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寺林峠(吉田峠)

2019.12.04 Wednesday

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 吉田集落からの寺林峠(吉田峠) 山脈のいちばん低いところ

 手前の森は常蓮寺と参道

 

山国飛騨には、他国へ通じる幹線街道の峠のほか、尾根を挟んで隣村の集落を結ぶ、日常生活のための小さな峠が多くあった。

 

その大部分は、昭和40年代後半から自動車道が敷設されると越える人がいなくなり、今やヤブに埋もれ、人々の記憶からも消え去ろうとしている。

 

歴史遺産ともいえるこんな峠のことを書き残そうと、今までにヤブを漕いで15の峠を探索し、地元の歴史研究会の紀要に発表してきた。

 

まだあるはずだと2万5千分の1の地形図を眺めていたら、旧神岡町吉田集落と寺林集落の間が点線で結ばれていたので、今年の夏に探索に行ってきた。

 

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このような小さな峠の名は越えた先の集落名で呼ぶことが多く、吉田側では寺林峠、寺林では吉田峠と呼んでいた。

 

まずは吉田集落側から。

 

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 旧神岡町吉田集落

 

ここには常蓮寺という浄土真宗(お西)の大きいお寺があるので、寄って峠道の取りつきを尋ねることにした。

 

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寺には坊守様がおられて道を教えていただけが、「この道は今では通る人がなくヤブに埋もれている。イノシシやクマが多いので気を付けるように」と言われた。

 

道は寺のすぐ横から残っており、倒木があったもののしっかりした道が残っていた。

 

幸い熊にも会わず、ヤブも少なく、難なく稜線に出た。

 

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峠にはあまり車が通らないと思われる未舗装の林道が横断しており、道路建設の記念碑が建っているだけで地蔵様などはなかった。

 

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 寺林側降り口(右)

 

寺林側を少しのぞいてから往路を戻り、集落で家の前におられたおばあさん(Kさん92歳)に峠の話を聞くことができた。

 

 若い時はこの峠を越え寺林の親戚へお祭りなどによく行った。

 寺林にはお寺がないので、集落の人は峠を越えて常蓮寺へこられた。

 

また別の家のNさん(75歳・男性)は、「子供の頃峠を越えて遠足にいったし、常蓮寺の太子踊りの時は寺林から多くの人が峠を越えて参加したものだ」と話してくれた。

 

なお常蓮寺の太子踊りというのは、毎年7月24日に寺の聖徳太子像が開帳され、この前で感謝の踊りが捧げられる。県の重要無形文化財に指定されている。

 

他日寺林側へ行ってみた。

 

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 寺林側からの吉田峠(中央鞍部)

 

峠取りつきで畑仕事をしておられたKさん(80歳・男性)に聞くと、吉田峠、あるいはおさか峠と呼んでいて、親に連れられよく常蓮寺へ行ったと話してくれた。

 

さっそく入って見たが、先日の吉田側とくらべると道の形状はのこっているものの灌木に埋まり、かなりのヤブ漕ぎを強いられた。

 

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途中でGPSを見るのを怠ったため、尾根の林道に出た時はかなり右に行ってしまっており、林道を歩いて峠まで戻った。

 

帰路は峠から下ったので往時の道を見失うことなく戻ることができた。

 

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集落の駐車場所で着替えていると、不審者と思われたのだろう近くの家の男性が用件をたずねてきた。

 

変わった趣味で峠探索をしており、峠までいってきたことを話すと、この男性(67歳)は小中学校のとき峠を越えて吉田まで野球の試合をしに行ったし、父親は馬に乗って峠越でよく常蓮寺まで行っていたと、懐かし気に話してくれた。

 

そして父親が馬を洗った場所まで案内してくれた。

 

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 昔の集落の馬洗い場

 

往来した人々の哀歓を見つめてきたこの小さな峠も、間もなく草に埋もれ、人々の記憶から消えるのであろう。

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坂本峠ー忘れられてゆく郡上街道の峠

2019.10.04 Friday

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長年の役目を終えてヤブに埋れつつある峠を探して歩くのは、変わり者の隠居の楽しみの一つだ。

 

過日、以前から気になっていた峠へいってきた。

 

飛騨における近世の主要街道といえば、越中へ行く「越中街道」、乗鞍岳南山麓の野麦峠を通って中山道へ合流する「江戸街道」、そして美濃方面への「益田街道」(現国道41号線)と、郡上八幡へ行く「郡上街道」であった。

 

その当時郡上八幡から高山へ入るには、国境の坂本峠を越えて大原集落、楢谷集落から龍ヶ峰峠へ登って中野集落へ下り、有巣集落からさらに有巣(あっそ)峠を越えねばならなかった。

 

現在の自動車道=せせらぎ街道にある西ウレ峠は、明治のはじめ龍ヶ峰峠が険しいためこれを廃し、別ルートにつくられた新道上の峠だ。

 

ヤブに埋れつつあった龍ヶ峰峠と有巣峠は過日歩いてみたが、しっかりした道が残っていた。

 

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 有巣峠

 

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 龍ヶ峰峠道

 

明治以降坂本峠だけはそのまま自動車道路となって残っていたが、1988年有料の坂本トンネルが開通すると峠を通る車はほとんどなくなり、2010年にトンネルが無料化になると、この峠の自動車道はすぐ閉鎖された。

 

閉鎖されてから10年が経過したが、いずれ山に還り、人々から忘れられてしまうのであろう。

 

トンネル手前に旧自動車道のゲートがあるので、ここから車道を歩く。

 

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少し歩くと、右側に祠の中にお地蔵様がござるのを発見。

 

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新しい「よだれかけ」をしておられ、供え物もあった。持参の飴玉をお供えして、真言をとなえる。

 

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舗装道路は狭い一車線でガードレールもなく、すでに路肩の崩壊がはじまっていた。

 

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昔車で越えたことがあるのだが、当時はこんな危ない道とは気が付かなかった。

 

道路の下部の所々に往時の歩く道の形状が見られ、下りて歩いてみる。

 

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1時間ほどでもう峠に到着。

 

