Calendar

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< July 2020 >>

Recommend

MOBILE

qrcode

Link

Profile

Others

Search this site.

Blog

<< 千光寺峠(柏原峠)―「幽霊街道」にある峠で、千光寺へお参りの衆がよく通った | main | 奧飛騨の山案内人たち1―ウェストンを笠ヶ岳へ案内した猟師 >>

柏原峠(千光寺峠)2―古刹千光寺の境内を歩く

2020.05.25 Monday

s-千0−1.jpg

 笠ヶ岳の雪形=代掻き馬

今年はシャッターチャンスを逃し、2017年5月19日のもの

 

人々から忘れられ、埋もれてゆくものを惜しんで、古い峠歩きは続く。

 

乗鞍岳の剣ヶ峰あたりが冠雪した日(令和元年119日)、反対側(千光寺側)の下保集落から登ってみた。

 

s-千2.jpg

 

真言宗の袈裟山・千光寺は、約1600年前の仁徳天皇の時代飛騨の豪族両面宿儺(りょうめんすくな)が開山し、約1200年前に平城天皇の第三皇子である真如親王が弘法大師の弟子になり、諸国行脚の途中に建立したという古刹。

 

標高900mの山中にあり、「飛騨の高野山」ともいわれる。

 

江戸期には、木彫り仏で有名な円空が3年続けて千光寺へ通い、作仏を行った。

 

現在寺には円空が遺した両面宿儺座像、観音郡像など50余体が収蔵されている。

 

s-千0−3.jpg

両面宿儺座像

 

寺へは参拝用の自動車道が付けられているが、昔の歩く参道は自動車道入口から300mほど南に残っている。

 

下保集落の人に聞くと、こちらでは柏原峠と呼んでいるとのこと。

 

同集落のHさん(61歳)は、「小学生の頃学校の先生に連れられて行った時(昭和40年頃)は既に通る人がいなく、道が一部ヤブで埋もれていて道に迷ってしまった覚えがある。」と話してくれた。

 

旧道の石の山門を通過する。

 

s-千3.jpg

 

s-千5.jpg

 左千光寺 右桐山

 

広い道はすぐにヤブに覆われていたが、それでも国指定の天然記念物の五本杉まで難なく歩けた。

 

s-千6.jpg

 

s-千7.jpg

 

s-千8.jpg

 

s-千9.jpg

 

この杉は、本尊の千手観音とともに千光寺の信仰のシンボル。

 

s-千11.jpg

 

s-千10.jpg

 

s-千12.jpg

 

このあとは新参道の自動車道に寸断されていたが、途中から仁王門までの旧道が残っていたので歩く。

 

s-千12−1.jpg

 

s-千13.jpg

 

s-千14.jpg

 

s-千16.jpg

 

s-千18.jpg

 

s-千19.jpg

 

s-千20.jpg

 

s-千21.jpg

 

s-千22.jpg

 

s-千23.jpg

 

s-千24.jpg

 

s-千25.jpg

 

s-千26.jpg

 

s-千27.jpg

 

s-千28.jpg

 

s-千29.jpg

 

s-千29−1.jpg

 

山門の金剛力士像は、昔一の宮水無神社の仁王門にあったものだが、明治の神仏分離でここへ移された。

 

s-千29−2.jpg

 

旧道は仁王門からか石段を登って境内に入り、先日出てきたところへつながっていた。

 

s-千30.jpg

 

s-千30−1.jpg

 

s-千31.jpg

 

s-千32.jpg

 

s-千32−1.jpg

 

s-千33.jpg

 

s-千34.jpg

 

s-千35.jpg

 

s-千36.jpg

 

s-千37.jpg

  

なお仁王門下の右に大きい尾根が派生しているが、ここに鳥越砦があり、鳥越峠があったと言われている。

 

s-千0.jpg

 

 

永禄7年(1564)甲斐武田信玄の武将山県昌景が古安房峠を越えて飛騨へ侵入し、千光寺を焼き討ちしたと伝わるが、この時の砦跡らしい。

 

これで全線を歩いたことになり、「古峠コレクション」に一つ加えることができた。

 

それにしても、往来した多くの人々の祈りをやさしく受け止め、哀歓を見つめてきた、あのいいお顔の地蔵様のことが気になる。

 

おそらくこの先訪れる人はいないだろう。

 

初出「飛騨学の会」紀要『斐太紀』24号・202041日発行

 

s-千0−2.jpg

 

近代資本主義とグローバリズムの一帰結などと、「コロナ以前、以降」が語られ始めている。

 

「これからはアニミズムとトーテミズムが、人間社会を構成する鍵になってくる」などと示唆する人もいる。

 

そうすると、峠を歩いた時代までの日本人の自然観、死生観というものは、想像ながらまんざら捨てたものではないということになる。

 

この半呆け老人は「我々はもう不便な生活には戻れないが、自然を崇め、自然に謙虚だったかつての文化が、今後のわれわれの生き方、自然との関わり方を示唆しているのではないか」などと考えたりしている。

  

<以下余談 相変わらずの閉じこもりで、お時間のあるお方どうぞ>

 

千光寺峠(柏原峠)のことを書いていて、「幽霊街道」など普通の人が歩かない尾根道のことが気になったが、民俗学者宮本常一著の『山に生きる人びと』(河出書房)に「カッタイ道」という記述があったことを思い出した。

 

「カッタイ」とは、ハンセン病(らい菌による感染症)の差別用語だが、宮本は昭和16年、四国の山中で風呂敷包を背負い、ボロボロの着物を着たハンセン病の老婆に出会った。

 

顔はくずれてしまっていて、杖をついていたが、手の指もほとんどなかった。

 

人目を避け、山中を5〜6日歩いてきたとのことであった。

 

彼らは一般人に嫌われるので、山中の専用の道を通って行き来していたというが、これが「カッタイ道」といわれていたのだ。

 

四国にはこれらの人も歩ける八十八箇所の巡礼道があるが、土佐の国だけは藩主がカッタイの通過を嫌い、こういう道を歩かざるをえなかったという。

 

この頃はまだこの病気のことがわかっていなかったとはいえ、まことに痛ましい話だ。

 

昔の日本には、「カッタイ道」のほか、里を通らず山中にいろんな道があり、秋田マタギなどは山の尾根ばかり歩いて奈良県まで行き来していたという。

 

日本には、「山地民」といわれる木地師か修験者、マタギ、鉱山師、樵、炭焼き、あるいは「歩き筋」と言われるサンカ、鋳物師、ゴゼ、巫女、などが歩く専用の道があったらしい。

 

飛騨でも「山の尾根は魔物が通るところなので近寄るな」と言われており、昔こういう道が存在した。

 

先に書いた「幽霊街道」もそのうちの一つであろう。

 

隠居は今でも登山で尾根の縦走を好むが、登山が好きな者は皆前述の職業の人の末裔だろうか。

 

comments(0) | - | - | -

Post a Comment






(C) 2020 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.