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山岳資料館が開館

2019.04.15 Monday

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4月になっても天候が不順でなかなか山スキーに出かけられないが、この先スキー以外の山行計画も入っていて、スキーはしばらく中断だ。

 

さてあまり知られていないが、高山市の郊外に「山岳資料館」なるものがあり、不肖隠居が展示を担当している。

 

冬期間休館していたが春になって開館したので、紹介したい。

 

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 構内にはいつの間にか地蔵様などが集まってきておられる

 

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 いつも新しい「よだれかけ」をしてござるが

 どなたが替えられるのかわかなない

 

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大町市の山岳博物館にはとうてい及ばない小さい規模だが、展示物は登山、スキー用具をはじめ、飛騨山脈飛騨側の動植物、気象、岩石、登山史関係など多岐にわたる。

 

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この建物は明治36年、当時の大野郡灘村(現高山市桐生町)に建てられた元高山測候所。

 

昭和45年の測候所建て替え時に市街地の南西、松倉山の山麓にある「飛騨民俗村」の一角、飛騨山脈が望める場所へ移された。

 

当初犬山の明治村へ移築の話があったこの建物は、民俗村で唯一の洋風建築で、平成12年、特色ある近代建築として文化庁の「登録有形文化財」に登録された。

 

昭和4611月1日、飛騨山岳会や市民の協力でこの「山岳資料館」が開館。その後飛騨山岳会が展示品の管理を受け持っている。

 

特筆すべき展示品を紹介すると、まず古いスキー。

 

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明治44年(1911)1月、オーストリアのフオン・レルヒ陸軍少佐が高田師団へ一本杖スキーを紹介し、その後すぐ北海道へ伝わったことはご存知の通りであるが、この時北大に在学していた高山の造り酒屋の二木長右衛門(のちに飛騨山岳会長)が習得し、大正2年(1913)にスキー術を持ち帰って旧制斐太中学へ伝えた。(北大へは、レルヒ少佐来日の2年前にスイス人のドイツ語教師ハンス・コーラが伝えたともいわれる。)

 

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 昭和9年の乗鞍岳スキー登山

 

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このように飛騨へは早い時期にスキーが伝わり、道具ははじめ新潟の高田製のものを買っていたが、その後地元にも板メーカーが誕生した。

 

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主にこの時期のスキーが展示してあるが、スキーが高価だったため、木を削った手製のものもある。子供用もあるが、おそらく親が子のために丹精して作ったものであろう。

 

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次に珍しいのが飛騨産のピッケル。

 

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大正期に飛騨の岳人が鍛冶屋に外国製を見せて作らせたものらしいが、そのうちの一本は「飛騨」の銘があり、姿が美しく、ウッドピッケルを研究している方からの問い合わせもある。

 

小さいほうは一時は量産され、市内で売られていたことがわかった。

 

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あとは登山史コーナーには宗教登山の関係も若干展示があるが、貴重なものは江戸期に播隆よりも40年も前に笠ヶ岳に登頂した地元宗猷寺南裔(なんねい)禅師の書。

 

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南裔は江戸まで行って三井親和(しんな)に書と篆刻を学んだ、当時の飛騨の書の大家でもある。

 

このほか飛騨の登山史も学べる。

 

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海外登山のコーナーには、飛騨山岳会のささやかな海外登山の足跡が写真で展示してある。

 

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最近は外国人(西洋人)の入館が多い。

 

隠居の年代くらいの人にとっては、青春期に使用したなつかしい登攀道具もあるので、山の帰りなどにぜひお立ち寄りください。

 

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 珍しいロックハーケン

 

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 昭和9年の乗鞍登山 ザイルやピッケル、アイゼンは輸入品

 

資料館の下には井上靖や瀧井孝作などの文学碑がならぶ「文学の小径」があり、飛騨山脈を眺めながら散歩するのもいいでしょう。

 

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 郷土の歌人で飛騨山岳会会員でもあった福田夕咲の歌碑(左)と

  飛騨山岳会創立100周年(2010年)の記念石碑

 

入場料無料 無人 下に民俗村の無料駐車場あり。

 

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 4月16日の乗鞍岳

 

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 4月18日の笠ヶ岳 槍穂高岳

 

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  下呂市萩原町四美のしだれ桜

 

