Calendar

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< June 2019 >>

Recommend

MOBILE

qrcode

Link

Profile

Others

Search this site.

Blog

神坂峠ーウェストンが越えた小さな峠

2018.11.19 Monday

s-神坂峠.jpg

 

紅葉が終わった今頃の時期は、山スキーに早いし、隠居にとっては「山の端境期」だ。

 

このため毎年峠歩きをしている。

 

昨年の11月は、徳本峠、上高地から中尾峠、猪之鼻峠などを越えたが、まったく人に遭わず、落ち葉を踏んで、雪を冠った高山を見ながらの静かな峠歩きが楽しめた。

 

さて、かのウェストンが北飛騨で越えた主な峠は平湯峠、安房峠、中尾峠だが、もう一つ小さな峠があった。

 

それは蒲田温泉手前の神坂(かんさか)峠で、今は下にトンネルが穿たれ、とうに忘れられた峠だ。

 

s-神坂峠.jpg

 

なお神坂峠というのは、中津川など他にもいくつかあるが(深坂峠、三坂峠)、1500年以上前に大和朝廷が東国平定のため開いた官道上の峠のみにこの名が使われたという。

 

しかしこの峠は、このあたりの大字が神坂なので命名されたようだ。

 

ついでながら、焼岳の下にある中尾峠の別名は神坂峠といったらしいが、大和朝廷の官道であったかも知れず、その名がこの地域の大字になって残っているのだろうか。

 

s-中尾峠12.jpg

 旧中尾峠

 

s-中尾峠11.jpg

 

話がそれたが、ウェストンの著書『日本アルプス―登山と探検』に、念願の笠ヶ岳に登ろうと明治27年(1894)三度目に蒲田温泉を訪れた時、この峠を越える記述がある。

 

ウェストン一行3名は、信州から安房峠を越えて前夜平湯温泉の与茂三郎宅に宿泊。

 

「早朝私たちは手足も軽々と、めざす麗峰の灰色の鋸歯状の稜線が日の出の光のなかに輝き、来いとさしまねいているのを見ながら、高原川の峡谷を心もはればれと大股に早く下っていった。神坂峠の頂上から蒲田の谷間風景を眺めようと一度休んだだけで、古風な牧人小屋風の家並みの蒲田の部落に着いた。」

 

この峠が気になって、小春日和の日に探索にいってきた。

 

まず蒲田側から登って見ることに。

 

s-神6.jpg

 蒲田側

 

トンネルができる前の山腹をまく県道が残っているので、ここを少し歩き、途中から鞍部めがけて入る。

 

峠道と思われる箇所には未舗装の作業道がつけられており、峠と思われる地形の下には土捨場らしき広場が造られて、旧峠道は破壊されていた。

 

s-神6−1.jpg

 

s-神6−2.jpg

 

峠と思われる所もだいぶ以前に土木機械で均されたらしく草原になっていたが、ウェストンが書いている通り、ここから蒲田の温泉街が俯瞰できた。

 

s-神7.jpg

 

反対側を探ると往時の峠道が残っていたので下って見たが、砂防堰堤で途切れていた。

 

s-神8.jpg

 

s-神9.jpg

 

s-神9-1.jpg

 

s-神10.jpg

 

往路を戻って蒲田まで下り、再びトンネルを抜けて栃尾側へ車を回す。

 

s-神1.jpg

 栃尾側

 

最上流にある家の前の草原に道があったので入って見ると、途中に石仏群、さらにその先に地蔵堂があった。

 

s-神1−1.jpg

 

s-神2.jpg

 

s-神3.jpg

 

s-神3−1.jpg

 

s-神5.jpg

 

土地の人に聞くと、やはり昔ここを峠道が通っていたとのこと。

 

ウェストンはこの峠を越えたあと蒲田で笠ヶ岳への案内人を求めたが、明治27年、28年、29年の三回とも区長に体よく断られ、三回目は見かねた他集落の猟師が案内を買って出てくれた。

 

区長が断った理由は、一度目は「最近の豪雨で蒲田川上流がひどく荒れ、今までのルートが崩壊していて猟師で入るものがいない」二度目は「このところの日照りで作物が枯れそうになり、猟師は皆雨乞いの旅に出ているのでいない」三度目は「年に一度の祭礼で樵や猟師は忙しく、案内はできない」というものであった。

 

しかし本当の理由は、笠ヶ岳頂上には江戸期に南裔禅師と播隆上人が安置した阿弥陀如来像などがおられるため、異教徒を登らせると仏罰があたることを恐れ、案内を拒んだのであった。

 

ウェストンは明治27年、28年とも失意のままこの神坂峠を越えて平湯へ戻り、安房峠に向かった。

 

三度目の明治29年は、中尾と栃尾の猟師が蒲田の衆の気持ちを忖度し、本峰へは行かずに小笠といわれた抜戸岳へ案内していたことが、数年前に隠居がウェストンの記述を検証してはじめて分かった。

 

s-写真6.jpg

 左は笠ヶ岳 ウェストンは右の抜戸岳(小笠)へ登頂

 

念願の笠ヶ岳に登頂できたと思ったウェストン一行は、その日遅く中尾集落へ帰って宿泊。翌日中尾峠から上高地へ下り、徳本峠を越えて松本へ帰った。

 

今思えばこれは猟師の悪意でなく、当時は穂高岳同様あの山塊全体を笠ヶ岳と呼んでいたはずだから、ウェストンは本峰登頂は無理だとわかっていて小笠ヶ岳(=抜戸岳)で満足したのではないだろうか。

 

三度(たび)この神坂峠を越えなかったのは、蒲田集落通過時にいざこざが起きるのを避けるためであった。

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

ウェストンが3度越えた=古安房峠

2018.07.06 Friday

s-安房峠.jpg

 安房山と古安房峠(矢印の箇所)

 

明日、今シーズン初めての年寄りの冷や水山行=沢登りに行く予定だったが、この大雨で当然中止に。

 

もう一つの面白くてたまらない山行=地図を読み、ヤブを漕いでの峠探しは続く。

 

信濃と飛騨の国境である飛騨山脈を越える安房峠は、大峠、信濃峠とも呼ばれ、その昔鎌倉街道であった。

 

勘違いをしている人が多いが、この古い峠道は今の国道158号線の安房峠(1790m)でなく、安房山(22194m)の南肩(2050m)を通っていた。

 

鎌倉幕府は蒙古襲来の事もあり、北陸方面の防備を固めるため、松本からここを通って富山へ抜ける街道を整備したという。

 

アルプス越えの峠を、戦国時代には武田信玄の軍が飛騨へ攻め入る時に往復するなど多くの人が通ったが、その険しさと、冬期雪で通れない期間が長いため、寛政2年江戸幕府はこの公道を乗鞍の南の野麦峠へ移し、平湯にあった口留め番所を廃止した。

 

それでも松本、高山間は野麦ルートより5里近いため引き続き利用され、明治初期にはウェストンも通った。

 

この峠が役目を終えるのは、大正6年に信州側から今の安房峠まで自動車道が付けられてからだ。

 

以前から一度この歴史の峠に立ってみたいと思っていたが、この梅雨の晴れ間にようやく念願を果たすことができた。

 

峠の位置は分かっていたが、国道で分断された取りつき点が不明なので、先日の栂峠同様自動車道の安房峠からひとまず安房山に登り、頂上から峠へ下ることにした。

 

s-安1.jpg

 乗鞍四ッ岳、猫岳、大崩山

 

s-安2.jpg

 四ッ岳

 

s-安3.jpg

 新安房峠

 

s-安4.jpg

 

s-安5.jpg

 

