはよく知らている。

 

小島は初版が出た時には書生の身分で手が出ず、第六版になってようやく購入でき、貪るように読んだと書いている。

 

明治期の日本人は、この『日本風景論』を読んで登山をはじめたといっていい。

 

志賀の本の感化で登山を始めた人たちが日本山岳会を誕生させたといわれ、ウェストンと志賀が近代登山興隆の祖だという登山史家もいるくらいだ。

 

隠居が好きな山岳俳人前田普羅も、少年期この本の表紙にあった「奥飛騨の春」と題した画を見て以来飛騨にあこがれ続けた。

 

飛騨の登山史を調べていて、明治44年(1911)年発刊された飛騨の地誌『飛騨山川』に、この志賀が題辞として自筆の漢詩を載せていることを見つけた。

 

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志賀がスイスで詠んだというもので「鴻爪雪泥幾往還 安南之海瑞西山 半生著述何邊獲 多在風袗雨笠間」そして「飛騨本邦之瑞西也 偶録舊製代飛騨山川題詞」とあり、貴重なものだろう。

 

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この『飛騨山川』は、明治期高山で「住伊書店」経営していた住廣造(飛騨山岳会員・日本山岳会員=会員番号193)が東京で印刷製本したものである。

 

住は他に飛騨で江戸期に書かれた『飛州志』、『斐太後風土記』など貴重な書籍を多く発刊している。

 

住は小島烏水、高頭仁兵衛などとの親交があったので、小島あたりを通じて志賀に揮毫を頼んだのだろうか。

 

この『飛騨山川』には小島が序文を書き、高野鷹蔵が写真を載せているから驚きだ。

 

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ご存知のとおり、志賀は、岡崎藩の藩校の儒者・志賀重職の長男として生まれ、大学予備門で約2年間学んだあと、明治13年(1880)札幌農学校に転じた。

 

卒業して長野で教師をしていたが、酒席で長野県令(知事)とトラブルを起し辞職。あと海軍兵学校の練習艦「筑波」に便乗して長期海外を回って列強の植民地化競争の状況を視察したり、その後も広く海外を旅行するなど、面白い人生を送っている。

 

和魂洋才の国粋主義者で地理学者、東京地学協会の終身名誉会員、日本山岳会名誉会員、英国王立地学協会名誉会員でもあった。

 

隠居は浅学ながら暇に任せて調べた飛騨の登山史を歴史研究者の紀要『斐太紀』などに載せてもらっている。

 

この地方で他の人があまりやっていない登山史研究という分野は、いわば「すきま産業」といえる。

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