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柏原峠(千光寺峠)2―古刹千光寺の境内を歩く

2020.05.25 Monday

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 笠ヶ岳の雪形=代掻き馬

今年はシャッターチャンスを逃し、2017年5月19日のもの

 

人々から忘れられ、埋もれてゆくものを惜しんで、古い峠歩きは続く。

 

乗鞍岳の剣ヶ峰あたりが冠雪した日(令和元年119日)、反対側(千光寺側)の下保集落から登ってみた。

 

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真言宗の袈裟山・千光寺は、約1600年前の仁徳天皇の時代飛騨の豪族両面宿儺(りょうめんすくな)が開山し、約1200年前に平城天皇の第三皇子である真如親王が弘法大師の弟子になり、諸国行脚の途中に建立したという古刹。

 

標高900mの山中にあり、「飛騨の高野山」ともいわれる。

 

江戸期には、木彫り仏で有名な円空が3年続けて千光寺へ通い、作仏を行った。

 

現在寺には円空が遺した両面宿儺座像、観音郡像など50余体が収蔵されている。

 

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両面宿儺座像

 

寺へは参拝用の自動車道が付けられているが、昔の歩く参道は自動車道入口から300mほど南に残っている。

 

下保集落の人に聞くと、こちらでは柏原峠と呼んでいるとのこと。

 

同集落のHさん(61歳)は、「小学生の頃学校の先生に連れられて行った時(昭和40年頃)は既に通る人がいなく、道が一部ヤブで埋もれていて道に迷ってしまった覚えがある。」と話してくれた。

 

旧道の石の山門を通過する。

 

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 左千光寺 右桐山

 

広い道はすぐにヤブに覆われていたが、それでも国指定の天然記念物の五本杉まで難なく歩けた。

 

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この杉は、本尊の千手観音とともに千光寺の信仰のシンボル。

 

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このあとは新参道の自動車道に寸断されていたが、途中から仁王門までの旧道が残っていたので歩く。

 

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山門の金剛力士像は、昔一の宮水無神社の仁王門にあったものだが、明治の神仏分離でここへ移された。

 

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旧道は仁王門からか石段を登って境内に入り、先日出てきたところへつながっていた。

 

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なお仁王門下の右に大きい尾根が派生しているが、ここに鳥越砦があり、鳥越峠があったと言われている。

 

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永禄7年(1564)甲斐武田信玄の武将山県昌景が古安房峠を越えて飛騨へ侵入し、千光寺を焼き討ちしたと伝わるが、この時の砦跡らしい。

 

これで全線を歩いたことになり、「古峠コレクション」に一つ加えることができた。

 

それにしても、往来した多くの人々の祈りをやさしく受け止め、哀歓を見つめてきた、あのいいお顔の地蔵様のことが気になる。

 

おそらくこの先訪れる人はいないだろう。

 

初出「飛騨学の会」紀要『斐太紀』24号・202041日発行

 

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近代資本主義とグローバリズムの一帰結などと、「コロナ以前、以降」が語られ始めている。

 

「これからはアニミズムとトーテミズムが、人間社会を構成する鍵になってくる」などと示唆する人もいる。

 

そうすると、峠を歩いた時代までの日本人の自然観、死生観というものは、想像ながらまんざら捨てたものではないということになる。

 

この半呆け老人は「我々はもう不便な生活には戻れないが、自然を崇め、自然に謙虚だったかつての文化が、今後のわれわれの生き方、自然との関わり方を示唆しているのではないか」などと考えたりしている。

  

<以下余談 相変わらずの閉じこもりで、お時間のあるお方どうぞ>

 

千光寺峠(柏原峠)のことを書いていて、「幽霊街道」など普通の人が歩かない尾根道のことが気になったが、民俗学者宮本常一著の『山に生きる人びと』(河出書房)に「カッタイ道」という記述があったことを思い出した。

 

「カッタイ」とは、ハンセン病(らい菌による感染症)の差別用語だが、宮本は昭和16年、四国の山中で風呂敷包を背負い、ボロボロの着物を着たハンセン病の老婆に出会った。

 

顔はくずれてしまっていて、杖をついていたが、手の指もほとんどなかった。

 

人目を避け、山中を5〜6日歩いてきたとのことであった。

 

彼らは一般人に嫌われるので、山中の専用の道を通って行き来していたというが、これが「カッタイ道」といわれていたのだ。

 

四国にはこれらの人も歩ける八十八箇所の巡礼道があるが、土佐の国だけは藩主がカッタイの通過を嫌い、こういう道を歩かざるをえなかったという。

 

この頃はまだこの病気のことがわかっていなかったとはいえ、まことに痛ましい話だ。

 

昔の日本には、「カッタイ道」のほか、里を通らず山中にいろんな道があり、秋田マタギなどは山の尾根ばかり歩いて奈良県まで行き来していたという。

 

日本には、「山地民」といわれる木地師か修験者、マタギ、鉱山師、樵、炭焼き、あるいは「歩き筋」と言われるサンカ、鋳物師、ゴゼ、巫女、などが歩く専用の道があったらしい。

 

飛騨でも「山の尾根は魔物が通るところなので近寄るな」と言われており、昔こういう道が存在した。

 

先に書いた「幽霊街道」もそのうちの一つであろう。

 

隠居は今でも登山で尾根の縦走を好むが、登山が好きな者は皆前述の職業の人の末裔だろうか。

 

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千光寺峠(柏原峠)―「幽霊街道」にある峠で、千光寺へお参りの衆がよく通った

2020.05.17 Sunday

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 笠ヶ岳の雪形=代掻き馬もだいぶ出現(15日・上野平)

 

相変わらず山へ行けないので、去年秋の峠歩きを。

 

平湯峠の上にある輝山(てらしやま・2063m)から長大な尾根が西へ延びている。

 

尾根の途中には、金森藩の鷹狩りの場であったという広大な八本原、十二ヶ岳(1326m)があり、名刹千光寺を経て宮川へと落ちている

 

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 広大な八本原と笠ヶ岳(日影平の「乗鞍青少年の家」から)

 

この長い尾根は昔「幽霊街道」と呼ばれ、夜中に得体の知れない者の群れが通るので、山仕事の者は夕方早めに山を下りることになっていたという。

 

山窩など山で暮らす無宿の人々の通り道だったかも知れない。

 

十二ヶ岳から宮川までの尾根上には、折敷地集落から大萱集落へ越す恵比寿峠、大沼集落から大萱集落への大萱峠(別名巡見使街道)、三の瀬集落から桐山集落へ抜ける三之瀬峠(峰越え一里の峠)、柏原集落から千光寺を経て下保集落へ下る千光寺峠(柏原峠)があった。

 

このうち自動車道路になっているのは恵比寿峠のみで、あとの三つはとうに役目を終えてヤブに埋もれつつあった。

 

大萱峠、三之瀬峠は数年前に探索し、歴史遺産として地元歴史研究会の紀要に書き残すことができたので、残っていた千光寺峠へ昨年の11月に入ってみた。

 

この峠、柏原集落では千光寺峠、下保集落では柏原峠と呼んでいる。

 

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 柏原集落から見た千光寺峠

 

