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チベット 5 カンリ・ガルポ山群偵察登山

2019.05.29 Wednesday

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 カンリ・ガルポ山群 ラロンバー氷河

 

『ヒマラヤの東・山岳地図帳』などを出版し、今や世界的な東チベットの地理学者中村保氏が、「知られざる南東チベットの山群」と呼んだカンリ・ガルポ山群(全長280繊砲愼るのも今回の目的のひとつだ。

 

登山隊は我々6名のほか、監視役の旅行社社長、補助1名、運転手、その会社の山岳カメラマンが同行することになり、総勢10名になった。

 

我々のテントや登攀具など装備のすべて、食料のほとんどは日本から持ち込んだ。

 

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ラウーの集落を過ぎて少し走った所がラロンバー氷河への入口となるが、天気がすぐれず山の全容は見えなかった。

 

氷河までは低灌木が生える広大な平原になっていて、所々にヤクが放牧してある。

 

そのなかに未舗装の放牧用の道らしき痕跡がついている。

 

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ネパール側の場合、地形が凹凸なのでベースキャンプまで雇用したポーターが荷を担ぐが、平坦な地形のチベットではある部分まで四輪駆動車で入り、その後はヤクが荷を運んできた。

 

ところが最近ヤクはたくさんいるものの「ヤク使い」がいなくなり、登山隊の荷の輸送が難しくなった。

 

近年交易でヤクを使うことがほとんどなくなったからだ。馬も少なくなっている。

 

普通車を乗り入れたらさっそく水たまりに潜ってしまい、皆で押して脱出。

 

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通りかかったチベット人の若い男女が泥だらけになって助けてくれた。

 

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この時期には金になる「冬虫夏草」が採れるということで、今や若い人は馬でなくオフロードのバイクで高原を走り回っているのだ。

 

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途方に暮れていたら、ガイドがトラクターを雇ってきた。

 

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そういえばここへ来る途中、道路工事現場で何台ものトラクターがブロックを運んでいた。

 

チベットでは耕作用でなく運搬用に使われている。

 

なんと1台の中国製トラクターに荷と10名全員が乗り、奥地へと進む。運転手は時々停まってエンジンに水をかけていた。

 

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悪路が続き、振り落とされないように必死でつかまっていなければならなかった。

 

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氷河末端の放牧地4500mに着き、テントを張る。

 

いつもはこの高度で高山病の症状が出る人がいるのだが、今回は順応がうまくいって全員調子がよかった。

 

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登山リーダーを任されていた隠居は、早速目的の尾根に登るルートを見つけ、その下部まで偵察隊3名を出す。

 

この尾根のピーク(約5500m)に登り、奥に居並ぶ未踏峰へのルートを探すのが今回の目的だ。

 

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6000mの未踏峰へルートが見つかっても今回は登山許可を得ていないので登ることはできないし、日にちもない。次回のための偵察だ。

 

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 氷河の奧にある未踏峰

 

4700mあたりまで偵察の結果、急峻ながら雪渓が上部まで続いており、ロープを使って登れることがわかった。

 

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6名中5名が明日の登山に加わることになり、登攀具を配分する。

 

60歳をこえているとはいえ、5名中4名が今も冬山をやっている現役のクライマーで、隠居だけが元クライマー。

 

急な雪壁も難なく登れるはずだったが、夕方から雪が降り出した。

 

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 チベット人のスタッフ

 

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 乾燥したヤクのフンはよく燃える

 

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一晩中降っていた雪は朝になってもいっこうに止まず、尾根上は相当の積雪になっていると思われた。

 

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 ヤクは動かない このあと数日は絶食

 

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どうも早いモンスーン入りとなった模様なので、協議の結果やむなく下山を決する。

 

これ以上の積雪になるとトラクターの運行ができなくなり、何日も山に閉じ込められてしまうからだ。

 

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 西チベット人にとって雪が珍しい

 

携帯電話でトラクターの持ち主に無理を言って来てもらい、ふりしきる雪の中をスリップしながら必死に走り、なんとか脱出できた。

 

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かくして今年のチベット登山はあっけなく終わってしまった。

 

子供じみた言い方ながら、隠居の今までのチベット未踏峰登山は、4年間で33勝(いずれもポストモンスーンで、そのうち1回は前年に偵察している)だったが、残念ながら今回は標高が低いのに登ることができなかった。

 

今まで運がよすぎたわけで、これが登山というものだ。

 

帰ったすぐには風邪をこじらせたこともあり、もうこれでチベット登山は卒業しようなどと思っていたが、今日になったら「冥途の土産に来年はあのピークに立ち、カンリ・ガルポ山群を見渡したい」などと考えはじめている。

