飛騨ゆかりの天才画家蒲生俊武氏の絵を探しています。
明治2年、高山から東京へ出て裁判官になった蒲生俊孝という人の次男が俊武氏(1885.3.23〜1914.12.14)。
俊武氏は東京美術学校で黒田清輝などに師事し、同期には藤田嗣治、岡本一平などがいたそうです。
しかし残念なことに、将来を嘱望されながら29歳で病没。
このため、現在見つかっている原画は12点(うち高山関係は3点)のみ。
画伯の本籍が高山町大字三町九百二拾二番地。
父俊孝氏が上京時、家業の酒造業を原田家へ嫁いだ妹美佐夫婦へ継承しています。
それが現在の「山車」の原田酒造。
本籍が高山なので、明治43年富山連隊入営時などに高山へ寄り絵を描いています。
今わかっている原画は、はじめに掲載した風景画「飛騨の春」と、原田家美佐夫妻の肖像画のみ。
「飛騨の春」は、江名子町からの乗鞍だと思われます。
そして有名な地誌『飛騨山川』(明治44年11月・岡本利平編纂、住伊書店発刊)の口絵、挿画も同画伯のものであることが近年わかったそうです。
以前から気になっていたこの中橋からのすばらしい絵が、蒲生画伯のものだとは知りませんでした。(原画は不明)
この掲載は、画伯が編者の住廣造か序文を載せている登山家小島烏水と親交があったからだと思われます。
隠居の友人のY画伯はこの絵を、「品があり、とても個性的な表現で才能を感じさせる」と評しています。
蒲生画伯は、『少年世界』(博文館)に連載された「日本アルプス探検記」=飛騨山脈横断登山(大町〜針ノ木雪渓〜黒部川〜立山〜富山)の登山メンバーとして、登山中描いたスケッチ画を同誌にたくさん載せています。
このように山岳画も描いているので、飛騨の山に少々詳しい隠居のところへ、東京在住の子孫の方から問い合わせがあったものです。
以下は現在残っている絵。
なにか黒田清輝の絵と似ています
明治末期、富山連隊の往復途上かアルプス山行の帰りに、飛騨で描いた画がまだ残っている可能性があります。
このサインのものがありましたら、ぜひ隠居の方へご連絡ください。
090 4863 5158
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春の足音がすぐそばに聞こえているというのに、この年寄りはまだ「長い物」を持ってうろついていて、家人から笑われている。
3月9日(土)、乗鞍高原でアルパインスキークラブ(日本山岳会の山スキー同好会)の集会があり、参加してきた。
北は青森から南は関西までの34名が参加。
うち29名が3班に別れて山へ向かった。
年齢構成は50歳代から80歳代と幅広い。
この会は隠居より年上の方が何名かおられるので、励みにさせてもらっている。
当日はあいにく冬型の天候となり、いちばん上のリフトは始発時間になっても強風で動かず、三本滝のヒユッテでしばらく待機。
ようやく行動を開始したが、吹雪の状態。
前日からの新雪が30〜40センチあり、これを楽しみにいつものコースをたどる。
班は同い年くらいのメンバーなので、短足、鈍足の隠居にちょうどの登高ペースで、ありがたかった。
エコーライン道路下の急斜面が雪崩の危険個所なので、左寄りに登らねばならない。
雪が止まず視界が悪いので、われわれロートル(老頭児)班はリーダーの指示で途中から引き返すことに。
上部の斜面の様子がまったく確認できないので、賢明な判断だと思った。
こんな日に、徒歩の若いグループがテント泊の装備で上へ向かった
思わぬ準パウダーを楽しんで下り、冷えた体を宿の温泉で温めた。
その数日後にまた降雪があったが、靴のカント調整パーツが欠落しているのがわかり、修理に出したので山スキーはしばらくお預け。
あと、恒例にしている乗鞍剣ヶ峰と立山雄山からの滑降だけは今年もなんとかと思っているが、はたして・・・・。
以下3月11日の飛騨山脈をご覧下さい。
乗鞍岳
乗鞍岳
笠ヶ岳 槍ヶ岳 穂高岳
笠ヶ岳 槍ヶ岳
穂高連峰
黒部五郎岳
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Fさんのお誘いで、旧チャオスキー場から御嶽継子岳の北西尾根を途中まで登り、往路を滑ってきた。
この日は寒気が南下してかなり冷え、朝日町でマイナス10度の表示が出ていたので、旧スキー場はマイナス15度以下になっていたと思われる。
出発時には風もあって、若い人の言葉で言えば「*アルピニズムっぽい」極寒の世界。
変わり者の隠居はこういう環境を好むのだから、常人には理解できないだろう。
歩き出したものの昔凍傷になった指が痛み出し、何回か止まってマッサージをした。
Fさんが、短足、鈍足、足弱の隠居にペースをあわせてくれ、広いゲレンデを歩く。
ラッセルは堅雪の上に新雪が少しあるだけなので、隠居も途中少し交代する。
途中から日和田富士と呼ばれる秀麗な継子岳が姿を現す。
ゲレンデ末端から凍った森林帯に入る。
ウサギ こんな厳寒になにを食べて生きているのか
途中で継子岳から落ちる北西沢をのぞいたが、雪が少なく、岩とブッシュが出ていたので滑降をあきらめた。
北西沢
それに、谷には雪崩が通過した跡があり、第2弾が心配だった。
前々日降った低気圧の湿雪が凍り、その上に前夜乾雪が積もって表層雪崩が起きたようで、この日鳥取大山や後立山の風吹山でも発生している。
隠居の鈍足では徒歩での頂上往復は時間的に無理なので、森林限界下標高約2500mから往路を下ることにする。
帰路昨夜からの新雪があって楽しめると思っていたが、その下の層がモナカ状になっていてひっかかり危なかった。
このため安全第一と、ほとんど斜滑降の繰り返しで下らざるを得なかった。
森林の中は湿雪の凍結が十分でなくモナカ状になっていたわけだが、ゲレンデに降りると前面凍った雪に新雪があり、快適な滑降を楽しめた。
まっさらの雪面にシュプールをつけるつもりだったが、なんとスノーモービルの往復した跡があり、残念ながら叶わなかった。
高山市もかんでいる旧チャオスキー場は、一時期引き受けていた大手の会社も撤退し、この先再開の見通しはないようだ。
国有林なので原状に復して返還せねばならず、莫大な費用がかかるとのこと。
*アルピニズム
この言葉は2019年ユネスコの無形文化遺産に登録されており、定義は「高山を対象に岩と氷雪のピークや壁を登る技術。それは身体的、技術的、かつ知的な能力の活動を伴い、適切な装備、道具、そして技術が要求される」と書いてある。
困難な山に敢えて登るため、危険を回避するリスクマネジメントが基本。「スキーアルピニズム」なんという言葉もある。
帰ってから記録を見ると、このコースはちょうど10年前の2014年2月11日に、Fさん、Nさんと北西沢を最上部までつめ、継子岳に登り、北西沢を滑降していた。
この時はまだスキー場が営業していた。
隠居に人並みの体力がまだほんの少しあった頃(10年前)を勝手に懐かしんで掲載しましたので、ご覧いただければ幸いです。
背後は乗鞍岳
継子岳頂上
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飛騨は相変わらず雪が降らない。
豪雪地帯にある神岡の流葉スキー場などは、ゲレンデに土が現れ、22日に早々と営業を終えた。
こんななか、2月中旬に若い人が信州行きを計画してくれ、連れていってもらった。総勢7名。
いつもは栂池から白馬乗鞍までの往復だが、今回は船越の頭を往復するとのこと。
連休とあって栂池高原スキー場のゴンドラ周辺の駐車場はすでに満杯で、少し離れたところに停める。
標高1,500mまでゴンドラで運んでもらい、栂の森駅からすぐに谷へ入り登高を開始。
この時期栂池ロープウエイはまだ運休中。
結構なラッセルは若い人にお願いする。
成城大小屋の手前で道路に出る。
上部は濃いガスで、雪も少ないので、目的地を慣れたコースの天狗原に変更する。
小屋前から尾根に取りつく。
相変わらず視界が悪く、まわりの景色は見えない。
老人性鈍足症侯群の隠居はマイペースで登る。
近年若い人から遅れるようになったのは、短足を今までどおりのペースで動かしているつもりなのだが、その動きが鈍ってきているからだ。
原因は言うまでもなく経年劣化だが、持続力はまだあるので歯がゆい。
一瞬の晴れ間
ガスは晴れず、風も出てきたので3名が天狗原の手前で下る準備をしていた。
3名は上へ向かったとのこと。
ここから3名と一緒に下ることにする。
ところが気温が高いので前日に降った雪が重く、スキーがもぐって停まってしまうので、滑降に一苦労。
不思議なことにゲレンデ近くになると雪が軽くなり、ゲレンデを快走。
八方にある温泉「倉下の湯」に浸かってから帰った。
情報では、毎年行く蓮華温泉行が今年は寡雪のため春営業をやめるとのこと。
標高2,000m以下の積雪がないらしい。
今年の山スキーはこれで閉幕かもしれない。
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今年は相変わらず雪が降らず、山スキー渡世の稼ぎは例年の半分以下だ。
このところ毎年パウダーを求めて通っているのが奥美濃の大日ヶ岳(1,709m)。
ゴンドラ1本で一気に標高1,550mまで運んでもらえるので、年寄りにはありがたい山だ。
この山も雪の量が心配だったが、2月のはじめにSさんのお誘いで出かけてみた。
予報は快晴だったが、あいにく当日は曇りから雪になった。
フロントへ登山届を出してゴンドラに乗る。
平日なので登山者は少ない。
稜線へ出たら雪がちらつき、風も出てきたが、悪天の時もそれなりに楽しい。
いったん下る箇所はシールをつけたまま
やはり頂上には雪が少なく、方位盤と大日如来石像が露出していた。
去年=2023年2月3日 より少し多い
いつものように大日如来の真言「オンアビラウンケンバザラダトバン」を唱える。
宇宙そのものを神格化したものが大日如来で、山であう雨や風、森林や谷、滝などはすべて大日如来の語られる真理と言われる。
次に見えないが霊峰白山の方向を遥拝。
シールをはずして、頂上から真北に落ちている大日谷のブナ林へ滑り込む。
雪質はよかったが、パウダーは足首あたりまで。
頂上から叺谷へ下るボーダー
いつもは何回か登り返すが、天気が悪いので荷を持って頂上から叺谷へ入る。
この斜面は部分的に表面が凍っていて滑るのに少々苦労した。
風がない谷の下部で昼食をとり、ブナ林のなかを登る。
ブナ林はガスがまいて幻想的であった。
あとはスキー場の滑降を楽しんで終了。
今年はというより、残り少なくなった人生であと何回滑れるだろうか?