峠から安房山の間は道が残っていたが一面笹が覆い、終始ひどいヤブ漕ぎを強いられ、時々道を見失うこともあった。

 

s-安6.jpg

 

s-安8.jpg

 

s-安9.jpg

 ウェストンあこがれの山 笠ヶ岳

 

s-安7.jpg

 焼岳北面 昔鎌倉街道の脇道が通っていた

 

s-安12.jpg

 

s-安13.jpg

 

s-安14.jpg

 十石山 金山岩の稜線

 

s-安15.jpg

 ウェストンが見て感激した穂高岳沢

 

s-安15−1.jpg

 

実は若い時乗鞍から硫黄岳、十石山を経て安房山を通り、自動車道の安房峠に出て平湯まで歩いたことがあるのだが、その時は歩き易かった記憶がある。だがその頃は峠に関心がなかった。

 

笹を分けて立った安房山の山頂直下には、アンテナと建物が建っていた。

 

s-安16.jpg

 

s-安17時.jpg

 

s-安18.jpg

 焼岳北面 

 

s-安19.jpg

 

頂上からはまったく道が消えていたので、GPSで方向を定めながら、笹の中を泳いで下った。

 

s-安20.jpg

 

s-安22.jpg

 霊峰白山を遥拝

 

s-安23.jpg

 

峠と思われる地形に到達したが、さらに小さいピークを越えた前方にも似たような平地があるので確認しに向かう。

 

s-安24.jpg

 

s-安24−1.jpg

 

s-安25.jpg

 ニセ峠

 

s-安26.jpg

 

s-安27.jpg

 

s-安28.jpg

 

この平場の下はガレ場がある急峻な谷になっていのるで、街道がこんな危険なルートを採るはずがないとの判断で最初の場所に戻る。

 

s-安29.jpg

 古安房峠

 

一面の笹原だがやはり峠らしい地形であり、少し飛騨側に下ると笹の中に道が現れたので間違いないことがわかった。

 

s-安30.jpg

 峠からは木の間越しにアカンダナ山、白谷山が

 

s-安31.jpg

 

人が通らなくなってから100年の歳月が流れているが、往時を偲びしばし感慨に浸った。

 

ウェストンは、明治25年高山から平湯へ入って乗鞍に登頂。そのあと笠ヶ岳へ登ろうと蒲田へ行ったが案内を断られ、この峠を越えて松本へ抜けている。

 

ウェストンが歩いた時はすでに荒れかけていて、時々地滑り箇所に大きい樅の倒木があったが、平湯から橋場の間は中部日本で一番眺めがよいと書き、森林のすばらしさも讃えている。

 

そのとき峠には国境を示す標柱があり、信州側へ少し下ると、美しいぼかし絵のような雪を残した穂高が姿を現した。

 

2度目は翌年針ノ木から立山に登り、念願の笠ヶ岳へ登るため富山から船津を経て蒲田へ入ったが、また体よく断られて失意のうちに安房峠を越えている。

 

ウェストンの笠ヶ岳登頂への思いは止まず、明治27年、今度は逆に松本からまたこの峠を越え蒲田へ下っている。

 

日本の山をこよなく愛し、純朴な田舎の人を常に温かい眼差しで見てくれたウェストンのことを考えながら、平湯側へ下って見る。

 

原生林はかなり急峻な斜面で、先ほどの道の続きを探すが、笹の中に消えてわからなくなった。

 

s-安33.jpg

 

s-安34.jpg

 

この鬱蒼とした原生林は、蛭こそ落ちてこないが、泉鏡花の怪奇小説『高野聖』に出てくる天生峠(実際はこの安房峠といわれる)の描写そのものだった。

 

s-安32.jpg

 

s-安34−1.jpg

 

かなりの急斜面の笹原を転がるように下り、国道に出る。

 

s-安35歳.jpg

 

安房平側をのぞいたがそれらしき地形が見当たらず、国道を歩いて新安房峠へ戻った。

 

s-安36歳.jpg

 安房平

 

古道は安房平の縁を通っているはずなので、次回探索したい。

 

安房トンネルが開通してからこの国道を通る車はほとんどなく、道の盛衰は現代も変わらない。

 

謹言:この老生、今年も北への想い断ちがたく、来週からしばらくの間北の大地を彷徨います。したがってこの拙いブログ、現地からアイフォンによる簡単な記事付き写真しか掲載できませんのでご容赦ください。引き続きのご愛読を頓首再拝。

comments(1) | trackbacks(0) | - | -

古代飛騨の匠が通った=栂(つが)峠

2018.06.21 Thursday

s-栂峠.jpg

 

とうに役目を終えて人々から忘れられ、ヤブに埋もれつつある古い峠がいとおしくて、隠居の峠探索はつづく。

 

柳田国男は「旅の原型は租庸調を納めるため都へ赴く道のりのことである」と言っているが、そんな時代につくられた古い峠を歩いてきた。

 

飛騨と美濃(郡上)の境にあるこの峠のことを知ったのは、旧荘川村の郷土史家鈴木治幸氏が「飛騨歴史民俗学会」の30周年記念誌に書いておられた「栂峠を越えた飛騨の匠」という一文であった。

 

s-栂峠地図.jpg

 

大宝元年(701)に制定された大宝令の賦役令に斐陀国条が定められていて、飛騨は庸調が免ぜられる代わりに、里ごとに匠丁10人を出さねばならず、1年任期で藤原京などの造営にあたった。

 

飛騨から毎年100人の匠丁が都へ上り、平安京まで14日かかった

 

後に「飛騨の匠」と称せられた飛騨人のほとんどは、位山峠を越える官道(=東山道飛騨支路)を通って都へ上ったが、荘川あたりの人はこの栂峠を越えて高鷲から長良川沿いを下り、東山道へ入ったという。

 

この古い峠は、昭和49年その南側に県道が敷設されるまで人の往来があったが、その後役目を終えて埋もれつつあると書いてあったので、このほど歩きに行った。

 

国道158号線を走り旧荘川村の惣則集落へ。

 

s-そう1.jpg

 

s-そう2.jpg

 白山が見える場所にある白山神社

 

s-そう3.jpg

 

s-そう3−1.jpg

 

s-そう4.jpg

 日本一といわれる推定2000年の治郎兵衛イチイ

  国指定天然記念物

 

s-つが1.jpg

 

s-つが1−1.jpg

 

s-そう5.jpg

 牧ヶ野道場跡 飛騨に真宗を広めた拠点

 

ここから色川沿いの県道452号惣則高鷲線に入り、旧一色スキー場対岸から鷲ヶ岳、見当山間の分水嶺へと登る。

 

この県道はほとんど車が通らない、冬期間は閉鎖になるさみしい道だ。

 

s-つが2.jpg

 

峠に駐車。ここより下にあるはずの県道で分断されている峠道入り口がわからないため、県道の峠から尾根をつたって峠に出る作戦だ。そのあと峠から両方へ下って見ることにした。

 

s-つが3.jpg

 

s-つが4.jpg

 

s-つが5.jpg

 イノシシ捕獲穴?