まず荒城川沿いにある旧丹生川村柏原集落側から入ることにし、峠道入口にあるK家で道の様子を尋ねると、近年通った人などなくかなり荒れているだろうとの話だった。

 

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 柏原集落

 

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そばの公民館に駐車させてもらい入ってみると、やはり谷沿いの道は取りつきからひどいヤブに覆われていた。

 

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 峠道入口

 

冬山のラッセルのように体力がいるヤブ漕ぎで、サングラスを紛失したり、トゲで衣服が破れたりでくじけそうになったが、上部の森林帯に入るとヤブが薄くなり、ようやく歩き易くなった。

 

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 谷沿いなので流れている個所も

 

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谷へ入ったすぐにルートを見失い、右の尾根に登るのを反対の尾根に取りつき、さらに左へ大きくそれてしまったが、GPSで修正して戻ることができた。

 

戻ったところにはっきりした道が残っていた。

 

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地形は次第に平らになり、大きい杉の木の下に地蔵様がポツンとさみしそうに座っておられた。

 

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 ようやく峠に出る

 

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飴玉をお供えしてお参りをしたあと、後ろ髪を引かれる思いでお別れをする。

 

杉林の中の笹に覆われた平坦な道を進むと、千光寺の八十八箇所巡りの参道に飛び出た。

 

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千光寺から下柏林道を歩いて柏原集落まで下る。

 

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 林道途中から笠ヶ岳が

 

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K家へ寄ると奥さん(72歳)がおられ、いろいろ話を伺うことができた。

 

「町方から郵便配達さんがこの峠を越えてやってきた。」

「町方への買い物や、坊方の親戚へ行くのにこの峠を越えた。」
「ある時坊方の親戚の子供が1人で峠を越えて来た時は心配した。」

「国府の衆が、千光寺へお参りによく通った。」

「遠足にも利用された。」

 

(次回千光寺側探索行につづく)

初出「飛騨学の会」紀要『斐太紀』24号・2020年4月1日発行を改稿

 

<以下余談 お時間の許すお方、お立ち寄りください>

 

老生つれづれに飛騨の登山史余話みたいなものを書いていて再読したのは、加藤博二著『森林官が語る山の不思議―飛騨の山小屋から』。

 

戦後間もなく他社で刊行されたものを、2017年に河出書房新社が再刊したもの。

 

著者の略歴記載がなく、巻末に「著者および家族に心当たりがあれば編集部へ連絡を」とあるので、著者及び関係者の所在が不明らしい。

 

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著者は戦前に宮内省帝室林野局が管理する御料林の森林技術者で、公務員だったのだろう。

 

森林官時代に人里離れた湯治場や山小屋で聞いた不思議な話や体験が、山で長く生活していた人ならではの精緻な自然描写とともに綴られている。

 

主として、何かの事情で山奥に住まねばならなかった人々の哀しい人生を拾い集めてあるが、猿が岩の窪みに山ブドウで造っていた酒を木こりが盗んで飲んだ話、猿でもない人間でもない怪物(先回紹介した「わろ」と同じ)が捕まった話などの奇談もある。

 

この森林官が、山で出会った戸籍を持たない薄倖の人々を常に温かい眼差しで見、やさしく接しているところがいい。

 

この人の人柄なのだろう。

 

なかには創作と思われるものもあり、全編が短編小説のようで面白い。

 

場所は飛騨だけでなく尾瀬、白馬など広範だが、これはすべて森林官の任地だったのだろう。

 

そのうち「飛騨の山小屋」は、著者が信州と飛騨の国境の深山(乗鞍と御嶽の間くらいだろうか)で暮らす父と娘の小屋に泊めてもらった時の話。

 

彼らのたつきは「せんぶり草」を採ってきて煮詰め、薬にすること。

 

その小屋にはどういうわけか赤子もいて、2人の留守中に何匹かの猿がお守りをしていた。

 

口が重い父になぜここで暮らしているかを尋ねると、「わしは山がいちばんいいのですわ」との一言だけだった。

 

小屋の主は山窩(サンカ)かそれとも犯罪者かもしれないが、詮索する気はないとも書いている。

 

もう一つ印象に残った話を紹介すると、深い山中の小さな鉱泉宿を一人で守っている老爺の話=「峠の湯」

 

この宿に泊まるのは、炭馬曳きか、まれに峠を越えてくる旅人、山女魚釣りくらい。

 

老人は、みかん箱に新聞紙を貼った仏壇に亡妻の位牌と、戦地へ往ったまま3年も音信がない一人息子の白木の位牌をおいて、静かに暮らしている。

 

この夜の泊りは著者だけで、老爺と月明りの露天風呂でしみじみと語り合う。

 

そして朝になると老爺は、炭焼きの少年が捕まえて持ってきた小鳥を買い取って逃がしてやるのであった。

 

著者は登ってきた初秋の峠で一休みし、浮かぶ雲を仰ぎ、眼下に小さく見える宿の老爺のことを思いながら、「自然に生まれ自然に帰る人の命の無限を知る」「人を恨み人を叱った寂しさを峠を越えるときひしひしと想う」などと考えて旅愁に浸っている。

 

あと美しいサンカの娘の哀しい恋物語など、山で生きる放浪民の話もいくつか。

 

なおこの本のカバー装画は、山岳画家吉田博が猟師小林喜作を描いたもので、「猟師の話」(1922年)。

 

戦前アメリカで最も有名だった日本画家吉田については、日本山岳会会報『山岳』2017年Vol.112に関塚貞亨氏が詳しく書いておられる。

 

44歳で木版画をはじめ、新境地を開いた。

 

小林喜作をガイドによく山を歩き、山岳画も多く残している。

 

次の絵は吉田 博の木版画の代表作「劔山の朝」(1926年)。 

 

冷池テント場から見た剣岳だが、構図、色使いともすばらしく、この年に多く制作された木版画のうちの白眉の一点であるとの評に頷ける。

 

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 日本山岳会会報『山岳』から複写

 

次のものも、小林喜作へのオマージュといわれる木版画「針木雪渓」(1926年)。

 

下部の二人が吉田と喜作。

 

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 日本山岳会会報『山岳』から複写

 

雪渓を見ていたら、年甲斐もなく無性に滑りに行きたくなった。

 

そういえば、今年はまだ滑り納めを済ませていない。

 

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金山峠(御坂峠)2―昔上宝の衆が、高山日枝神社払い下げの神輿(みこし)を担いで越えてきた

2020.05.10 Sunday

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 子供の日の乗鞍岳

 

相変わらずの蟄居生活だが、終日書斎に籠っていても苦にならないので、隠居はどうも生来の「閉じこもり型人間」だったようだ。

 

では先回の御坂峠の続編を。

 

他日、反対側から登るべく旧上宝村堂殿集落に入る。

 

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 堂殿集落

 

集落最奥の峠入口にあるNさんの家で道を尋ねると、ご主人(83歳)から「旧道が林道で何箇所も寸断され分かりにくいので案内してやる」と言っていただけ、ありがたく甘える。

 

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家のそばに「金山峠入口」と書いた木柱があった。

 