 

この困った老人、だんだん高所で体が動かなくなるというのに、夢だけはまだ未踏の山野を駆け巡っている。

 

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チベット 4 ラサ〜ニェンティ〜ラウー(登山口)

2019.05.22 Wednesday

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 セジラ峠からのナムチェバルワ峰(7780m)

  2018.11.1 現地旅行社のハン社長撮影

 

道草を食っていてなかなか登山地カンリ・ガルポ山群へ辿り着けないが、以前とちがって、今回は登山だけでなく道草も目的なのでお付き合いを。

 

道草とは、四川省の成都から横断山脈を越え、ラサを結ぶ歴史の道=茶馬古道、川蔵公路をたどること。

 

現在ここは外国人が入りにくいエリアで、一部は立ち入りが許可されていない。

 

ラサからニェンティまでの420舛蓮以前なかった高速道路がついていて驚いた。無料なのに走っている車はほとんどいなかった。

 

ニェンティ市の公安(警察署)で外国人入域許可書を取得。

 

他の中国地域と違い、チベット自治区ではこうした許認可を含めすべての旅程を現地旅行会社を通じて手配しなければならない。

 

そして現地でのすべての行動は、旅行会社のガイド同行が義務付けられている。

 

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写真撮影にも厳重な制限があり、軍、共産党および地方政府の施設、警察署や警察官などを撮影した場合自治区から退去させられ、ブラックリストに載るので2度と自治区に入れない。

 

ニェンティからダモウを経て登山口ラウーまでの川蔵公路370舛癲⊃年前は悪路で時々崩壊して通行止めが頻繁と聞いていたが、34年前に全面改良されたとのことで、きれいな舗装道路になっていた。

 

そして五体投地でラサへむかう人も見かけなかった。

 

このところの中国政府のチベットに対する急速な現代化政策=「改善」で大きく変わってしまっていたのだ。

 

沿道の民家も政府の補助金で建て替えた家が多く、昔ながらのチベットの山村風景を期待していた我々は少々がっかりした。

 

それでも往時の宿場のなごりが見られ、明るいチベット人たちとの交流は楽しかったし、未踏峰が立ち並ぶ山岳風景はさすがすばらしかった。

 

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ガイドの話では、現在中国政府は資金が潤沢で、成都からラサまで横断山脈にトンネルを掘り、いくつもの大河に橋を架けて、高速道路でつなぐ予定だという。

 

9年ぶりの隠居ならまだしも、2年前にきたことがある隊員が驚くほど急速な変貌ぶりを見ると、この計画の実現も早いと思われる。

 

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 セジラ峠手前の峠で薬草を売っていた。サルオガセも。

 

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途中4700mのセジ・ラ(ラ=峠)を越す。

 

ここからはナムチャバルワ峰(7780m)が望めるはずだが、往き帰りとも雲の中だった。

 

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峠を下ったところにあるダモウというところは、以前ラサの西で登ったニェンチェンタンラ山脈がここまで延びてきていて、6000級の氷河を持った峻峰が市街地を取り囲んでおり、しかも皆未踏峰である。

 

東チベットは、乾燥した大地が広がる西チベットと違って森林が多く、木材を使った家も見られる。

 

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 2005年に行ったニェンティそばの木造民家

  飛騨の農家とよく似ていた

 

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そこにはいろんな鳥が生息していて、同行の鳥博士Uさんは撮影に大忙しだった。

 

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 ダモウ市内からの山々

 

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 センギ・カンリ 6000m級の未踏峰

 

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 ドルジェタ 6200mの未踏峰

 

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 桑の実

 

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 サクランボ

 

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この日は、ラウー湖の畔にあるホテル泊。

 

このあたりは上高地のような風景がどこまでも続き、道路がよくなるとともに一大観光地になるだろう。

 

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 土産売りの子供に日本から持参のオモチャをプレゼント

 

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今までの旅は許可を得なければ入れないエリアで、それなりに自分の知的好奇心を満たしてくれたが、所詮はホテル泊まりの観光旅行だった。

 

変わり者の隠居は、そろそろこの安全性が確保されているぜいたくな?旅に飽きてきて、安全ネットがない不確実性が伴う旅(=未踏峰登山)が恋しくなってきた。なんとも困った年寄りだ。

 

明日はいよいよカンリ・ガルポ山群での登山活動を開始。

 

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チベット 3 ラサの今

2019.05.15 Wednesday

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もしむこうで斃れたら鳥葬にしてもらいたいと願っていましたが、この我欲にまみれた老骨はハゲワシも食わないと知って帰ってまいりました。

 