 

s-つが6.jpg

 

取りつきには大きい笹が密生していたのでかなりのヤブ漕ぎを覚悟していたが、分水嶺上はさほどではなく、順調にそれとわかる地形の峠(標高1200m)へ到達。

 

s-つが7.jpg

 栂峠

 

s-つが8.jpg

 

そこは広場になっていて、ここから東(一色)側、西(鷲見)側へとそれぞれはっきりした道が下っていたが、期待していた地蔵様などの石仏が見られなかった。

 

昔はこのあたりに栂の木が茂っていたという。

 

まず郡上側へ下って見る。

 

広葉樹林帯の中には倒木があったものの往時の道が残っていて、ヤブもたいしたことはなかった。

 

s-つが9.jpg

 

s-つが10.jpg

 

s-つが10−1.jpg

 

s-つが10−2.jpg

 

s-つが11.jpg

 

s-つが11−1.jpg

 

s-つが12.jpg

 

途中古い林道が横断していた。

 

s-つが13.jpg

 

このあとは杉林になり、落ちた杉葉で埋まって判然としない箇所が多かったが、谷沿いに県道まで歩くことができた。

 

s-つが14.jpg

 

s-つが15.jpg

 

s-つが16.jpg

 

s-つが17.jpg

 

s-つが17−1.jpg

 県道に出る

 

再度登り返し、峠で休んだ後は飛騨側へと下る。

 

s-つが19.jpg

 

s-つが20.jpg

 

s-つが21.jpg

 

こちら側もはっきりとした道が残っており、ヤブもたいしたことはなかった。

 

s-つが22.jpg

 

少し下ると途中石垣が残っていた。かつて鷲見の人が焼き畑をやっていた時の小屋跡だと思われた。

 

s-つが23.jpg

 

s-つが24.jpg

 

s-つが25.jpg

 

s-つが26.jpg

 

形が残っている道を県道まで下る。

 

s-つが27.jpg

 

s-つが28.jpg

 

s-つが29.jpg

 

s-つが30.jpg

 

s-つが31.jpg

 

s-つが32.jpg

 

s-つが33.jpg

 

s-つが34.jpg

 

県道を横断して一色川までの道を探ったが、はじめ道があったものの途中からひどいヤブとなり断念した。

 

s-つが35−1.jpg

 

県道に戻り、駐車場所まで歩く。

 

車で高鷲側へ下り、峠についての話が聞けないかと最上部にある民家へ寄ってみた。

 

s-つが36.jpg

 大日ヶ岳

 

s-つが39.jpg

 薬師如来堂

 

s-つが40.jpg

 面白い狛犬

 

ちょうどK家に 79歳というご婦人がおられ、いろいろ話を聞くことができた。

 

「昔は峠を越えて一色側と結構行き来があった。」

 

「自分は子供の頃、親と峠を越えて一色集落の三島家へお灸をしてもらいに通ったことがある。」

 

「峠の一色側で、鷲見の者が焼畑をやっていた。」

 

s-つが41.jpg

 別山と白山

 

一色側が気になって、後日旧一色スキー場に車を置いて、施錠してある色川沿いの林道を歩き、峠道の取りつきを探してみた。

 

林道を約2卻發と、土地の人がいまでも「番匠会津(ばんじょうかいず)」と呼んでいる平地に出る。

 

s-つが42.jpg

 

s-つが43.jpg

 

s-つが44.jpg

 

s-つが44−1.jpg

 

鈴木氏によると、番匠とは大工、会津とは屋敷をあらわし、昔ここに大工が住んでいたという。

 

s-つが45.jpg

 

s-つが45−1.jpg

 

色川を渡り、先日県道を横断して下った谷に出て道を探ってみた。

 

s-つが46.jpg

 

s-つが47.jpg

 

s-つが47−1.jpg

 

s-つが48.jpg

 

谷沿いの杉林のなかにそれらしき痕跡があったが杉葉が降り積もって判然とせず、あきらめて下山とする。

 

帰り道に惣則集落で畑帰りのお婆さん(Yさん88歳)から話を聞くことができた。

 

「こちら側(飛騨側)には柿が生らないので、若い頃栂峠を越えて鷲見へ買いに行った。稗や粟を持って行って換えたことを覚えている。」

 

「昔鷲見と一色とは嫁のやりとりなどいろんな行き来があったが、今は途絶えてしまった。」 

 

今よりずいぶん貧しかったけれどやさしかった人々が、雨の日も雪の日もひたすら歩いて越えたいにしえの峠への関心は尽きない。

 

日本人がまだ自然と調和してゆったりと生きていた頃だ。

 

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

男女の神様に会えた=笈破(おいわれ)峠

2018.05.30 Wednesday

s-笈破峠.jpg

 

変わり者の隠居は、近年道がついている低山には食指が動かず、ヤブに埋もれてしまった峠道を好んで歩いている。

 

今頃になって、故高木泰夫先生の『ヤブ山登山のすすめ』の世界に入ったともいえるが、民俗学的な興味が主になっている点が違うかも知れない。

 

往時をしのびながらヤブを漕いでいると、突然昔のままの道が現れたり、峠に残された石仏に会えたりする時の嬉しさは格別だ。

 

5月のはじめ旧笈破集落から向かったものの、猛烈なヤブに阻まれて中ほどで断念した笈破峠(笈破側では伊西峠と呼ぶ)。

 

こんどは山野村側からまたヤブを漕いで登った結果、以前から念願だった峠(標高1200m)に到達することができた。

 

s-笈破峠地図.jpg

 

5月下旬のよく晴れた日、双六川沿いの鎌倉街道を山吹峠へと登り、新緑に覆われた山野村へ入る。

 

s-おい1.jpg

 

s-おい2.jpg

 

s-おい3.jpg

 

s-おい4.jpg

 昔双六谷の人に親しまれていた鼠石

 

s-おい5.jpg

 

s-おい6.jpg

 トチの花

 

s-おい7.jpg

 山吹峠

 

s-おい8.jpg

 

s-おい9.jpg

 

s-おい10.jpg

 森茂集落と山吹峠の間にある地蔵尊

 

s-おい11.jpg

 

s-おい12.jpg

 

天蓋山の駐車場には既に何台かの車があった。

 

s-おい13.jpg

 

s-おい14.jpg

 森茂集落の地蔵堂

 

s-おい17.jpg

 

s-おい18.jpg

 

笈破峠入口の伊西集落へは、森茂集落からまた小さな峠を越えねばならない。

 

s-おい20.jpg

 北ノ俣岳

 

かつて30戸あったという伊西集落は、現在3戸を残すのみの限界集落になっている。

 

s-おい19.jpg

 

s-おい21.jpg

 

s-おい21−1.jpg

 

s-おい21−2.jpg

 

道を聞くためAさんの家へ寄ったところ、山菜取りと間違えられたが、目的を告げたら快くルートを教えてもらうことができた。

 

近年通った人はいないので荒れていて歩行は難しいだろう、そして熊や猪が多いということも。

 

県道端に駐車し、集落内の廃屋のそばから入る。

 

s-おい22.jpg

 

s-おい23.jpg

 

s-おい24.jpg

 

いきなりヤブが待ち受けていて、前日の雨が笹などに残っていてずぶ濡れになりながら漕ぐ。

 

s-おい28.jpg

 

s-おい25.jpg

 

s-おい26.jpg

 

s-おい27.jpg

 熊の仕業?