峠道は10年前くらいから手入れをしてなく、歩く人もいないとのこと。

 

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こちら側では、向こうの集落の名=金山(かなやま)が付けられている。

 

軽トラックで未舗装の林道に入り、途中で京大天文台への道と別れて左折。

 

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所々で軽トラから降りて寸断された峠道を教わり、少し歩いて写真を撮ってはまた上部へ。

 

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中間地点で林道に駐車して尾根上へ案内してもらうと峠道が現れ、役行者の石像があった。

 

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今まで峠道で多くの石仏を見てきたが、役行者像ははじめてだった。

 

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この上に修験の山があったことを聞いたことはないが、Nさんに聞いてもよくわからなかった。

 

さらに崩壊がひどい林道を進むと終点となり、ここから峠道が上部へついていた。

 

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周囲を見回るというNさんに待ってもらって、ここから峠を往復したが、一部ヤブに埋まっていたもののしっかりした道が残っていた。

 

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 先日の峠に到着

 

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 もう会うことがないと思われる地蔵様に別れを告げて戻る

 

道々Nさんからいろんな話を聞くことができた。

  

「昔高山の日枝神社の古い神輿(みこし)を堂殿の神社が譲り受け、この峠を越えて担いできた。」

「こちらからは蚕を高山へ運んだ。」

「農作業の手伝いに、金山の人が堂殿へきていた。」

「若い頃峠の下で堆肥用のワラを刈り、道を滑らせて下したが、重労働だった。」

「金山の人が半僧坊へお参りに通った。」

「この尾根を貫通するトンネルの話があったが、立ち消えになった」。

 

このうち、明治期に高山から神輿を運んできた話には驚いた。

 

堂殿までは、高山市街地のはずれにある「くぬぎ峠」、上野平へ登る「まこも峠」、「三ノ瀬峠」を越え、さらにこの「金山峠」を越えたわけで、たいへんだったろう。

 

帰路旧上宝村の郷土資料館へ寄って村内の石仏を調べた資料を見ていたら、金山峠の石仏は、天明3年(1783)金山集落の蔵柱巴さんほかが上げたことがわかった。

 

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 堂殿集落にあった石仏

 

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初出「飛騨学の会」紀要『斐太紀』24号・2020年4月1日発行

 

<以下余談、ご用とお急ぎでない方はのぞいて見てください>

 

最近テレビで、宇多田ヒカルという若い女性歌手が山を歩いているサントリー天然水のCMが目に留まり、彼女が山中で詩を朗読している場面が気になった。

 

調べてみるとこの詩は、国木田独歩の短編「小春」のなかにでてくるワーズワースの詩「月光をして汝の逍遥を照らさしめ、山谷の風をしてほしいままに汝を吹かしめよ」であることを、浅学の隠居ははじめて知った。

 

明治の登山家で、ワーズワースの研究家でもあった田部重治の訳を見てみると「ひとり寂しく歩く汝の上に月をして輝らしめよ 霧深き山風をして思いのままに汝を吹かしめよ」で、これは「年老いて これらの烈しき喜び熟して・・」と続くが、隠居は田部訳のほうを好む。

 

周知のとおり、静観派の元祖田部重治の登山は、はじめ英国の自然詩人ワーズワースに大きい影響を受けていたが、晩年はワーズワースの世界を脱し、漂泊の俳人芭蕉の境地に行き着いていたと言われる。

 

この老生、この年になってもまだ詩のように独りで山を逍遥し、テントに泊まりたいと思っている。

 

さてこのところ飛騨の登山史の余話=山の奇談、怪談のようなものを書いていて、参考になる本を渉猟しているが、そのうち面白かったのは、岡本綺堂著(東雅夫編)の『飛騨の怪談』。

 

昔の人にとっての山は、一部が神や祖先の棲家として信仰の対象になっていたものの、大部分は魑魅魍魎が跋扈する異界で、そこで見聞きした奇談、怪談が今に語り伝えられている。 

 

それにはブロッケンなど山岳特有の自然現象や、人里にいない動物、あるいは人目を逃れたり、特殊な生業で深山に住まざるを得なかった人間を見間違えたものなど、現代では説明がつくものもあるが、魔訶不思議な話のほうが多い。

 

この『飛騨の怪談』には、昭和初期まで飛騨の深山には「わろ(漢字は獣編に喿という字)」という、猿とも人とも区別がつかない一種奇怪な生き物が住んでいたとの話が出てくる。

 

なかには人間の言葉を解するものもいたそうだ。

 

これは蒙古襲来の元寇の時、捕虜となったモンゴル人(実際はほとんどが高麗人)約100名が飛騨へ連れてこられたが、山中に逃亡してそのまま捕まらなかった。

 

深山に住んだかれらが長年の間に変異したのが「わろ」というのだから、奇想天外で面白く、また哀しい話だ。

 

里へ出てきて悪さをするが、銃で撃つと祟りで熱病になり、一家は根絶やしになるといわれてきたそうだ。

 

彼らは憎めない存在だったようで、銃で撃つなというのは、可哀そうだからという村人のやさしさだったと思われる。

 

こういう山での奇談、怪談話が残っていたのは戦後間もなくまでで、文明の灯りがいちだんと強くなるに従って消えてしまった。

 

魑魅魍魎などがいなくなった世界はなぜか味気ない。

 

今回も老人の繰り言におつきあいいただき、多謝。

 

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御坂峠(金山峠)−もう誰も通らない村境の峠には、地蔵様だけがポツンと

2020.05.03 Sunday

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  5月2日の笠ヶ岳、槍ヶ岳、大喰・中岳(上野平)

 

コロナ禍お見舞い申し上げます。

 

あたらしい山行報告がないので、昨年秋の消えゆく飛騨の峠道探索行をご覧ください。

 

今よりずいぶん貧しかったけれどやさしかった人々が、雨の日も雪の日もひたすら歩いて越えた峠への関心は尽きない。

 

今では異文化になってしまった、日本人が自然を崇め、自然と共生してゆったり暮らしていた頃の生活文化を再発見し、それを読み解いて味わうことが楽しいからだ。

 

国土地理院の25000分の1の地形図を見ていると、旧丹生川村の北西部に国見山(1318m)と大雨見山(1336m)があり、この2つの山を東西に結ぶ長い尾根があることに気づく。

 

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 昔頂上から日本海が見えたといわれる国見山

 

旧上宝村と、旧丹生川村の境をなす標高約1200mの尾根だ。

 

この尾根のなかほどに、旧丹生川村の呂瀬金山集落と旧上宝村の堂殿集落とを南北に結ぶ点線(歩く道)があるのが以前から気になっていたので、11月のはじめに行ってみた。

 

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金山側では御坂峠、堂殿側では金山峠と呼んでいる、標高約1100mのとうに役目を終えてヤブに消えつつある峠だ。

 

紅葉の始まった呂瀬金山集落に入る。

 

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 金山集落 正面稜線のくぼみが峠

 

昔は23軒あったというが、今は4軒だけの限界集落だ。

 

ここには江戸期から明治にかけて金鉱山があって栄え、今も鉱口跡が残っている。

 

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 金鉱山跡

 