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いつも書くが、隠居は自然崇拝が本質の古神道に関心があり、飛騨一の宮「水無神社」のご神体である位山を一人信者として崇めている。
ご存じのとおりこの山は不思議なエネルギーに満ちていて、崇教〇光はじめいろんな宗教の崇拝の対象になっている。
1月末の良く晴れた日、Fさんと恒例の初詣に行ってきた。
今年は雪が少なく、モンデウススキー場はまだ一部しか滑れないが、登山コースはなんとかスキーで歩けた。
静寂に包まれた森を黙々と歩くのは、瞑想だといつも思う。
1時間半ほどでこの山のヘソで磐座がある神聖な「天の岩戸」に到着。
ここで午後用事があり早く下らなければならないFさんと別れ、隠居だけでいつも儀式を行う。
Fさんは頂上を往復して早々に下山。
酒、塩、米などを捧げて、世界平和などを祈願した。
このあと頂上手前の広場へ行くと白山がよく見え、遥拝。
晴天なのに人1人おらず、静寂のなかで景色を独り占め。
次はパワーをもらうべく頂上の三角点へ行き、そばのピラミッド岩を掘り出す。
このピラミッド状の岩は、40年ほど前に来た時、若い女性が抱き着いていて理由を尋ねると、不思議なパワーが出ていて時々東京からもらいにくるとの話だった。
それ以来ここへくると老体を預け、パワーをもらっている。
このあと別の場所にある岩へ行って掘り出す。
2つ目の岩には、写真に不思議な光が写っていた
ここは、30年ほど前に頂上で会った不思議な老人から教わった場所で、三角点そばのものよりパワーが強いとのこと。
ここでも老体にパワーを注入。
あと「ご神水」まで滑降し、水を汲む。
ほとんどの年厳冬でも出ているが、一昨年だけはめずらしく凍結していて出なかった。
トラバースルートから御嶽山と乗鞍岳を遥拝。
御嶽山
乗鞍岳
天の岩に戻って捧げものを下げ、少し瞑想をしてから滑降に移る。
雪質はまあまあだったが、雪が少ないので滑降に苦労した。
こういう時は笹ワナに注意が必要だが、一度引っかかって転倒した。
笹ワナ スピードが出ていて引っかかると、ふくらはぎを痛める
スキー場へ出ると、剣岳から乗鞍岳までの飛騨山脈と御嶽が一望でき、眺めていると飽きない。
こんなぜいたくな眺望が得られるところはめったにないだろう。
今年も岩戸に参拝し、老体に2回もエネルギーを注入し、ご神水も飲めたのでなんとかがんばれそうだ。
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掲載が遅れたが、今年も岐阜県山岳連盟がカレンダーを作った。
毎年加盟の各山岳団体会員から写真を募り、山岳写真家を交えた選考会で選んでいる。
撮影場所は原則として岐阜県と隣県の山に限定したもので、今回も応募した。
今年は涸沢の紅葉(10月)が選ばれ、表紙上には秩父岩も。
おかげさまで毎年選んでいただいており、山仕舞い間近の隠居としてはお情けだろうが光栄なことである。
一般的な山岳写真は、あまり人物を入れず光と影の絶妙なバランスを重要視しているが、山岳連盟のものは少し違い、風景に登山者がいて、自分がそこにいるような、そこへ行きたくなるようなものも選考の基準に加えているような気がする。
いつも書くが、山岳写真は「1粒で2度おいしい」グ〇コのキャラメルみたいなもので、見ているとその時の山の記憶がよみがえり、風までも吹いてくるようだ。
表紙の写真もいいものが多いので載せた。
隠居のものを除いて傑作ばかりなのでご高覧を。
1月 猪臥山
2月 大日ヶ岳
3月 白山・別山東尾根
4月 西穂高岳
5月 別山 白山(大日ヶ岳)
6月 御在所岳前尾根
7月 白山室堂
8月 朝焼けのチングルマ 水晶岳と赤牛岳の間
9月 焼岳小屋から旧中尾峠の間(硫黄岳)
10月 涸沢と穂高の紅葉(屏風のコルから)
11月 明日のトップクライマーたち
山岳写真でないが、山岳連盟がスポーツクライミングも管掌しているため毎年1点掲載
12月 御嶽山
以下表紙の写真(山名などの記載はない)
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今年の飛騨は今のところ少雪だった去年よりまだ少なく、里の人は喜んでいるが、山スキー渡世にとっては難儀の年になりそうだ。
昨日などは寒だというのに終日雨が降っていた。
毎年年初めに行く乗鞍高原からの乗鞍だが、今年も雪が少なくダメだろうと思っていた。
ところが3日前に行ってきたFさんの情報で大丈夫だということがわかり、平日も休みのSさんと、よく晴れた17日に行ってきた。
毎年掲載していて代り映えがしないコースながら、厳寒の(当日スキー場下でマイナス12度)清澄な山の空気をお感じ下されば幸いです。
いつも書くように、乗鞍岳は剣ヶ峰から飛騨側に派生している千町尾根がいちばんすばらしい山スキーフィールドだと思うが、なにせアプローチが長いのでなかなか入りにくい。
このため年に2〜3度は、スキー場のリフトで標高2000mまで運んでもらえる信州の乗鞍高原から登ることにしている。
やはりスキー場は雪が少なく、リフト係りのおじさんの話では、例年の3分の1とか。客も少なかった。
リフト2基を乗り継いで上部へ。
平日ということもあり、登る人は10人程度。
昨日10センチほどの降雪があり、若い一団が先に出発してトレースをつけてくれた。
体力があるSさんは彼等の後に離れずついて行ったが、老人性鈍足症侯群の隠居だけはマイペースで独り遅れて進む。
時々雪崩が出る地点に着きよく観察したが、今回は大丈夫だった。
上部の急斜面を登り森林限界に出ると、大きいダケカンバの下でSさんが待っていてくれた。
ここまでくると風が強くなり気温もかなり低いので、ウインドブレーカーと目出帽を着け、スキーアイゼンを装着。
上部の雪面はハイマツやブッシュが露出し、いつも滑る頂上からの蚕沢も岩が出ていた。
穂高が見えて満悦
このため肩ノ小屋までもあきらめ、しばらく登ってから昔蚕玉沢で亡くなったSさんに黙祷をし、滑降に移る。
先行の若い人たちは、雪が少ないためトイレ小屋の手前で右に折れ、富士見岳の方へ登っていた。
去年の今頃、ダケカンバ帯の下のブッシュにスキーをひっかけて転倒してふくらはぎを少し痛めたので、今回は慎重に下ることにする。
堅雪の上にほどよく新雪が積もり、下手ながら快適な滑降を楽しむことができた
先に下った者の特権
最後の急斜面
スキー場へもどる
山スキー礼賛
この年になって遅まきながらパウダースノーを滑る何とも言えない浮揚感の虜になり、楽しくてたまらない山スキーですが、その寿命もあとわずかになってきました。
以下少々難解ながら、以前山スキークラブの会報にも載せた、敬愛する明治の登山家田部重治の山スキー礼賛の文を。
「スキーによる冬山の登攀の実現性は、絶えず、それからそれへと希望によってつながれる現実性である。つまりそれは幻滅を感ずることのない理想の具現である。幻滅的な人生におけるもっとも理想的な刹那である。・・・私たちはそれにおいて凡てをただ現実の刹那に集中せしめて何等の後悔を感じない」(「冬山」・昭和7年)
田部はこの「刹那」対し、ファウストの名せりふのように「止まれ・・・」と言いたかったようです。
そして山と全人的に同化し、無念無想の境地に没入することができたのは、スキーを使った冬山のみだと書いています。
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掲載が遅れましたが、昨年末30日の山行報告を。
毎年同じことを書くが、普段書斎の片隅でおとなしくしている愛用のピッケルとアイゼンが、冬になると「吹雪の稜線が恋しいので連れて行ってくれ」とせがんでくる。
今はもう昔のように重荷を背負って深雪をラッセルし、テントで越年をすることがなくなったので、軟弱ながら、毎年ロープウェイを使って西穂高の稜線を歩いてくることにしている。
以前は西穂高岳頂上往復ができたが、近年ロープウェイの始発時間が遅くなって駅出発が10時近くになってしまい、老人の足ではせいぜい独標までになっている。
今年も正月にと思ったが、予報では年末の30日がよさそうだったので、老体に鞭を打って1人で歩いてきた。
飛騨は年末になってもほとんど雪が降らず、西穂山荘までも少なかった去年よりもまだ少なかった。
昨年も書いたが、ロープウェイ駅から山荘までの間のアイゼン着用の話。
近年ほとんどの登山者が駅で出発時に着用している。
「アイゼンは森林限界から上のクラストしたところではじめて着用するもの」を金科玉条にしていた古い登山者の隠居は、一昨年まで履いたことはなかった。
しかし昨年の正月にはじめて着用してみたら、後半の急斜面でのキックステップの労力がいらないので体力の消耗が少ないことがわかった。
これは山荘までの間が多くの登山者で踏み固められ、かなり固くなっているからだ。
近年登山者が多いコースはどこでもそうだと思われる。
霊峰白山を遥拝
昨年の正月は、冬型の気圧配置で稜線に出ると風雪が強く視界も悪く、独標まで行く人はほとんどいなかったが、今回は強風ながら快晴で、景色を楽しみながら登高することができた。
独標には、ガイド登山など結構登頂者がいた。
西穂への稜線も雪が少ない
富士山の望めた
エビのしっぽも未発達
短足を精一杯動かして、なんとか14時45分発に間に合ったが、老人性鈍足症侯群のため往復約5時間を要している。
これも年寄りの繰り言でいつも書くが、この時期ロープウェイから眼下を見ていて思い出すのは、まだロープウェイのないころ新穂高からの深雪ラッセルにあえいでいた若き日の自分だ。
新穂高から鍋平へはいきなりの急登でたいへんだったし、このあと西穂山荘前のテント場まで途中で一泊が必要だった。
当時(約半世紀前)は、今よりずいぶん雪が多かった。
この冬の稜線歩き、いつまでできるだろうかと思いつつ下ったが、山スキー同様そろそろ年貢の納め時には違いない。
元旦の夕方能登で大地震があり、飛騨も震度5でかなり揺れた。
飛騨山脈では落石が登山道をふさぎ、稜線では浮石が多くなったのではなかろうか。
それより、今も大変な目にあっておられる被災地の方にお見舞い申し上げたい。
]]>龍ヶ峰峠の竜馬石
新年明けましておめでとうございます。
旧年中は下手なブログをのぞいていただき、感謝申し上げます。
寄る年波で山行回数も減ってきましたので、このブログもそろそろ店仕舞いが近づきましたが、それまでよろしくお願い申しあげます。
今年は辰年なので龍の名がつく峠、そのそばにあるこれまた竜の名がつく不思議な大石を紹介したいと思います。(以前掲載したものを改稿)
龍ヶ峰(りゅうがみね)峠(標高1120?)―戦国時代三木と金森軍の攻防戦があり、竜馬石がある古峠
明治初期の郡上街道には、二俣集落から麦島集落へ越す西ウレ峠があったが、それ以前は二俣で左折して中野川沿いの道に入り、中野集落を通って東の龍ヶ峰峠を越えなければならなかった。
この峠道は険しく、特に積雪期に遭難が多かった。
江戸中期に書かれた『飛騨國中案内』には「中野より楢谷村迄の間【龍ヶ峯】といひて難所の大峠あり、殊に毎年十月末方より翌年二月中迄は大雪が降り積り、此内には往来通路難儀成候」とあり、別の項には、飛騨では野麦峠とならぶ難所で、吹雪に遭って遭難する人が多いと書いてある。
『飛州志』に「龍ヶ峰峠楢谷村ニアリ」、『斐太後風土記』には「龍馬嶺中野村と楢谷村の堺の大山也 山嶺に龍馬石あり」とある。
古くは、寛治8(1094)年の郡上白鳥長滝寺文書に、大野郡河上荘の寺領の南限として「龍峯」の地名が出ているそうだ。
江戸期には文人などにこの峠の名が好まれたようで、田中大秀、津野滄洲らが詩歌に詠い込んでいる。
以前から地図を眺めては想像をめぐらし、いちど歩きたいと思っていたところ、この峠に関心を持っておられた清見町在住の高校教諭Sさんのお誘いで実現した。Sさんのご友人Hさんも参加。
車でせせらぎ街道を走り、二俣で川上川の支流である中野川沿いの林道に入る。
谷間をしばらく進むと突然地形が開け、中野集落へ出る。
昔ここに数軒の家があったというが、今は上野さんという家が1軒のみ残っており、雪が無い時期だけ高山から畑仕事にきておられる。上野家では昔旅人を泊めたそうだ。
旧道
中野川に沿った林道を30分ほど歩くと、右手の笹原に数本の大きい木があり、その根元になにかあるのをHさんが発見。
近づいてみると、石で積んだ祠のなかに男根の形をした石が祀ってあった。
これは、村の守り神として村境に祀られる道祖神(塞の神)であった。
村人の子孫繁栄や厄災の侵入防止等を祈願する道祖神にはいろんな種類があるが、男根型は珍しい。
縄文時代の生殖器崇拝の名残であり、道祖神としては古い部類であるようだ。
昔インドの街角で見たヒンドゥー教の「リンガ」を思い出した。
そして道祖神の前には、旧街道の形状が一部残っていた。
この龍ヶ峰峠(龍ヶ嶺)は、天正13(1585)年に金森長近、可重父子が飛騨へ侵攻した時、可重勢が三木勢と攻防戦を行った古戦場である。
三木側の楢谷と大原の郷士たちが、急峻な地形を利用して優位に攻めたため、可重は撤退、迂回を余儀なくされた。(『飛騨軍乱治国記』)
金森可重の軍を拒んだのは、楢谷の郷士鷲見彦太郎、大原の郷士小池五郎兵衛、二村次郎左衛門で、それれの家の子郎党を引き連れて戦ったという。(『きよみ風土記』)
その後郡上青山藩の武装兵団が2度も(安永2年大原騒動の農民鎮圧と明治維新時の飛騨統治目的)高山の町へ押し入った時もここを通った。
往時のことをいろいろ想像しながらの街道歩きはまことに楽しい。
このあと谷は2つに分岐し、林道は左へ折れる。
旧街道は右の谷へ入り、すぐ右岸へ渡る。ここからは街道の形状が残っており、まだらに雪を残した古道を味わいながら進む。
途中、崖を切り開いた部分が何カ所か崩落していて、そのたびに谷へ降り、また攀じ登った。
こんな地形のところで三木の伏兵が大石を落としてきたのではなかろうか、などと想像しながら過ぎる。
次第に水流が細くなる。地形図では、街道はそのまま水流に沿って分水嶺へのびているが、ヤブがひどいので、途中左の枝沢を登ると県営牧場へ出た。
小谷から牧場へ上がる
広い牧場を歩き、分水嶺を伝って(と言っても平坦な地形で、片方は笹原)峠と思われる場所まで行ったが、道の形状は残っておらず、地蔵様なども見つからなかった。
牧場を囲む広葉樹林の梢には驚くほどの数のヤドリギが付き、そのむこうにはめいほうスキー場の山並が望めた。
林との境が分水嶺
分水嶺上を探索
分水嶺を越えたところに有名な「竜馬石」がある。
『斐太後風土記』などの文献でも、街道はこの石のそばを通っている。
旧馬瀬村を流れる清流馬瀬川の名は、源流にあるこの「竜馬石」の馬から付けられたという。
竜馬石は、岩肌一面にある亀裂状の模様が馬の轡や連銭葦毛の模様などに見えるので、龍馬伝説(=神様の使いで、川上岳から白山の女神のところへゆく竜馬が、ここで道草を食い石になってしまった)が生まれた。
この竜馬石、近年「ペトログラフ」(古代岩刻文様)の研究家が、「古代人が人面を刻んだ痕跡が見つかった」などと発表し、新聞に出たことがある。
なお近年発行された国土地理院2万5千分の1の地形図には、牧場道路の南側にこの石が記載してあるが、実際は道路の北側にある。