 

s-おい27−1.jpg

 

s-おい27−2.jpg

 イノシシののたうち場

 

s-おい27−3.jpg

 

かつて牛や馬も通ったという谷沿いの道は崩れたり、谷水に流されたりしてルート判断に時間がかかったが、文明の利器GPSの助けを借りて上部へ。

 

谷を離れるとヤブの中にしっかりした道が残っていたが、日が当たるところは、隠居の背丈より高い太い笹がよく茂り、かき分けるのに力がいる。

 

体力と根気がいるのは、冬山のラッセルに似ている。

 

s-おい29.jpg

 

s-おい30.jpg

 

s-おい31.jpg

 

s-おい32.jpg

 

s-おい32−1.jpg

 

s-おい33.jpg

 

ジグザグ道を登るとようやく笹に覆われた峠に到着。

 

s-おい34.jpg

 

あるはずの地蔵様を探すが、見つからない。

 

ヤブの中に木をくりぬいた祠があるのを見つけ、転がして元の石の台座へ戻す。

 

熊の仕業かも知れない。

 

地蔵様がおられないのでヤブの中を探したら、足元に四角い石が埋まっているのを発見。

 

s-おい35.jpg

 

裏返してみると、小さい男女の神像であった。

 

安曇野の道祖神は皆微笑んで仲良く手をつないでおられるが、それとちがって威厳のあるお顔だった。

 

s-おい36.jpg

 

さっそく水筒の水できれいに洗って祠へ戻ってもらい、ザックにあった飴玉をお供えした。

 

s-おい37.jpg

 

笈破側に下って見たが、ヤブに覆われているもののしっかりした道が残っていた。

 

s-おい37−1.jpg

 

s-おい38.jpg

 峠から槍ヶ岳が望めた

 

s-おい39.jpg

 

この峠道はどちら側も谷沿いが荒れているが上部はしっかりした形状が残っていることがわかった。

 

s-おい39−2.jpg

 

s-おい39−1.jpg

 伊西集落から望める天蓋山

 

s-おい40−1.jpg

 

集落へ戻りAさん宅へ寄るとご主人は留守だったが、奥さん(78歳)が今朝採った笹の子の皮むき作業をしておられ、峠のことを聞くことができた。

 

「昔は笈破集落へ、あるいは高原川沿いへの用事によく利用され、牛馬も通った道だった。」

 

「私は子供の頃峠を越えて笈破集落へ田植えの手伝いに行かされた。」

 

「一人で使いに行ったこともあるがたいへん寂しいというより恐ろしかったことを覚えている。」

 

「笈破集落と山野村間には嫁のやりとりがあり、皆歩いて峠を越えた。」などなど。

 

祠のことを話して写真を見せると、たいへん喜んでおられた。

 

隠居はおそらく最後の旅人であり、この峠道も遠からず山に還ってしまうのであろう。

 

s-おい40.jpg

 森茂集落から見えた北ノ俣岳の稜線

 

s-おい41.jpg

 黒部五郎岳

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

幻の笈破と牧坂峠

2018.05.10 Thursday

s-お12.jpg

 牧坂峠の石仏

 

今はもう通る人がいないが、かつては多くの往来した人々の哀歓を見つめてきた峠道への関心は尽きない。

 

久々に峠歩きをしてきた。

 

さて、飛騨人でも「笈破」という変わった地名を聞いた人は少ないのではないだろうか。

 

これは「おいわれ」(江戸期の本にはオヒワリとも)と読み、かつて北飛騨の標高約900mの山中にあった集落の名だ。

 

国土地理院地形図の5万分の1「有峰湖」にはその名があるが、25千分の1「鹿間」からは消えている。

 

s-お31.jpg

 5万分の1図には地名がある

 

s-お32.jpg

 2万5千分の1図では消えている

 

神岡町中心部の北部、高原川右岸の山中にあって8戸が住んでおられたが、昭和30年代から順次神岡の町などへ出てしまわれ、昭和の終わりには廃村になってしまった。

 

かつてこの笈破村へ行くには、越中東街道(現国道41号線)ぞいの牧集落から1時間ほどかけて山道を登るのがいちばん近かった。

 

あと東の山野之村から峠(笈破側では伊西峠・山野村側では笈破峠と呼んだ)を越えるか、南の神岡鉱山前平から蛇腹峠を越え、長躯歩くしかなかった。

 

廃村になった現在も入りにくい状況は変わらず、南側から敷設された林道があるものの、鉱山専用道路なので一般車は入れない。

 

隠居は以前から山野村の伊西からこの笈破へ通じる峠道のことが気になっていたが、毎年新緑の頃に元村民の方が祭礼のために入られることを聞いて、今年頼んで同行させてもらった。

 

神岡の町から山野村へ通じる県道の途中から左の鉱山専用林道に入り、山中の未舗装の悪路を7kmほど走ると突然平地が現れた。地形はまさに隠れ里であった。

 

s-お2.jpg

 

s-お1.jpg

 

s-お29.jpg

 

s-お30.jpg

 

皆さんが神社で祭礼をやっておられる間、隠居は山野村へ通じる峠道の探索に入ったが、笹などの深いヤブに没していてかつての形状も見当たらなかった。

 

s-お6.jpg

 神社への階段

 

s-お7.jpg

 

s-お8.jpg

 神社の狛犬

 

s-お4.jpg

 かつての土蔵だけ残っていた

 

s-お5.jpg

 

s-お5−2.jpg

 

s-お16.jpg

 笈破峠の入口 途中から道が消えていた

 

s-お23.jpg

 

s-お17.jpg

 

 

s-お18.jpg

 雪椿の群生地をかきわけて

 

s-お20.jpg

 

s-お26.jpg

 

s-お21.jpg

 

途中尾根を間違えたりして2時間半ほどヤブを漕いで悪戦苦闘したが、あきらめて集合場所へ戻った。

 

s-お3.jpg

 残されたもう一軒の納屋が集合場所

 

s-お27.jpg

 朝釣って神前に供えた岩魚

 

その頃皆さんは昼食を終えて山菜取りにでかけていて、老人がおられただけ。

 

91歳のMさんはまだしっかりしておられ、かつての山での生活のことをいろいろ話していただけた。

 

そして牧へ下る峠道を教わり、入って見た。この道だけは今も時々手入れがなされているとのこと。

 

住宅の石垣前を西へ少し歩くと、村人が「牧坂峠」と呼んでいた小さな峠があり、ここから道は下りになる。

 

s-お21−.jpg

 

s-お9.jpg

 

s-お10.jpg

 

s-お11.jpg

 

s-お11−1.jpg

 牧坂峠

 

少し下ったところの杉の大木の根元に祠があり、地蔵様、馬頭観音様がおられた。

 

s-お11−2.jpg

 

s-お13.jpg

 

s-お14.jpg

 

s-お15.jpg

 

子供たちはこの道を通って下の集落にある学校へ通ったので、行き帰りにはこの地蔵様などに手を合わせたのであろう。

 

s-お25.jpg

 

s-お22.jpg

 

s-お28.jpg

 

「歩く民俗学者」といわれた宮本常一の著書に『山と日本人』というのがあり、日本には「山岳民」なるものが存在したという話がでてくる。

 

「日本の標高800mから1000mくらいの山岳地帯には、水田耕作をする平地民とはちがう、焼畑耕作にはじまる畑作を中心とする文化をもった山岳民と呼ばれる民族が存在した。たとえば九州の米良(めら)、椎葉、諸塚、五木、近畿では吉野の天ノ川、大塔、十津川、長野県伊那の下栗など。」というもの。

 

この説は柳田国男の「山人」を意識して書かれたとも言われるが、山岳民は縄文文化の系譜を継ぐものだと言っている。

 

山國の飛騨にはその対象になる集落がたくさんあったし、今も残っている。

 

もともと山と里の生活には優劣がなく、豊かな自然の中での自給自足の時代はよかったが、近代文明の恩恵に浴するようになるとしだいに「地形的に不便」ということになり、この笈破をはじめいくつもの集落が消えていった。