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この峠は昔の道を自動車道に広げただけなので、旧峠の雰囲気が残っており、お地蔵様もおられた。

 

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ここのお地蔵様も、入口のものと同じ人の寄進なのだろう新しい「よだれかけ」をしておられ、お供えもあったが、通る人がいないのでさみしそうにしておられた。

 

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ここでも真言を唱え、お慰めをする。

 

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ご存知のようにお地蔵様は、お釈迦様が入滅されてから人間の世界に如来がいなくなったので56億年後に弥勒菩薩にバトンタッチされるまで、一人でがんばって我々を救っていただいているのだそうだ。

 

そのお仕事の一つとして、賽の河原でさまよう子供たちも救っておられるので、子供が元気で育つよう「よだれかけ」や「帽子」を奉納するらしい。

 

この峠に立つと、昔郡上青山藩の武装兵団がここを通って2度も飛騨へ押し入ったことを思い出さないわけにはゆかない。

 

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 少し郡上側へ下ると林道との分岐が

 

一度目は安永の大原騒動の時で、大原代官の要請で一の宮水無神社へ集まった農民を鎮圧するためであった。

 

第1陣が300名、第2陣200名が高山へ入り、農民にむけて鉄砲を打ち、死者4名、手負い24名が出て、125名が逮捕された。

 

この時は遅れて苗木藩80名、岩村藩300名、大垣藩500余名が出兵。富山藩500余名は飛騨境の蟹寺村まで大砲7門を引いて出陣している。

 

慶応4年(9月8日明治に改元)1月には、維新のどさくさに飛騨の統治を担当しようと、また青山藩の武装兵団300名が郡上街道からこの峠を越えて高山へ入り、専念寺などに分宿。2月18日に総督府の命でしぶしぶ撤退している。

 

青山藩の2度にわたる暴挙に高山の人は怒り、「郡上の衆はひどい」と、その恨みは父祖の代まで語り継がれていた。

 

郡上側へ下ると、車道の下に旧道が残っていたので下って見る。

 

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谷沿いに所々形状が残っていたが、崩壊がひどいのであきらめて戻る。

 

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トンネルを通って、旧峠道の取りつきである坂本という集落へ行って見る。

 

そこには郡上藩が国境の警備にあたっていた坂本口番所屋敷跡がり、史跡の石柱があった。

 

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草刈りをしておられた隠居くらいの老人に聞くと、谷沿いにある旧道のルートを教えてくれたが、ヤブに没し、形状も定かでないとのことであった。

 

再びトンネルをくぐって大原集落へ。

 

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ここにも金森時代につくられ、天領時代にもあった口留番所跡が保存されていた。

 

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 大原の地蔵様も立派な「よだれかけ」をしておられた

 

帰路、龍ヶ峰峠への登り口である楢谷集落へ寄る。

 

畑仕事をしておられた老人に峠の入口を尋ねると親切に教えていただけたが、林道が敷設され、上部では別荘地が造成されて、当時の形状はまったく残っていないとのこと。

 

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老人の畑のそばには「古事記の語り部(かたりべ)稗田阿礼生誕の地」という大きい看板があったので聞いてみると、なんとご本人がそのご子孫で、名字が阿礼さんであった。

 

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ご自宅家は縮小し、今は三日町へ出ていて畑の耕作だけに通っているとのことで、そばに大きい屋敷跡があった。

 

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なにか書いたものが残っていないかお尋ねしたが、何もないとのこと。語り部の家なので当然だが。

 

作家坂口安吾も書いているが、古代飛騨の位山は天孫降臨の地で、飛騨に王朝があったが、その後大和へ下ったとの伝説がある。その後飛騨王朝のことは国史からは抹消されてしまったという。

 

この時、この方のご先祖で記憶力抜群の稗田(飛騨)の阿礼さんが誦習していた古い伝承を、太安万侶が聞いて編纂したというわけだ。

 

お年は77歳で、お話ししているとほんとうに聡明なお方だった。

 

往来した多くの人々の哀歓を見つめてきた峠、日常から非日常への境界である峠への興味は尽きない。

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神坂峠ーウェストンが越えた小さな峠

2018.11.19 Monday

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紅葉が終わった今頃の時期は、山スキーに早いし、隠居にとっては「山の端境期」だ。

 

このため毎年峠歩きをしている。

 

昨年の11月は、徳本峠、上高地から中尾峠、猪之鼻峠などを越えたが、まったく人に遭わず、落ち葉を踏んで、雪を冠った高山を見ながらの静かな峠歩きが楽しめた。

 

さて、かのウェストンが北飛騨で越えた主な峠は平湯峠、安房峠、中尾峠だが、もう一つ小さな峠があった。

 

それは蒲田温泉手前の神坂(かんさか)峠で、今は下にトンネルが穿たれ、とうに忘れられた峠だ。

 

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なお神坂峠というのは、中津川など他にもいくつかあるが(深坂峠、三坂峠)、1500年以上前に大和朝廷が東国平定のため開いた官道上の峠のみにこの名が使われたという。

 

しかしこの峠は、このあたりの大字が神坂なので命名されたようだ。

 

ついでながら、焼岳の下にある中尾峠の別名は神坂峠といったらしいが、大和朝廷の官道であったかも知れず、その名がこの地域の大字になって残っているのだろうか。

 

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 旧中尾峠

 

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話がそれたが、ウェストンの著書『日本アルプス―登山と探検』に、念願の笠ヶ岳に登ろうと明治27年(1894)三度目に蒲田温泉を訪れた時、この峠を越える記述がある。

 

ウェストン一行3名は、信州から安房峠を越えて前夜平湯温泉の与茂三郎宅に宿泊。

 

「早朝私たちは手足も軽々と、めざす麗峰の灰色の鋸歯状の稜線が日の出の光のなかに輝き、来いとさしまねいているのを見ながら、高原川の峡谷を心もはればれと大股に早く下っていった。神坂峠の頂上から蒲田の谷間風景を眺めようと一度休んだだけで、古風な牧人小屋風の家並みの蒲田の部落に着いた。」