さて横断山脈へ逆戻りするため9年ぶりに立ち寄ったラサは、大きく様変わりしていた。

 

2006年、青海省ゴルムドからラサへの鉄道が敷設されて大幅な観光客増が見込まれると、漢人の商人が大挙してラサに乗り込み、町の西側は大きく変わり、キチュ川中州には高級住宅が林立していて、その変貌ぶりには驚くばかりであった。

 

チベットがはじめての隊員もいたので、ポタラ宮、ノルブリンカ(歴代ダライ・ラマの離宮)、ジョカン(大昭寺)を見学。

 

世界遺産ポタラ宮は、鉄道がついてから建物保護のため入場者数を制限し、事前予約制になっていたが、この日は意外と空いていた。最近西洋人が少ないとか。

 

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1000を超える部屋があるといわれるが、見学コースが決まられていてその一部しか見られない。内部は写真撮影禁止。

 

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それでも歴代のダライ・ラマのミイラを宝石で飾られた大きい像のなかに納めてある霊塔は、見ごたえがある。

 

建物上部の紅色の部分は、この霊塔など宗教に関わる「聖」の部分。

 

下部の白い部分は、ダライ・ラマの住居であり、政治を執り行った場所。いわば「俗」の部分。

 

壁に塗ってある白い漆喰には、ヤクの牛乳が練り込んであるという。

 

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 回すとお経を読んだことになるマニ車

 

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ノルブリンカは、ダライ・ラマ7世が建てた夏の離宮。

 

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14世がインドへ亡命する直前まで使っていたレコードプレーヤーやラジオ、西洋式のシャワールームまである。

 

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旧市街地にある7世紀吐番時代創建のジョカン(これも世界遺産)は、今も五体投地をする人が絶えなかった。

 

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ジョカンを時計回りに一周する巡礼通りパルコルは、以前あった多くの屋台店が撤去させられきれいな通りになっていて物足りなかったが、それでもまだいちばんチベットの雰囲気を残していて、ここでも五体投地で回っている人がいた。

 

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時間の関係で、セラ・ゴンパ(河口慧海や多田等観が学んだ寺)や郊外にある広大なデプン・ゴンパを見ることはできなかったが、案内してくれた現地旅行社の社長自らがチベット仏教の熱心な信者で、日本の仏教にも造詣が深く、多くのことを学ぶことができた。

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チベットから 2

2019.05.05 Sunday

このチベットだより、その後ご無沙汰していますが、現地の通信環境が悪く、うまく送れないまま移動しています。

 

昨日着いたラサからもうまくゆかず、再度送ってみますが、はたしてうまくゆきますかどうか。

 

われわれがたどっている成都からラサへの歴史の茶馬古道は、四川省のバタンから直接チベットへ入ることができない。

 

現在横断山脈の一部区域が、外国人立ち入り禁止になっているからだ。

 

このためやむなく四川省のリタンからいったん南下し、金沙江を渡って雲南省へ入った。

 

そしてシャングリラから国内線でラサへ飛び、こんどは逆にラサから横断山脈西端の目的地カンリガルボ氷河へ向かうことに。

 

外国人立ち入り禁止区域は、四川省から少しの区間なのに、大廻りせねばならない。

 

チベットは、ラサ以外の外国人立ち入りは、軍、政府、地元警察の許可が必要なので致し方ない。

 

シャングリラへの途中、梅里雪山が見える飛来寺へ寄ったが、あいにく山の全容はみえなかった。

 

 

      揚子江の源流 金沙江の流れ

 

 

      

       ベルマカンリ

 

 

      梅里雪山

 

 

 

あと梅里雪山の山麓を流れる大河メコン川源流の  俯瞰できるところまで下ってみた。

 

        メコン川の流れ

      

 

 

  上の写真 

メコン川の対岸に、上部に氷河がある谷が望めたが、1991年1月、梅里雪山に挑んだ日中合同登山隊17名が雪崩に埋まって死亡した谷と、下流の集落だった。遺体は何年もかかって下流にはこばれ、順次発見された。 その現場に向かって黙祷をした。この山はカワカブと呼ばれ、チベット仏教の四大聖山のひとつで皆に崇められている。このため地元では、山を汚したからだと言われているようだ。p>

 

シャングリラには、雲南省のポタラ宮といわれる大きいソンツェンリンゴンパがある。

 

 

 

シャングリラからラサへ飛ぶ。 9年ぶりのラサは大きい建物が建ち並び、変貌していたが、お寺では多くの若い人が五体投地をしているなど、チベット人の信仰心だけは変わっていないようだった。p>

 

 

       世界遺産 ポタラ宮

 