熊の爪痕
地形図によると、旧街道はこの石の横を通って小さい谷を楢谷集落へ下る。
探してみたが、太い笹に埋もれていて道の形状が見つからず、あきらめた。
牧場内の舗装道路を歩き、麦島のせせらぎ街道へ降りる。Sさんの奥さんに車で迎えに来てもらい、西ウレ峠を越え、車を回収してから帰った。
他日楢谷集落へ行きこちら側からの道を探ったが、谷沿いの下部は林道になって消え、その上は濃い笹ヤブに覆われてしまってまったくわからず、あきらめた。
]]>12月26日の乗鞍岳
今年も山スキーシーズンが到来。
年なのでもうやめようと思いつつ、雪を見るとつい「今年だけはなんとかなるのでは」という気になってしまうので、困った年寄りだ。
先日奥美濃の白鳥、白川村のほうはかなりの積雪があったが、高山市街地にはほとんど降っていない。
朴ノ木スキー場に30?の積雪があってオープンしたという情報があり、若い人2人に誘われて乗鞍スカイラインを歩き滑ってきた。
目的は、毎年恒例になっているシーズンはじめの装備、服装点検。
昨日は日曜日だったので、道路にはトレースが残っていた。
近年老人性鈍足症侯群?に罹っている隠居は、途中から若いふたりに離され、静寂のなか独り歩きを楽しみながら登った。
自分のペースで歩くと息があがらず、まだ休まずに2〜3時間は大丈夫のようだ。
平湯峠は雪が少なく、50?くらい。
峠には酒と放浪の歌人若山牧水の歌碑がポツンと建っている。
牧水が大正10年の秋にこの峠を越えた時に読んだもの。
のぼり来て平湯峠ゆ見はるかす ひだの平に雲こごりたり
牧水はこのあと高山の町に滞在し、早稲田で文学仲間だった飛騨山岳会員の福田夕咲と旧交を温める。
酒豪のふたりは数日間大いに飲み、多くの歌を詠んだ。
なおこの歌碑は道路拡張工事で平湯温泉に下ろされたままになっていたが、その後再び峠へ戻された。
別の場所の道路際の笹原には祠があり、かつて峠を往来する旅人が手を合わせた何体かの石仏がさみしそうにしておられた。
シーズンはじめにはいつも靴づれができ、靴を脱いでテープを張る。
ここで時間を要したので、先行の若い人にさらに離された。
数年前に大きく崩壊した個所は、仮設の道が造られていた。
ここからだいぶ登ったあたりから少し雪が舞い出し、かなり冷えてきた。
Fさんから電話が入り、夫婦松に着いたが寒いので待たずに下降するとのこと。
間もなく2人が滑ってきた。
隠居は時間的に夫婦松をあきらめ、もう少し登ってから滑降に移る旨を告げて彼らと別れる。
天候がますます悪くなってきたので、適当なところで滑降とする。
第3尾根はまだ少なくて滑れない
非常に雪質がよく、結構なスピードであっという間に彼らが待っている駐車場所へ戻った。
3時間近くかけて登り、30分もかからずに下ってしまった。
満足顔の隠居の幽姿
年を取るにしたがって無雪期の登山は登り下りとも苦行になるが、山スキーは技術さえあればこうして下りを楽しめるので、なかなかやめられないわけだ。
しかしこういう安全なルートはめったになく、やはり迷惑をかけないうちに店仕舞いをしなければと考えながら帰途についた。
]]>12月13日の乗鞍 このところの暖かさで雪が消えている
今までヤブを漕ぎ、苦労して越える峠ばかりだったが、たまにはすっきりした峠歩きがしたいと思い、行政などの手で保存されている峠を歩いてきた。
この峠は、昔富山へ行く主要街道=「越中東街道」最初の峠で、国府町上広瀬集落と国府町今集落を結ぶ今村峠(標高750?)。
江戸中期以降の越中への街道は、この越中東街道(高原川右岸・現在の国道41号)のほか、越中中街道(同左岸・途中に凡兆の句碑がある)、越中西街道(宮川沿い)、そして旧河合村二ツ屋集落から楢峠を越える二ツ屋街道であった。
東大路ともいわれた越中東街道は、この今村峠を通って、大阪峠(十三墓峠)、巣山峠、巣山集落、山田集落へとほぼ真っすぐに北上し、船津を経て高原川右岸を下り、加賀領東猪谷関所へ入った。
『飛州志』に「今洞峠上廣瀬村ニアリ」、『飛騨國中案内』には「上広瀬より今村へ一里ほど此間峠あり、字今洞峠と云ひ近な峠なり」とあり、『斐太後風土記』には「今洞嶺上廣瀬より今村へ越」とある。
地元では「荒城峠」、「今洞峠」とも呼んでいた。
〈紀行〉2023年12月13日
1人での峠越えは車の関係でまた往路を戻らねばならないので、降りたところに自転車を置いておいて駐車場所まで戻る計画をたてた。
そのあとよく考えたら、この峠道は昔の幹線街道で荷車も通った道、しかも峠の北側は広いなだらなか地形であることを思い出し、全行程愛用のマウンテンバイクと行動を共にすることにした。
高山から旧国道41号線(現在は県道)を北上し、国府町上広瀬のJR高山線鉄橋を通過したすぐの3差路を右へ入る。
ここで古川経由宮川沿いの越中西街道と別れるので、追分という地名になっている。
追分というのは道が左右に分かれる所で、全国各地にある。
この追分バス停そばの分岐には、地蔵様とともに「右ふなつ道 左古川道」と刻んだ石の道標がある
が、これは国道工事で移転されたもので、昔はもう少し東にあったという。
踏切を渡った所に駐車し、車に積んできた自転車に乗る。
集落内を北へ300?ほど進み、山の方へ右折する。
山に突き当たって左折し、山裾を少し進むと、途中に「從高山二り」と書いた小さい石柱がある。
これは旅人に里数を知らせる「里杭」だ。
桃畑が広がる上広瀬の集落
山裾の舗装道路はやがて谷沿いに北上し、途中で分岐する。
右の真北へ真っすぐ延びている未舗装の林道が峠道。
イノシシに豚コレラが見つかったようで、登山道入口に石灰がまいてある
ここには昔茶店が2軒あったという。
林道はすぐ終り、杉、桧の植林帯の中の道となるが、ここからは傾斜が急になるので自転車は使えず、引いて登る。
つづら折れの広い道で、一面に敷き詰められた朴の葉や落葉を踏み、交通量が多かった往時をしのびながら登る。
やがて尾根が掘り割りになった峠に出る。
すぐ向こう側にお堂があって大きい地蔵様がおられ、花瓶に青木を活けてから真言を唱える。
ここからは先は、広葉樹に松が混じる中のなだらかな広い道が続く。
地蔵堂の前で自転車にまたがり、落葉に埋り木漏れ日が光る広いなだらかな道を、結構なスピードでどんどん下る。
木の間越しの遠くに、少し冠雪した飛越国境の山々が望めた。
曲がり角から、今にも牛をひいた度仕参(どしま)のおやじや、うずたかい荷を背負った歩荷(ぼっか)が現れそうだった。
暮れには彼らによって越中から鰤(ぶり)が運ばれたので、「鰤街道」とも呼ばれた。
昔は今より雪が多かったはずだから、荷の運搬はたいへんであったろう。
富山湾でとれた鰤は高山二之町の川上魚問屋へ集められ、そこから「飛騨鰤」「三右衛門鰤」と呼ばれて野麦峠を越え信州へ運ばれたことは周知のとおりである。
高山の肴萬(さかなよろず)問屋に入るまでは、「かね松鰤」「佐平鰤」など富山の網元の名で呼ばれていたという。
墓でなく、四国八十八カ所など方々を巡礼した記念碑
やがて集落が見え出し、国宝の経堂がある名刹安国寺も眼下に。
崩壊箇所があって迂回の階段がつけられている
集落のすぐ上にも地蔵堂があった。
この先は少し急な尾根のつづらおり道になっているためスピードが出て、年甲斐もなくスリルに満悦。
右に谷が現れるが、20年以上前の豪雨で上部が崩壊し、土石流が今集落を襲って大きい被害があった。
このため集落のすぐ上に砂防堰堤ができ、街道は集落へ下りる部分のルートが少し変わっているが、稲荷神社の前で合流。
ここにも昔茶店があったそうで、なにかそんな雰囲気が残っていた。
街道は対岸の東門前集落へ移り、その背後に見える大阪峠(十三墓)をまっすぐ登る。
越中への行程はまだはじまったばかりだ。
正面奥の山が大阪峠(十三墓峠)
マウンテンバイクではじめて通る山裾の細い道をどんどん西へ進むが、車で通るときとは気が付かなかった農村の景色が見え、なかなか楽しいものだった。
荒城川沿いに平地が広がっているこの地は、古代飛騨随一の穀倉地帯で、そのため古墳がいくつもある。
途中三日町地区にあるこの未発掘の古墳も、近年前方後円墳であることがわかったそうだ。
JR国府駅の裏の山裾をこんどは宮川沿いにペダルを漕いで駐車場所へ戻った。
今も有名低山はけっこうにぎわっているようだが、こんな峠に来る人はないので、静かな山歩きを好む人におすすめだ。
]]>乗鞍岳(12月4日)
穂高岳(12月4日)
笠ヶ岳 槍ヶ岳 大喰岳 中岳(12月4日)
笠ヶ岳と槍穂高連峰(12月4日・市街地西部の川上川から)
高山市街地周辺にも、今では使われない忘れられた峠がまだある。
国土地理院の地形図に、高山市滝町と塩屋町を結ぶ点線があるのが以前から気になっていた。
調べると、昔岩滝地区の人が、滝川(大八賀川に合流)沿いに道ができるまで高山への往復に越えた峠であることがわかった。
〈探索記・聞き取り〉
いちど滝町側から入ってみたが、砕石場跡で道がわからなくなり、あきらめて他日塩屋側から登った。
地形図には「栗の木」という喫茶店の横から道が入っている。
すぐに動物除けの柵があり、開けて入らせてもらうと左側に石の馬頭観音の石仏がおられ、拝礼。
道は谷の右岸に真っすぐ東へ延びている。谷側には水田の跡が段になっており、その最上部にはほとんど埋まったため池があった。
約1?で地形が平らな杉桧林になり、峠と思われる場所に出た。
GPSで標高740?の峠であることを確認。
滝町側にもしっかりした道があったので下ってみた。
途中砕石場の断崖上部に出た。
採石場上部から見た廃事務所と県道
旧道は掘削のため分断されていてわからなくなっており、断崖の縁のかすかな道を下って、閉鎖された事務所に降り立つ。
このそばには、祠の中に不動様がおられた。
県道から見た採石場 右の稜線を下った
ここからは車道を歩いて塩屋の駐車場所まで戻る。
喫茶店へ休憩に入り、ご主人(男性・69歳)から話を聞くことができた。
「そういえば峠の名前は聞いたことがないな」
「子供の頃、峠に我が家の桑畑があって、家族皆で桑の葉を背負って下ろしたもんや」
「途中の観音様は、昔荷車が谷に落ちて馬が死んだので、供養のため建てられたと聞いとる」
不動様以東は、別の日に滝町へ行く道路から入ってみたが、倒木とヤブがひどくたいへんだった。
それでも道の形状は残っていて、不動様まで出ることができた。
帰路滝町へ寄って、Oさん(男性・88歳)と話すことができた。
「子供の頃にはもう下道(滝川沿い)ができとったんで、峠道は遠足で通るくらいやったな」
「岩滝の出征兵士の見送りは、下道の今の採石場あたりまで皆で行った」
「祖父が昭和6年に死んだ時は、葬儀の用具が背負われて峠を越えてきたと聞いとる」
「わしも峠の名は聞いたことがないぜ」
この聞き取りから、昭和10年代川沿いにあらたに道(歩道)がつけられ、峠道は廃ったことが分かった。
なお、他地域の峠道の多くは、昭和30年代後半まで使われていた。
昔ながらの飛騨の農村風景が残る岩滝地区
ここにも馬頭観音様が
はやい時期に使われなくなったためであろう、地元で峠の名を知っている人がいなかったので調べて見た。
『飛騨國中案内』には「岩井村え行道あり、此間一里余にて峠道なり、【あわはたとうげ】と云ふ」、『飛州志』には「粟畠峠鹽屋村ニアリ」とあった。
また『斐太後風土記』には「阿邦畑(アハノハタ)嶺鹽屋村より滝村へ越」とあり、粟畠(あわはた)という小さい峠であることがわかった。
頂上の広い地形のところが粟の畑になっていたのだろうか。
岩滝地区にはこの峠について、次のような不思議な話が伝えられている。
岩滝の人が高山で用事を済ませ、夜遅く塩屋からこの峠にさしかかると、後ろからドスン、ドスンという気味が悪い音が聞こえてきて、それが峠を下るまで続く。
しかし、なにものかに襲われたことが一度もなかったので、人々は「あれは送りオオカミといって、夜遅く峠を越える人を見守ってくれているオオカミや」と言うようになった。
それからは、遅く歩いていてその音が聞こえても逆に安心するようになったという。
(『岩滝の昔話・いろりばた』高山市岩滝小学校発行)
]]>
小屋から下った阿曽原谷の橋
乗鞍山行の報告で中断した黒部峡谷の続編を。
その日のうちに列車を乗り継いで大町へ戻らねばならず、そのためには欅平発トロッコ列車の11時過ぎの時間に間に合わせなければならない。
阿曽原小屋からは標準6時間コースなので朝5時に出れば間に合う計算だが、鈍足、足弱隠居は早めにひとりヘッドランプをつけて出発。
」
オリオ谷には歩行者用の横断トンネルが
奥鐘山の岩壁 ここへは過去に行くチャンスを失っているので、今頃指をくわえて眺めた
中は水浸し
隠居より遅く出発したFさんはすぐ追いついて、切符を買うため途中から先行してくれた。
鈍足足弱隠居もなんとか間に合い、列車を乗り継いで大町へ戻った。
それにしても電源開発のためとはいえ、このような断崖によく道をつけたものだ。
工事中何人か犠牲になられた方もおられたようで、その時の並大抵でない苦労を偲びつつ、歩かせてもらった。
やはり道を説く人より道を作る人の方が数段偉い。
]]>14日の乗鞍岳
このあと掲載予定だった「黒部下ノ廊下続編」に割り込んで、乗鞍岳への山行報告を。
内容は、11月9日、近年閉鎖になっている子の原道から奥千町の避難小屋を往復した話。
乗鞍の奥座敷である千町尾根はアプローチが長いので入る人が少なく、いまだ秘境といってもいいエリアだ。
この千町尾根に県が建てた「奥千町避難小屋」があり、高山市が管理している。
広大なこの山域を長時間歩く登山者にとってはありがたい存在だ。
積雪期に備え、市役所朝日支所が小屋の点検と冬囲い作業をするというので同行した。
職員Tさんと、山スキー仲間のFさんとじいさん。
小屋への経路は、いちばん距離が短い高根町子の原高原から。
このコースは近年地主都合で登山者通行禁止になっており、新しい登山地図にはもう載っていない。
今回はこの周辺の山の地主で、別荘地も管理している「子の原土地管理組合」の許可を取って入山。
子の原からの乗鞍
閉鎖になる前はよく通った道だったが、久しぶりに入った。
この標識は、昭和63年山岳会が創立80周年を迎えた時、記念に乗鞍岳集中登山を行い、今は埋もれた道を含め5本の登山道の随所に建てたもの
手入れがされてないので笹が覆い倒木もあったが、なんとか歩くことができた。
現在使われていない道とはいえ緊急の下山者などがあった場合迷うと困るので、倒木を処理し、随所で古い標識テープを付け替え、また新規に付けて登った。
このおかげで、足弱隠居も小屋まで離れずについてゆけた。
先日の雪が残っていた
御嶽 継子岳
笠ヶ岳
小屋はきれいに使われていて、小屋日記には今年23パーティが記入しており、異口同音に感謝の言葉が綴ってあった。
宿泊者は青屋道、岩滝道から登った人、あるいは頂上からの逆コースといろいろだったが、ここまで来る人はある程度のレベルの人だろう。
掃除の後各窓のシャッターを下ろし、冬期用の出入り口の戸の開閉確認と表示を行った。
トイレは満タンになるとヘリで下ろしているが、まだ少し余裕があった。
このあと時間があったので、この地がはじめてだという市役所のTさんをFさんが案内して、上部へ石仏を見に。