 

この峠が気になって、小春日和の日に探索にいってきた。

 

まず蒲田側から登って見ることに。

 

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 蒲田側

 

トンネルができる前の山腹をまく県道が残っているので、ここを少し歩き、途中から鞍部めがけて入る。

 

峠道と思われる箇所には未舗装の作業道がつけられており、峠と思われる地形の下には土捨場らしき広場が造られて、旧峠道は破壊されていた。

 

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峠と思われる所もだいぶ以前に土木機械で均されたらしく草原になっていたが、ウェストンが書いている通り、ここから蒲田の温泉街が俯瞰できた。

 

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反対側を探ると往時の峠道が残っていたので下って見たが、砂防堰堤で途切れていた。

 

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往路を戻って蒲田まで下り、再びトンネルを抜けて栃尾側へ車を回す。

 

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 栃尾側

 

最上流にある家の前の草原に道があったので入って見ると、途中に石仏群、さらにその先に地蔵堂があった。

 

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土地の人に聞くと、やはり昔ここを峠道が通っていたとのこと。

 

ウェストンはこの峠を越えたあと蒲田で笠ヶ岳への案内人を求めたが、明治27年、28年、29年の三回とも区長に体よく断られ、三回目は見かねた他集落の猟師が案内を買って出てくれた。

 

区長が断った理由は、一度目は「最近の豪雨で蒲田川上流がひどく荒れ、今までのルートが崩壊していて猟師で入るものがいない」二度目は「このところの日照りで作物が枯れそうになり、猟師は皆雨乞いの旅に出ているのでいない」三度目は「年に一度の祭礼で樵や猟師は忙しく、案内はできない」というものであった。

 

しかし本当の理由は、笠ヶ岳頂上には江戸期に南裔禅師と播隆上人が安置した阿弥陀如来像などがおられるため、異教徒を登らせると仏罰があたることを恐れ、案内を拒んだのであった。

 

ウェストンは明治27年、28年とも失意のままこの神坂峠を越えて平湯へ戻り、安房峠に向かった。

 

三度目の明治29年は、中尾と栃尾の猟師が蒲田の衆の気持ちを忖度し、本峰へは行かずに小笠といわれた抜戸岳へ案内していたことが、数年前に隠居がウェストンの記述を検証してはじめて分かった。

 

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 左は笠ヶ岳 ウェストンは右の抜戸岳(小笠)へ登頂

 

念願の笠ヶ岳に登頂できたと思ったウェストン一行は、その日遅く中尾集落へ帰って宿泊。翌日中尾峠から上高地へ下り、徳本峠を越えて松本へ帰った。

 

今思えばこれは猟師の悪意でなく、当時は穂高岳同様あの山塊全体を笠ヶ岳と呼んでいたはずだから、ウェストンは本峰登頂は無理だとわかっていて小笠ヶ岳(=抜戸岳)で満足したのではないだろうか。

 

三度(たび)この神坂峠を越えなかったのは、蒲田集落通過時にいざこざが起きるのを避けるためであった。

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ウェストンが3度越えた=古安房峠

2018.07.06 Friday

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 安房山と古安房峠(矢印の箇所)

 

明日、今シーズン初めての年寄りの冷や水山行=沢登りに行く予定だったが、この大雨で当然中止に。

 

もう一つの面白くてたまらない山行=地図を読み、ヤブを漕いでの峠探しは続く。

 

信濃と飛騨の国境である飛騨山脈を越える安房峠は、大峠、信濃峠とも呼ばれ、その昔鎌倉街道であった。

 

勘違いをしている人が多いが、この古い峠道は今の国道158号線の安房峠(1790m)でなく、安房山(22194m)の南肩(2050m)を通っていた。

 

鎌倉幕府は蒙古襲来の事もあり、北陸方面の防備を固めるため、松本からここを通って富山へ抜ける街道を整備したという。

 

アルプス越えの峠を、戦国時代には武田信玄の軍が飛騨へ攻め入る時に往復するなど多くの人が通ったが、その険しさと、冬期雪で通れない期間が長いため、寛政2年江戸幕府はこの公道を乗鞍の南の野麦峠へ移し、平湯にあった口留め番所を廃止した。

 

それでも松本、高山間は野麦ルートより5里近いため引き続き利用され、明治初期にはウェストンも通った。

 

この峠が役目を終えるのは、大正6年に信州側から今の安房峠まで自動車道が付けられてからだ。

 

以前から一度この歴史の峠に立ってみたいと思っていたが、この梅雨の晴れ間にようやく念願を果たすことができた。

 

峠の位置は分かっていたが、国道で分断された取りつき点が不明なので、先日の栂峠同様自動車道の安房峠からひとまず安房山に登り、頂上から峠へ下ることにした。

 

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 乗鞍四ッ岳、猫岳、大崩山

 

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 四ッ岳

 

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 新安房峠

 

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峠から安房山の間は道が残っていたが一面笹が覆い、終始ひどいヤブ漕ぎを強いられ、時々道を見失うこともあった。

 

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 ウェストンあこがれの山 笠ヶ岳

 

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 焼岳北面 昔鎌倉街道の脇道が通っていた

 

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 十石山 金山岩の稜線

 

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 ウェストンが見て感激した穂高岳沢

 

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実は若い時乗鞍から硫黄岳、十石山を経て安房山を通り、自動車道の安房峠に出て平湯まで歩いたことがあるのだが、その時は歩き易かった記憶がある。だがその頃は峠に関心がなかった。

 

笹を分けて立った安房山の山頂直下には、アンテナと建物が建っていた。

 

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 焼岳北面 

 

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頂上からはまったく道が消えていたので、GPSで方向を定めながら、笹の中を泳いで下った。

 

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 霊峰白山を遥拝

 

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峠と思われる地形に到達したが、さらに小さいピークを越えた前方にも似たような平地があるので確認しに向かう。

 

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 ニセ峠

 

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この平場の下はガレ場がある急峻な谷になっていのるで、街道がこんな危険なルートを採るはずがないとの判断で最初の場所に戻る。