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集落の入口におられたSさん(59歳)に峠道のことを尋ねると、今から30年くらい前までは毎夏に双方の集落が峠道の草刈りをやって登り、峠で酒を飲んで懇親をやっていたが、今は途絶えてしまった、それまでは両村の子供が遠足で歩いたと言われた。

 

しかし近年歩く人は皆無で、最近は熊が多いので集落以奧の入山はすすめない、先日も釣り人に帰ってもらったとも。

 

隠居は「わしは去年北海道の大雪山でヒグマと闘った男だから大丈夫だ(実際は遭遇してむこうが逃げた)」とは言わなかったが、「撃退用の唐辛子スプレーを持っているから大丈夫」と言った。

 

そうしたら折れて、今はヤブに覆われていて歩きにくいだろうと言いながら入口を教えてくれた。

 

この人は農業のかたわら猟師を兼ねていて、今年はすでに熊を10頭駆除したそうだ。

 

一部ヤブに覆われていたが、しっかりした道が残っていて楽に歩けた

 

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 尾根の低いところに杉の木があるのが峠

 

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 峠が見え出す

  

頂上には期待していた地蔵様が、杉の大木の下にさみしそうに鎮座しておられた。

 

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堂殿側へ少し下ってみたが、しっかりした道が残っていた。

 

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 堂殿側の道

 

幸い唐辛子スプレーを使うことなく往路を戻り、林道に降りたら道端の罠のオリに大きな熊が入っていて出ようともがいていた。

 

開けて逃がそうと思ったが危ないのでやめ、自分で逃げるかもしれないと思い、Sさんなど集落の人には黙っていた。

 

帰路集落の最奥に一人住まいをされているTさん(85歳)に会う。

 

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昔峠を越えて蔵柱の山の中にある「はんそうぼう」へよくお参りにいったことや、自給自足の田舎暮しの楽しさなどを話してくれた。

 

「はんそうぼう」とは「半僧坊」のことで、旧上宝宝村蔵柱田谷集落の裏山標高約1000mに「天ヶ岩屋」という大きい岩屋があり、この下に蚕の守護神という「奥山平半僧坊大権現」が祀ってある。

 

Tさんは昔飼っていた蚕のために峠を越えてお願いに行ったようだ。

 

長年自然の中で暮らし、自然の一部になっておられるような老人と話すことはまことに楽しく、心がなごむ。

 

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 呂瀬集落内にある地蔵様

 

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隠居が関心を持っている老子の「無為自然」の思想では、自然の中で自然の摂理にのっとって自給自足の生活を行う農民を理想としているが、Tさんのような人がそうかもしれないなどと考えながら帰途についた。(次回堂殿側探索行につづく)

 

初出「飛騨学の会」紀要『斐太紀』24号・202041日発行

 

<以下余談なので、ご用とお急ぎでない方はお付き合いください>

 

普段は「晴登雨読」だが、このところの閉門蟄居生活で「晴読雨読」になり、よく読める。

 

図書館が休みなので新刊は無理だが、家にある買いためていたものや、昔読んだものを片っ端から読んでいるが、この年になってはじめて分かることも多く、面白い。

 

問題は、覚えたつもりが翌日になると脳からほとんど消え落ちてしまっていることだ。

 

それでも「浅学をなんとか人並みに」という、このけなげな?老人を励ましてくれる先人の言葉は、ご存じ岩村藩の儒者佐藤一斎が『言志晩録』に書いている「老いて学べば、死して朽ちず」。

 

もうひとつは、南方熊楠が漢籍『説苑(ぜいえん)』から引き出したという「年老いて学問を好むのは燭をともした灯のようなものである 燭をともした灯でも 暗闇を行くよりはよい」だ。

 

今は三島由紀夫の『金閣寺』『葉隠入門』などいくつかを再読しているが、『行動学入門』のなかの「革命哲学としての陽明学」が面白い。

 

隠居が以前から関心を持っている陽明学は、日本の学祖中江藤樹から熊沢蕃山に受け継がれ、山鹿素行、大塩平八郎、吉田松陰、河井継之助、西郷隆盛、乃木希典などに大きい影響を与えた。

 

「知行合一説」「理気一元論」などを柱にした思想だが、徳川幕府はこれを危険思想、異学として嫌った。

 

なお幕府が官学とした朱子学は、「先知後行説」「理気二元論」で、現実より名分を重んじ、空論性が強かった。

  

おのれが是と感じ、真実と信じたことが絶対真理で、それを知った以上は即行動を起こさなければならず、行動を起こして思想は完結するという、王陽明(有名な書聖王義之の子孫)の思想。

 

「身の死するを恨まず、心の死するを恨む」と言って、飢饉に苦しむ大阪の貧民のため幕府と闘った大塩平八郎はじめ、信奉者のほとんどが劇的な生涯を送っている。

 

殉死した乃木は「死は美である」と考えており、三島の死も、彼が生涯追求した「終わりの美」の最終の具顕であったとわれる。

 

陽明学的な行動原理は今も日本人のなかに潜んでいるといわれるが、一部の人の先鋭的なアルピニズムとも結びついていたのではないかと、隠居は勝手に考えたりもした。

 

一昔前に西洋の登山家が、日本人のヒマラヤなどでの登山活動について理解に苦しむ場面があると書いていたのを、なにかで読んだ憶えがあるからだが、この隠居説は牽強付会であろう。

 

半ボケ老人のめんどうな話におつきあいいただき、恐縮でした。

 

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寺林峠(吉田峠)

2019.12.04 Wednesday

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 吉田集落からの寺林峠(吉田峠) 山脈のいちばん低いところ

 手前の森は常蓮寺と参道

 

山国飛騨には、他国へ通じる幹線街道の峠のほか、尾根を挟んで隣村の集落を結ぶ、日常生活のための小さな峠が多くあった。

 

その大部分は、昭和40年代後半から自動車道が敷設されると越える人がいなくなり、今やヤブに埋もれ、人々の記憶からも消え去ろうとしている。

 

歴史遺産ともいえるこんな峠のことを書き残そうと、今までにヤブを漕いで15の峠を探索し、地元の歴史研究会の紀要に発表してきた。

 

まだあるはずだと2万5千分の1の地形図を眺めていたら、旧神岡町吉田集落と寺林集落の間が点線で結ばれていたので、今年の夏に探索に行ってきた。

 

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このような小さな峠の名は越えた先の集落名で呼ぶことが多く、吉田側では寺林峠、寺林では吉田峠と呼んでいた。

 

まずは吉田集落側から。

 

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 旧神岡町吉田集落

 

ここには常蓮寺という浄土真宗(お西)の大きいお寺があるので、寄って峠道の取りつきを尋ねることにした。

 

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寺には坊守様がおられて道を教えていただけが、「この道は今では通る人がなくヤブに埋もれている。イノシシやクマが多いので気を付けるように」と言われた。

 

道は寺のすぐ横から残っており、倒木があったもののしっかりした道が残っていた。

 

幸い熊にも会わず、ヤブも少なく、難なく稜線に出た。

 

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峠にはあまり車が通らないと思われる未舗装の林道が横断しており、道路建設の記念碑が建っているだけで地蔵様などはなかった。