この石仏は、明治期朝日村青屋から頂上への道を拓いた修験者上牧太郎之助が、道中88ヶ所に2体づつ176体安置したもの。
その後道信仰の道が廃れ石仏も埋もれていたのを、旧朝日村の村起こし事業で道の復旧、石仏の発掘を行った。
これを中心になって進めたのが、今回同行している元市職員のFさん。
発掘したものを新しい祠に安置した
2体のうち1体はどこも弘法大師様で、五鈷杵を持って今も修行しておられるが、紛失して1体のところも多い
この不動明王は立派 真言ノウマクサンマンダ・・を唱えた
長年土中に埋もれていて、こんなお姿になったものも
子の原へ下りたら御嶽がよく見えた
乗鞍はこのところの暖かさで頂上付近にあった雪がほとんど融けていたが、この翌日から寒気が入って再び厚く冠雪し、本格的な冬の装いになった。
いい時に小屋仕舞いができた。
9年ほど前の4月、Fさんとこの小屋に泊まって、大日岳から千町尾根を滑ったことがあった。
この時は冬期用の入口から
冥途のへのみやげにもう一度滑りたいコースだが、無理だろう。
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若い岳友Fさんのお誘いで、10月31日、11月1日と久しぶりに紅葉の黒部峡谷水平歩道を歩いてきた。
昔の記憶はまったく消えていて、すべての景色がはじめて歩くがごとく新鮮で、冥途へのいいみやげになった。
ご存じのようにこのコース(旧日電歩道)は冬期間の傷みがひどく、全線歩けるのは年間ほんのわずかの間で、通れない年もある。
大町の駅前に駐車してバスで扇沢へ行き、電気バスで黒四ダムへ。
地下で下車してそのまま登山者専用のトンネルを歩く。
トンネル出口から黒部川へ下るが、この間は結構長い。
谷への降り口
黒部川に架かる橋からはじめてダムを仰ぐことができる。
左岸へ渡ったところから峡谷沿いの水平歩道がはじまる。
内蔵助谷分岐を通過して少し行くと、左に黒部丸山(2048m)が現れる。
内蔵助谷分岐
若き日(登山記録をめくると32歳だったので若くはないが)に年下の岳友Iとここの岩場=中央壁を登ったことがあり、無性に懐かしかった。
その時苦労して越えた大オーバーハングもよく見えた。
その卓越したクライマーだったIは、この山行の数年後残念なことに病死している。
この岩壁を見ていると、登攀の途中でいつも交わした、彼独特の甲高いコールが今にも聞こえてきそうだった。
寄る年波で隠居の鈍足症侯群はますます重くなり、Fさんにそのたび待ってもらうのが申し訳なく、頼んで先行してもらう。
Fさんは年寄り1人を置いてゆくことに当然ためらいがあったようだが、隠居は「昔岩登りを長くやっていたのでこういうコースはなんともない、楽しんで歩ける」などと極めて不遜な訳の分からない説明をし、しぶしぶ承知してもらった。
恥ずかしながら夜間のトイレ回数が多い隠居は、Fさんに先に小屋へ着いて寝室の入口に付近に寝場所を確保してもらうよう依頼もした。
十字峡
この後、体力的にはまったく問題がないので高所の緊張を楽しみながら、また景色を満喫しながら、マイペースで歩を進めた。
と言っても老亀の歩みだったが。
仙人ダム
仙人ダムを渡ったあとしばらく隧道を歩く
幸いゴルジュ帯は明るいうちに通過でき、普通の道を小屋へ下る途中で日が暮れたので、ヘッドランプの灯りで歩く。
この日の小屋は黒四から、欅平から、そして仙人池からの登山客40名くらいで混んでいたが、Fさんのおかげで入口のそばに陣取ることができた。
夕食後露天風呂に入る。
ヘッドランプを点けて谷底までの往復がたいへんだった。
この小屋の営業は11月3まで。
その後は雪崩を避けて小屋ごとすべて分解し、来年まで洞窟へ収納する。
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隠居は寄る年波で思う山へ行けなくなったぶん、稚拙な文を書いては恥をさらしています。
このほど一昨年の『飛騨の乗鞍岳』に引き続き、恥のかきついでに飛騨の峠の本を出版いたしました。
「山の国」飛騨は「峠の国」でもあり、昔から多くの峠があり、今も残っています。
われわれのご先祖が雨の日も雪の日も歩いて越えた峠のうち、飛騨全域71の峠を収録。
その内訳は、とうに役目を終えて草に埋もれ山に還りつつある37の峠と、近代以降自動車道になったものの通る車が少なく、冬は閉鎖になる昔のままのさみしい峠道です。
それぞれの峠が持つ歴史も調べてみました。
このうち消えゆく37の峠については、地図を片手にヤブを漕いで探索をし、麓で歩いたことがあるお年寄りから聞き取りを行っています。
例えば高山市では、大萱峠、三之瀬峠、千光寺峠、三川峠、御坂峠、龍ヶ峰峠、大楢峠、猪之鼻峠、栂峠、粟畑峠、古安房峠など。
これは忘れられ、消えゆく生活文化遺産、歴史遺産の存在を後世に語り継ぐためです。
貧しいながらも自然を敬い、自然と調和してゆったりと暮らしていた我々のご先祖の足跡を書き残した、民俗学的にも貴重なものだと勝手に自負しています。
あなたのご先祖が越えた峠があるかもしれません。ぜひご一読ください。
併せて若き日に隠居が越えた(立った)ヒマラヤの2つの峠も掲載しました。
なお本書は、一部飛騨学の会紀要『斐太紀』に連載したもの、およびこのブログに掲載したものを改稿しています。
各書店で扱っていますし、高山ではブックス・アイオー(岡本2)、田近書店(本町2)においてあります。 アマゾンでは今週から扱う予定です。A5版 320頁。
諸兄に差し上げるといいのですが、今回は手元に少ししかないのでご容赦ください。
]]>冠雪の乗鞍岳(10月25日)
今頃の時期は、冠雪した飛騨山脈を望みながら落葉を踏み分けての峠歩きが楽しい。
といっても隠居の場合ヤブを漕いでの探索行がほとんどで、なかなかのんびりと逍遥ができない。
この探索、北飛騨はほとんど終えたと思っていたが、昭和初期発行の「大日本帝国陸地測量部作成5万分の1の地形図」で集落間を結ぶ小さな古峠をいくつか発見。
そのうちの一つが、旧清見村三ツ谷集落と旧宮村を隔てる低い山を越す峠(標高895?)だ。
調べると、『飛州志』に「宮峠苅安峠大楢峠久々野郷宮村ニアリ」
『斐太後風土記』には「大楢嶺 一里。宮湯屋より三ツ谷村へ越」とあり、旧宮村では「大楢峠」と呼んでいた。
一方の三ツ谷集落側では「宮峠」と呼んでいたようだ。
大楢峠(旧宮村側)
一之宮町のはずれでスキー場へ行く道と別れ、宮川に沿って西へ進む。
久しぶりに入ったら、別荘らしき建物が立ち並び、すっかり様相が変わっていた。
今は廃業している旅館「やかた文左」から約3?のところに鱒淵橋があり、地形図では橋を渡って50?ほどの右側が峠の取りつきになっている。
道端に駐車して入るとすぐにゲートがあり、山裾から右の方へ倒木などで荒れた林道が延びていた。
左には「原木低コスト供給対策事業」とやらで新しい林道が敷設されていた。
そして山側の林道より少し高い位置に、林道に並行して古い石積があったが、これは後で営林署の森林軌道の跡であることがわかった。
ここから山を仰ぐと、青空の下に峠らしき鞍部が見えた。
これを目がけて入る。急傾斜なので昔の道は流れてしまったようだが、直登のケモノ道らしきものがあったのでどんどん登ると峠に着いた。峠には地蔵様などはなかった。
大楢峠
三ツ谷側は一面の笹ヤブだが、そのなかに道の形状があったので入ってみる。
笹を分けながら左のまき道をどんどん進むと隣の尾根にでてしまい、道もはっきりしなくなったので峠へ戻る。
笹の中をよく見ると、沢の方向にもう一つの道があったので下ってみる。
途中で倒木があり、笹が濃くなって道が判然としなくなったので、また峠へ戻る。
峠を降りて集落へ戻る途中に森林鉄道のトンネルがあった
軌道跡
帰路一之宮町集落のはずれにあった農家へ寄ると、Sさん(男性・78歳)がおられ、話を聞くことができた。
Sさんは猟もしておられるので山に詳しく、峠のあたりはよく歩いており、子供の頃は峠を越えて三ツ谷の大楢谷川へ魚を釣りに行ったそうだ。
そして昔宮村中で行っていた宮榾(=みやほだ・山で大量の薪を作って宮川に流し、山王河原で揚げて高山の町で売っていた)の話をしていただけた。
他日三ツ谷集落側から入ってみる。
集落には奥の方まで大規模な牛舎が立ち並んでいた。
牛舎を過ぎ、大楢谷側沿いに車を走らせる。
別荘が3軒ほどあるところに林道のゲートあったので、ここから歩く。
左に上逆谷が現れる。
ゲートから約1?で対岸に峠からの小谷が現れたので、林道から降りて谷を渡る。
笹の中に道の形状があったので、漕ぎながら進む。
ここでも途中で力尽き、笹原から熊が出てきそうだったので、急いで往路を戻る。
帰路集落の牛舎にいた男性63歳に話しかけところ、小学生の時に遠足で峠を越えて宮村へ行ったことがあると、話してくれた。
また別の場所の畑で大根を引いていたSさん(男性・90歳)は、
「二十歳代のころ峠の下までよく伐採に行ったけど木馬道があったな。こちらでは宮峠と呼んどった。そのころは大楢谷川に橋が架かっとった」
「宮村の衆が三ツ谷側の木を買って薪にし、背負って峠を越え、宮川へ流したという話を親から聞いた」(前述の宮榾のこと)
「この峠は昔宮や久々野の人が、楢谷集落にある楢谷寺(ゆうこくじ)へお参りに行くため越えたということも聞いたことがあるな。三ツ谷から有巣峠、龍ヶ峰峠(明治以降は西ウレ峠)を越えて楢谷へいったそうやけど、遠かったやろな」
なお楢谷集落にある楢谷寺は、蓮如上人の高弟善宗師が開山した由緒ある寺。
旧暦3月15日の開山日には法要があり、大勢のお参りがあったという。
『きよみ風土記』(清見村教育委員会)には、
一之宮水無人神社の祭礼の時には、清見村の人が大勢峠を越えて見物に行った。
また昔大楢谷川の奥に長者が住んでおり、一方峠を隔てた宮村側にも長者が住んでいた。この2軒はたいへん仲がよく、毎年お盆になるとこの2軒と両方の村人が峠へ集まって盆踊りをやったので、この峠を「おどり峠」と呼んでいた。
また別名は「夜〇い峠」などと書いてある。
やはりその昔、この峠は旧清見村と旧宮村を結ぶ太いパイプだったようだ。
近年別ルートで清見町と一之宮町とを結ぶ大規模林道の工事が行われているが、ある障害でいまだ開通に至っていない
<宮榾(みやほだ)とナタメ>
太い薪材を榾(ほた)という。
前述のように、旧宮村では村挙げて山で大量の薪を作って宮川に流し、高山の山王河原で揚げて高山の町で売っていた。
木材が唯一の燃料であった頃は榾の需要が多く、なかでも宮榾は質がいいのいで評判がよかった。
材は楢が多く、あと松や雑木で、径10?から30?のものを約70?の長さに切り、乾燥のため表皮を数条に剥ぐ。
切ったものを棚状に積んで1年くらい山で乾燥させてから宮川べりまで運び出すのだが、この運搬作業はたいへんだった。主に女性の仕事だったという。
あと川の増水をみはからって一気に流し、男女とも水に入って鳶(トビ)で動かす。
これをカワカリといって、洪水では流失してしまうし、旱魃の時は流れないのでこれもたいへんな作業で、カワカリ時は田植えや稲刈り以上に忙しかったという。
これを高山の山王河原(現在の森下町)で揚げて所有者別に積む。
この時所有者が分かるようあらかじめ榾に刻んだのが家ごとのナタメ。
基本は写真のように1サガシ 2ネジイチ 3マメガミ 4ネジ一ソウ 5イチョウバ 6一ソウを元中末の3カ所に刻み、木印(下記表)と組み合わせたという。
『宮村史』から
木印は、もともと清見の有巣村で使われていたものを宮村の人が参考にした。
有巣村の木印 『宮村史』から
ナタメはおよそ200種類あり、家族に徹底していて自分の家のナタメを見つけて手際よく積んだというが、よく判別できたものだと感心する。
村の中では見分けやすいナタメの売買もあったという。
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北ノ俣岳の西面
このところのじいさんは、今までに行くチャンスを逃して気になっていた山、そして過去に登ったがどうしてももう一度別れをしておきたい山を主体に登っている。
それもできるだけ人が少ない山を選んで。
これは登山寿命が残り少なくなった隠居にとって、時間との闘いでもある。
この北ノ俣岳も過去に何回か登っているが、なんといってもスキーで滑った頂上からの大斜面がいまだ忘れられない。
今までに2〜3回滑っただけだが、飛騨では乗鞍の千町尾根と甲乙つけがたい大スロープだ。
猪臥山や位山、近くでは山之村のゼッコあたりからこの優美なスロープを望んで、もう一度滑りたいといつも思うが、この年では無理だ。
位山から見た大斜面 その左は剣岳
ゼッコから
寺地山から
寺地山から
せめて雪が無い時にいちど登っておきたいと、このほど単独で行ってきた。
当初黒部五郎岳を往復する予定だったが、最終日に用事が出来て1泊で北ノ俣岳往復だけになった。
昔なら日帰りができたが、今の足弱老人ではそうもゆかず、草地の避難小屋泊とした。
案の定、往路下山者1人、小屋で同宿者1人、復路で登ってきた男女の2人連れに会っただけで、望んでいた静かな山行が楽しめた。
紅葉前線は標高1600mから2000mあたり、北ノ俣の稜線は雪が残っていて朝の気温はマイナスだった。
今頃の静寂な山をお楽しみください。
山之村には飛騨の原風景が残っている
このていねいな仕事には頭が下がる 道を説く人より、道を造る人直す人の方が偉いといつも思う
左への「神岡新道」はもう廃道に 思い出深い道だ
寺地山(1996m)
この避難小屋は近年傷みがひどくて使用不能になっていたが、昨年あたり市役所の依頼で山岳会の若い方などが修復工事を行ってくれ、現在使用可能になっている。
近年テントを担ぐのがたいへんになってきた老体にとって、たいへんありがたかった。
この日は隠居一人だけと思っていたら、夕方埼玉からの男性(68歳)が登ってこられた。
この小屋2泊で黒部五郎岳往復とのことだった。
お若い時から山をやっておられ、谷川や穂高で岩登りをやり、双六谷などはワラジで遡行されたという。
このため昔の山の話がはずんだ。
翌朝は暗いうちに出発。
明るくなると滑った斜面が一望に
主稜線に出る
北ノ俣岳頂上
薬師岳の雄姿 気温が低くスマホのカメラは動かなかった
久々のブロッケン 江戸期播隆上人と笠ヶ岳へ登った人々が頂上でブロッケン現象にあい、阿弥陀様のご来迎といって皆感涙にむせんだというが、どうやら隠居のお迎えも近いようだ
薬師岳
正面は寺地山 このあたりから飛越トンネルまでまったく人に会わなかった
池塘にも薄い氷が
遠方に笠ヶ岳が
なにやら夏のような雲も
小屋を掃除し、残しておい荷を持って下山にかかる
下りには、登っているとき気が付かなかったものがいろいろ目に入り楽しい。
寺地山
振り返ると大斜面が・・
ここにもていねいな仕事が
泥濘をきらう人が多いが、最近の靴は防水になっているので隠居は深くなければ入って歩く よけて登山道がだんだん広がるのを避けるためだ
「神岡新道」分岐で休んでいたら、かわいいオコジョが遊びにきてくれた
有峰湖
飛騨ではネズミゴケ カブ漬に入れる 正式名はコガネホウキタケ ヨーロッパでは珊瑚茸 スペインではネズミの脚 中国では鶏の足と言うらしい 図鑑には毒?とあり、煮て喰うと下痢をすることがあるらしい だが漬物では塩で毒がなくなるのだろうか?