 

Mさんの奥さんが嫁ぐとき隣の山野村から歩いて越えて来たという伊西峠(笈破峠)、たぶんヤブのなかだと思うがこんどは山野村側から探して見ようと思う。

 

峠には地蔵様が残っておられるはずだという。

 

s-お0.jpg

 林道の途中から見えた笈ヶ岳 笈の字が同じだ 

comments(1) | trackbacks(0) | - | -

上野平の道祖神

2018.01.01 Monday

s-道1.jpg

 

あけましておめでとうございます。

 

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

新年ですので、道祖神のお話しを。

 

以前上野町を散歩の途中、高山の市街地から上野平へ登りきる手前の旧道に男女の道祖神様がおられることを見つけました。

 

s-道3.jpg

 

s-道2.jpg

  右の壁にある穴の開いた石は、耳の病気の祈願のもの

 

s-道4.jpg

 千手観音様(省略したお手に宝剣、薬壺、蓮華、弓を)

 

長野県の安曇野などには多くありますが、飛騨では珍しい双体型です。

 

注連縄をした杉の大木の下に、仲良くおててをつないで、他の石仏と共に鎮座しておられます。

 

ご存知のように道祖神は、集落から村の外へ出ていく人の安全を祈願し、五穀豊穣、子孫繁栄、厄災の侵入防止等を祈願して村の入口に祀ったもの。

 

昔の上野の人が、集落から高山の町への行き来にいつも手を合わせたのでしょう。

 

今では旧道のさらに下に自動車道がつき、お参りする人もなくいつも暇そうにしておられるので、隠居は通るたびに手をあわせることにしています。

 

s-道6.jpg

 地蔵様

 

珍しいと言えば、5月に紹介した龍ヶ峰峠道の道祖神も男根型で、他にはあまり見られないものでした。

 

s-道7.jpg

 

s-道8.jpg

 

縄文時代の男根崇拝の名残が道祖神という形で今に伝えられており、道祖神としては古い部類であるようです。

 

これは昔インドの街角で見たヒンドゥー教の「リンガ」とよく似ています。

 

これを書いていたら、ちょうどTVで昔の歌手春日八郎が「別れの一本杉」を歌っていました。

 

その歌詞が「一本杉の石の地蔵さんのよ村はずれ・・・」、昔はどこの村はずれにもあったのですね。

 

残念ながら、現代ではこういうものに祈ることが少なくなりました。

 

今年も平和でいい年になりますように祈ってきたいと思います。

 

s-道10.jpg

 昨年30日の乗鞍の夕映え

 

s-道9.jpg

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

猪之鼻峠(旧江戸街道)

2017.12.06 Wednesday

s-猪47.jpg

 

小春日和の日、旧江戸街道あった峠道を歩いてきた。

 

明治の登山家田部重治は、「絶頂ばかりを喜び、峻険な山歩きをのみ賛美する心持ちも、やがて歴史や人文に嗜好を感ずる時節が来ると、人間と人間とを結ぶ動脈となっている峠に興味を感ずるに至るのは当然のことであろう。」と言っている。

 

隠居も年と共に田部と同じことを考えるようになり、近年峠というものに魅かれている。

 

先の徳本峠、中尾峠などいまだ登山道として残っている峠もいいが、とうに役目を終えて人々から忘れられ、埋もれつつある峠もいとおしい。

 

飛騨における近世の主要街道といえば、富山へ行く越中街道、岐阜方面への益田街道、郡上街道、そして乗鞍岳の南山麓を通る江戸街道だ。

 

江戸街道は、金森藩統治時代に江戸への表玄関として整備され、天領になってからは幕府の役人や物資が頻繁に往来し、そして信州へ「飛騨鰤(ぶり)」が運ばれた歴史の道。

 

明治時代には信州へ糸引き行った女工さんたちが往復した。

 

高山陣屋からは、“女峠、猪之鼻峠、寺坂峠、そして国境のぬ酣峠を越えて信州に入る。

 

s-江戸街道.jpg

 

木曽の藪原宿で中山道に合流し、江戸まで4385里(337km)といわれ、今の国道と同格の主要街道であった。

 

この四つ峠のうち、旧朝日村の黍生(きびゅう)谷集落から旧高根村の猪之鼻集落へ抜ける猪之鼻峠道は、昭和初期に飛騨川沿いに道がつけられてから歩く人がいなくなり、ほとんどヤブに埋もれていた。

 

あとの美女峠と野麦峠の一部は行政によって「歴史の道」として保存され、寺坂峠は自動車道になっている。

 

猪之鼻峠道を5年ほど前に市役所朝日支所が旧朝日村区間だけ一度手入れをしたとのことで、当時携わった山スキー仲間のFさんからルートの情報を得ることができた。

 

彼の話では、その時旧高根村側はまったくわからなかったとのことだった。

 

s-猪之鼻峠.jpg

 

県道沿いに標識がある旧朝日村黍生谷から入ると、5年の間に笹が茂り、倒木もあって荒れてはいたが、往時牛が通ったという広いしっかりした道が残っていた。

 

s-猪1.jpg

 峠道入口

 

s-猪2.jpg

 左ハ 江戸 善光寺道  右ハ 村道

 

s-猪3.jpg

 

s-猪4.jpg

 神社跡?

 

s-猪5.jpg

 

s-猪6.jpg

 

s-猪7.jpg

 

s-猪8.jpg

 

平坦な尾根に出ると林道がつけられおり、一部旧道と重複。しばらく歩くと峠道は左の谷へ入る。

 

s-猪9.jpg

 

s-猪10.jpg

 

s-猪11.jpg

 

笹を漕ぎながら谷が荒れている地点に出ると倒木が多く、道が消えていた。

 

笹をわけながらだいぶ探したが見つからず、この日はここまでとして往路を戻った。

 

s-猪14.jpg

 

別の日、旧朝日村宮ノ前から鳥屋峠を越えて旧高根村猪之鼻集落へ通じる自動車道をたどり、峠に駐車して荒れた林道を旧峠道まで歩く。

 

似たような地形が続き読図が難しいところだが、スマホのGPSのおかげで難なく笹原に埋まった道を見つけることができた。

 

s-猪13.jpg

 

s-猪15.jpg

 

笹を分けながら先日引き返した地点まで下ったが、流失しているところはわずかの部分であった。

 

突然笹原を2頭のイノシシが横切りびっくり。こちらへ向かってこなかったのでよかったが、猪之鼻峠の名の由来がうなずけた。

 

s-猪16.jpg

 

s-猪17.jpg

 

s-猪18.jpg

 

s-猪20.jpg

 

再度登り返し旧村境の尾根にある峠に出たが、地蔵様などの石仏は見つからなかった。

 

s-猪21.jpg

 

s-猪22.jpg

 猪之鼻峠

 

s-猪23.jpg

 

廃道になった他の峠のように、地元の人が下へ移したのであろう。

 

峠の尾根を越え、しばらく笹を漕ぎながら下ると明るい広葉樹林帯に出た。

 

s-猪24.jpg

 

s-猪25.jpg

 

s-猪26.jpg

 

いつものことながらこういう道を往時を偲びながら歩いていると、牛にうず高く荷を積んだ牛方(どしま)や、旅人など昔の人に出会いそうで、まことに楽しいものだ。

 

s-猪27.jpg

 

落ち葉を踏みながらジグザグのしっかりした道をどんどん下る。

 