 

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 古安房峠

 

一面の笹原だがやはり峠らしい地形であり、少し飛騨側に下ると笹の中に道が現れたので間違いないことがわかった。

 

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 峠からは木の間越しにアカンダナ山、白谷山が

 

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人が通らなくなってから100年の歳月が流れているが、往時を偲びしばし感慨に浸った。

 

ウェストンは、明治25年高山から平湯へ入って乗鞍に登頂。そのあと笠ヶ岳へ登ろうと蒲田へ行ったが案内を断られ、この峠を越えて松本へ抜けている。

 

ウェストンが歩いた時はすでに荒れかけていて、時々地滑り箇所に大きい樅の倒木があったが、平湯から橋場の間は中部日本で一番眺めがよいと書き、森林のすばらしさも讃えている。

 

そのとき峠には国境を示す標柱があり、信州側へ少し下ると、美しいぼかし絵のような雪を残した穂高が姿を現した。

 

2度目は翌年針ノ木から立山に登り、念願の笠ヶ岳へ登るため富山から船津を経て蒲田へ入ったが、また体よく断られて失意のうちに安房峠を越えている。

 

ウェストンの笠ヶ岳登頂への思いは止まず、明治27年、今度は逆に松本からまたこの峠を越え蒲田へ下っている。

 

日本の山をこよなく愛し、純朴な田舎の人を常に温かい眼差しで見てくれたウェストンのことを考えながら、平湯側へ下って見る。

 

原生林はかなり急峻な斜面で、先ほどの道の続きを探すが、笹の中に消えてわからなくなった。

 

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この鬱蒼とした原生林は、蛭こそ落ちてこないが、泉鏡花の怪奇小説『高野聖』に出てくる天生峠(実際はこの安房峠といわれる)の描写そのものだった。

 

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かなりの急斜面の笹原を転がるように下り、国道に出る。

 

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安房平側をのぞいたがそれらしき地形が見当たらず、国道を歩いて新安房峠へ戻った。

 

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 安房平

 

古道は安房平の縁を通っているはずなので、次回探索したい。

 

安房トンネルが開通してからこの国道を通る車はほとんどなく、道の盛衰は現代も変わらない。

 

謹言:この老生、今年も北への想い断ちがたく、来週からしばらくの間北の大地を彷徨います。したがってこの拙いブログ、現地からアイフォンによる簡単な記事付き写真しか掲載できませんのでご容赦ください。引き続きのご愛読を頓首再拝。

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古代飛騨の匠が通った=栂(つが)峠

2018.06.21 Thursday

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とうに役目を終えて人々から忘れられ、ヤブに埋もれつつある古い峠がいとおしくて、隠居の峠探索はつづく。

 

柳田国男は「旅の原型は租庸調を納めるため都へ赴く道のりのことである」と言っているが、そんな時代につくられた古い峠を歩いてきた。

 

飛騨と美濃(郡上)の境にあるこの峠のことを知ったのは、旧荘川村の郷土史家鈴木治幸氏が「飛騨歴史民俗学会」の30周年記念誌に書いておられた「栂峠を越えた飛騨の匠」という一文であった。

 

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大宝元年(701)に制定された大宝令の賦役令に斐陀国条が定められていて、飛騨は庸調が免ぜられる代わりに、里ごとに匠丁10人を出さねばならず、1年任期で藤原京などの造営にあたった。

 

飛騨から毎年100人の匠丁が都へ上り、平安京まで14日かかった

 

後に「飛騨の匠」と称せられた飛騨人のほとんどは、位山峠を越える官道(=東山道飛騨支路)を通って都へ上ったが、荘川あたりの人はこの栂峠を越えて高鷲から長良川沿いを下り、東山道へ入ったという。

 

この古い峠は、昭和49年その南側に県道が敷設されるまで人の往来があったが、その後役目を終えて埋もれつつあると書いてあったので、このほど歩きに行った。

 

国道158号線を走り旧荘川村の惣則集落へ。

 

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 白山が見える場所にある白山神社

 

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 日本一といわれる推定2000年の治郎兵衛イチイ

  国指定天然記念物

 

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 牧ヶ野道場跡 飛騨に真宗を広めた拠点

 

ここから色川沿いの県道452号惣則高鷲線に入り、旧一色スキー場対岸から鷲ヶ岳、見当山間の分水嶺へと登る。

 

この県道はほとんど車が通らない、冬期間は閉鎖になるさみしい道だ。

 

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峠に駐車。ここより下にあるはずの県道で分断されている峠道入り口がわからないため、県道の峠から尾根をつたって峠に出る作戦だ。そのあと峠から両方へ下って見ることにした。

 

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 イノシシ捕獲穴?

 

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取りつきには大きい笹が密生していたのでかなりのヤブ漕ぎを覚悟していたが、分水嶺上はさほどではなく、順調にそれとわかる地形の峠(標高1200m)へ到達。

 

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 栂峠

 

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そこは広場になっていて、ここから東(一色)側、西(鷲見)側へとそれぞれはっきりした道が下っていたが、期待していた地蔵様などの石仏が見られなかった。

 

昔はこのあたりに栂の木が茂っていたという。

 

まず郡上側へ下って見る。

 

広葉樹林帯の中には倒木があったものの往時の道が残っていて、ヤブもたいしたことはなかった。

 

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途中古い林道が横断していた。

 

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このあとは杉林になり、落ちた杉葉で埋まって判然としない箇所が多かったが、谷沿いに県道まで歩くことができた。

 

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 県道に出る

 

再度登り返し、峠で休んだ後は飛騨側へと下る。

 

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こちら側もはっきりとした道が残っており、ヤブもたいしたことはなかった。

 

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少し下ると途中石垣が残っていた。かつて鷲見の人が焼き畑をやっていた時の小屋跡だと思われた。

 

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形が残っている道を県道まで下る。

 

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県道を横断して一色川までの道を探ったが、はじめ道があったものの途中からひどいヤブとなり断念した。

 

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県道に戻り、駐車場所まで歩く。

 