かくして偏屈老人の気ままな淋しくも楽しい独り山旅は終わった。
この年になると「咳をしても一人(放哉)」の山もいいものだ。
群れて山へ行かなくなってから久しい。
さて次はどこの山へ登ろうか。
]]>秘境千町ヶ原と霊峰白山
乗鞍岳の奥座敷ともいえる千町ヶ原は、訪れる人が稀な寂しいところだ。
ここは昔から「精霊田(しょうれいだ)」と呼ばれ、亡者が集まるところだといわれてきた。
そして入った人は帰ってこられないとも。
人間の知識や技術ではコントロール不能な未知なところ、例えば黄泉の国、冥府などあの世の世界などを異界というが、この千町ヶ原はまさにその異界。
鏡や水鏡の映す世界、像も異界と考えられたので、ここの池がその鏡になっていたのかも知れない。
明治生まれの民俗学者で飛騨山岳会員でもあった故代情(よせ)通蔵は、この千町ヶ原での不思議な話を次のように書いている。
「明治初期に青屋集落から乗鞍の頂上へ道を拓いた修験者上牧太郎之助が、単身で事前の偵察に入った時、途中で日が暮れて千町ヶ原で野宿をしたが、夜半に大勢の人が通る気配を感じた。」
「そして未明に池のそばで水を飲んでいる白衣の人を見たので近づくと霧の中へ消えてしまい、岸辺には亡者が額につける三角の白い布が落ちていた。」
昭和初期この一角に山小屋が建てられたとき、大工手伝いの少年が池塘のほとりで亡母の姿を見たという話も残っている。
なおその山小屋は戦後登山者の失火で焼失してしまい、今はない。
やはりここは尋常なところではない。
実は筆者も40年前にここで不思議な体験をしている。
はじめてスキーで乗鞍岳の南面へ入ったのは昭和52年3月だった。同行は山岳会の仲間2人。
スキーで子の原林道を歩いて子の原尾根に取りき、この日は標高2,000mあたりの雪上で幕営。
翌日は奥千町ヶ原に荷をデポし、空身で千町尾根から頂上へむかう。
途中でスキーをデポし、アイゼンに履き替えて剣ヶ峰に登頂した。
あと広い尾根の滑降を楽しみながら奥千町から千町ヶ原へむかうが、この頃からガスが出はじめ、地図を読みながらの慎重な下降となる。
広大な千町ヶ原へ下りたらホワイトアウト状態になったので行動をやめ、広い雪原で2泊目の幕営となった。
この夜は夕食後皆早々とシュラフにもぐり眠りについたが、夜半テントの周りを何者かがしきりに歩き回る音で目が覚めた。
しばらくその音を聞いていたが、疲れもあってまた眠りに落ちてしまった。
翌朝夢かと思い同行者に聞くと、彼らも確かに足音を聞いたという。
さっそくテントの外に出てみると、降雪がなかったのに雪面にまったく足跡がなく、不思議なできごとであった。
おそらく亡者が歩いていたのだろう。
翌日は快晴。千町ヶ原から南西へ少し下り、1885mのピークから西へ進路を変えて九蔵本谷と小俣谷に挟まれた尾根(青屋道)を滑降する。
途中輪カンジキを履いて登って来る2人の熊猟師に出会う。
冬眠中の熊穴を見つけての猟をしており、木の根元にある穴の周囲の雪が黄色くなっているのでそれとわかるという話を聞いた。
下山してから、広い湿原があるこのあたりは昔から精霊田と呼ばれ、死者の霊が集まる所だということをはじめて知った。
最近不思議なめにあったのは、平成26年(2014)4月にFさんと入った奥千町ヶ原だった。
初日は小屋に荷を置いてから千町ヶ原を往復。
その日は奥千町の避難小屋に窓(冬期用の入口)から入り、酒を飲んで早々に寝た。
奥千町避難小屋
隠居は熟睡していたが、Fさんが夜中にいろんな動物や人の声を聞いたとのこと。
なかには狼に似た鳴き声もあったそうだ。
翌日も快晴。凍った千町尾根を登り、大日岳からの大滑降を楽しんだ。
大日岳頂上
昨今どの山も人が多く入り俗化してしまったが、この山域だけはいまだに神秘的なところだ。
奥千町ヶ原も秘境
]]>9月24日の乗鞍岳
わが母なる乗鞍岳はとても大きい。
そのうち開発されて人が常時入っているのは、スカイラインから畳平剣ヶ峰間、そして信州側の乗鞍高原一帯くらいだが、全体からみればほんの一部分だ。
幸い広大な飛騨側はほとんど開発されることなく残っていて、特に千町尾根とその下部にある千町ヶ原周辺は入る人も少なく、秘境と言っていいエリアだ。
千町ヶ原
千町ヶ原へ至る道は、先に紹介した上牧太郎之助が拓いた「青屋道」と、「岩滝道」。
「岩滝道」は、高山市街地南東部にある農村岩滝地区から、日影平(現在青少年の家がある)、丸黒山、千町ヶ原を経て千町尾根から頂上へ至る古くからの登拝の道だ。
近年この岩滝道の丸黒山と千町ヶ原間の手入れがなされず、笹が覆って通行が困難になっている。
岩滝道の丸黒山(1956m)と千町ヶ原間の丸黒尾根
このため先般山岳団体から管理者である岐阜県へ整備の請願文を提出したところ、来年度実施してもらえることになった。
山岳会のFさんが所属している造園会社へ見積依頼がきたので、このほど現況確認に同行させてもらった。
「青屋道」の笹刈りもやっているFさんが現地へ行くルートは、既存の道からでなく五色ヶ原から岩井谷を遡り、千町ヶ原の東側の急斜面を登るというものであった。
もちろん道はなく、はじめ谷を遡り、途中から急斜面を登って尾根に出、あと笹薮漕ぎをするというルート。
道がない、人がいない山を好む変わり者の隠居にうってつけで、結構楽しむことができた。
これは規模が違うが、ヒマラヤ未踏峰のルートファインディングと似ていて、この年になっても未知なところへ分け入るハラハラドキドキ感がたまらない。
まずは過疎になっている岩井谷集落を通って、Fさんが事前に許可を取ってある五色ヶ原へ入る。
隠居は五色ヶ原へは、平成16年オープンの直前の内覧会に招待されて入った以来だ。
万人のためにある自然の中へ、金を払って入る気がしない。
「多くの税金を使って施設を作っているのだから、せめて高山市民は無料にすべき」という意見は結構多い。
仙人小屋まで車で入る こんなところまで埋設ケーブルで電気を引いてある
最近少なくなったサルオガセ チベットでは婦人病の薬として峠で売っていた
ヤセ尾根に出ると五色ヶ原が一望できた
乗鞍の烏帽子岳も
笠ヶ岳は雲の中
平らな地形の八本原が一望
2時間少々で丸黒尾根の岩滝道に出た。
まずは秘境千町ヶ原へ。
標高2200mの千町ヶ原は、5年前に独りで剣ヶ峰から岩滝道を「乗鞍青少年の家」まで下った時通った以来だったが、もう秋が始まっていた。
青屋道(太郎之助道)と岩滝道分岐
太郎之助の石仏が風化
弘法大師様とお不動様
あと今回の目的である岩滝道の状況を見に丸黒山へ向かってみた。
隠居が歩いた時もだいぶ笹が覆っていたが、さらに深くなっていた。
それでも歴史の道だけあって、笹の下には道の形状がはっきり残っていて、これを見逃さず歩けば大丈夫だったが、倒木箇所をまいて再び道に戻るところで迷う恐れは多分にあった。
岐阜県が森林管理署から借りている
なおここの笹は、青屋道や阿多野道と比べて細く短い。
途中まで歩いて往路を戻った。
<岩滝道にあった山岳スキー場のこと>
戦前この岩滝道が「飛騨乗鞍スキー場」という山岳スキー場であったことを知る人は少ない。
昭和9年にオープンしたこのスキー場は、剣ヶ峰までの間に山小屋と避難小屋が何棟もあり、全国からのスキーヤーでにぎわっていた。
昭和10年の日本山岳会発行の情報誌『山日記』にはこのスキー場のことが載っていて、宿泊施設については次のように紹介してある。
・大尾根ヒユッテ(標高1230m)50人 3階建て 暖房、浴室 乾燥室売店などの設備があり1泊1円 昼食30銭
・日影平ヒユッテ(標高1440m)20人 燃料食料備付豊富 公徳販売(無人販売)実費
・枯松平避難小屋(標高1610m)15人 燃料食料備付豊富
・千町ヶ原ヒユッテ(標高2180m)15人 燃料備付
・頂上室堂(標高3026m)30人
・肩ノ小屋(飛騨山岳会小屋・標高2830m)50人
大尾根ヒユッテ
日影平ヒユッテ
室堂飛騨山岳会小屋
当時の宣伝文書には、「大尾根から日影平(現在乗鞍青少年の家があるところ)までが初心者向き。日影平から丸黒山を越えて千町ヶ原までが中級者。千町ヶ原から頂上までの7?は遮るものがない大スロープで、上級者向き。この間は眺望もよく豪快な滑降が楽しめる。」と書いてある。
千町ヶ原
奥千町ヶ原にて戦前の飛騨山岳会メンバー
千町尾根 近年隠居が大日岳まで登高した時
この山岳スキー場は信州の八方尾根などとともに有名で、特に関西方面の客が多かったが、戦後まもなく鉄道沿線のスキー場にリフトが出現すると急速に廃ってしまった。
上記のうたい文句にあるように、今でも頂上から千町ヶ原の間は全国屈指のすばらしいコースだが、残念ながらアプローチが長いので現在入るがほとんどいない。
別の時には頂上から千町尾根、丸黒尾根を滑り、丸黒山手前コルから五色ヶ原へ滑降
隠居の山スキー寿命はほとんどなくなったが、叶うものならもう一度滑ってみたいルートの筆頭だ。
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木地屋渓谷の滝
今年は9月になっても暑い日が続いているが、それでも朝晩は日に日に秋の気配が濃くなってきた。
こんななか、まだ沢登りの話で恐縮です。
隠居の若い時の笠ヶ岳などでの沢登りは、7、8月は本業?の岩登りが忙しいため、それが済んだ9月中旬の連休と決めていた。(ちょうど今頃がリミットで、これ以降は水が冷たくなり入れない)
アルピニズム全盛のその時代、どちらかというと沢登りは岩登りの亜流、余技と見られていた時代だった。
その後、日本にしかない渓谷美を岩登りの技術を使って楽しむ、日本独特の登山方式=「沢登り」が確立し、そのための装備品もいろいろ作られた。
隠居が地下タビにワラジで登っていた頃とは隔世の感がある。
ついでながら古い登山者の隠居は、本来の「沢登り」はあくまで高山の頂上へ登るための手段で源流まで登らねばならない、区切って、しかも人工物があるところを遡るのは邪道だ、などとほざいていた時期があった。
急峻な笠谷の源流部
しかしこれは若い人から「時代錯誤もはなはだしい、今はなんでもありだ」と笑われ、今ではこうして「沢歩き」「沢遊び」を楽しんでいる。
冒頭から面倒くさい話になってしまったが、8月末に入った「沢納め」の様子をご覧ください。
年寄りと女性むきの優美な谷なので、同行は女性2名(山岳会員ほか1名)。
この木地屋渓谷も1枚岩の美しい「なめ床」が続き、随所に小さい滝があって、けっこう楽しめる。
入渓点
沢上谷にもあるこの1枚岩は火山のマグマが浸食されたもので、学術的には「五味原文象班岩」。
その火山は西にある大雨見山で、現在京大の天文台があるところ。火山活動は約5900万年前のことらしい。
この滝は左を
あたり一面オオシラヒゲソウが咲いていた この穢れのない白さに隠居のきたないヒゲは負けた
今回は上に小屋が見える二俣で終了
帰路は谷を左下に見ながら林道を歩いて戻り、「恵比寿の湯」で冷えた体を温めてから帰った。