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 臥竜桜も満開に 4月23日

 

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 高山市内も満開

 

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乗鞍での不思議な話 その5 行者が雪山岳の石で目を治した話

2018.12.06 Thursday

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 権現池をとりまく左から屏風岩 薬師岳 雪山岳

 

先回、すぐれた修験者(山伏)は病気を治したり、旱天に雨を降らせたり、いろんな修法を心得ているという話をした。これは真言密教の修法だという。

 

これも乗鞍にいた不思議な力をもった修験者の話。

 

以前民俗学者で飛騨山岳会員でもあった代情通蔵(山彦)が書き残した話を紹介したが、この話も昭和23年地元の雑誌『新飛騨』に載っているもの。

 

ある年の秋遅く、乗鞍南山麓の石仏という集落(現在の黍生か阿多野集落だろうか)へ、乗鞍から行者が下りてきて、集落の病人を加持祈祷で治して歩いた。

 

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 阿多野集落と乗鞍岳

 

なかに眼病(そこひ)を患い、失明寸前の宗兵衛という老人がいた。

 

老人が診てもらった結果、行者は「乗鞍岳絶頂の雪山岳に氷石がある。これは幾千年もの雪の精が岩に閉じ込められてできたもので、それを打ち割ってその水で洗眼し、岳のお鳥(雷鳥)の白羽の付いた足の爪で目をつつけば見えるようになる」と言った。

 

宗兵衛は藁にも縋る気持ちで雪山岳行き頼み込んだため、行者はやむなく宗兵衛の手を引いて乗鞍へ登った。それは困難な登山であった。

 

そして雪山岳の氷石の水で目を洗ってやり、雷鳥を捕まえてその爪で目を掻いた。

 

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 雪山岳 2891m

 

激痛が走り血が出たが、時間が経つと光が少し見えるようになった。

 

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その日は下山途中で日が暮れてしまい、やむなく岩穴に泊まった。

 

そのうちだんだん物が見えるようになってきたので喜んだ宗兵衛は、行者に庵を建ててやる約束をした。

 

翌日下山するにしたがってさらに鮮明に見えるようになった宗兵衛は、もともと強欲な男だったので庵を建てる金が惜しくなり、石畳ヶ原で行者を撲殺してしまった。

 

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 石畳ヶ原

 

なんとこの時刻、里へ一羽の白い雷鳥が飛んできたと思うと宗兵衛の家が火炎に包まれ、焼け落ちてしまった。

 

家に帰った宗兵衛はこれを見て気が狂い、焼け跡へ飛び込んで焼死してしまったのである。

 

村人は行者の魂が雷鳥に姿を変えて復讐をしたのだと噂をし、病気を治してもらった者が石畳ヶ原に自然石で慰霊碑を建てた。

 

それは今も千町尾根に残っている。

 

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なお当時雷鳥は「岳のお鳥」と呼ばれ、蚕の掃きたて(微細な蚕の幼虫を移す時つかう)や茶道の茶室の羽箒として、他の鳥のものより霊山の鳥ということでたいへん重宝された。

 

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かつて白山山頂で参拝者に高額で売っていたというが、白山に雷鳥が絶えたはずだ。

 

明治25年にウェストンが乗鞍岳へ登ったときにも、下山時に案内者が雷鳥狩りをした記述が出てくる。

 

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現代科学では説明できない修法を使えた行者は、つい最近まで高山の町にも住んでいた。

 

隠居の親の世代が、医者でわからない病気の原因を診てもらったリ、治してもらったリするのを見たり聞いたりしたことがある。

 

そういう人がいなくなり、山から魑魅魍魎などが消えてしまった今の世は、なにか味気ない。

 

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『飛騨の山小屋』が面白かった

2018.11.30 Friday

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図書館をブラついていたら、『森林官が語る 山の不思議―飛騨の山小屋から』という本が目に留まった。

 

「飛騨の山小屋」とあったので借りて読んでみたら、これが意外と面白かった。

 

1948年に『飛騨の山小屋』として他社で刊行された著作を、2017年に河出書房新社が再刊したものだが、著者加藤博二氏の略歴の記載がなく、巻末には「著者および家族に心当たりがあれば編集部へ連絡を」とある。

 