車で高鷲側へ下り、峠についての話が聞けないかと最上部にある民家へ寄ってみた。

 

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 大日ヶ岳

 

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 薬師如来堂

 

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 面白い狛犬

 

ちょうどK家に 79歳というご婦人がおられ、いろいろ話を聞くことができた。

 

「昔は峠を越えて一色側と結構行き来があった。」

 

「自分は子供の頃、親と峠を越えて一色集落の三島家へお灸をしてもらいに通ったことがある。」

 

「峠の一色側で、鷲見の者が焼畑をやっていた。」

 

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 別山と白山

 

一色側が気になって、後日旧一色スキー場に車を置いて、施錠してある色川沿いの林道を歩き、峠道の取りつきを探してみた。

 

林道を約2卻發と、土地の人がいまでも「番匠会津(ばんじょうかいず)」と呼んでいる平地に出る。

 

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鈴木氏によると、番匠とは大工、会津とは屋敷をあらわし、昔ここに大工が住んでいたという。

 

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色川を渡り、先日県道を横断して下った谷に出て道を探ってみた。

 

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谷沿いの杉林のなかにそれらしき痕跡があったが杉葉が降り積もって判然とせず、あきらめて下山とする。

 

帰り道に惣則集落で畑帰りのお婆さん(Yさん88歳)から話を聞くことができた。

 

「こちら側(飛騨側)には柿が生らないので、若い頃栂峠を越えて鷲見へ買いに行った。稗や粟を持って行って換えたことを覚えている。」

 

「昔鷲見と一色とは嫁のやりとりなどいろんな行き来があったが、今は途絶えてしまった。」 

 

今よりずいぶん貧しかったけれどやさしかった人々が、雨の日も雪の日もひたすら歩いて越えたいにしえの峠への関心は尽きない。

 

日本人がまだ自然と調和してゆったりと生きていた頃だ。

 

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男女の神様に会えた=笈破(おいわれ)峠

2018.05.30 Wednesday

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変わり者の隠居は、近年道がついている低山には食指が動かず、ヤブに埋もれてしまった峠道を好んで歩いている。

 

今頃になって、故高木泰夫先生の『ヤブ山登山のすすめ』の世界に入ったともいえるが、民俗学的な興味が主になっている点が違うかも知れない。

 

往時をしのびながらヤブを漕いでいると、突然昔のままの道が現れたり、峠に残された石仏に会えたりする時の嬉しさは格別だ。

 

5月のはじめ旧笈破集落から向かったものの、猛烈なヤブに阻まれて中ほどで断念した笈破峠(笈破側では伊西峠と呼ぶ)。

 

こんどは山野村側からまたヤブを漕いで登った結果、以前から念願だった峠(標高1200m)に到達することができた。

 

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5月下旬のよく晴れた日、双六川沿いの鎌倉街道を山吹峠へと登り、新緑に覆われた山野村へ入る。

 

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 昔双六谷の人に親しまれていた鼠石

 

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 トチの花

 

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 山吹峠

 

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 森茂集落と山吹峠の間にある地蔵尊

 

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天蓋山の駐車場には既に何台かの車があった。

 

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 森茂集落の地蔵堂

 

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笈破峠入口の伊西集落へは、森茂集落からまた小さな峠を越えねばならない。

 

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 北ノ俣岳

 

かつて30戸あったという伊西集落は、現在3戸を残すのみの限界集落になっている。

 

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道を聞くためAさんの家へ寄ったところ、山菜取りと間違えられたが、目的を告げたら快くルートを教えてもらうことができた。

 

近年通った人はいないので荒れていて歩行は難しいだろう、そして熊や猪が多いということも。

 

県道端に駐車し、集落内の廃屋のそばから入る。

 

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いきなりヤブが待ち受けていて、前日の雨が笹などに残っていてずぶ濡れになりながら漕ぐ。

 

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 熊の仕業?

 

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 イノシシののたうち場

 

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かつて牛や馬も通ったという谷沿いの道は崩れたり、谷水に流されたりしてルート判断に時間がかかったが、文明の利器GPSの助けを借りて上部へ。

 

谷を離れるとヤブの中にしっかりした道が残っていたが、日が当たるところは、隠居の背丈より高い太い笹がよく茂り、かき分けるのに力がいる。

 

体力と根気がいるのは、冬山のラッセルに似ている。

 

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ジグザグ道を登るとようやく笹に覆われた峠に到着。

 

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あるはずの地蔵様を探すが、見つからない。

 

ヤブの中に木をくりぬいた祠があるのを見つけ、転がして元の石の台座へ戻す。

 

熊の仕業かも知れない。

 

地蔵様がおられないのでヤブの中を探したら、足元に四角い石が埋まっているのを発見。

 

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裏返してみると、小さい男女の神像であった。

 

安曇野の道祖神は皆微笑んで仲良く手をつないでおられるが、それとちがって威厳のあるお顔だった。

 

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さっそく水筒の水できれいに洗って祠へ戻ってもらい、ザックにあった飴玉をお供えした。

 

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笈破側に下って見たが、ヤブに覆われているもののしっかりした道が残っていた。

 

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 峠から槍ヶ岳が望めた

 

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この峠道はどちら側も谷沿いが荒れているが上部はしっかりした形状が残っていることがわかった。

 

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 伊西集落から望める天蓋山

 

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集落へ戻りAさん宅へ寄るとご主人は留守だったが、奥さん(78歳)が今朝採った笹の子の皮むき作業をしておられ、峠のことを聞くことができた。

 

「昔は笈破集落へ、あるいは高原川沿いへの用事によく利用され、牛馬も通った道だった。」

 

「私は子供の頃峠を越えて笈破集落へ田植えの手伝いに行かされた。」

 

「一人で使いに行ったこともあるがたいへん寂しいというより恐ろしかったことを覚えている。」

 

「笈破集落と山野村間には嫁のやりとりがあり、皆歩いて峠を越えた。」などなど。

 

祠のことを話して写真を見せると、たいへん喜んでおられた。

 

隠居はおそらく最後の旅人であり、この峠道も遠からず山に還ってしまうのであろう。

 