 

明日は東のニェンティ市まで行き、地元警察から目的地カンリガルボ氷河地区への立ち入り許可をとらねばならない。外国人立入許可書などというものは、明治初期政府がガウランドに発行していたものを思い出す。p>

 

そしてさらに横断山脈へと東進する。

 

あこがれの山カンリガルポ山群は遠い。

 

  

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       

 

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チベットから 1

2019.05.01 Wednesday



成都からラサへのティーロードの旅は、令和の今日、まだ四川省のチベット集落に滞在中。


途中チベット人が仏像に見たて、崇めている聖山を見学。


6000m級ながら素晴らしい山ですが、当然許可が下りず未踏峰。


四川省の西部は標高が高く、いくつも越えた峠は皆4500mくらいで、宿泊場所は3000mから3600m。


このため登山のための高度順化ができています。


明日は横断山脈を流れる大河のうち金沙江(長江源流)へ接近。    郷城にて





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チベットへ

2019.04.25 Thursday

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この年になっても未知へのあこがれは止まず、明日からまたチベットへ行くことになりました。

 

乾いた大地がどこまでも広がっているだけの虚空の国、標高が高くて雲に手が届きそうな天空の国になぜか魅かれるのです。

 

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5回目になる今回は、今までのように一つの山を目的とするのでなく、四川省の成都から真西へラサまで歴史の古道「川蔵公路」を車で約

2600前幣絨榮阿掘途中の氷河で小登山をする計画です。

 

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移動の途中では、ミニヤ・コンカ(7,556m)や梅里雪山(ミンリンカンリ・6,740m)ナムチャバルワ(7,782m)などの名峰が見られます。

 

踏査の山は横断山脈の西端、6000m級の未踏峰が多くあるカンリ・ガルポ山群。

 

多くの氷河を擁する東西280舛了殻で、チベットの山に詳しい中村保氏が著書『ヒマラヤの東』でこの山域のことを、「知られざる南東チベットの山群」と書いています。

 

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今回はラロンバー氷河に入ってテント泊をし、偵察がてら小ピークに立てたらと思っています。

 

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 氷河奥にある未踏の峻峰

 

この計画は、松本市のMさんが3年かけてめんどうな許認可の取得などを行った、全く手作りの山旅。

 

拙者はMさんと2010年に未踏峰ダ・カンリに登った時のご縁でお誘いいただけたのです。

 

隊員は長野県3名、東京1名、三重県1名と岐阜の隠居。

 

隊の名前は「シルクロード踏査と偵察登山隊」(シルクロードはティーロードのほうがよかったかも)

 

今回我々が入る、四川省成都から康定(ダシェド)と理搪(レタン)を通り、横断山脈を越えてチベットのラサへ至る古道は、明治32年東本願寺の僧能海寛(のうみ・ゆたか)と寺本常太郎が経典を求めて入ったものの、巴塘(パタン)で入域を拒まれたルート。

 

能海寛は再度別ルートで挑戦しますが、途中で山賊に惨殺されています。

 

明治から大正かけては求法のために、戦前には密命を帯びて10人の日本人が閉ざされたチベットへ入ろうとし、あるいは入って貴重な体験をしました。

 

チベットへ入った日本人のことを『西蔵漂泊』(山と渓谷社)に詳しく書いた江本嘉伸氏は、行動の時期で第一グループを能海寛、寺本婉雅、河口慧海、成田安輝、第二グループを矢島保治郎、青木文教、多田等観、再入蔵の河口慧海、第三グループを太平洋戦争の直前に国家のため情報収集でモンゴル人になりすまし、チベットに入った野本甚蔵、西川一三、木村肥佐生としています。

 

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 五体投地をしながら何日もかけてラサへ

 

西川と木村は敗戦も知らずにしばらく留まっていて、帰国後その体験を西川は『秘境西域八年の潜行』、木村は『チベット潜行十年』として書いており、皆さんもご存知だと思います。特に西川の僧院での最下級僧としての生活体験は貴重なものとされています。

 

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 世界遺産 ポタラ宮

 

僧籍にある人は仏典を持ち帰るのを目的としましたが、それを果たしたのは河口慧海、多田等観、寺本婉雅でした。

 

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チベットへ向かった日本人を、学僧、旅人、探検家などと呼ぶことが多いが、司馬遼太郎は「知識人の夢」

と言っています。

 

江本氏は『西蔵漂泊』の終章に「日本人であることを隠し、閉ざされていたチベットに入って行った旅人たちの記録を追いながら、旅というものが、いかに知的刺激にあふれたものであるかを改めて思った」

 