どういう事情なのかわからないが、著者は森林官とあるので、戦前に宮内省帝室林野局が管理する御料林の森林技術者で公務員だったのだろう。

 

著者が森林官時代に人里離れた湯治場や山小屋で聞いた不思議な話や体験が、山で長く生活していた人ならではの精緻な自然描写とともに綴られている。

 

以前紹介した郷土の民俗学者代情(よせ)通蔵の書いたものにも、御料林の役人からの聞き書きが出てくるが、近代文明の光が及ぶ前の日本の山々には魑魅魍魎が棲んでいて、不思議な話が多かったようだ。

 

主として何かの事情で山奥に住まねばならなかった人々の哀しい人生を拾い集めてあるが、猿が造った酒を盗んで飲む話、猿でもない人間でもない怪物(山和郎)が捕まった話などの奇談もある。

 

この森林官が出会った、戸籍を持たない薄倖の人々を温かい眼差しで見ているところがいい。

 

なかには創作と思われるものもあり、全編が短編小説のようで面白かった。

 

場所は飛騨だけでなく尾瀬、白馬など広範だが、これはすべて森林官の任地だったのだろう。

 

そのうち「飛騨の山小屋」は、信州と飛騨の国境の深山で暮らす父と娘の小屋に泊めてもらった時の話。

 

彼らのたつきは「せんぶり」を採ってきて煮詰め、薬にすること。その小屋にはどういうわけか赤子もいて、2人の留守中に何匹かの猿がお守りをしていた。

 

口が重い父になぜここで暮らしているかを尋ねると、「わしは山がいちばんいいのですわ」との一言だけだった。

  

著者は民俗学にも興味があったようで、山で生きる山窩(サンカ)の哀しい話もいくつか出てくる。

 

もう一つ印象に残ったのは「峠の湯」

 

山中の鉱泉宿を独りで守っている老人の部屋には、新聞紙を張ったミカン箱の仏壇に、妻の位牌と兵隊に行ってまだ帰らないせがれの白木の位牌があった。

 

月夜の晩の、この老人とのしみじみとした話がとてもいい。

 

そして翌朝、炭焼きの少年が鳥もちでつかまえてきた小鳥を、このやさしい老人は買い取って逃がしてやるのだった。

 

筆者はこの宿をでて峠を越える時の気持ちを次のように綴っている。

 

「峠に浮かぶ雲を仰いで、自然に生まれ自然に帰る人の命の無限を知る。人を恨み、人を叱った寂しさを私は初秋の峠を越える時ひしひしと想う。」

 

これは隠居の山旅への憧れをかきたてるものであった。

 

今頃の雪に覆われる前の山は、すべての木々が落葉してしまい妙にひっそりとしていて、そこには一種の明るい空虚と哀愁があるが、これがこの本の読後感に似ている。

 

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隠居が生まれる前の時代の話だが、なぜか懐かしく心が安らいだ。

 

懐古癖の強いロマンチストの方におすすめ。

 

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山のカレンダー

2018.11.26 Monday

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岐阜県山岳連盟が作成した来年のカレンダーが出来てきた。

 

毎年加盟の各山岳団体から写真を募り、山岳写真家を交えた選考会で選んでいる。

 

撮影場所は原則として岐阜県と隣県の山に限定したもの。

 

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不肖隠居も応募したところ2点が選ばれ、1月と9月に載せてもらった。表紙下の山スキーの小さい写真も。

 

終わりかけの隠居としては光栄なことであった。

 

隠居のものを除いて傑作ばかりなので、月順にご高覧を。

 

 

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 1月 厳冬の錫杖岳 隠居

 

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 2月 氷瀑を登る 乙女溪谷  多治見山岳会 酒井英和氏

 

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 3月 雷倉から花房山 大垣山岳協会 丹生統司氏

 

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 4月 残雪の若丸山 大垣山岳協会 衣斐剛人氏

 

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 5月 屏風岩と槍ヶ岳遠望 大垣山岳協会 丹生統司氏

 

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 6月 ナイスクライミング 福井国体 岐阜スポーツクライミングクラブ

 

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 7月 北岳大樺沢とミヤマハナシノブ 岐阜やまびこ山岳会 中村貞夫氏

 

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 8月 籾糠山のカツラ門 各務原山岳会 横山英明氏

 