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 森茂集落から見えた北ノ俣岳の稜線

 

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 黒部五郎岳

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幻の笈破と牧坂峠

2018.05.10 Thursday

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 牧坂峠の石仏

 

今はもう通る人がいないが、かつては多くの往来した人々の哀歓を見つめてきた峠道への関心は尽きない。

 

久々に峠歩きをしてきた。

 

さて、飛騨人でも「笈破」という変わった地名を聞いた人は少ないのではないだろうか。

 

これは「おいわれ」(江戸期の本にはオヒワリとも)と読み、かつて北飛騨の標高約900mの山中にあった集落の名だ。

 

国土地理院地形図の5万分の1「有峰湖」にはその名があるが、25千分の1「鹿間」からは消えている。

 

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 5万分の1図には地名がある

 

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 2万5千分の1図では消えている

 

神岡町中心部の北部、高原川右岸の山中にあって8戸が住んでおられたが、昭和30年代から順次神岡の町などへ出てしまわれ、昭和の終わりには廃村になってしまった。

 

かつてこの笈破村へ行くには、越中東街道(現国道41号線)ぞいの牧集落から1時間ほどかけて山道を登るのがいちばん近かった。

 

あと東の山野之村から峠(笈破側では伊西峠・山野村側では笈破峠と呼んだ)を越えるか、南の神岡鉱山前平から蛇腹峠を越え、長躯歩くしかなかった。

 

廃村になった現在も入りにくい状況は変わらず、南側から敷設された林道があるものの、鉱山専用道路なので一般車は入れない。

 

隠居は以前から山野村の伊西からこの笈破へ通じる峠道のことが気になっていたが、毎年新緑の頃に元村民の方が祭礼のために入られることを聞いて、今年頼んで同行させてもらった。

 

神岡の町から山野村へ通じる県道の途中から左の鉱山専用林道に入り、山中の未舗装の悪路を7kmほど走ると突然平地が現れた。地形はまさに隠れ里であった。

 

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皆さんが神社で祭礼をやっておられる間、隠居は山野村へ通じる峠道の探索に入ったが、笹などの深いヤブに没していてかつての形状も見当たらなかった。

 

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 神社への階段

 

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 神社の狛犬

 

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 かつての土蔵だけ残っていた

 

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 笈破峠の入口 途中から道が消えていた

 

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 雪椿の群生地をかきわけて

 

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途中尾根を間違えたりして2時間半ほどヤブを漕いで悪戦苦闘したが、あきらめて集合場所へ戻った。

 

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 残されたもう一軒の納屋が集合場所

 

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 朝釣って神前に供えた岩魚

 

その頃皆さんは昼食を終えて山菜取りにでかけていて、老人がおられただけ。

 

91歳のMさんはまだしっかりしておられ、かつての山での生活のことをいろいろ話していただけた。

 

そして牧へ下る峠道を教わり、入って見た。この道だけは今も時々手入れがなされているとのこと。

 

住宅の石垣前を西へ少し歩くと、村人が「牧坂峠」と呼んでいた小さな峠があり、ここから道は下りになる。

 

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 牧坂峠

 

少し下ったところの杉の大木の根元に祠があり、地蔵様、馬頭観音様がおられた。

 

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子供たちはこの道を通って下の集落にある学校へ通ったので、行き帰りにはこの地蔵様などに手を合わせたのであろう。

 

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「歩く民俗学者」といわれた宮本常一の著書に『山と日本人』というのがあり、日本には「山岳民」なるものが存在したという話がでてくる。

 

「日本の標高800mから1000mくらいの山岳地帯には、水田耕作をする平地民とはちがう、焼畑耕作にはじまる畑作を中心とする文化をもった山岳民と呼ばれる民族が存在した。たとえば九州の米良(めら)、椎葉、諸塚、五木、近畿では吉野の天ノ川、大塔、十津川、長野県伊那の下栗など。」というもの。

 

この説は柳田国男の「山人」を意識して書かれたとも言われるが、山岳民は縄文文化の系譜を継ぐものだと言っている。

 

山國の飛騨にはその対象になる集落がたくさんあったし、今も残っている。

 

もともと山と里の生活には優劣がなく、豊かな自然の中での自給自足の時代はよかったが、近代文明の恩恵に浴するようになるとしだいに「地形的に不便」ということになり、この笈破をはじめいくつもの集落が消えていった。

 

Mさんの奥さんが嫁ぐとき隣の山野村から歩いて越えて来たという伊西峠(笈破峠)、たぶんヤブのなかだと思うがこんどは山野村側から探して見ようと思う。

 

峠には地蔵様が残っておられるはずだという。

 

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 林道の途中から見えた笈ヶ岳 笈の字が同じだ 

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上野平の道祖神

2018.01.01 Monday

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あけましておめでとうございます。

 

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

新年ですので、道祖神のお話しを。

 

以前上野町を散歩の途中、高山の市街地から上野平へ登りきる手前の旧道に男女の道祖神様がおられることを見つけました。

 

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  右の壁にある穴の開いた石は、耳の病気の祈願のもの

 

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 千手観音様(省略したお手に宝剣、薬壺、蓮華、弓を)

 

長野県の安曇野などには多くありますが、飛騨では珍しい双体型です。

 

注連縄をした杉の大木の下に、仲良くおててをつないで、他の石仏と共に鎮座しておられます。

 

ご存知のように道祖神は、集落から村の外へ出ていく人の安全を祈願し、五穀豊穣、子孫繁栄、厄災の侵入防止等を祈願して村の入口に祀ったもの。

 

昔の上野の人が、集落から高山の町への行き来にいつも手を合わせたのでしょう。

 

今では旧道のさらに下に自動車道がつき、お参りする人もなくいつも暇そうにしておられるので、隠居は通るたびに手をあわせることにしています。

 

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 地蔵様

 

珍しいと言えば、5月に紹介した龍ヶ峰峠道の道祖神も男根型で、他にはあまり見られないものでした。

 