今年の沢の話はこれで最終です。ひょっとしたら人生で最後の沢の話になるかもしれません。
<木地屋と木地師について>
今回の沢終了点がかつての木地屋集落。
近年ダム建設で移転され、今は別荘風の小屋が1軒あるだけ。
ダムで水没した五味原集落とこの木地屋集落は、木地師が住んでおられた所だ。
ご存じの通り木地師は、轆轤(ロクロ)で椀や盆などを作って里に売り、木がなくなると各地の山から山へ移動していた職業集団。
明治になって定住したため、木地屋という地名が全国各地にある。
今思いつくのは、いつも山スキーに行く新潟県蓮華温泉入口にある木地屋集落。
新潟県糸魚川市の木地屋集落 ここも過疎になっている
山国飛騨にも昔からたくさんの木地師がきており、彼らの集団墓が高山市の宗猷寺、歓喜寺に残っている。
飛騨へは越前や郡上からきていたという。
彼等が作った製品は、里での物々交換だけでなく、仲買人を通して富山の東岩瀬湊から北前船で関西方面へも運ばれていた。
木地師の本拠地は滋賀県の君ヶ畑、蛭谷集落で、数年前にその里を訪ねてみたことがある。
鈴鹿山脈西側のまったく山深い、秘境とも言える場所にひっそりとその集落があった。
君ヶ畑は30戸くらい、ちがう谷には派閥争いで敗れたという5〜6戸の蛭谷集落があった。
君ヶ畑
蛭谷
文徳天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王が皇位争いに敗れてこの地に幽閉され、村人に轆轤で木地椀を作る技術を授けたという。
その技を伝承し、親王のお墨付きの文書を持つものが全国に散り、今も親王を祖神として崇めている。
その惟喬親王の墓所は京都の大原にあり、行って見たことがある。
木地師は皆、君ヶ畑、蛭谷で発行された諸国の山の7合目より上の木材を自由に切ってもいいという「朱雀天皇の諭旨」の写しを所持していた。(この文書は偽書との説がある)
そして惟喬親王の家来太政大臣の小椋秀実の子孫を称して小椋、小倉、大岩などの姓を名乗り、今もその末裔が各地におられる。
幕末には宮崎から東北まで7000戸あったという。
東北では温泉地に住む者がコケシをつくった。
飛騨の木地屋集落跡は、美しい沢と豊かな自然に囲まれた桃源郷といってもいいところだ。
ここで自然と共に平和に暮しておられたのであろう。
小屋のそばには旧丹生川村が建てた「木地師由来書」「制作用具」「惟喬親王像」という表示があったが、現在現物は移転先にあるらしい。
年々世間と折り合いをつけることが億劫になってきた偏屈隠居は、こんなところで独り隠棲できればと思っている。
隠棲といえば、先日森鴎外の短編『妄想(もうぞう)』を読んだばかり。
天才が49歳で書いた自身の精神史ともいうべきもので、鴎外と思われる主人公は、海辺の小屋に隠棲して読書三昧の生活を送っている。
話がそれたが、「歩く民俗学者」と言われた宮本常一は、日本には「山地民」といわれる木地師、修験者、マタギ、鉱山師、樵がいたと書いている。
われわれ山が好きな者はおそらくその末裔であろう。
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高山市内からの乗鞍岳(9月1日)
朝夕だいぶ涼しくなってきて、沢登りなどはもう季節外れの話題になってきましたが、しばしおつきあいを。
今年は低山の谷ばかり歩いていたが、8月末に乗鞍の谷へ入った。
乗鞍岳の奥座敷である広大な千町ヶ原を源とする九蔵本谷で、同行は乗鞍の谷の精通者Fさんと山岳会の女性Oさん。
青屋集落を過ぎて九蔵川沿いの林道に入り、森林管理署ゲート600mくらい手前に駐車。
林道を少し歩いてから、砂防堰堤上の広い河原へ入渓する。
昨年入った長倉谷は数年前の豪雨で林道が何カ所も崩壊し、谷の様子も大きく変わっていたが、久しぶりに入った九蔵谷も、あったはずの滝がなかったり一面の河原になっていたりと、かなり様子が変わっていた。
それでも高山から深い森林を流れ下る谷は、大きさといい、水の冷たさといい、低山の谷とはちがう。
河原の広さが倍以上になっていてびっくり
途中小俣谷の大滝を見に寄り道
この滝は右をクライミングして左へ渡渉
これは中央突破
この滝の上
昔の森林鉄道橋脚
上流からみた橋脚 おびただしい流木が
上部が悪くロープを出す
この滝は左の枝谷を登ってまく
枝谷もロープで
滝の上部
この大滝は左をまく
この滝も取りつくところがなく、滝つぼで遊んでから左をまく
時間的にここで打ち切り、左の枝沢から林道へ
林道は下部で崩壊しているのでこの状態
谷では見かけなかったが、帰路林道で肥満気味の方に見送っていただけた
後述する「青屋道」の登り口
過疎がすすんでいる青屋集落上部
かくして両岸の木々の緑を写した美しい谷の澄み切った水と戯れながら、快適な遡行が楽しめた。
霊峰乗鞍から豊かな自然のなかを流れ下った清冽な水の中で遊ぶと、癒され心身が浄められる気がする。
隠居にとっての乗鞍での沢登りは修験者の滝行と同じで、いまだ煩悩が多いこの老体の禊(みそぎ)を兼ねている。
飛騨の夏も沢登りのシーズンもいたって短い。
<青屋道=太郎之助道のこと>
九蔵谷の遡行を終えたあとは谷沿いの林道を歩いて帰るが、この途中に「青屋道」の登り口がある。
明治28年、旧朝日村青屋の修験者(修験両部道教)上牧太郎之助が、九蔵本谷と小俣谷の間の九蔵尾根に乗鞍頂上までの登山道開設を決意。
ルートを決めるにあたり、歩きやすい残雪期に登って目印を付け、夏期地元民の協力を得て作業を行ったという。そして4年がかりで20?もの道が完成した。
太郎之助は大正3年、この登山道の登山者の安全と道案内のため、登山口(朝日町寺澤)から乗鞍岳山頂までの88箇所に各2体ずつ176体の石仏安置を計画。
多くの人々の浄財と、村青年団や有志の人力運搬協力により進められ、昭和8年に設置を終えた。登山道開設から実に39年をかけた大事業であった。
信仰の力とはいえ太郎之助のパワーに驚くが、それを支えた当時の村人もすごい。
戦後平湯峠からの自動車道の開通で登山者が減少し、廃道になっていった。
石仏の埋没を心配された上牧家は、石仏42体を里へ下して新設した地蔵堂に安置。
上牧家の横にある石仏を安置したお堂と太郎之助像
その後旧朝日村が、平成13年から村おこし事業で登拝路を復旧し、ボランティアを募って石仏探索活動「八八作戦」を開始した。
この事業を中心になって進めたのが、今回九蔵谷に同行してもらった当時の村役場職員古守博明さん。
長い年月の間に笹が厚く覆い、ルートも判然としなかったようで、これを復旧した現代の人にも頭が下がる。
平成27年時点のデーターでは、埋もれていた37体が発見され、70箇所137体の存在が確認され、現在も探索が続けられている。
隠居も沢登りの下降路にこの道を使ったリ、探索の会にも参加したが、下部には巨木の樹林帯があり、途中から御嶽山も見えて、歴史を感じさせる道だった。
道は秘境千町ヶ原を通る ここは昔から「精霊田」といわれ亡者が集まる所で、入ったひとは帰ってこられないとも言われていた ここの池塘のほとりにも石仏がある
2体のうち向かって左側は必ず弘法大師様で、今も右手に独鈷杵(とっこしょ)を持って修行をしておられる
千町尾根
千町尾根途中の中洞権現
御嶽山を背に
大日岳頂上
今でも道は毎年笹が刈られていて通行は可能だが、なにせ距離が長いので通る人は少ない。
かつて11本あった飛騨からの登山道は次々となくなり、現在は平湯からの新道、乗鞍青少年の家からの「岩滝道」とこの「青屋道」の3本になってしまった。いずれ皆笹に埋まってしまうかもしれない。
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岩洞滝
酷暑を逃れて、年寄りの冷や水山行は続く。
最近知人から紹介された、とても山がお好きな若いご夫婦がおられる。
このお2人、現在は高山に住んでおられるが、来月くらいに北海道のニセコへ移住されるとのこと。
いちど沢登りを体験したいとのことで、餞別がわり?に沢上谷(今年2回目)へお連れした。
この谷はクライミングがないので初心者むきで、途中に見事な五郎七滝、岩洞滝、箕谷大滝があって、一枚岩の川床が続き、けっこう楽しめる。
休日だったが、幸い大勢のガイド登山などなく静かな山行ができたので、お2人に楽しんでもらえたと思う。
谷はそのたびに違った表情を見せてくれるので、また下手な写真をご覧ください。
今回は出迎えていただけた
枝谷へ入り五郎七滝へ
五郎七滝の一部
カエルとトンボが仲良く
岩洞滝へ行くため枝谷へ入る
岩洞滝
早速滝行
蓑谷大滝
唯一残っている昔のトヤ峠道
滝の上へ下る
それにしても自然豊かな山が多い北海道への移住とは、外国ではないが彼らのコスモポリタン的な行動力、若さがうらやましい。
この年寄りこの年ではもう移住などできないので、定住漂泊でがまんするしかない。
近いうちに地球以外のところへ移住できることにはなっているが・・。
北海道と言うと数年前に1人で1カ月放浪?して多くの山に登ったが、特に印象に残っているのは大雪山からトムラウシ山へのテント泊縦走で、山容の雄大さと花の多さに圧倒された。
中央最奥の台形の山がトムラウシ
<トヤ峠道と蓑谷集落>
この沢の上部の大滝に「蓑谷」という名がついているが、谷の上部に蓑谷という集落がある。
大正初期の地形図
昭和40年代後半まで40軒〜50軒あったというが、今通年住んでおられるのは1軒だけで、あとの耕地や住宅跡はすべて草に埋もれている。
住宅や耕地跡
集落や耕地跡
残っておられる1軒
旧上宝村の鼠餅集落からこの蓑谷集落を経てトヤ峠(蓑谷峠)を越え、荒城川上流の五味原集落(現在ダムで水没)へ下り、高山へゆく峠道があったが、今は県道になっている。
旧道(現県道)下の旧集落分岐にある石仏
峠手前におられた地蔵様
トヤ峠 通る車はほどんどない
蒲田川沿いの人にとって、高山へ行く時の大切な峠道だった。
また、高山の人が蒲田温泉への湯治や飛騨山脈を登りに行く時通った道で、大正9年7月19日、郷土の詩人福田夕咲らが笠ヶ岳から穂高へ縦走した時にも通っている。
その旧道が唯一残っているのが、蓑谷大滝を巻く時急斜面を登った所に現れる断崖につけられた道だ。
あとは草に埋もれ、一部は県道になっている。
蓑谷集落あたりの地形図を見ていたら、伊太祁曾神社跡とあるのが気になり、沢登りを終えたあと寄ってみた。
幸い1軒残っておられるKさんが県道端で作業をしておられたので、進入路や由来を聞くことができた。
草に埋もれた道をたどると、林の中に忽然と鳥居と拝殿が現れた。
昔旗鉾の神社から分祀したもので、集落が過疎になったのでこんどは旧国府町木曽垣内の阿多由太神社へ合祀したとのこと。
裏の本殿は崩れかかっていた。
ツタの衣を着て、さみしそうにしておられた
付近にはお堂もあった
左から 地蔵菩薩 青面金剛(庚申様) 観音菩薩?