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 9月 朝の笠ヶ岳稜線 隠居

 

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 10月 勇壮なる穂高岳 美濃山岳会 山内 健氏

 

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 11月 双六岳の初冠雪 ぎふ山彦山岳会 中村貞夫氏

 

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 12月 乗鞍岳遠望 西穂山荘から 日本山岳会岐阜支部 梅田直美氏

 

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 表紙 2月 御嶽継子岳を登る 隠居

 

自分が撮った山の写真は、「一粒で二度おいしい」グ〇コのキャラメルみたいなものだ。

 

その時の風の匂いまで思い出される。

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飛騨山岳会が創立110周年

2018.11.13 Tuesday

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 明治42年 白山山頂での飛騨山岳会員

 (旧家から見つかった貴重なガラス乾板写真・以下も)

 

隠居が所属する山岳会が今年創立110周年を迎え、このほど記念式典が行われた。

 

明治41年8月に設立され、日本山岳会に次いで日本で二番目に古い山岳会だ。

 

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設立されてから7年目の大正4年8月、中野善太郎会員が白出沢から奥穂高岳を経て西穂高岳へ日本ではじめて縦走し、登山史にその名を留めているが、これは今も会の誇りになっている。

 

その後いろいろと浮沈があったが、近年都会の老舗山岳会が次々と消え、あるいは開店休業になっているなか、他の会の人から「よく100年も続いたものですね」と言われる。

 

半世紀以上在籍している隠居から言わせると、これは田舎にあって無理をせずにじっと過ごしてきたから。

 

バブル期に投機などの冒険をせずに生き延びた地方の信用組合、あるいは昔から細々と続いている村の雑貨屋(いろんな山行方式を許容)などと同じだ。

 

ただ昭和30年代後半から40年代にかけて登山界全体が日本版アルピニズム実践に沸騰し、次々と未踏の岩壁を漁り、その壁の冬季初登攀を競った時期だけはこの会も加わり、少々の分け前にあずかった。

 

そのあと都会の山岳会は余勢を駆ってヒマラヤへと向かっていったが、この会は再びモンゴル草原のタルバガンのように自分の穴に閉じこもったまま、100周年を経て今回110周年を迎えた。

 

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田舎では海外登山の情報入手が困難だったこともあるが、それよりアルピニズムというものが飛騨人の温和な性向にむいていなかったことが大きいと思っている。(それはそれでよかったのだが)

 

その後時代は変わって、全国的に昔のように地域研究などの目的を掲げて厳しい岩登りや冬山をやる山岳会が希少となり、組織登山者と未組織登山者の登山内容が同じようなものになって、どこの組織も「親睦団体」の色彩が濃厚になっている。

 

組織の束縛というものに過敏でない人にとって、似た歳の仲間と同じ嗜好の山へ行き、山を語ることができて居心地がいいこの集団は、教育や遭難対策というおまけもあり、今後も続いていくのであろう。

 

この排他的な部分もある不思議な集団のことを「伝統的社会人山岳会は日本古来の稲作共同体のルーツをもつ」などと言った人がいた。

 

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 白山地獄谷を登る飛騨山岳会員(明治42年)

  この頃は大倉尾根の道がなかった

 

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 白山室堂(明治42年)

 

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 大白川の露天風呂と飛騨山岳会員(明治42年)

 

以下はプライベートなことで恐縮ながら、隠居と山岳会との関わりついて

 

隠居は前述のアルピニズム実践の時代に山岳会で青春期を過ごしたので、そのノスタルジアもあってまだ未練がましく会に残っている。

 

しかし高齢になった今、昔ザイルを結んで厳しい山行を共にした岳友は皆鬼籍に入るか会を去ってしまったので、たまに会へ出ても昔話(アルピニズムの懐古談など)をする相手もおらず、昔の軍(いくさ)話をしても通じず、うとまれている気さえする。

 

組織に長くいることの悲哀であろう。

 

このため「老兵は消え去るのみ」ということで、そろそろいとませねばと思っているが、ありがたいことにまだこの年寄りを山スキーや沢登りに誘ってくれる若い人がいるので、なかなか踏ん切りがつかないでいる。

 

しかしもう棺桶に片足を突っ込んでいるので、これも時間の問題だ。

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乗鞍での不思議なできごと その4 法螺貝を吹いて霧を切る話