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縄文時代の男根崇拝の名残が道祖神という形で今に伝えられており、道祖神としては古い部類であるようです。

 

これは昔インドの街角で見たヒンドゥー教の「リンガ」とよく似ています。

 

これを書いていたら、ちょうどTVで昔の歌手春日八郎が「別れの一本杉」を歌っていました。

 

その歌詞が「一本杉の石の地蔵さんのよ村はずれ・・・」、昔はどこの村はずれにもあったのですね。

 

残念ながら、現代ではこういうものに祈ることが少なくなりました。

 

今年も平和でいい年になりますように祈ってきたいと思います。

 

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 昨年30日の乗鞍の夕映え

 

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猪之鼻峠(旧江戸街道)

2017.12.06 Wednesday

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小春日和の日、旧江戸街道あった峠道を歩いてきた。

 

明治の登山家田部重治は、「絶頂ばかりを喜び、峻険な山歩きをのみ賛美する心持ちも、やがて歴史や人文に嗜好を感ずる時節が来ると、人間と人間とを結ぶ動脈となっている峠に興味を感ずるに至るのは当然のことであろう。」と言っている。

 

隠居も年と共に田部と同じことを考えるようになり、近年峠というものに魅かれている。

 

先の徳本峠、中尾峠などいまだ登山道として残っている峠もいいが、とうに役目を終えて人々から忘れられ、埋もれつつある峠もいとおしい。

 

飛騨における近世の主要街道といえば、富山へ行く越中街道、岐阜方面への益田街道、郡上街道、そして乗鞍岳の南山麓を通る江戸街道だ。

 

江戸街道は、金森藩統治時代に江戸への表玄関として整備され、天領になってからは幕府の役人や物資が頻繁に往来し、そして信州へ「飛騨鰤(ぶり)」が運ばれた歴史の道。

 

明治時代には信州へ糸引き行った女工さんたちが往復した。

 

高山陣屋からは、“女峠、猪之鼻峠、寺坂峠、そして国境のぬ酣峠を越えて信州に入る。

 

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木曽の藪原宿で中山道に合流し、江戸まで4385里(337km)といわれ、今の国道と同格の主要街道であった。

 

この四つ峠のうち、旧朝日村の黍生(きびゅう)谷集落から旧高根村の猪之鼻集落へ抜ける猪之鼻峠道は、昭和初期に飛騨川沿いに道がつけられてから歩く人がいなくなり、ほとんどヤブに埋もれていた。

 

あとの美女峠と野麦峠の一部は行政によって「歴史の道」として保存され、寺坂峠は自動車道になっている。

 

猪之鼻峠道を5年ほど前に市役所朝日支所が旧朝日村区間だけ一度手入れをしたとのことで、当時携わった山スキー仲間のFさんからルートの情報を得ることができた。

 

彼の話では、その時旧高根村側はまったくわからなかったとのことだった。

 

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県道沿いに標識がある旧朝日村黍生谷から入ると、5年の間に笹が茂り、倒木もあって荒れてはいたが、往時牛が通ったという広いしっかりした道が残っていた。

 

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 峠道入口

 

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 左ハ 江戸 善光寺道  右ハ 村道

 

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 神社跡?

 

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平坦な尾根に出ると林道がつけられおり、一部旧道と重複。しばらく歩くと峠道は左の谷へ入る。

 

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笹を漕ぎながら谷が荒れている地点に出ると倒木が多く、道が消えていた。

 

笹をわけながらだいぶ探したが見つからず、この日はここまでとして往路を戻った。

 

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別の日、旧朝日村宮ノ前から鳥屋峠を越えて旧高根村猪之鼻集落へ通じる自動車道をたどり、峠に駐車して荒れた林道を旧峠道まで歩く。

 

似たような地形が続き読図が難しいところだが、スマホのGPSのおかげで難なく笹原に埋まった道を見つけることができた。

 

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笹を分けながら先日引き返した地点まで下ったが、流失しているところはわずかの部分であった。

 

突然笹原を2頭のイノシシが横切りびっくり。こちらへ向かってこなかったのでよかったが、猪之鼻峠の名の由来がうなずけた。

 

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再度登り返し旧村境の尾根にある峠に出たが、地蔵様などの石仏は見つからなかった。

 

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 猪之鼻峠

 

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廃道になった他の峠のように、地元の人が下へ移したのであろう。

 

峠の尾根を越え、しばらく笹を漕ぎながら下ると明るい広葉樹林帯に出た。

 

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いつものことながらこういう道を往時を偲びながら歩いていると、牛にうず高く荷を積んだ牛方(どしま)や、旅人など昔の人に出会いそうで、まことに楽しいものだ。

 

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落ち葉を踏みながらジグザグのしっかりした道をどんどん下る。

 

途中荒れた林道を横切り、下で自動車道を横断して藪を漕ながら少し下ると、猪之鼻集落へ出た。

 

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 鳥屋峠からの自動車道を横断

 

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昔ながらのたたずまいを残した集落からは、雪を冠った乗鞍岳が間近に望めた。

 

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猪之鼻集落は、飛騨川沿いの国道からさらに山へ入ったところにある隠れ里ともいうべき集落で、かつて15軒ほどあったが、現在は2軒住んでおられるだけで、廃屋が目立った。

 

集落そばの旧街道沿いには、峠から下ろしたという石仏があり、中の宿へ下る旧道にも石仏(馬頭観音)があった。

 

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 猪之鼻集落からの乗鞍岳

 

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車道約4kmを歩いて鳥屋峠まで戻る。

 

この峠も主要街道ではないが、旧朝日村宮之前からの古い峠道で、峠に渡り鳥をカスミ網でとらえる場所=鳥屋があったのが名の由来。その後自動車道になった。

 

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 鳥屋峠

 

猪之鼻集落におられたNさん(82歳)は、子供の頃歩いて峠へ行き網にかかっているたくさんのアトリやツメという鳥を見たと話してくれた。この頃にはもう猪之鼻峠は使われていなかったとも。

 

車で黍生谷の峠道入口へ戻ると、県道端に広い敷地跡があった。

 