 

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 寺林側降り口(右)

 

寺林側を少しのぞいてから往路を戻り、集落で家の前におられたおばあさん(Kさん92歳)に峠の話を聞くことができた。

 

 若い時はこの峠を越え寺林の親戚へお祭りなどによく行った。

 寺林にはお寺がないので、集落の人は峠を越えて常蓮寺へこられた。

 

また別の家のNさん(75歳・男性)は、「子供の頃峠を越えて遠足にいったし、常蓮寺の太子踊りの時は寺林から多くの人が峠を越えて参加したものだ」と話してくれた。

 

なお常蓮寺の太子踊りというのは、毎年7月24日に寺の聖徳太子像が開帳され、この前で感謝の踊りが捧げられる。県の重要無形文化財に指定されている。

 

他日寺林側へ行ってみた。

 

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 寺林側からの吉田峠(中央鞍部)

 

峠取りつきで畑仕事をしておられたKさん(80歳・男性)に聞くと、吉田峠、あるいはおさか峠と呼んでいて、親に連れられよく常蓮寺へ行ったと話してくれた。

 

さっそく入って見たが、先日の吉田側とくらべると道の形状はのこっているものの灌木に埋まり、かなりのヤブ漕ぎを強いられた。

 

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途中でGPSを見るのを怠ったため、尾根の林道に出た時はかなり右に行ってしまっており、林道を歩いて峠まで戻った。

 

帰路は峠から下ったので往時の道を見失うことなく戻ることができた。

 

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集落の駐車場所で着替えていると、不審者と思われたのだろう近くの家の男性が用件をたずねてきた。

 

変わった趣味で峠探索をしており、峠までいってきたことを話すと、この男性(67歳)は小中学校のとき峠を越えて吉田まで野球の試合をしに行ったし、父親は馬に乗って峠越でよく常蓮寺まで行っていたと、懐かし気に話してくれた。

 

そして父親が馬を洗った場所まで案内してくれた。

 

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 昔の集落の馬洗い場

 

往来した人々の哀歓を見つめてきたこの小さな峠も、間もなく草に埋もれ、人々の記憶から消えるのであろう。

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坂本峠ー忘れられてゆく郡上街道の峠

2019.10.04 Friday

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長年の役目を終えてヤブに埋れつつある峠を探して歩くのは、変わり者の隠居の楽しみの一つだ。

 

過日、以前から気になっていた峠へいってきた。

 

飛騨における近世の主要街道といえば、越中へ行く「越中街道」、乗鞍岳南山麓の野麦峠を通って中山道へ合流する「江戸街道」、そして美濃方面への「益田街道」(現国道41号線)と、郡上八幡へ行く「郡上街道」であった。

 

その当時郡上八幡から高山へ入るには、国境の坂本峠を越えて大原集落、楢谷集落から龍ヶ峰峠へ登って中野集落へ下り、有巣集落からさらに有巣(あっそ)峠を越えねばならなかった。

 

現在の自動車道=せせらぎ街道にある西ウレ峠は、明治のはじめ龍ヶ峰峠が険しいためこれを廃し、別ルートにつくられた新道上の峠だ。

 

ヤブに埋れつつあった龍ヶ峰峠と有巣峠は過日歩いてみたが、しっかりした道が残っていた。

 

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 有巣峠

 

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 龍ヶ峰峠道

 

明治以降坂本峠だけはそのまま自動車道路となって残っていたが、1988年有料の坂本トンネルが開通すると峠を通る車はほとんどなくなり、2010年にトンネルが無料化になると、この峠の自動車道はすぐ閉鎖された。

 

閉鎖されてから10年が経過したが、いずれ山に還り、人々から忘れられてしまうのであろう。

 

トンネル手前に旧自動車道のゲートがあるので、ここから車道を歩く。

 

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少し歩くと、右側に祠の中にお地蔵様がござるのを発見。

 

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新しい「よだれかけ」をしておられ、供え物もあった。持参の飴玉をお供えして、真言をとなえる。

 

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舗装道路は狭い一車線でガードレールもなく、すでに路肩の崩壊がはじまっていた。

 

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昔車で越えたことがあるのだが、当時はこんな危ない道とは気が付かなかった。

 

道路の下部の所々に往時の歩く道の形状が見られ、下りて歩いてみる。

 

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1時間ほどでもう峠に到着。

 

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この峠は昔の道を自動車道に広げただけなので、旧峠の雰囲気が残っており、お地蔵様もおられた。

 

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ここのお地蔵様も、入口のものと同じ人の寄進なのだろう新しい「よだれかけ」をしておられ、お供えもあったが、通る人がいないのでさみしそうにしておられた。

 

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ここでも真言を唱え、お慰めをする。

 

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ご存知のようにお地蔵様は、お釈迦様が入滅されてから人間の世界に如来がいなくなったので56億年後に弥勒菩薩にバトンタッチされるまで、一人でがんばって我々を救っていただいているのだそうだ。

 

そのお仕事の一つとして、賽の河原でさまよう子供たちも救っておられるので、子供が元気で育つよう「よだれかけ」や「帽子」を奉納するらしい。

 

この峠に立つと、昔郡上青山藩の武装兵団がここを通って2度も飛騨へ押し入ったことを思い出さないわけにはゆかない。

 

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 少し郡上側へ下ると林道との分岐が

 

一度目は安永の大原騒動の時で、大原代官の要請で一の宮水無神社へ集まった農民を鎮圧するためであった。

 

第1陣が300名、第2陣200名が高山へ入り、農民にむけて鉄砲を打ち、死者4名、手負い24名が出て、125名が逮捕された。

 

この時は遅れて苗木藩80名、岩村藩300名、大垣藩500余名が出兵。富山藩500余名は飛騨境の蟹寺村まで大砲7門を引いて出陣している。

 

慶応4年(9月8日明治に改元)1月には、維新のどさくさに飛騨の統治を担当しようと、また青山藩の武装兵団300名が郡上街道からこの峠を越えて高山へ入り、専念寺などに分宿。2月18日に総督府の命でしぶしぶ撤退している。

 

青山藩の2度にわたる暴挙に高山の人は怒り、「郡上の衆はひどい」と、その恨みは父祖の代まで語り継がれていた。

 

郡上側へ下ると、車道の下に旧道が残っていたので下って見る。

 

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谷沿いに所々形状が残っていたが、崩壊がひどいのであきらめて戻る。

 

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トンネルを通って、旧峠道の取りつきである坂本という集落へ行って見る。

 

そこには郡上藩が国境の警備にあたっていた坂本口番所屋敷跡がり、史跡の石柱があった。

 

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草刈りをしておられた隠居くらいの老人に聞くと、谷沿いにある旧道のルートを教えてくれたが、ヤブに没し、形状も定かでないとのことであった。

 

再びトンネルをくぐって大原集落へ。

 

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ここにも金森時代につくられ、天領時代にもあった口留番所跡が保存されていた。

 

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 大原の地蔵様も立派な「よだれかけ」をしておられた

 

帰路、龍ヶ峰峠への登り口である楢谷集落へ寄る。

 