「困難ではあったが、十人は幸せな旅をした。現代では彼らが実践したような知の体験はまれである。」

と書いています。

 

冒頭に書いたように今回は登山だけではないので、体は弱っているものの知的好奇心だけは旺盛な隠居は、「知の体験」をしてきたいと思います。

 

いずれも冥途への土産になることは間違いなさそうです。

 

ご存知のように、かの民族は現在たいへん困難な状況に置かれており、通過者ながら心が痛むことが多いと思われますが、その現実も直視してきたいと思っております。

 

当然現地で政治向きのことは「見猿、言わ猿、聞か猿」が入域の条件になっています。

 

現地から景色に限定しての写真の送付を試みますが、僻地のこと故うまくゆかない気がします。

 

無事帰りましたら詳細をご報告いたしますので、しばらくお待ちください。

 

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 2005年の登山 アプローチは馬で

 

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 荷はヤクで

 

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 2005年に登った山

 

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 2007年に登った山(中央奧)

 

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 2010年に登った山(左)

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韓国・雪岳山

2015.04.06 Monday
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昨日の日曜日、予定していた山スキーは雨で中止に。

 

家で写真を整理、というよりペーパーのものを廃棄処分していたら、昔韓国の雪岳山へ岩登りに行った時の写真が出てきた。

 

40年も前の古い写真でまことに恐縮ながら、捨てる前にいちどご覧いただきたい。

 

まだ岩登りに燃えていた27歳の時だった。時期は4月末で、同行は少し年下のSH

 

朝鮮半島東部を貫く太白山脈にある雪岳山(ソラクサン)は、北緯38度線を越えたところの日本海側の束草市西部に位置し、国立公園に指定されている。

 

雪岳山には花崗岩でできた切り立った峰が連なるが、標高1,708mの大青峰(デチョンボン)が最高峰。

 

済州島の漢拏山(標高1,950m)と小白山脈の南端の智異山(1,915m)に次ぐ、韓国第三の高峰である。花崗岩の峰々がいつでも雪が積もったように白く見えるところから雪岳山の名が付いたとされる。

 

往路は下関からフェリーで釜山に渡り、YS11のプロペラ機でソウルへ飛んだ。

 

韓国はまだ朝鮮戦争の戦後から立ち直っておらず、ソウルの街には廃墟のビルが残っていたし、夜間外出禁止令が出ていて、市内にも道中にも軍の検問所がいたるところにあった。

 

ソウルに泊まった翌日は、長距離バスで未舗装の道路を走り束草市へ。ここからまたバスで雪岳洞へ行き宿泊。

 

登山口から少し登ったところにある蔚山岩(ウルサンバウィ)は、錫杖岳の前衛フェースによく似た300mの岩壁で、当時岩登りの名所になっていて、3人でここに登って遊んだ。

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ただし錫杖岳と違うのは、岩場の横に鉄製の階段があって観光客も頂上へ登ることができ、まったくのゲレンデだった。

 

あとは途中の山小屋(といっても寺の宿坊みたいなもの)に泊って、そばの針峰でクライミングを楽しんだ後、大青峰(1,708m)に登ってきた。

 

登山道は、両側に奇岩怪峰がいくつも立ち並ぶ、山水画にあるような美しい千仏洞渓谷沿いについていた。

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  大青峰

その後ソウルなどへは何回か行ったが、雪岳山には行っていない。

 

現在は一大山岳観光地となっていて日本からのツアー登山も盛んなので、登った方も多いと思う。

 

写真を見ていて、蔚山岩の岩は日本の穂高や錫杖の岩と違って風化した目の粗い花崗岩で、しかもチムニー、クラックなど内面登攀が主だったため、たいへん手こずったことが思い出された。

 

そして今と同様に対日感情が悪かったことも。

 

しかし隠居のDNAの半分は渡来系みたいなので、かの国のあちこちでなつかしい顔に出会ったこともいまだ印象に残っている。

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ダ・カンリ峰の写真

2014.11.01 Saturday
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ダ・カンリ峰とは、2010年に隠居が老骨を軋ませて登ったチベットの6,247mの未踏峰。

 

遠くから撮った写真がなかったが、今年も10月にチベットに入った松本市のクライマーMさんが、登ったキズ峰(6,154m・未踏峰ではない)から遠望したダ・カンリ峰を撮影し、送ってくれた。

 

双耳峰で左の主峰(少し高い)に登ったが、遠望してもなかなか美しい山だ。

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Mさんとはそのダ・カンリ峰に一緒に登ったが、卓越した登攀技術に助けられた。

 

ルートは美しい雪稜と岩稜がミックスしていて結構登攀が楽しめた。

 