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ここは、牛馬の調達、荷没の輸送、旅人の休息、食事、宿泊の便宜などをはかる問屋(といや)の跡で、ここ黍生谷宿では清水家が、甲(かぶと)宿では中谷家が代々問屋を務めていた。

 

23年前鳥屋峠を調べに来た時、この敷地跡で近所の老婆が一人で草を引いていた。

 

その時88歳だと言っておられた老婆は、「子供の頃は偉い人が泊まられるのでこの屋敷には近づくなといわれていた」「若い頃江戸街道を歩いて高根の上ヶ洞へ祭りを見に行ったことがある」「戦時中は街道の上部の広い尾根に皆で畑を作った」などと、なつかしそうに話してくれた。

 

その時そばにあった老婆の家は無くなっていた。

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中尾峠

2017.11.13 Monday

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 中尾峠からの笠ヶ岳、抜戸岳(11月6日)

 

飛騨山脈を越える峠というと、槍ヶ岳の飛騨乗越、奥穂高の白出コルなど登山者専用の難路があるが、昔から一般の人が往来した峠は、中尾峠、安房峠、そして乗鞍岳の南にある野麦峠だ。

 

安房峠には鎌倉街道が通り、野麦峠は江戸街道といわれ、雪が少ないのでよく使われた。

 

野麦峠は、近代になってからも飛騨から信州岡谷などの製糸工場へ働きに行った娘たちが、歩いて往復したことで知られている。

 

徳本峠へつながっていた中尾峠も、鎌倉街道の脇道が峠から焼岳の東面をまいて安房峠へついていたことがあり、古い歴史を持つ。

 

徳本峠の項で述べたように、戦国時代には三木秀綱夫妻がこの峠で再開を約して別れた。

 

江戸期には一時期飛騨新道が開削され信州の小倉村まで牛が通ったこともあるが、冬の間の荒れ方がひどく、万延元年大滝山から蝶ヶ岳の鞍部を経て鍋冠山へ下る部分は閉鎖になり、徳本峠へと移った。

 

そして明治以降はウェストンなど多くの登山者が越えた。

 

ウェストンは明治27年には笠ヶ岳登山の帰路に、また大正2年には夫人とともに2回この峠を越えている。

 

先日歩いた徳本峠とセットになっているこの峠、隠居は今まで飛騨側からの焼岳往復の時に何回も立っているが、上高地側からはかなり以前に12度歩いただけだった。

 

近年峠に興味を持つようになってからは通して歩いたことがなかったので、小春日和の日に一人で歩いて見た。

 

平湯に車を置いてバスで上高地に入り、帝国ホテル前で下車。

 

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田代橋を渡って突きあたりが西穂高口の門。中尾峠へはここを左折して梓川の右岸を辿り、途中から右の登山道へ入る。

 

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 猿がお出迎え

 

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 六百山

 

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 霞沢岳

 

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もうすっかり落葉し、静寂に包まれた森林帯の中をたどる。

 

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標高1800mあたりから岩壁帯となり、道が険しくなる。

 

昔の人はここをどうやって登ったのだろうか。この岩壁帯には直登のための古いワイヤーもあったが、今の道は岩場をはしごでトラバースするようになっている。

 

シーズンオフでそのはしごが外されていたので、岩登りの技術で突破。

 

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焼岳が大きく見え出し、笹の中のよく踏まれた道を歩くと、次の岩壁帯には長いアルミの梯子がかけてあった。

 

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この悪場を過ぎるとなだらかになり、左に旧の峠が見え出すが、今の道は右のコルへと登る。

 

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雪が残っている新峠に到着。既に閉じた小屋の前から今も何ヵ所からかガスを噴出している硫黄岳へ登る。

 

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明治期、飛騨では今の焼岳を硫黄岳、小屋の上のこの丸いピークを焼岳(山)と呼んでおり、信州ではその逆の名で呼んでいた。

 

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 昔は奥が硫黄岳、手前のピークが焼岳(焼山)

 

国土地理院が地図を作成する時、信州の呼び方を採用したため硫黄岳が焼岳になってしまったわけで、飛騨人としては面白くない。明治期に飛騨山岳会員が書いた登山記録は、硫黄岳になっている。

 

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 白山が見えた

 

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 頂上には観測機器が

 

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 噴気が出ている穴が何ヵ所かある

 

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 硫黄岳から見下ろした旧中尾峠

 

硫黄岳を下って旧の中尾峠に立つ。明治27年ウェストンが越えた時は、焼山峠とも呼んでいたようだ。

 

眼前に笠ヶ岳の稜線が広がり、一面の笹原を風が吹き抜けて、やはりこちらのほうが峠らしい峠だ。

 

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ここではじめて中尾から焼岳往復をするという若い単独行者に出会う。

 

昭和37年の噴火で峠にあった小屋は焼失し、その後しばらく登山禁止になった。そして上高地へのルートは変更された。

 

小屋跡から旧道のルートを確かめたくて信州側に降りてみる。かすかな踏み跡があったが、すぐそばまで火砕流のあとがあり、ルートが変更されたことがよくわかった。

 

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 旧道

 

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 小屋があった場所

 

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雪が残っている旧道を下る。

 

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最近の中尾集落からの道は、信州の中の湯温泉上から焼岳へ登る新道ができてからは歩く人が極端に減った。

 

中の湯側からは時間も短く、眺めもいいので、百名山巡りの人などはどうしてもこの道を選ぶが、コースとしては中尾からのほうがすばらしい森林帯を歩くことができ、隠居は好きだ。

 

途中に秀綱神社があるが、昔ここを通った悲運の秀綱夫妻を憐れんで、地元の人が建てたという。

 

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 このコースはブナの大木が多い

 

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降り立った中尾集落は紅葉が真っ盛りだった。

 

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集落のなかほどに地蔵尊などを安置した御堂があり、その前に鎌倉街道の石の標柱がある。

 

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中尾温泉口のバス停まで下り、1415分の平湯行きに乗った。

 

スキーシーズンには少し早いこの時期、古い峠歩きが楽しい。

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