畑仕事をしておられた老人に峠の入口を尋ねると親切に教えていただけたが、林道が敷設され、上部では別荘地が造成されて、当時の形状はまったく残っていないとのこと。

 

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老人の畑のそばには「古事記の語り部(かたりべ)稗田阿礼生誕の地」という大きい看板があったので聞いてみると、なんとご本人がそのご子孫で、名字が阿礼さんであった。

 

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ご自宅家は縮小し、今は三日町へ出ていて畑の耕作だけに通っているとのことで、そばに大きい屋敷跡があった。

 

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なにか書いたものが残っていないかお尋ねしたが、何もないとのこと。語り部の家なので当然だが。

 

作家坂口安吾も書いているが、古代飛騨の位山は天孫降臨の地で、飛騨に王朝があったが、その後大和へ下ったとの伝説がある。その後飛騨王朝のことは国史からは抹消されてしまったという。

 

この時、この方のご先祖で記憶力抜群の稗田(飛騨)の阿礼さんが誦習していた古い伝承を、太安万侶が聞いて編纂したというわけだ。

 

お年は77歳で、お話ししているとほんとうに聡明なお方だった。

 

往来した多くの人々の哀歓を見つめてきた峠、日常から非日常への境界である峠への興味は尽きない。

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神坂峠ーウェストンが越えた小さな峠

2018.11.19 Monday

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紅葉が終わった今頃の時期は、山スキーに早いし、隠居にとっては「山の端境期」だ。

 

このため毎年峠歩きをしている。

 

昨年の11月は、徳本峠、上高地から中尾峠、猪之鼻峠などを越えたが、まったく人に遭わず、落ち葉を踏んで、雪を冠った高山を見ながらの静かな峠歩きが楽しめた。

 

さて、かのウェストンが北飛騨で越えた主な峠は平湯峠、安房峠、中尾峠だが、もう一つ小さな峠があった。

 

それは蒲田温泉手前の神坂(かんさか)峠で、今は下にトンネルが穿たれ、とうに忘れられた峠だ。

 

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なお神坂峠というのは、中津川など他にもいくつかあるが(深坂峠、三坂峠)、1500年以上前に大和朝廷が東国平定のため開いた官道上の峠のみにこの名が使われたという。

 

しかしこの峠は、このあたりの大字が神坂なので命名されたようだ。

 

ついでながら、焼岳の下にある中尾峠の別名は神坂峠といったらしいが、大和朝廷の官道であったかも知れず、その名がこの地域の大字になって残っているのだろうか。

 

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 旧中尾峠

 

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話がそれたが、ウェストンの著書『日本アルプス―登山と探検』に、念願の笠ヶ岳に登ろうと明治27年(1894)三度目に蒲田温泉を訪れた時、この峠を越える記述がある。

 

ウェストン一行3名は、信州から安房峠を越えて前夜平湯温泉の与茂三郎宅に宿泊。

 

「早朝私たちは手足も軽々と、めざす麗峰の灰色の鋸歯状の稜線が日の出の光のなかに輝き、来いとさしまねいているのを見ながら、高原川の峡谷を心もはればれと大股に早く下っていった。神坂峠の頂上から蒲田の谷間風景を眺めようと一度休んだだけで、古風な牧人小屋風の家並みの蒲田の部落に着いた。」

 

この峠が気になって、小春日和の日に探索にいってきた。

 

まず蒲田側から登って見ることに。

 

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 蒲田側

 

トンネルができる前の山腹をまく県道が残っているので、ここを少し歩き、途中から鞍部めがけて入る。

 

峠道と思われる箇所には未舗装の作業道がつけられており、峠と思われる地形の下には土捨場らしき広場が造られて、旧峠道は破壊されていた。

 

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峠と思われる所もだいぶ以前に土木機械で均されたらしく草原になっていたが、ウェストンが書いている通り、ここから蒲田の温泉街が俯瞰できた。

 

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反対側を探ると往時の峠道が残っていたので下って見たが、砂防堰堤で途切れていた。

 

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往路を戻って蒲田まで下り、再びトンネルを抜けて栃尾側へ車を回す。

 

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 栃尾側

 

最上流にある家の前の草原に道があったので入って見ると、途中に石仏群、さらにその先に地蔵堂があった。

 

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土地の人に聞くと、やはり昔ここを峠道が通っていたとのこと。

 

ウェストンはこの峠を越えたあと蒲田で笠ヶ岳への案内人を求めたが、明治27年、28年、29年の三回とも区長に体よく断られ、三回目は見かねた他集落の猟師が案内を買って出てくれた。

 

区長が断った理由は、一度目は「最近の豪雨で蒲田川上流がひどく荒れ、今までのルートが崩壊していて猟師で入るものがいない」二度目は「このところの日照りで作物が枯れそうになり、猟師は皆雨乞いの旅に出ているのでいない」三度目は「年に一度の祭礼で樵や猟師は忙しく、案内はできない」というものであった。

 

しかし本当の理由は、笠ヶ岳頂上には江戸期に南裔禅師と播隆上人が安置した阿弥陀如来像などがおられるため、異教徒を登らせると仏罰があたることを恐れ、案内を拒んだのであった。

 

ウェストンは明治27年、28年とも失意のままこの神坂峠を越えて平湯へ戻り、安房峠に向かった。

 

三度目の明治29年は、中尾と栃尾の猟師が蒲田の衆の気持ちを忖度し、本峰へは行かずに小笠といわれた抜戸岳へ案内していたことが、数年前に隠居がウェストンの記述を検証してはじめて分かった。

 

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 左は笠ヶ岳 ウェストンは右の抜戸岳(小笠)へ登頂

 

念願の笠ヶ岳に登頂できたと思ったウェストン一行は、その日遅く中尾集落へ帰って宿泊。翌日中尾峠から上高地へ下り、徳本峠を越えて松本へ帰った。

 

今思えばこれは猟師の悪意でなく、当時は穂高岳同様あの山塊全体を笠ヶ岳と呼んでいたはずだから、ウェストンは本峰登頂は無理だとわかっていて小笠ヶ岳(=抜戸岳)で満足したのではないだろうか。

 

三度(たび)この神坂峠を越えなかったのは、蒲田集落通過時にいざこざが起きるのを避けるためであった。

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ウェストンが3度越えた=古安房峠

2018.07.06 Friday

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 安房山と古安房峠(矢印の箇所)

 

明日、今シーズン初めての年寄りの冷や水山行=沢登りに行く予定だったが、この大雨で当然中止に。

 

もう一つの面白くてたまらない山行=地図を読み、ヤブを漕いでの峠探しは続く。

 

信濃と飛騨の国境である飛騨山脈を越える安房峠は、大峠、信濃峠とも呼ばれ、その昔鎌倉街道であった。

 

勘違いをしている人が多いが、この古い峠道は今の国道158号線の安房峠(1790m)でなく、安房山(22194m)の南肩(2050m)を通っていた。

 

鎌倉幕府は蒙古襲来の事もあり、北陸方面の防備を固めるため、松本からここを通って富山へ抜ける街道を整備したという。

 