2018.11.07 Wednesday

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 霧がまく乗鞍岳

 

隠居は先の「大峯奧駆」以来すっかり修験道にかぶれてしまったが、わが乗鞍岳にも昔修験者が跋扈していて、不思議な話をいくつか残している。

 

修験者は山に入って艱難辛苦し、呪力、霊験を身につけるといわれるが、これは修行によって宇宙の普遍的原理の胎内に入り、原理そのものに化すことができるようになるからだそうだ。

 

例えば自在に空中を飛んだり、鉢に米、瓶に水を生じさせたり、病人を癒したり、時には人を呪殺することもできた。

 

地球科学として、旱天に雨を降らせることなどはやさしいことだったという。

 

真言密教は西洋でいう魔法だが、西洋と違う点は魔法が悪魔の側でなく、体制の側にあったことだ。

 

同じ密教の修行者がいるチベットには、今でも「風の行者」という地上を風のように早く移動する人がいると、数年前にチベットへ行った時聞いた。

 

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 今でもチベットの平原には風の行者がいるという

 

乗鞍には明治になってからでも何人もの修験者が入り、新道を拓いたり、仏像を安置したりして村人とも関わりを持っている。

 

明治元年には信州梓村の角心、明治9年には伯耆出身の正法仏徳、明治12年には紀州熊野の田中政俊という行者、明治27年 美濃上麻生出身の修験僧木食秀全などが入っていた記録が見られる。

 

明治28年青屋新道を拓いた上牧太郎之助は、この秀全の弟子である。

 

このうち明治初期に乗鞍に登った修験者正法仏徳は、その後昭和2年に再び弟子を連れて登った。

 

その弟子は何を思ったのか頂上の下の権現池に飛び込み、泳ぎかけた。

 

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 権現池

 

ところが突然濃い霧があたりを覆い、何も見えなくなってしまった。

 

とっさに仏徳は法螺貝を取り出して吹き、十字を切ると一筋に霧が切れ、方向がわからず溺れかけていた弟子を救うことができたという。

 

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 明治の行者上牧太郎之助が使っていたもの

 

これは「霧払いの術」と言って、この時期この術を使えるのは仏徳以外にいないと弟子に語ったという。

 

山間部で音がよく響く修験者の法螺貝は、法要、集合、宿入、宿立などの単なる合図などに使うほか、仏教上もいろんな意味があるようだ。

 

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おおげさに言うことを「法螺を吹く」というのはご存知のとおりだ。

 

隠居にもその傾向がないとはいえない。

 

なお仏徳は、一時廃れていた高山国分寺の堂守を務めていたことがあるという。

 

そのとき高山の町を長い一本歯の下駄で鉄の錫杖をついて歩いたり、ある時は江名子の荒神社で天狗と組打ち、新宮という高山の郊外まで投げ飛ばされたという逸話を残している。

 

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 上牧太郎之助の一本歯下駄

 

なお行者の中には、錫杖や金剛杖をうまく突いて飛ぶように歩くことができた者がいたようで、これは前述のチベットの風の行者と似た術のようだ。

 

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 錫杖(じゃくじょう) 錫杖岳の名はこの形からつけられた

 

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足腰が弱る一方の隠居だが、なんとかこの術を会得し、山を自在歩けないものかと考えている。

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乗鞍での不思議な話 その3 死者からの頼み

2018.10.04 Thursday

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 信州乗鞍高原からの剣ヶ峰

 

今から20年ほど前に起きた遭難事故にまつわる話だ。

 

この若い人の遭難は今でも思い出すとつらいが、隠居は捜索時に不思議なことを体験したので書き留めておきたい。

 

平成11310日の23時頃、山岳会の事務局から「会員のS君が単独で乗鞍へ山スキーに行ってまだ帰らないので翌日の出動準備を」という連絡が入った。

 

翌朝になっても本人から連絡がないので出動を決め、登山口である信州の乗鞍高原へむかう。

 

平日なので朝から動ける一次隊は隠居と若い人4名。

 

怪我などでビバークしていることを想定し、隠居がリーダーになってスキー場上部の森林帯を名前を呼びながら登り、森林限界からは剣ヶ峰基部と右側の二手にわかれて探しながら登る。

 