途中荒れた林道を横切り、下で自動車道を横断して藪を漕ながら少し下ると、猪之鼻集落へ出た。

 

s-猪28.jpg

 

s-猪33.jpg

 

s-猪29.jpg

 

s-猪30.jpg

 

s-猪31.jpg

 

s-猪32.jpg

 鳥屋峠からの自動車道を横断

 

s-猪34.jpg

 

昔ながらのたたずまいを残した集落からは、雪を冠った乗鞍岳が間近に望めた。

 

s-猪35.jpg

 

s-猪42.jpg

 

猪之鼻集落は、飛騨川沿いの国道からさらに山へ入ったところにある隠れ里ともいうべき集落で、かつて15軒ほどあったが、現在は2軒住んでおられるだけで、廃屋が目立った。

 

集落そばの旧街道沿いには、峠から下ろしたという石仏があり、中の宿へ下る旧道にも石仏(馬頭観音)があった。

 

s-猪36.jpg

 

s-猪37.jpg

 

s-猪38.jpg

 

s-猪39.jpg

 

s-猪40.jpg

 

s-猪41.jpg

 

s-猪43.jpg

 

s-猪44.jpg

 猪之鼻集落からの乗鞍岳

 

s-猪45.jpg

 

s-猪46.jpg

 

車道約4kmを歩いて鳥屋峠まで戻る。

 

この峠も主要街道ではないが、旧朝日村宮之前からの古い峠道で、峠に渡り鳥をカスミ網でとらえる場所=鳥屋があったのが名の由来。その後自動車道になった。

 

s-鳥屋峠.jpg

 鳥屋峠

 

猪之鼻集落におられたNさん(82歳)は、子供の頃歩いて峠へ行き網にかかっているたくさんのアトリやツメという鳥を見たと話してくれた。この頃にはもう猪之鼻峠は使われていなかったとも。

 

車で黍生谷の峠道入口へ戻ると、県道端に広い敷地跡があった。

 

s-猪2−1.jpg

 

ここは、牛馬の調達、荷没の輸送、旅人の休息、食事、宿泊の便宜などをはかる問屋(といや)の跡で、ここ黍生谷宿では清水家が、甲(かぶと)宿では中谷家が代々問屋を務めていた。

 

23年前鳥屋峠を調べに来た時、この敷地跡で近所の老婆が一人で草を引いていた。

 

その時88歳だと言っておられた老婆は、「子供の頃は偉い人が泊まられるのでこの屋敷には近づくなといわれていた」「若い頃江戸街道を歩いて高根の上ヶ洞へ祭りを見に行ったことがある」「戦時中は街道の上部の広い尾根に皆で畑を作った」などと、なつかしそうに話してくれた。

 

その時そばにあった老婆の家は無くなっていた。

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

中尾峠

2017.11.13 Monday

s-中尾峠からの笠ヶ岳.jpg

 中尾峠からの笠ヶ岳、抜戸岳(11月6日)

 

飛騨山脈を越える峠というと、槍ヶ岳の飛騨乗越、奥穂高の白出コルなど登山者専用の難路があるが、昔から一般の人が往来した峠は、中尾峠、安房峠、そして乗鞍岳の南にある野麦峠だ。

 

安房峠には鎌倉街道が通り、野麦峠は江戸街道といわれ、雪が少ないのでよく使われた。

 

野麦峠は、近代になってからも飛騨から信州岡谷などの製糸工場へ働きに行った娘たちが、歩いて往復したことで知られている。

 

徳本峠へつながっていた中尾峠も、鎌倉街道の脇道が峠から焼岳の東面をまいて安房峠へついていたことがあり、古い歴史を持つ。

 

徳本峠の項で述べたように、戦国時代には三木秀綱夫妻がこの峠で再開を約して別れた。

 

江戸期には一時期飛騨新道が開削され信州の小倉村まで牛が通ったこともあるが、冬の間の荒れ方がひどく、万延元年大滝山から蝶ヶ岳の鞍部を経て鍋冠山へ下る部分は閉鎖になり、徳本峠へと移った。

 

そして明治以降はウェストンなど多くの登山者が越えた。

 

ウェストンは明治27年には笠ヶ岳登山の帰路に、また大正2年には夫人とともに2回この峠を越えている。

 

先日歩いた徳本峠とセットになっているこの峠、隠居は今まで飛騨側からの焼岳往復の時に何回も立っているが、上高地側からはかなり以前に12度歩いただけだった。

 

近年峠に興味を持つようになってからは通して歩いたことがなかったので、小春日和の日に一人で歩いて見た。

 

平湯に車を置いてバスで上高地に入り、帝国ホテル前で下車。

 

s-中1.jpg

 

s-中2.jpg

 

s-中3.jpg

 

s-中4.jpg

 

田代橋を渡って突きあたりが西穂高口の門。中尾峠へはここを左折して梓川の右岸を辿り、途中から右の登山道へ入る。

 

s-中5.jpg

 

s-中6.jpg

 猿がお出迎え

 

s-中8.jpg

 六百山

 

s-中9.jpg

 霞沢岳

 

s-中10.jpg

 

もうすっかり落葉し、静寂に包まれた森林帯の中をたどる。

 

s-中11.jpg

 

s-中12.jpg

 

s-中13.jpg

 

s-中14.jpg

 

 

s-中15.jpg

 

標高1800mあたりから岩壁帯となり、道が険しくなる。

 

昔の人はここをどうやって登ったのだろうか。この岩壁帯には直登のための古いワイヤーもあったが、今の道は岩場をはしごでトラバースするようになっている。

 

シーズンオフでそのはしごが外されていたので、岩登りの技術で突破。

 

s-中16.jpg

 

焼岳が大きく見え出し、笹の中のよく踏まれた道を歩くと、次の岩壁帯には長いアルミの梯子がかけてあった。

 

s-中17.jpg

 

s-中19.jpg

 

s-中21.jpg

 

s-中22.jpg

 

この悪場を過ぎるとなだらかになり、左に旧の峠が見え出すが、今の道は右のコルへと登る。

 

s-中23.jpg

 

s-中24.jpg

 

s-中25.jpg

 

s-中26.jpg

 

雪が残っている新峠に到着。既に閉じた小屋の前から今も何ヵ所からかガスを噴出している硫黄岳へ登る。

 

s-中27.jpg

 

s-中28.jpg

 

s-中29.jpg

 

明治期、飛騨では今の焼岳を硫黄岳、小屋の上のこの丸いピークを焼岳(山)と呼んでおり、信州ではその逆の名で呼んでいた。

 

s-中30.jpg

 昔は奥が硫黄岳、手前のピークが焼岳(焼山)

 

国土地理院が地図を作成する時、信州の呼び方を採用したため硫黄岳が焼岳になってしまったわけで、飛騨人としては面白くない。明治期に飛騨山岳会員が書いた登山記録は、硫黄岳になっている。

 

s-中32.jpg

 

s-中33.jpg

 白山が見えた

 

s-中34.jpg

 頂上には観測機器が

 

s-中35.jpg

 噴気が出ている穴が何ヵ所かある

 

s-中36.jpg

 

s-中37.jpg

 硫黄岳から見下ろした旧中尾峠

 

硫黄岳を下って旧の中尾峠に立つ。明治27年ウェストンが越えた時は、焼山峠とも呼んでいたようだ。

 

眼前に笠ヶ岳の稜線が広がり、一面の笹原を風が吹き抜けて、やはりこちらのほうが峠らしい峠だ。

 

s-中38.jpg

 

s-中39.jpg

 

s-中40.jpg

 