アルプス越えの峠を、戦国時代には武田信玄の軍が飛騨へ攻め入る時に往復するなど多くの人が通ったが、その険しさと、冬期雪で通れない期間が長いため、寛政2年江戸幕府はこの公道を乗鞍の南の野麦峠へ移し、平湯にあった口留め番所を廃止した。

 

それでも松本、高山間は野麦ルートより5里近いため引き続き利用され、明治初期にはウェストンも通った。

 

この峠が役目を終えるのは、大正6年に信州側から今の安房峠まで自動車道が付けられてからだ。

 

以前から一度この歴史の峠に立ってみたいと思っていたが、この梅雨の晴れ間にようやく念願を果たすことができた。

 

峠の位置は分かっていたが、国道で分断された取りつき点が不明なので、先日の栂峠同様自動車道の安房峠からひとまず安房山に登り、頂上から峠へ下ることにした。

 

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 乗鞍四ッ岳、猫岳、大崩山

 

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 四ッ岳

 

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 新安房峠

 

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峠から安房山の間は道が残っていたが一面笹が覆い、終始ひどいヤブ漕ぎを強いられ、時々道を見失うこともあった。

 

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 ウェストンあこがれの山 笠ヶ岳

 

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 焼岳北面 昔鎌倉街道の脇道が通っていた

 

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 十石山 金山岩の稜線

 

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 ウェストンが見て感激した穂高岳沢

 

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実は若い時乗鞍から硫黄岳、十石山を経て安房山を通り、自動車道の安房峠に出て平湯まで歩いたことがあるのだが、その時は歩き易かった記憶がある。だがその頃は峠に関心がなかった。

 

笹を分けて立った安房山の山頂直下には、アンテナと建物が建っていた。

 

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 焼岳北面 

 

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頂上からはまったく道が消えていたので、GPSで方向を定めながら、笹の中を泳いで下った。

 

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 霊峰白山を遥拝

 

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峠と思われる地形に到達したが、さらに小さいピークを越えた前方にも似たような平地があるので確認しに向かう。

 

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 ニセ峠

 

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この平場の下はガレ場がある急峻な谷になっていのるで、街道がこんな危険なルートを採るはずがないとの判断で最初の場所に戻る。

 

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 古安房峠

 

一面の笹原だがやはり峠らしい地形であり、少し飛騨側に下ると笹の中に道が現れたので間違いないことがわかった。

 

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 峠からは木の間越しにアカンダナ山、白谷山が

 

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人が通らなくなってから100年の歳月が流れているが、往時を偲びしばし感慨に浸った。

 

ウェストンは、明治25年高山から平湯へ入って乗鞍に登頂。そのあと笠ヶ岳へ登ろうと蒲田へ行ったが案内を断られ、この峠を越えて松本へ抜けている。

 

ウェストンが歩いた時はすでに荒れかけていて、時々地滑り箇所に大きい樅の倒木があったが、平湯から橋場の間は中部日本で一番眺めがよいと書き、森林のすばらしさも讃えている。

 

そのとき峠には国境を示す標柱があり、信州側へ少し下ると、美しいぼかし絵のような雪を残した穂高が姿を現した。

 

2度目は翌年針ノ木から立山に登り、念願の笠ヶ岳へ登るため富山から船津を経て蒲田へ入ったが、また体よく断られて失意のうちに安房峠を越えている。

 

ウェストンの笠ヶ岳登頂への思いは止まず、明治27年、今度は逆に松本からまたこの峠を越え蒲田へ下っている。

 

日本の山をこよなく愛し、純朴な田舎の人を常に温かい眼差しで見てくれたウェストンのことを考えながら、平湯側へ下って見る。

 

原生林はかなり急峻な斜面で、先ほどの道の続きを探すが、笹の中に消えてわからなくなった。

 

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この鬱蒼とした原生林は、蛭こそ落ちてこないが、泉鏡花の怪奇小説『高野聖』に出てくる天生峠(実際はこの安房峠といわれる)の描写そのものだった。

 

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かなりの急斜面の笹原を転がるように下り、国道に出る。

 

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安房平側をのぞいたがそれらしき地形が見当たらず、国道を歩いて新安房峠へ戻った。

 

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 安房平

 

古道は安房平の縁を通っているはずなので、次回探索したい。

 

安房トンネルが開通してからこの国道を通る車はほとんどなく、道の盛衰は現代も変わらない。

 

謹言:この老生、今年も北への想い断ちがたく、来週からしばらくの間北の大地を彷徨います。したがってこの拙いブログ、現地からアイフォンによる簡単な記事付き写真しか掲載できませんのでご容赦ください。引き続きのご愛読を頓首再拝。

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古代飛騨の匠が通った=栂(つが)峠

2018.06.21 Thursday

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とうに役目を終えて人々から忘れられ、ヤブに埋もれつつある古い峠がいとおしくて、隠居の峠探索はつづく。

 

柳田国男は「旅の原型は租庸調を納めるため都へ赴く道のりのことである」と言っているが、そんな時代につくられた古い峠を歩いてきた。

 

飛騨と美濃(郡上)の境にあるこの峠のことを知ったのは、旧荘川村の郷土史家鈴木治幸氏が「飛騨歴史民俗学会」の30周年記念誌に書いておられた「栂峠を越えた飛騨の匠」という一文であった。

 

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大宝元年(701)に制定された大宝令の賦役令に斐陀国条が定められていて、飛騨は庸調が免ぜられる代わりに、里ごとに匠丁10人を出さねばならず、1年任期で藤原京などの造営にあたった。

 

飛騨から毎年100人の匠丁が都へ上り、平安京まで14日かかった

 

後に「飛騨の匠」と称せられた飛騨人のほとんどは、位山峠を越える官道(=東山道飛騨支路)を通って都へ上ったが、荘川あたりの人はこの栂峠を越えて高鷲から長良川沿いを下り、東山道へ入ったという。

 

この古い峠は、昭和49年その南側に県道が敷設されるまで人の往来があったが、その後役目を終えて埋もれつつあると書いてあったので、このほど歩きに行った。

 

国道158号線を走り旧荘川村の惣則集落へ。

 

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 白山が見える場所にある白山神社

 

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 日本一といわれる推定2000年の治郎兵衛イチイ

  国指定天然記念物

 

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 牧ヶ野道場跡 飛騨に真宗を広めた拠点

 

ここから色川沿いの県道452号惣則高鷲線に入り、旧一色スキー場対岸から鷲ヶ岳、見当山間の分水嶺へと登る。

 

この県道はほとんど車が通らない、冬期間は閉鎖になるさみしい道だ。

 

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峠に駐車。ここより下にあるはずの県道で分断されている峠道入り口がわからないため、県道の峠から尾根をつたって峠に出る作戦だ。そのあと峠から両方へ下って見ることにした。

 

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 イノシシ捕獲穴?