この日の天候はあいにく雪と濃いガス。

 

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肩の小屋手前で合流し、肩の小屋、東大宇宙線観測所周辺をくまなく探したが発見できず。

 

再度夏道ルートと蚕玉沢へのトラバースの二手に別れ、頂上方面への捜索にむかう。やがて尾根の途中にスキーが刺さっているのを発見。

 

スキーは目印かも知れないので、この時点でまだ怪我などでのビバークの可能性を捨てきれず。

 

捜索範囲が狭まったのでいったん蚕玉上部に集結し、濃い霧の中を頂上小屋付近の捜索のあとベテランの2名にスタカットでの蚕玉沢の下降を指示し、隠居はアイゼンなしの者もいたので夏ルートを肩の小屋へ引き返す。

 

その後蚕玉沢でも発見できなかったとの無線連絡があり、午後5時をまわり天候も悪いので、本日の捜索打ち切りを決断。

 

宿泊の了承を得ていた東大宇宙線観測所への移動を開始した。

 

ところがその時突然雪がやみ、今までの濃いガスが切れて、西から一筋の日が剣ヶ峰山麓にさした。

 

隠居はその光の中を肩の小屋からスキーで斜滑降を開始したら、そのまま沢の末端で眠っているS君の所へ着いた。まさにそこへ吸い寄せられるようにであった。

 

下から登ってきた2次隊で先行していたリーダーSE氏も同時に到着。彼も下から迷うことなく真っすぐここに着いたと言っており、まことに不思議なことであった。

 

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 晴れた日の蚕玉沢 沢の白い部分の最下部に眠っていた

 

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怪我の様子から、蚕玉沢上部で突風に遭い滑落、途中の岩に激突して頭を打ち、沢の下部まで落ちたと思われた。

 

遺体をシートに包み、その日のうちに下したが、あとは再びガスに包まれ、翌日は大量の降雪になった。

 

今でもあの日はS君が「今日のうちに連れて帰ってくれ」と頼んだと思っている。

 

最近昔読んだチベット密教の仏典『バルド・トドゥル』(チベット死者の書)を読み返しているが、その書からも、あの日のできごとは間違いなくS君からの依頼だったことを確信した。

   

享年37で、まだ小さいお子さんがおられた。

 

山での遭難死はまことにむごい。

 

隠居は今でも山スキーでここを通る時現場に向かって黙祷をしているが、往時ともに捜索に出てくれた4名のうち、1名は病死、あとの3名は会を去っており、山岳会でこの事故のことを知る人は少なくなっている。

 

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まさに「去る者は日々に疎し」だ。

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乗鞍での不思議な話 その2 中洞権現にあった仏像の怪

2018.09.22 Saturday

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 9月19日の乗鞍

 

乗鞍の剣ヶ峰から大日岳の腹をまいて南西側に下り、皿石原という小さな鞍部を経て少し登ると、千町尾根に出る。

 

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ゆるやかな尾根を少し下り、広い地形になったところが中洞権現。御嶽なども望め、開放的な場所だ。

 

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天明元年に山麓中洞集落の名主中林作右衛門が、頂上へ仏像を上げようと単身登ったものの、力尽きて途中に安置した。

 

後にその場所が麓の人々に崇められ、「中洞権現」の名で呼ばれるようになったという話を前に書いた。

 

実は作右衛門が上げたその仏像はただの仏像でなかったという話を、民俗学者代情(よせ)通蔵が書いているので、以下要約して紹介したい。

 

そもそも作右衛門と仏像の縁は、作右衛門が祖父の遺骨を京都の本願寺へ納めに行った帰り、60歳くらいの修験者に出会ったことから始まる。

 

この修験者は、持っている仏像をなんとか乗鞍へ安置したいと言うので、作右衛門が案内を買って出た。

 

飛騨へむかう2人が美濃関に泊まっていた時その宿が火事になり、仏像をとりに戻った修験者は大やけどを負い、臨終の間際作右衛門に仏像の安置を託して息を引き取った。

 

この仏像は阿弥陀三尊の青銅仏で、後日作右衛門が修験者との約束をはたすべく仏像を背負って頂上へむかったが、疲労と悪天のためやむなく尾根の途中の岩穴に安置して帰ったのである。

 