ここではじめて中尾から焼岳往復をするという若い単独行者に出会う。

 

昭和37年の噴火で峠にあった小屋は焼失し、その後しばらく登山禁止になった。そして上高地へのルートは変更された。

 

小屋跡から旧道のルートを確かめたくて信州側に降りてみる。かすかな踏み跡があったが、すぐそばまで火砕流のあとがあり、ルートが変更されたことがよくわかった。

 

s-中41.jpg

 旧道

 

s-中42.jpg

 

s-中44.jpg

 小屋があった場所

 

s-中45.jpg

 

雪が残っている旧道を下る。

 

s-中46.jpg

 

s-中47.jpg

 

最近の中尾集落からの道は、信州の中の湯温泉上から焼岳へ登る新道ができてからは歩く人が極端に減った。

 

中の湯側からは時間も短く、眺めもいいので、百名山巡りの人などはどうしてもこの道を選ぶが、コースとしては中尾からのほうがすばらしい森林帯を歩くことができ、隠居は好きだ。

 

途中に秀綱神社があるが、昔ここを通った悲運の秀綱夫妻を憐れんで、地元の人が建てたという。

 

s-中48.jpg

 

s-中49.jpg

 

s-中50.jpg

 

s-中51.jpg

 

s-中52.jpg

 このコースはブナの大木が多い

 

s-中53.jpg

 

s-中54.jpg

 

s-中55.jpg

 

降り立った中尾集落は紅葉が真っ盛りだった。

 

s-中56.jpg

 

s-中57.jpg

 

s-中61.jpg

 

集落のなかほどに地蔵尊などを安置した御堂があり、その前に鎌倉街道の石の標柱がある。

 

s-中58.jpg

 

s-中59.jpg

 

s-中61−1.jpg

 

s-中62.jpg

 

中尾温泉口のバス停まで下り、1415分の平湯行きに乗った。

 

スキーシーズンには少し早いこの時期、古い峠歩きが楽しい。

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

徳本峠

2017.11.05 Sunday

s-徳本峠1.jpg

 徳本峠からの穂高岳、明神岳

 

s-徳本峠2.jpg

 

山の方、「煩悩無尽誓願断」をねらって10月中旬に大峯山奥駈けを予定していたが、突然の家人の入院で行けなくなった。

 

まだ「修行にふさわしくない身」ということらしい。

 

こんななか11月のはじめに忙中閑を見つけ、日帰りで島々集落から徳本峠(2135m)を越えて上高地まで歩いてきた。

 

焼岳北の中尾峠から上高地を経てこの徳本峠を越えるルートは、昔から飛騨と信州を結ぶ主要な交通路で、飛騨との関りがたいへん深い。このためあえて「飛騨の峠」のカテゴリーに。

 

戦国時代、金森長近に攻められた高山松倉城主三木秀綱夫人が、信州波田の実家淡路城へ逃れる途中この峠道で杣人に襲われて非業の最期をとげた。

 

江戸期には飛騨から善光寺参りの善男善女が通り、播隆が槍ヶ岳を開山するために通り、富山藩が唐尾峠から江戸への近道としてこの峠を利用した。

 

天保年間には、鍋冠山経由の「飛騨新道」が中尾峠までつけられたが、諸事情からすぐ廃道になったこともある。

 

明治に入ると、ウェストンはじめ多くの岳人が穂高岳や槍ヶ岳、あるいは飛騨の山に登るためこの峠を越え、それは昭和30年ころまで続いた。

 

前回紹介した松濤明も、戦後この峠を越え中尾峠を越えて飛騨へ入っている。

 

島々の市役所安曇支所に車を置き、はじめは満天の星の下をヘッドランプの灯りで歩き出す。

 

s-徳1.jpg

 

s-徳2.jpg

 動物侵入防止柵 開けて入る

 

二俣までは島々川沿いの林道を歩くが、ちょうど紅葉が盛りだった。

 

s-徳3.jpg

 

s-徳4.jpg

 

s-徳5.jpg

 

s-徳6.jpg

 

s-徳7.jpg

 

電力会社の取水口がある二俣には、歌人で民俗学者の折口信夫(しのぶ・釋迢空)が三木秀綱夫人を供養して詠んだ歌碑がある。

 

s-徳8.jpg

 

二俣からは、島々谷南沢沿いのよく踏み固められた歴史の道を、往時を偲びながら歩く。

 

s-徳9.jpg

 

s-徳10.jpg

 サワラの奇形木

 

s-徳11.jpg

 

s-徳12.jpg

 

途中に前述の三木秀綱夫人の慰霊碑があり拝礼。

 

s-徳12−1.jpg

 

夫の秀綱とは島々で会う約束をして中尾峠で二手に別れた。

 

秀綱は焼岳の裾を巻いて安房峠道に出て大野川へ下ったが、奈川村角ヶ平で所持していた金銀目当ての土民に襲われて落命。

 

二人は再び会うことができなかった。

 

s-徳13.jpg

 

s-徳14.jpg

 

s-徳15.jpg

 

s-徳15−1.jpg

 

s-徳16.jpg

 

s-徳17.jpg

 

s-徳18.jpg

 炭焼き窯

 

s-徳18−1.jpg

 

s-徳20.jpg

 

s-徳21.jpg

 

s-徳22.jpg

 

岩魚留小屋の縁側で日向ぼっこをしながら、しばし休憩。

 

s-徳23.jpg

 

s-徳24.jpg

 

s-徳25.jpg

 いつまでも座っていたくなる、日向ぼっこにいい縁側

 

s-徳26.jpg

 

s-徳27.jpg

 

s-徳27−1.jpg

 

s-徳28.jpg

 

s-徳29.jpg

 

谷最上部の橋は、雪崩対策で徳本小屋の人によってすでに落とされていて谷を渡渉。

 

峠に近くなると雪が残っていた。

 

s-徳29−1.jpg

 

s-徳30.jpg

 

s-徳30−1.jpg

 

小屋は1027日に閉じて人影もなかったが、峠からはウェストンなど多くの岳人感激した穂高、明神の威容が目に飛び込んできた。 

 

連日の晴天で雪が少なくなってはいた。

 

s-徳31.jpg

 

s-徳32.jpg

 

s-徳33.jpg

 

s-徳34.jpg

 

この日は平日とあって歩いているのは隠居だけで、峠にも登山者がおらず、望んでいた「独りでの静かな寂しい峠歩き」が満喫できた。

 

梓川分岐の手前で若い人が追い付いてきた。聞いてみると隠居より2時間も遅く島々を出発したとのことで、若い人の足にはかなわない。

 

s-徳35.jpg

 

s-徳36.jpg

 

s-徳37.jpg

 下山途中の景観

 

s-徳38.jpg

 

s-徳39.jpg

 

s-徳40.jpg

 

s-徳41.jpg

 

シーズンオフとあって河童橋あたりも観光客が少なかった。

 

s-徳42.jpg

 

s-徳43.jpg

 

1515分発の松本行きのバスに乗って島々へ戻る。

 

実は隠居、「飛騨の登山史研究家」を自認していながら、上高地からこの峠に立ったことはあったものの島々から歩いたことがなかったのでずっと気になっていた。

 

以前から何回か機会を逃していたが、今回ようやく歩き通すことができてよかった。

 

やはり味のあるいい峠道だった。

 

往来した多くの人々の哀歓を見つめてきた峠、日常から非日常への境界である峠への関心は尽きない。

 