 

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取りつきには大きい笹が密生していたのでかなりのヤブ漕ぎを覚悟していたが、分水嶺上はさほどではなく、順調にそれとわかる地形の峠(標高1200m)へ到達。

 

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 栂峠

 

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そこは広場になっていて、ここから東(一色)側、西(鷲見)側へとそれぞれはっきりした道が下っていたが、期待していた地蔵様などの石仏が見られなかった。

 

昔はこのあたりに栂の木が茂っていたという。

 

まず郡上側へ下って見る。

 

広葉樹林帯の中には倒木があったものの往時の道が残っていて、ヤブもたいしたことはなかった。

 

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途中古い林道が横断していた。

 

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このあとは杉林になり、落ちた杉葉で埋まって判然としない箇所が多かったが、谷沿いに県道まで歩くことができた。

 

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 県道に出る

 

再度登り返し、峠で休んだ後は飛騨側へと下る。

 

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こちら側もはっきりとした道が残っており、ヤブもたいしたことはなかった。

 

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少し下ると途中石垣が残っていた。かつて鷲見の人が焼き畑をやっていた時の小屋跡だと思われた。

 

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形が残っている道を県道まで下る。

 

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県道を横断して一色川までの道を探ったが、はじめ道があったものの途中からひどいヤブとなり断念した。

 

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県道に戻り、駐車場所まで歩く。

 

車で高鷲側へ下り、峠についての話が聞けないかと最上部にある民家へ寄ってみた。

 

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 大日ヶ岳

 

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 薬師如来堂

 

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 面白い狛犬

 

ちょうどK家に 79歳というご婦人がおられ、いろいろ話を聞くことができた。

 

「昔は峠を越えて一色側と結構行き来があった。」

 

「自分は子供の頃、親と峠を越えて一色集落の三島家へお灸をしてもらいに通ったことがある。」

 

「峠の一色側で、鷲見の者が焼畑をやっていた。」

 

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 別山と白山

 

一色側が気になって、後日旧一色スキー場に車を置いて、施錠してある色川沿いの林道を歩き、峠道の取りつきを探してみた。

 

林道を約2卻發と、土地の人がいまでも「番匠会津(ばんじょうかいず)」と呼んでいる平地に出る。

 

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鈴木氏によると、番匠とは大工、会津とは屋敷をあらわし、昔ここに大工が住んでいたという。

 

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色川を渡り、先日県道を横断して下った谷に出て道を探ってみた。

 

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谷沿いの杉林のなかにそれらしき痕跡があったが杉葉が降り積もって判然とせず、あきらめて下山とする。

 

帰り道に惣則集落で畑帰りのお婆さん(Yさん88歳)から話を聞くことができた。

 

「こちら側(飛騨側)には柿が生らないので、若い頃栂峠を越えて鷲見へ買いに行った。稗や粟を持って行って換えたことを覚えている。」

 

「昔鷲見と一色とは嫁のやりとりなどいろんな行き来があったが、今は途絶えてしまった。」 

 

今よりずいぶん貧しかったけれどやさしかった人々が、雨の日も雪の日もひたすら歩いて越えたいにしえの峠への関心は尽きない。

 

日本人がまだ自然と調和してゆったりと生きていた頃だ。

 

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男女の神様に会えた=笈破(おいわれ)峠

2018.05.30 Wednesday

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変わり者の隠居は、近年道がついている低山には食指が動かず、ヤブに埋もれてしまった峠道を好んで歩いている。

 

今頃になって、故高木泰夫先生の『ヤブ山登山のすすめ』の世界に入ったともいえるが、民俗学的な興味が主になっている点が違うかも知れない。

 

往時をしのびながらヤブを漕いでいると、突然昔のままの道が現れたり、峠に残された石仏に会えたりする時の嬉しさは格別だ。

 

5月のはじめ旧笈破集落から向かったものの、猛烈なヤブに阻まれて中ほどで断念した笈破峠(笈破側では伊西峠と呼ぶ)。

 

こんどは山野村側からまたヤブを漕いで登った結果、以前から念願だった峠(標高1200m)に到達することができた。

 

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5月下旬のよく晴れた日、双六川沿いの鎌倉街道を山吹峠へと登り、新緑に覆われた山野村へ入る。

 

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 昔双六谷の人に親しまれていた鼠石

 

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 トチの花

 

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 山吹峠

 

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 森茂集落と山吹峠の間にある地蔵尊

 

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天蓋山の駐車場には既に何台かの車があった。

 

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 森茂集落の地蔵堂

 

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笈破峠入口の伊西集落へは、森茂集落からまた小さな峠を越えねばならない。

 

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 北ノ俣岳

 

かつて30戸あったという伊西集落は、現在3戸を残すのみの限界集落になっている。

 

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道を聞くためAさんの家へ寄ったところ、山菜取りと間違えられたが、目的を告げたら快くルートを教えてもらうことができた。

 

近年通った人はいないので荒れていて歩行は難しいだろう、そして熊や猪が多いということも。

 

県道端に駐車し、集落内の廃屋のそばから入る。

 

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いきなりヤブが待ち受けていて、前日の雨が笹などに残っていてずぶ濡れになりながら漕ぐ。

 

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 熊の仕業?

 

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 イノシシののたうち場

 

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かつて牛や馬も通ったという谷沿いの道は崩れたり、谷水に流されたりしてルート判断に時間がかかったが、文明の利器GPSの助けを借りて上部へ。

 

谷を離れるとヤブの中にしっかりした道が残っていたが、日が当たるところは、隠居の背丈より高い太い笹がよく茂り、かき分けるのに力がいる。

 

体力と根気がいるのは、冬山のラッセルに似ている。

 

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ジグザグ道を登るとようやく笹に覆われた峠に到着。

 

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あるはずの地蔵様を探すが、見つからない。

 

ヤブの中に木をくりぬいた祠があるのを見つけ、転がして元の石の台座へ戻す。

 

熊の仕業かも知れない。

 

地蔵様がおられないのでヤブの中を探したら、足元に四角い石が埋まっているのを発見。

 

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裏返してみると、小さい男女の神像であった。

 

安曇野の道祖神は皆微笑んで仲良く手をつないでおられるが、それとちがって威厳のあるお顔だった。

 

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さっそく水筒の水できれいに洗って祠へ戻ってもらい、ザックにあった飴玉をお供えした。

 

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笈破側に下って見たが、ヤブに覆われているもののしっかりした道が残っていた。

 

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 峠から槍ヶ岳が望めた

 

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この峠道はどちら側も谷沿いが荒れているが上部はしっかりした形状が残っていることがわかった。

 

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 伊西集落から望める天蓋山

 

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集落へ戻りAさん宅へ寄るとご主人は留守だったが、奥さん(78歳)が今朝採った笹の子の皮むき作業をしておられ、峠のことを聞くことができた。

 

「昔は笈破集落へ、あるいは高原川沿いへの用事によく利用され、牛馬も通った道だった。」

 

「私は子供の頃峠を越えて笈破集落へ田植えの手伝いに行かされた。」

 

「一人で使いに行ったこともあるがたいへん寂しいというより恐ろしかったことを覚えている。」

 

「笈破集落と山野村間には嫁のやりとりがあり、皆歩いて峠を越えた。」などなど。

 

祠のことを話して写真を見せると、たいへん喜んでおられた。

 

隠居はおそらく最後の旅人であり、この峠道も遠からず山に還ってしまうのであろう。

 

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 森茂集落から見えた北ノ俣岳の稜線

 

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 黒部五郎岳

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