時代は明治期になり、このあたりでコマクサやバイケイソウなどの薬草採りをしていた野麦集落の男が、この仏像を自宅へ持ち帰り仏壇に安置した。そうしたら別の商売が大繁盛し、たちまち財を成した。

 

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 大日岳の南面や高天ヶ原(正面奥)では、昔コマクサ採りが盛んだった

 

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これを聞いた下流の中洞集落の人々が返還を要求しにきたが、持ち主は3年の猶予を要求し、それが過ぎても返さなかった。

 

ある日突然この男の家が火事になり、全焼してしまった。男は不在だったが、仏像だけは近所の人が持ち出してくれ助かった。

 

火事になった日は、昔作右衛門が仏像を安置した同じ日であったという。

 

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 野麦集落

 

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男は仏像のたたりだと怖れ、さっそく中洞権現の元の場所へ戻しにいった。

 

その後ここを通った神戸の登山者が、雨宿りした岩穴にあった仏像をザックに入れて丸黒尾根から大尾根へ下ったものの、良心の呵責にさいなまれ、大尾根ヒュッテの管理人に元の場所に戻してくれるよう預けて帰った。

 

戦後山岳スキー場も廃って大尾根ヒュッテに泊まる人はまれになり、普段下の集落に住む管理人は、仏像をヒュッテの神棚に置いたまま忘れてしまっていた。

 

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 大尾根ヒュッテ

 

ある日突然ヒュッテは全焼してしまい、焼け跡のどこを探してもこの仏像は見つからなかった。

 

村人は、「仏様は自力で乗鞍へ帰らさったんやな」と、ささやきあったという。

 

なお代情は、野麦の家と大尾根ヒュッテの両方の火事とも「三筋の焔」が舞い上がったと書いている。

 

こうして現在中洞権現には作右衛門が上げた阿弥陀三尊はおられず(見当たらず)、その後青屋から道を拓いた上牧太郎之助の石仏2体のみが鎮座しておられる。

 

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 中洞権現にある上牧太郎之助の石仏

 

隠居はここを通るたび、どこかの岩陰に帰っておられないか探しているが、いまだ見つからない。

 

諸兄もここを通られたらぜひ探してみていただきたい。

 

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 広い中洞権現 こんなところに?

 

なお阿弥陀三尊とは、阿弥如来を真ん中に、左に観音菩薩、右に勢至菩薩がおられる。

 

以下余談です

老生が予定している9月の山行、長雨のため延期、延期を余儀なくされていましたが、このままだと登山寿命が尽きてしまうので、思い切って明日から出かけることにしました。といっても、1週間少々ですが。このためブログ更新できませんのでご容赦、頓首再拝。

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乗鞍での不思議な話 その1 異界千町ヶ原のこと

2018.09.15 Saturday

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 不思議なところ 千町ヶ原

 

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秋雨前線が依然停滞していて、なかなか山へ行けない。

 

あいかわらず乗鞍岳にこだわって。

 

昔から山の怪談、奇談というものは多いし、諸兄のなかにも山で不思議な体験をされた方がおられると思う。

 

山岳信仰の対象であった乗鞍岳にも昔から不思議な話が伝えられているし、現代の登山者である隠居もこの山で不思議な体験しているので、その話をいくつか。

 

まず乗鞍の奥座敷である千町ヶ原。

 

前回ここは昔から「精霊田」と呼ばれていて亡者が集まるところであり、入ると帰ってこられなくなることや、昭和になってからでも少年がここの池の畔で亡くなった母親に会ったという話をした。

 

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明治生まれの民俗学者で飛騨山岳会員でもあった故代情通蔵は、この精霊田のことを次のように書いている。

 

「明治初期に山麓から頂上へ道を拓いた修験者上牧太郎之助が、単身で事前の偵察に入った時、途中で日が暮れてこのあたりで野宿したが、夜半に大勢の人が通る気配を感じた。」

 

「そして未明に池のそばで水を飲んでいる白衣の人を見たので近づくと霧の中へ消えてしまい、岸辺には亡者が額につける三角の白い布が落ちていた」。

 

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やはりここは尋常なところではない。

 

実は不肖隠居も40年前にここで不思議な体験をした。

 

はじめてスキーで乗鞍岳の南面へ入ったのは、昭和52年3月だった。同行者は山岳会の仲間2人。

 