氏は隠居とあまり変わらないお年なのに、今なおクライミング一筋なのですごい。

 

氏にお会いしてから隠居も刺激を受けたが、若い頃行っていた「クライミング一筋」に戻ることはできなかった。

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氏のメールにもあったように、できればもう一度登ってみたい山だ。

標高が低くても、シェルパの力を借りることのないチベットの未踏峰登山ほど面白い登山はないと思う。

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ガンジャ・ラ

2012.12.25 Tuesday
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ナヤカンガ峰(5,844m)  1976年1月7日に登頂

今年もいくつかの飛騨の峠を巡ってきたが、年末になるときまって若き日に越えたネパールの峠を思い出す。


世界でいちばん美しい谷の一つといわれるランタン谷から、南のタルケギャンへ至る途中の山脈にある、標高5,180mのガンジャ・ラという峠だ。

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LANGTANG KHOLA(1971年・五百沢智也作成)

1969
年にネパール政府がヒマラヤ登山を解禁していたが、田舎の山岳会には出かけるような気運も力もなく、あこがれながらただ指をくわえているだけだった。


そんななか、短期間でもいいからとにかくヒマラヤを見てこようと、5名の若い仲間が集まった。


隠居の場合は、正月休みにそれまでに貯めた有給休暇を加え、会社に無理を言ってのネパール入りだった。


今から38年も前の古い話しであるが、初公開なのでご容赦。


現在のようにツアー会社による公募トレッキングが一般的になる前で、自分たちでシェルパ、ポーターを雇用しなければならない時代だった。


隊員5名、シェルパ1名、キッチンボーイ2名(うち見習い1名)、ポーター8名という、こぢんまりとしたパーティとなった。


近年自動車道が延長されてカトマンズからランタン村まで2泊くらいで行けるようだが、当時はベトラワチから徒歩、テント泊でランタン村まで1週間かかった。

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ランタン村

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ランタン村の少年
 

ランタン谷は、1949年にイギリスの探検登山家H・Wティルマンが踏査に入っているが、彼が称えたとおりの静かな美しい谷であった。

近年トレッカーが多く入り、ホテルなどの建物が建ったと聞くが、その時は他に1パーティを見たのみ。

この美しい谷にある20軒くらいのランタン村(3,410m)は、粗末な家が並び、人々の服装もたいへん貧しく、高所での厳しい生活がしのばれた。

我々の隊を見物にきた村人のなかに身体障害の子供や大人が多くいて、心が痛んだ。

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ランタン谷上部

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ランタンリルン(7,245m)

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ガンチェンポ

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ランタンリルン

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ランシサ・リ(6,294m)

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ナヤカンガ峰北面

 

この日はランタン村を通過し、キャンジュンゴンパ(3,840m)で宿泊。

翌日ランシサカルカ(4,090m)の上のランシサ氷河とランタン氷河の合流点あたりの草原でテント2泊。

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翌日2パーティに分かれてランタン氷河とランシサ氷河の途中まで踏査(といっても居並ぶ未踏の峰々に驚き、その名を確認しただけだが)。

あとキャンジュンゴンパに戻って宿泊後ガンジャ・ラにとりついた。

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キャンジュンゴンパからナヤカンガ峰

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キャンジュンゴンパ

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ランタン谷とガンジャ・ラの中間

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途中峠手前の台地(4,250m)で一泊。

この
峠越えは何人かが高山病になり、時間がかかった。

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ガンジャ・ラ直下

カトマンズを出てから11日目にたどり着いたガンジャ・ラ(峠)は、冬季でもあり通る人もない荒涼とした高所だったが、ランタンヒマールなどが一望できるすばらしい場所であった。


ここにケルンを積んで、ヒマラヤに憧れながら穂高の滝谷で遭難死してしまった山岳会のN先輩の写真をその基に埋めた。

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ガンジャ・ラ南面


この日は峠の少し下の凍った寒い台地(4,980m)でテント泊。

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ガンジャラのすぐ下部

隠居は高度の影響は出なかったが、数日前からの胃痛に悩まされてあまり食べることができず、体力が低下していた。


リーダーとしてシェルパ、ポーターとの折衝などのストレスもあったが、恥ずかしながら、途中民家で調達した強い地酒(ロキシー)を連日飲み過ぎたのも一因だったようだ。


このため唯一調子がよく、技術的にも卓越したS氏が、翌日シェルパと2人でナヤカンガ峰(5,844m)の登頂を果たした。

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ナヤカンガ南面 氷河を左へトラバースし、左の稜線から (Mさん撮影) 

 