(島々入口からしばらくの間の写真は、早朝暗かったのでバスで支所へ到着後再度歩いて撮影した)

 

<参考にならない老人のタイム> 238km  歩行約10時間

安曇支所435  二俣628640 岩魚留小屋910925 徳本峠12091230

梓川分岐1347  バスターミナル1430

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

から尾峠

2017.06.11 Sunday

s-から32.jpg

 熊にかじられた峠の標柱

 

昔の人が国境の峠を越えるということは、現代なら外国へ行くようなものであったろう。

 

村の結界から異界へ踏み入れる不安と期待の入り混じった気持ちで峠に立ち、地蔵様に道中の無事を祈った。

 

そんな時代のことを想いながらの峠歩きはまことに楽しい。

 

山スキーの記事が続き、ずいぶん掲載が遅れたが、514日、5年ぶりに鎌倉街道を歩き、国境にある唐尾峠に立った。

 

ご存知のとおり鎌倉街道とは、鎌倉時代に「いざ鎌倉」と言う時、全国の御家人たちが一斉に鎌倉を目指して進軍した道で、今でも各地に残っている。

 

飛騨を通過する鎌倉街道は、有峰からこの唐尾峠を越えて山之村に入り、山吹峠を越えて双六谷から高原川に下る。(双六川沿いに、近年高山市の文化財課が建てた「鎌倉街道」の石柱がある。)

 

そして高原川沿いを遡り、栃尾の禅通寺裏から平湯を経て安房峠(今の国道の峠より北側・別名大峠、信濃峠)を越え、信州へ入る。

 

中尾峠から焼岳の裾を通って安房峠へ合流する道は脇道らしい。

 

このころ鎌倉時代の守護・地頭の設置図を見ると、越中には守護はいなく、地頭の五十嵐氏がいたようだ。

 

全国的には中世から近世のはじめころまで使われたが、飛騨の街道はその後も使われ、江戸期には富山藩の人が通り、飛騨からは薬師岳、立山詣でなどに利用したという。麓の和佐府から有峰への嫁入りもこの峠を越えた。

 

今回は峠研究会のメンバー4名で行ってきた。

 

s-から0.jpg

 山吹峠からの笠ヶ岳

 

s-から1.jpg

 天蓋山

 

s-から2.jpg

 

s-から3.jpg

 北ノ俣岳の稜線

 

s-から4.jpg

 山之村はすっかり春になり、農作業がはじまっていた

 

s-から5.jpg

 

s-から6.jpg

 和佐府の松葉家 飛騨で一番大きい農家とか

 

和佐府集落から峠道がはじまるが、はじめは林道(約2.5辧砲鬚燭匹襦

 

s-から7.jpg

 

s-から8.jpg

 林道入口

 

s-から9.jpg

 この峠は唐尾でなくから尾(涸尾)峠が正しいらしい

 

s-から10.jpg

 

s-から11.jpg

 

林道終点あたりから左の山道へ入る。

 

昔はここまでは谷沿いの道だったであろう。

 

s-から12.jpg

 

s-から13.jpg

 

s-から14.jpg

 

少し歩くと小さい谷を渡ってブナ林の尾根に取り付くが、よく踏まれたはっきりした道で歩きやすい。

 

s-から15.jpg

 

やがて鎌倉街道の特徴といわれる薬研堀(尾根が人の手で掘られて切通しになっている。)が現れる。

 

s-から16.jpg

 

s-から17.jpg

 

s-薬研.jpg

 薬研

 

s-から18.jpg

 

s-から19.jpg

 

s-から20.jpg

 

背後には山之村のシンボル、天蓋山が現れる。

 

標高約1500mの岩の下にいいお顔の観音様が鎮座しておられた。

 

s-から20−1.jpg

 

s-から21.jpg

 

これは北飛騨を支配していた江間家の重臣川上忠左衛門の弟2名がこの地点で遭難し、彼らの姉が慰霊のため2体の観音像を安置したという。

 

その後古道整備の時埋もれていた1体のみが発見され、1体がまだ見つかっていない。

 

この少し上あたりから残雪が現れ、峠のある広い尾根はまだ雪に覆われていた。

 

s-から22.jpg

 

s-から23.jpg

 

s-から24.jpg

 

s-から25.jpg

 

峠といっても最低鞍部(タワ)でなく、広い尾根の途中にあり、他の峠とは趣がちがう。

 

熊にかじられた標柱が傾いていたので皆で起こす。

 

s-から27.jpg

 

ここから雪の上を有峰側へ移動すると、剣岳や立山、薬師岳や大きく見えた。

 

s-から28.jpg

 

s-から29.jpg

 

s-から30.jpg

 鍬崎山

 

s-から31.jpg

 横岳方面

 

以前来たとき、その先は道がはっきりしていたがあまりにも藪がひどかったので、あきらめて引あえ下引き返した。

 

峠からの越中側ルートは、大多和峠への尾根(この尾根は脇道として使われていたこともある)でなく、北東の尾根を下り、西谷へ出て有峰集落(現在は有峰湖)へ下る。

 

有峰から今度は北西に針路をとり、東笠山の裾を通って真っ直ぐ常願寺川至るのである。

 

地図のない時代に昔の人が拓いた無理がない、合理的なルートにいつも感心させられる。

 

峠まで引き返し、国境尾根通しに最低鞍部に出て有峰湖が俯瞰できる場所に移動。その上に立山が見えた。

 

s-から33.jpg

 この広い国境尾根はスキーで歩いたことがある

 

s-から37.jpg

 

s-から34.jpg

 有峰湖

 

s-から35.jpg

 剣岳

 

s-から36.jpg

 薬師岳

 

5年前に来たときまでは、この峠道を守るため毎年地元の人が笹を刈っておられたのだが、その後集落の過疎化高齢化で手入れができていないとのと。

 

特に笹が多い稜線あたりは雪に覆われていてわからなかったが、だいぶ笹が茂っていると思われる。

 

今回我々は下の方の少々笹を刈り、倒木を除去するなどしてきたが、やがて歴史があるこの峠道も笹に埋もれてしまうのであろう。

 

s-から38.jpg

 

s-から39.jpg

 山之村俯瞰 左が伊西峠

 

s-から44.jpg

 

s-から45.jpg

 

s-から46.jpg

 

s-から47.jpg

 

s-から48.jpg

 林道からの取りつきケルンを積んだ

 

前回訪れたときから1ヶ月弱経った山之村は、雪が消えて山桜が満開だった。

 

s-から49.jpg

 

s-から50.jpg

 黒部五郎岳

 

s-から51.jpg

 笠ヶ岳の馬も出現

 

帰路大規模林道上の山吹峠にさしかかり、左に桑崎山を見ながらいつも思うのは、天正12年に佐々成政が越えたのはザラ峠でなく、この鎌倉街道ではないかということだ。

 

s-たてかさ13.jpg

 ザラ峠

 

s-たてかさ12.jpg

 

厳冬期にザラ峠を越え、黒部川を渡り、針ノ木峠を越えることは容易でなく、このルートなら途中に有峰や山之村の集落があり、標高も低いので冬でも通過はさほど困難ではない。

 

s-針ノ木峠.jpg

 針ノ木沢と峠

 

そして昔は安房峠をザラ峠と呼んでいたと、なにかで読んだことがある。

 

佐々成政が埋めたという金塊は、富山の鍬崎山でなく、山之村の桑崎山にあるのかもしれない。

 

s-P6090025.jpg

 鍬崎山 今でも金塊を探している人がいるとか

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

(C) 2019 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.