スキーで子の原林道を歩いて子の原尾根に取りき、この日は標高2000mあたりの雪上でテント泊

 

翌日は奥千町に荷をデポし、千町尾根を空身で頂上へむかう。途中でスキーをデポし、アイゼンに履き替えて剣ヶ峰に登頂した。

 

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あと広い尾根の滑降を楽しみながら奥千町から千町ヶ原へむかうが、この頃からガスが出はじめ、地図を読みながらの慎重な下降となる。

 

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広大な千町ヶ原へ下りたらホワイトアウト状態になったので行動をやめ、雪原で2日目の幕営となった。

 

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 テントを張った千町ヶ原

 

この夜は夕食後皆早々とシュラフにもぐり眠りについたが、夜半テントの周りを何者かがしきりに歩き回る音で目が覚めた。しばらくその音を聞いていたが、疲れもあってまた眠りに落ちてしまった。

 

翌朝夢かと思い同行者に聞くと、彼らも確かに足音を聞いたという。

 

さっそくテントの外に出てみると、降雪がなかったのに雪面にまったく足跡がなかった。まったく不思議なできごとであった。

 

翌日は快晴。千町ヶ原から南西へ少し下り、1885mのピークから西へ進路を変えてどんどん滑降する。九蔵本谷と小俣谷に挟まれた広い地形で、明治初期に上牧太郎之助が拓いた信仰の道がある尾根だ。

 

途中輪カンジキを履いて登って来る2人の熊猟師に出会う。冬眠中の熊穴を見つけての猟をしており、木の根元にある穴の周囲の雪が黄色くなっているので、それとわかるという話を聞いた。

 

下山してから、広い湿原があるこのあたりは昔から「精霊田(しょうれいだ)」と呼ばれ、死者の霊が集まる所だということをはじめて知った。

 

最近不思議なめにあったのは、平成26年(2014)4月、山スキーでFさんと子の原尾根から登って奥千町の避難小屋に泊まり、翌日大日岳から滑った時だ。

 

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 小屋は埋まっていて窓から入る

 

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初日は小屋に荷を置いてから千町ヶ原を往復し、その夜は酒を飲んで早々に寝た。

 

隠居は熟睡していたが、Fさんが夜中にいろんな動物や人の声を聞いたとのこと。

 

なかには狼に似た声もあったそうだ。

 

昨今どの山も俗化してしまったが、この山域だけはいまだに神秘的なところだ。

 

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幻のオホーツク文化をかじって見た

2018.07.17 Tuesday

 

 

涼しい国から酷暑お見舞い申し上げます。こちら道東は、今日の最高気温予想が18度と寒いくらいです。

昨年とちがって天候もいまいちで、雨が降ったりやんだり。

 

隠居のほうは、この4月にスキーで痛めた足が縦走のあと少し悪くなり、足と天候の回復を待ってもっぱら平地を徘徊しています。

 

一昨日は旭川の博物館でアイヌ文化を学び、昨日は今回の目的の一つだった網走市のモヨロ貝塚館へ。

 

以下マニアックな話しで恐縮ですが、ここには大正2年に発見されたオホーツク文化の出土遺物が展示されています。本州が平安、鎌倉時代に栄えたこの文化は、その後アイヌ文化に影響を与えて消えてしまいます。

 

海洋狩猟民でありながら、山の神のヒグマを祭壇に祀っていました。写真にも家の中に積んだクマの頭蓋骨や石の彫り物があります。土器には独特の模様が入っています。

 

海獣の骨に刻んだ女性像は、モヨロのビーナスと言われてるそうです。住居や墓など、彼らの生活ぶりがよくわかる展示内容に満足。

 

もともと縄文のファン、マニアである隠居は、縄文人の末裔であるアイヌにも関心があり、アイヌに影響を与えたオホーツク文化にも興味を持ったというわけです。

 

このあと知床に入り、羅臼側から知床岳登山口を偵察。この山には道がなく終始ヤブこぎ、山中で2泊が必要で、しかもヒグマがたくさんいるとのこと。道がない海岸を2時間歩いて取り付きます。

 

臆病者のこのじいさん、足のこともあり、海岸で目の前にある国後島を見ながら思案中です。

 

 

 

 

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