伊太祁曾神社は、旧丹生川村の小八賀川沿いの多くの集落にあり、かつては16社、現在は7社ある。
もともとは日抱神社という名で乗鞍を崇めていたが、いつの時代にか伊太祁曾神社(紀州一の宮・祭神五十猛大神)に改称された。
いつ誰が改称したかについては諸説があり、明治になって国家神道政策でというのが有力な説になっていた。
平成30年隠居が『斐太紀』に「乗鞍史」を書く時、旧丹生川村の神社を仕切っておられ、乗鞍本宮も管理しておられる禰宜今寺氏の協力を得ていろいろ調べた結果、天保年間に国学者田中大秀翁が改称したことが判明した。
詳しい論証などは省くが、隠居には「土着のあやしい山岳信仰の神でなく、大和王朝系の素性が正しい神を祀るべき」とする国学者の独善に思えた。
神社の広場からは、今にも遊びに夢中な子供の声が聞こえてくるようだった。
過疎になった集落跡にたたずんで往時をしのび、あれこれ空想をめぐらすのはまことに楽しい。
日本人が自然を敬い、貧しいながらも自然と調和してゆったりと暮らしていたころだ。
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残暑お見舞い申し上げます
暦の上ではもう秋だが、暑さはいっこうに衰えをみせない。
あまり暑いので、Fさんと半日コースの谷へ涼みに。
川上川水系のこのコース、名勝「百滝」と銘打って谷沿いに遊歩道がつけられているが、歩く人はあまりいない。
最上部には名瀑大倉滝があり、そこまで小さいながら変化に富んだ滝が連続し、少しのクライミングも楽しめる中級コース。
谷沿いの森林もすばらしい。
まず、車1台を林道最上部にデポしてから入渓。
では下手な写真で谷の涼風をお感じください。
さっそくお出迎え
水流が緑に染まっている
隠居も滝行
フシグロセンノウ
最上部から乗鞍が見えた
御嶽山も
今日もマイナスイオンをふんだんに浴びることができ、暑さと加齢でしぼみかけた老体が少しはシャキッとなった。
まだ連日暑い日が続いていますが、立秋が過ぎの飛騨は夕方などに突然冷っとした風がふくことがあり、なにかさみしい気になります。
先日古川町の禅寺へ遅い墓参に行きましたら、境内で小さい秋を見つけました。
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昨日(10日)の乗鞍岳 太宰治は「富士には月見草がよく似合う」と言ったが、乗鞍にも結構似合う。
今日は山の日🎌。
山に親しみ、山の恩恵に感謝する日らしいが、われわれ飛騨人がいちばん恩恵を受けている山はなんといっても乗鞍岳。
多くの人に飲用、灌漑の水をもたらしてくれ、そのたおやかな姿でわれわれの心をなごませてくれているので、感謝のほかない。
山麓のいくつもの学校の校歌で歌われているなど、飛騨人にとっていちばん身近な「ふるさとの山」、「母なる山」だ。
太古の時代から崇められ、江戸期からは白装束の信者が列をなして登り、戦後バスが通って観光の山になっても登山者は絶えない。
昔の人は里から朝夕に手を合わせたというが、隠居もときどき黙礼をしている。
そんな山に少しでも恩返しをと、毎年外来植物除去ボランティアに参加しているが、今年は悪天で中止に。
残念に思っていたら、8月3日地元ケーブルテレビの取材に同行を依頼されて行ってきた。
周知のとおり現在飛騨側のスカイラインが不通なので、わざわざ信州側へまわりこみエコーラインから登らねばならない。
今年信州側からは山スキーで3回きているが、雪がない時は今回がはじめて。
乗鞍高原の定期バス発着所の駐車場には、多くの登山者の車が停まっていた。
6月のはじめに滑った蚕玉沢はすっかり雪が消え、大雪渓は意外と小さくなっていた。
6月に滑った蚕玉沢(左)は雪のかけらもない
案の定畳平はガラガラ。
駐車場のおじさんの話では、関西方面のお客はほとんどなく、関東方面も通り抜けができないので少ないとのこと。
ここしばらくは「飛騨の乗鞍岳」が「信州の乗鞍岳」になってしまった。
猛暑が続いたせいか、ハクサンイチゲやシナノキンバイはもう終わり、コマクサもはや盛りを過ぎていた。
時間の関係で撮影は富士見岳から室堂ヶ原までになったが、今頃の花など、盛夏の乗鞍をご覧ください。
ウサギギク
シナノオトギリソウ
イワギキョウ
チングルマ
コウメバチソウ
八ヶ岳連峰 手前右は鉢盛山
コマクサ
モミジカラマツ
大雪渓は小雪渓になり、競技スキーヤーが練習
ミヤマシシウド
ヨツバシオガマ
ゴゼンタチバナ
ミヤマダイコンソウ
イワツメクサ
肩の小屋広場 けっこう登山者がいた
<山の日特別企画?乗鞍登山小史>
・不動岩のこと
畳平から木道がある花畑の方を望むとそのむこうに不動岳があり、頂上の右下に不動岩という大きい岩塔がある。
この岩は現在立ち入りができないが、戦前は飛騨山岳会のロッククライミングの練習場所になっていた。
故岩島茂夫氏撮影
先輩方は英国製の麻ザイルを使っていたとか。
さらにその昔は修験者の修行の場だったと思われ、岩の写真をよく見ると途中に不動尊が安置してある。
ここで大峰山の「のぞき」のような修業が行われていたかも知れない。
元クライマーの隠居は、かねがねいちど登ってみたいと思っていたら、今年の春に登った人がいるのをネットで見た。どこの人かはわからないが、先を越された。
その写真を大正期の写真と比べると、100年の間に地震などで崩落したのだろう、岩塔上部がなくなり少し様子が変わっている。
最近ネットで入手の写真
そして不動様の位置も下になっているが、落下したのだろうか。それにしてもうまく立っておられる。
この岩塔の右に、尾根を越えて5の池へ下る道があったことを知る人は少ない。
畳平から剣ヶ峰へ最短で行ける道だったが、肩の小屋へトラバースする自動車道ができてから廃道になってしまった。
明治38年8月9日は途中から強い雨になった。
畳平付近にいた信仰登山者など3パーティ13名がずぶぬれになり、付近の岩屋へ避難。
皆のいでたちは、ワラジに雨具は着ゴザ、木綿の白装束だったので無理もない。
大正期の登拝者のいでたち(故岩島茂夫氏撮影)
夕刻になっても雨が止まず風も強くなり、皆ふるえがきて意識がもうろうとなるなど危険な状態になった。
このうち8名が体力を振り絞ってこの不動岩の道を登り、五の池上の石室に避難して火を焚き、一命をとりとめた。
一方畳平に留まった5名のうち4名が低体温症で死亡。うち3名が飛騨人であと1名は東京の学生であった。
この不動岩の道が生死を分けたのである。
東京の学生が貴族院議員の子息であったため全国的に報道され、日本人が山のこわさを知った。
当時遺体の搬出に難儀したことや、平湯で荼毘にせず東京まで運んだ話など、隠居が地元飛騨学の会の紀要『斐太記』29号(令和4年)に詳細を書いている。
・守 洞春(もりどうしゅん)の版画
畳平バスセンターの建物の地下に、山岳資料を展示してあることを知る人も少ない。
動物のはくせいなど自然関係や登山史の資料が少し展示してあるが、訪れる人がいないようで照明も暗く、展示も古ぼけたままかまってない。
壊れかけたショーケースを見ると、高山の有名な版画家守洞春の作品が無造作に、ほこりかむって置いてあるのを見つけた。
昭和24年に登山バスが通うようになった頃、観光宣伝のために依頼されて乗鞍の景色を彫ったものだろう。
守洞春は本名守ヶ洞守造。版画で日展、文展22回入選。昭和36年には「室生寺」で日展特選をとった人。
守洞春 国分寺
以下のものは貴重なものといえる。
昭和24年に開設されたコロナ観測所が描かれている
・不評だったロマンスカー
昭和24年から営業運転をはじめた登山バスに、天井がガラス張りの車両が導入された。
ロマンスカーと名付けられ、乗客に山岳景色を楽しんでもらうというアイデァだったが、日光がまともに差し込んで暑くてたまらず、不評ですぐに廃止になった。
写真家故細江光洋氏の貴重な写真が残っている。
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酷暑お見舞い申し上げます
あまり暑いのでFさんと阿多粕(あたがす)谷へ涼みに。
六郎洞山(1,479m)を源とする、上流に集落や人工物がない谷なので、清冽な水で遊べる。
大滝はないが小滝がいくつもあって、少々のクライミングが楽しめるのがいい。
昔はこの谷沿いに秋神へ越える細尾(やせお)峠道があり、益田の人が善光寺参りに通ったので、善光寺道と呼ばれていた。
近年林道が敷設されたが、通る車はほとんどない。
下手な写真で飛騨の谷の涼風をお感じください。
最初の滝は登れないので左をまく
滝の上
さっそくお出迎え この子のユニホームは黒っぽい
枝谷で水を汲む
数年前の豪雨で谷の様相が大きく変わっていた
両岸に堆積した岩石で豪雨時の水位がわかるが、かなり高い位置だった
豪雨で右岸が崩壊し、栃の大木が倒れていた
近づいても動じない 何を哲学しているのだろうか
2条の滝が現れる
ここで水浴
この滝はかなり深くて近づけず、左をまく
彼らは居住地の岩の色に合わせて衣装の色を変えている 猛禽類対策らしい
ここはシャワークライム
ウバユリが満開
今年は飛騨も暑い日が続いています。諸賢にはどうぞご自愛を。
]]>不動明王真言「のうまくさんまんだ・・・」を唱えながら滝行中の隠居 結果、煩悩は少しも滅却できなかった
暑中お見舞い申し上げます
梅雨が明けたので、上宝町鼠餅の沢上谷へ涼みに。
同行は山岳会の若い男女。
以前のように、長躯高い山の源流部まで、時には途中に泊まっての沢登りができなくなったので、最近はもっぱら日帰り。
沢登りは、少々のクライミングが伴い岩登りの知識が必要だが、この沢上谷は沢歩き、沢遊びだけなので初心者でも入渓できる易しい谷だ。
梅雨明け早々の平日とあって、普段人が多いこの谷はこの日我々の他に単独行の男性一人だけ。
それも我々が枝谷の五郎七滝へ入って遊んでいるうちに通過したらしく、終了点で会った。
今頃としてはたいへん静かな遡行が楽しめた。
以下下手な写真で谷の涼風をお感じいただければ幸いです。
旧蓑谷集落の石仏
途中枝沢へ入り五郎七滝へ
五郎七滝
両岸の原生林がすばらしい
ナメコ?
本流へ下降
前にも書いたが、どこの谷も大きい滝を除いて豪雨などで毎年様相が変化している。
沢上谷も去年とくらべて変わっている箇所が多かった。同じ谷でも毎年新鮮味がある、と言える。
蓑谷大滝
大滝は右をまいて上へ
旧トヤ峠道へ
急斜面を下り、大滝上へ戻る
タマガワホトトギス?