前日に偵察をして氷河からのルートの見通しをつけていたもので、若いシェルパも初めて登ったので大喜びであった。

このナヤカンガ峰は近年ガンジャラ・チュリとも呼ばれるようになり、トレッキングで手軽に登れる山として人気があるようだ。

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ナヤカンガ北面 (Mさん撮影)

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峠からのゴサインタン(8,013m) 中央 (Mさん撮影)

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峠からタルケギャンへの下降路 (Mさん撮影)

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岩屋

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ジュガール・ヒマール

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ジュガール・ヒマール

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ガンジャ・ラ遠望(中央鞍部)

あと途中の岩屋(4,700m)、尾根の途中(4,300m)で2泊してからタルケギャンへと下り、はじめて民家に泊めてもらった。


いろりと仏壇があり、家畜は同じ屋根の下にいるなど、昔の日本の農家と似ていてなつかしかった。


このあとまた歩いて3泊のあとカトマンズへ戻った。


12
27日にカトマンズを出てから全行程18日間(うち徒歩165日)。


自分たちだけのパーティで5000mの峠を越え、未踏ではないが小ピークの登頂もできて、若いヒマラヤ入門者としてはまあまあの旅であり、少しは渇きを癒やすことができた。

この小さな旅の成功は、献身的に支えてくれたシェルパ、ポーターのおかげであったことは言うまでもない。

今でもこの旅を思い出すと、彼らの笑顔が目に浮かぶ。

(掲載した写真のうち、鮮明なものは当時のリバーサルフイルムをMさんがスキャナーでデジタル化してくれ、不鮮明なもの及びモノクロは、アルバムのプリントしたのもをデジカメで撮ったものです。)

この隠居、人生の旅の方はとっくに峠を越え、先の目的地もだいぶ近くなってきた。


そのせいか、最近来し方を振り返ることが多くなり、つい昔の話をしてしまった。


今ティルマン著の『ネパール・ヒマラヤ』(深田久弥訳・ヒマラヤ名著全集第4巻・あかね書房)を開いて、ランタン踏査行を再読している。


今では古典であるが、当時ヒマラヤ登山のバイブルと言われ、ランタン谷の旅に出かけるきっかけになった本だ。

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ティルマン作成ランタン谷の地図(ヒマラヤ名著全集から)

ご存知のとおり、その後ティルマンは山でなく海で死んだ。


彼は高所登山ができなくなったので、登山家の老兵ができる肉体的冒険の一形態として海にむかい、ヨットミスチーフ号でパタゴニアなどに足跡を残したが、197711月にアナヴァン号で南シェトランド島にむかい遭難死した。

享年79歳。


ナンダ・デビを初登頂し、英国のエベレスト登山にも関わったが、クライマーというよりむしろ探険登山家であったティルマンは、隠居と同じでへそ曲がりで偏屈者であったようだ。


そして名言家で、例えば「高度とはお金を貯めるようなもので稼ぐには暇がかかるが、なくなることはまことに速い」、50歳を過ぎたときには「その年齢は、理性を曇らせはしないが、情熱を和らげる」などと言ってヒマラヤから去った。


シプトンとともに隠居が好きな、ヒマラヤ登山にまだロマンがあったころの登山家だった。

今年も拙いブログにおつきあいいただき、まことにありがとうございました。

ではよいお年をお迎えください。

 

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ジャナリズ峰(6214m)

2011.12.25 Sunday
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今年も下手なブログにお付き合いいただき、まことにありがとうございました。


チベットの写真をもっと見たいとのご要望がありましたので、いささか古いのですが、年末のご挨拶がわりにご覧ください。ブログ本邦初公開。


2005
年のニェンチェンタンラ山脈での未踏峰登山です。


ニェンチェンタンラ山脈については、以前ダ・カンリ峰のときに詳しく書きましたが、600kmにもおよぶ大山脈で、7,162mのニェンチェンタンラ山、7,048mのチョモカンリのほか、6,000m級の山がたくさんあり、特にその東部にはまだ未踏峰が残っています。


チベット自治区は、今まで政情不安の時期があったりして登山者があまり入っておらず、未踏峰がまだ残されているのです。


故今西錦司じいさんに「落ち穂拾い」などと揶揄されても、やはり地図のない、人跡未踏の地に入る面白さは格別です。


この
登山チームは福井の岳人を主体とする合同登山隊で、年齢構成は50代、60代の中高年隊。それでも皆さん登山経験は長く、海外登山の経験も豊富な方ばかりでした。


この山は結果的にはやさしく、隠居は難なく登頂できたものの、C1で、同年輩の方が高山病で亡くなられるという残念な結果に終わっています。


9
4日から高度順化のため3日間ラサ(3,650m)滞在。


9
7日、ラサから四輪駆動車で青海省へ至る国道を走り、途中から道なき草原に入り、迷いながらも標高4,500mの山麓の草原にベースキャンプを設営。

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ベースキャンプ


9
8日、B.Cから日帰りで高度順化を兼ね、目的の谷を偵察する。

標高5,000m付近まで登ったが、谷は思ったより広く、入れることがわかった。

草原にははじめて見る高山植物が多く咲いていた。

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99BC〜C15,350m)


C1へ移動。当初徒歩の予定であったが、地元遊牧民のつよい勧めで馬に乗る。

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馬を引いてくれた姉、弟

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馬方


草原のうちはよかったが、河原になると馬がいやがり、断崖の通過は恐怖の連続で、後で歩いたほうがよかったと、異口同音だったがいい経験にはなった。

馬を引いてくれた少年の笑顔が印象に残っている。


荷物はヤク11頭に積んでヤク使い数名がつく。

チベットにはどこかの谷の奥に「シャンバラ」という桃源郷があるというが、そこへ至るのではないかと思うくらい広い美しい谷であった。やがて前方に雪の山が見え出す。

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奥へと進み、標高約5,300m地点の広い河原にC1を設営。馬はここから返し、ヤクは下山まで放牧する。

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キャンプ1

このあと小生と後2名で上部へ偵察に出かける。氷河舌端が見えだした地点で引き返す。

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910C1〜C2(5,763m)

C1からはC2へ登高。歩き出してすぐに、1名が高山病で歩けなくなり、下山。これで計3名がC1残留となる。

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途中青いケシなどはじめての花々を見ながら、氷河末端へ。

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現地のヤク使い4名に靴とサングラスを支給し、ポーターに雇用。

氷河までは快調にトップを歩いていたが、氷河に入るとクレバスを怖がり、私がトップでクレバスを避けながらルートファンデイングして進む。後の皆はかなりの遅れ。

ポーターは途中でたびたび帰ると言い出すので、叱咤激励しながら上部へ。

ネパールとちがい、彼等ははじめての登山経験なので無理もない。


標高5,700mあたりでとうとうテントを広げ出したのでやむなく妥協。雪上にC2を設営する。

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キャンプ2

遅れて着いた隊員の話では、今朝元気な様子で皆と話していたK氏の容体が急変し意識不明なり、ドクターが途中で下山したとのこと。

ドクターが夜間医療用の酸素吸入を行い、翌朝は回復したかに見えたのだが・・。

911日登頂6,214m)


降雪がありガスっていたが、次第に晴れてきたので850分頂上へ出発とする。

可能性のあるルートが2本考えられたが、昨晩議論して絞る。

C2眼前の急な雪壁を登りきるまで不安であったが、尾根に出たらこのルートが正解であることが判り、ほっとする。


10
35分左側に槍ヶ岳のような未踏の岩峰がある。

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ガスの切れ間から目指す頂上が姿を現すが、秀麗な姿である。ルートは左の岩稜沿いがいいと判断。


旗竹を所々に刺し、いたるところにあるクレバスに気をつけながら進む。先行3名でアンザイレンし、ほとんどコンテニアスで進む。


部分的に急な雪壁があり、アイゼンのつま先だけの登攀あり。終始私がトップを努めたが、6,000mあたりからとたんに呼吸が苦しくなり、少し登ってはすぐ休んだ。

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頂上からの展望

1225分、やがて雪壁が切れ、ガスの切れ間から青いナムツオ湖が目に入り、頂上と判る。ガスの切れ間からニェンチェンタンラ山7,162mをはじめとする周囲の山々が望め、頂上に立った実感がわく。

往路を慎重に下山。

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この日は急遽C2を撤収し、C1まで下山する。

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9月12日C1撤収

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C1テントを撤収しBCへ。荷はヤクに積み、徒歩で下山。

登山を支えてくれた純朴な遊牧民と、文句をいわず黙々と重労働に耐えてくれた馬とヤク達に感謝。


BCではじめてK氏の死亡を知る。持病の心臓病に高山のダメージが加わったらしい。享年64歳。


聞くところによるとK氏は高所の経験者であり、前年にも6000mを経験しておられたとのこと。改め
て高山病というもののこわさを再認識した。

チベットの虚空に還られたK氏の冥福を改めて祈りたい。 おわり


日ごろ日本という「ウエットな、狭い世界」で暮らしていると、あの「壮大な空っぽの、乾いた世界」が無性に懐かしくなります。
 

今年はたいへんなことが続いた年でしたが、来年はどうかいい年になりますように。

では皆様よいお年をお迎えください。

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