仏教には、日想観のほかに水想観という行があるという。
清冽な球の如き水を想えば、やがて極楽の宝の池の清澄な水が心に映じてくるという。
凡人ではそんな念想は無理だが、歩いてきたあの清冽な水を想うだけで心が涼やかにはなる。
そして滝と両岸の手つかずの自然からのマイナスイオンに癒され、毎回翌日に疲れが残らない。
今回残念だったのは、楽しみにしていたヒキガエルに一匹も会えなかったこと。
深山幽谷の哲学者
なにか集会でもあったのだろうか。これからたくさんの人間が入るので近づかないように話し合っていたかもしれない。
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今日(14日)参加を予定していた「乗鞍岳外来植物除去ボランティア」は、悪天予報のため昨日中止の連絡がきた。せっかく抽選で当たったのに残念。
さて今回も峠歩きを。
人が多い山へ行きたくない変わり者の隠居は、物好きにも役目を終えて埋もれつつある峠道を探し歩いている。
前回の「伊佐峠」で書いたように、下呂市門和佐の中村集落には江戸期高山陣屋の関所=口留番所が置かれていた。
この番所を通過してすぐを左折すると、美濃(白川町)の有本(ありもと)という集落へ越す峠道があった。有本峠(770m)と呼ばれていた小さな集落と集落を結ぶ村道だ。
〈探索記・聞き取り〉有本側=令和4年9月30日
これも国土地理院の地形図に点線が残っているので気になり、伊佐峠を歩いた日に美濃側の有本集落側から入ってみた。
有本集落 山の鞍部が峠の位置
傾斜地にあるこぢんまりとした有本集落へ入り、林道入口の畑におられたⅯさん(男性・75歳)に峠の様子を聞いた。
今は歩く人などいないが、動物よけの柵を開けて林道へ入ってもよい。終点から峠まですぐだと教わった。そして次のような話をしていただいた。
「子供のころ、峠を越えて中村にあったまんじゅう屋へ行ったし、川遊びにいったこともある」
「そのまんじゅう屋は、峠を越えてこちら(有本)へも売りにきていたな」
「中村の大野屋から、店の兄弟の方が着物を売りにきていたのを憶えとる」
林道へ入らせてもらうとすぐに終点になり、ここからしっかりした道が峠の方向へ延びていた。
小笹の中の道を歩く。
30分少々で峠に到着。広い峠には地蔵様などおられず、大きい松の木の下に台座らしき石があった。
〈探索記・聞き取り〉門和佐側=令和年10月21日
別の日に、中村側から歩いてみた。
同行は歴史好きなNさんで、特に高山の幕府領(天領)時代のことにお詳しい。
峠歩きと同時に、先日伊佐峠を歩いた時に聞いた明治維新時の高札を見せてもらうのも目的だった。
この高札は、口留番所だった今井家が所有されていたが、その後隣家の今井家へ譲渡されていたので、事前に電話でお願いしておいて見せていただいた。
慶応4年(明治元年)、幕府瓦解の情報を得た飛騨代官所の新見郡代は急ぎ江戸へ逃げ、4〜5日あとに東山道鎮撫使先鋒として飛騨へ入ったのが、岩倉具視の命を受けた竹沢寛三郎であった。
竹沢はさっそく代官所の前に「天朝御用所」、そして飛騨国境17カ所の口留番所に高札を立てた。
その口留番所のものが唯一残っているのだから貴重なもので、下呂市の文化財になっている。
今井家保管の高札は、厚さ2?、高さ82?・73?、幅44?の五角形の松の板で、「従是飛騨国(右)天朝御領之事(真中)竹沢寛三郎(左)」と書かれていた。(剥落部分は文献などから推定)
同時に「無用のもの国内へ立ち入りを禁ずる」という主旨の制札も立てられたという。これらの木札は、元地役人富田稲太(礼彦)が揮ごうした。
なお高山代官所に立てられた「天朝御用所」の木札も残り、現在陣屋の蔵に保管されている。
陣屋保管の高札(高山陣屋図録から)
1年間年貢半減を言い渡すなど飛騨人に人気があった竹沢は、いろいろあってすぐに梅村速水知事と交代した。
このため高札の役目は竹沢の在任期間とともにあまりにも短く、見ていてある種の感慨を覚えた。
周知のとおり梅村知事は、新時代を先取りする急進的な政治を行ったため、ついてゆけない保守的な飛騨人の反感を買って追い落とされ(梅村騒動)、そのあと29歳で獄中死。梅村の在任期間も約1年と短かった。
あと何名かの側近も同じ時期に獄中で死んだため、当時新政府による毒殺説が広がった。
その側近の1人に、神岡の名刹常蓮寺出身の吉田文助がいた。
吉田は早くから京都へ行き、このあと当時有名だった九州日田の咸宜園で儒学者廣瀬淡窓に学んで、塾頭にまでなった優秀な人物だった。
そのあと江戸へ行ったり、京都では勤王討幕派の志士と交わっていたようだ。
漢詩をよくし、梅村知事の前でよく朗吟していたという。享年31。
後で当時の住職が東京まで遺骨を引き取りに行ったと、現常蓮寺の坊守様から聞いた。
飛騨を去った竹沢寛三郎も逮捕され(罪状不詳)、忍藩(埼玉県)に半年監禁。そのあと新田邦光と称して神道の新しい派を作り、管長になっている。73歳で没。
まさに激動の時代だった。
今井家を辞去して峠歩きへ。
白雲座の横の道を登り、集落を過ぎて林道を少し行ったところに動物除けの柵がある。
これを開けて入ると、すぐ左側が峠道の分岐だった。
植林帯の丈の低い笹の中に広い道が残っていた。
はじめのうちは、昔水田だったと思われる立派な石垣が棚状になって続く。
道は所々に倒木があったり、谷沿いが崩れたりしていたが、それでも迷うことなく進めた。
峠に近づいて斜面が急になる手前の簡単な覆いの下に、地蔵様が倒れておられた。
起こして泥がついたお顔を持参のお茶で洗ってさしあげ、安置した。そして覆いも補強した。
峠にあったものをここまで下ろしたのだろうか。真言を唱え、拝礼をする。
道はジグザクになり、少し登ると先日立った広い峠へ着いた。
前回書いたが、この峠は花嫁が越えた峠。
花嫁御寮が越えた峠は北飛騨にもある。
花嫁はたいてい歩いて越えたが、ある時は牛か馬の背に乗ったのだろうか。
花嫁が越えた峠といえば、串田孫一が次のたいへんいい詩を詠んでいる。
「登りに三里、下りに三里のこの峠を、花嫁は、老いた母に連れられて越した。ミスナラの梢で頬白が鳴いていた。たくしあげた着物の裾から、わらじの足が白かった。かつて峠を越した花嫁は、今は谷間の村の村はずれ、水車の廻る流れの脇で、孫を相手の、金褐色のおばあさんだ」
下山後車で県道の松阪峠を越えて白川町の佐見へ下り、再度有本集落へ行ってYさん(男性・94歳)から峠の話を聞いた。
「母親が門和佐から嫁にきておったので、子供の頃よく背負われて峠を越え、門和佐の実家へよく行ったもんや」
「自分もよく中村の大野屋まで買い物にいった。特に正月の初売りのことは憶えとる」
「ここ有本と門和佐は親戚関係が多く、峠はその行き来に使われた」
「門和佐に医者があったので、峠越えで診てもらいにいったことも憶えとる」
この方のご母堂もこの峠を越えて、飛騨から美濃へ嫁にこられたのだ。
<乗鞍岳外来植物除去について>
毎年丹生川の「乗鞍美化の会」(市役所支所が事務局)がボランティアを募って7月に3回実施しており、この山で遊ばせてもらっている隠居は、このところ毎年参加している。
高山植物の中に入り込んでいる西洋タンポポを見つけて根気に引き抜くのだが、また翌年もしぶとく生えてきて、毎回結構な量になる。
タンポポの除去作業のようす
1回の総量
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伊佐(いさ)峠の馬頭観音
このところ梅雨らしい日が続いていて山のほうは端境期。このため昨年の秋に歩いた峠の話を。
昔の人が雨の日も雪の日もひたすら歩いて越えた峠への関心は尽きない。
日本人が貧しかったけれど自然を敬い、自然とともに生きていた頃の話だ。
下呂市南部には、東山道飛騨支路の峠のほか、美濃との国境にいくつかの峠があった。
そのうち主要な峠は、舞台峠と伊佐峠。
それぞれの麓の御厩野と門和佐には、江戸期に関所=口留番所が置かれ、これは明治4年まで存続していた。
金森藩になって、飛騨の国境を通る物資、人のチエック、税の取り立てのため、31カ所に設置された。
これは幕府領(天領)になってもそのまま引き継がれたが、その後順次廃止され、最終的には17カ所になっていた。
現在舞台峠には国道257号が通り、依然主要街道の使命を担っている。
一方の伊佐峠は車道にならず、今では通る人も無く埋もれつつあるが、国土地理院の地形図には、まだ歩道を示す点線が残っている。
下呂市門和佐の中村集落から白川町佐見の吉田集落へ越す、標高720mの峠だ。
中村集落から見た峠方向
『飛州志』に「和佐峠下原郷和佐村ニアリ」、『飛騨國中案内』には「門和佐口御番所より吉田村の十王堂迄二十四町あり、此間國境は峠なり、字【いさとうげ】といふ」とあり、『斐太後風土記』には「門和佐嶺」とある。
〈探索記・聞き取り〉令和4年9月30日
地図の上でさえ物寂びた感じがするこの古い道を歩いてみたくなって、初秋の日に向かった。
下呂温泉の市街地を過ぎたところで国道41号と別れ、中津川市へむかう国道257号へ入る。少し走って右折し、県道下呂白川線(飛美里山ふるさと街道)を南下すると、笹峠を越えて中村集落に出る。
集落の中ほどに県道を左折する道があるが、この角が口留番所を務めておられた今井家。最近まで「大野屋」という雑貨屋をやっておられた。
右折してすぐ左には、白山神社の前に国指定重要有形民俗文化財の芝居小屋「白雲座」がある。
「白雲座」へ入らず集落内をどんどん南へ進むと、こんどは左下に薬師三尊が祀ってある「蚕飼薬師」がある。
『飛騨國中案内』には、この薬師堂に橋弁慶の絵馬と三十六歌仙があり、この2品は三木六蔵という三木久庵の一族による自筆だと書いてある。
さらに進むと家がなくなり、林道になる。
動物よけの柵を開けて入り、少し登ると林道はすぐ終わり、峠の入口になる。
歩道入口
よく踏まれた道が上部へと延びている。
はじめは昔水田だったと思われる石積の段が両側に続くが、すぐ植林帯に入る。幹線街道だったので広いしっかりした道が続く。
このあたりは雪が少ないので小笹が生えているだけで、北飛騨のようなひどいヤブこぎはない。
やがて尾根となり、すこしジグザグを登ると、あとはゆるやかなほぼ直線の登りが続く。
全線ほとんど倒木や崩壊箇所もなく、ハイキングコースとして使える道だ。
むこうに?字状の地形が見えだすと、すぐに峠へ出た。
伊佐峠
左側に石仏があり、頭部が炎髪なので馬頭観音様であることがわかった。拝礼をする。
観音菩薩のうちの一つが馬頭観音。天馬のごとく駆け回って人々のあらゆる煩悩を食い尽くす。その奮闘ぶりは馬が草をむさぼり食うのに似ているので、皆頭に馬の頭を載せておられる。
また日本では馬が重要な交通手段だったので、鎌倉時代以降に交通安全の守護神としての独自の信仰が生まれ、特に地方の農村地帯の街道にその石像が多く立てられた。この峠におられるのもそうだ。
広い地形の峠には、腰をかけて休むための石がいくつか置いてあった。ここを通過する人々は、観音様に旅の無事をお願いしたあと一休みしたのであろう。
峠の腰掛石
国境から先へも広い道がついていたのでどんどん下ってみると、吉田集落からの林道終点へ出た。
吉田側林道終点
往路を戻って駐車場所で弁当を食べ、中村集落へ下る。
中村集落の最上部
集落最奥の家には60歳代の奥さんがおられ、「自分は峠を歩いたことはないが、最近まで毎日吉田から峠道を往復していた男性がおられた。どこかへ通勤しておられたのだろうか」という話をされた。
そして峠の話は、集落中心部に住んでおられる元教師のIさんに聞くといい、と助言をいただいた。
そのIさん(男性・90歳)を訪問。しっかりしたお方で、縁側で次のような話をしていただけた。
「峠の名は、あのあたりの小字が伊佐なのでつけられた」
「この集落にまんじゅう屋があり、いつも峠を越えて佐見へ売りに行っていたな。これは戦後しばらくまで続いていた」
「家の前が先年まで大野屋という雑貨屋をやっていた今井家で、この店はほしいものをなんでも取り寄せてくれるので、地域の人はデパートと呼んでおった。美濃側の吉田や有本集落の人が峠を越えて買い物にきていたよ」
「この今井家が昔の口留番所で、明治維新の時飛騨へ入った鎮撫使竹沢寛三郎の高札が残っておったが、今は隣家で保管されている」
「ここ中村と、佐見の吉田、有本とは親戚関係が多い」
「佐見からは伊佐峠の他に有本集落へ通じる峠がある。子供の頃に有本から歩いて中村へ嫁入りがあり、菓子をもらえるので峠の下まで行ったことがあるな」
「歴史を調べると、ここ中村集落は、天正大地震の時に集落が壊滅状態になり無人になったが、その後金森時代に復旧したことがわかった」
中村集落県道端の石仏
あと吉田側の話をきこうと、県道の松阪峠を越え、白川町の佐見へ下る。
吉田では峠のことを知っている方になかなか会えなかったが、ようやくIさん(男性・81歳)から、子供の頃皆で峠を越え、中村に住んでおられた小学校の恩師=こと子先生に何回か会いに行ったことをなつかしげに話していただけた。
なお、伊佐峠の約1.5?西に松坂峠があった。口留番所を通って右折し、同じく佐見へ越えるが、現在は県道になっている。
<山岳写真展について>
7月1日から作品を入れ替え(10点中8点)ましたので、お暇な時にご高覧下さい。夜も照明がついています。
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松倉山(小さい雲の下)
「山仕舞い」が間近なじいさんの山は、スキーが終わって沢登りには少し早い、いわゆる端境期。
こんななか、高山市が2019年から発掘調査をしている松倉城の現地説明会があるというので、体力と金はないが暇だけあって知的好奇心が旺盛な隠居も参加。
この発掘は、国の史跡指定にむけた調査だという。
高山の市街地のすぐ西にあってよく目立ち、市民になじみが深い松倉山(856m)には、永禄年間(1558〜1570)に三木自綱が築いた城があったが、天正13年(1585)飛騨へ侵攻した金森長近によって落城した。
城跡には高さ8mもの石垣が残っており、隠居は子供の頃から近年まで何回となく登って石垣の壮大さに感心し、飛騨山脈の眺望を楽しんできた。ここからは、剣岳、薬師岳まで望める。
なお金森が築いた高山城は元禄8年金沢藩によって取り壊され、石垣はほとんどない。
実はこの松倉城の立派な石垣を誰が造ったかで、現在論争が行われている。
地元では三木自綱が築いたというのが通説になっていたが、三木を滅ぼしたあと金森が石垣を積んだとする「金森説」を主張する城郭研究者2名が現れ、地元の郷土史家の「三木説」と論争になっているというわけだ。
なおこの2名の城郭研究者は全国的にも著名な人だと言う。
素人の隠居も当然三木が造ったと思っていたが、先生方の論拠は、三木の時代に石垣構築技術がまだなかったとするものらしい。
一方の「三木説」は、小牧山城、岐阜城、そのあと壮大な安土城に石垣を積ませた織田信長が、三木自綱の依頼で近江周辺の石工を派遣したのだろうというもの。
これらの論争は、地元「飛騨学の会」の紀要『斐太紀』にも何回か載っているので、興味がおありの方はご一読を。
前置きが長くなったが、現地説明会。
6月17日(土)の午前と午後の2回行われたが、隠居は午後の部に参加。
久しぶりに飛騨の里から歩いた。
この回だけで50名くらいの人が参加していて、市民の関心の高さがわかった。
配布資料
三ノ丸手前にある敵の侵入を防ぐため尾根を切ったところ ほとんど埋まっている
登っていってまず目に入るのが三ノ丸の石垣(黄色の部分)
三ノ丸の石垣
三ノ丸の石垣
本丸の石垣(黄色の部分)
本丸の石垣
本丸の石垣
本丸の石垣
発掘によって、今まで知られていなかったいくつかの構築物が見つかっており、そのうちいちばん隠居の関心を引いたのは、三ノ丸にあった石の門=埋門(うずみもん)。
壊され草に埋もれていたものを発掘したところ、石塁の中に高さ1.5mの小さい門があったことがわかったという。
埋門の位置(青い丸の箇所)
埋門が壊された跡 天井に使われた平な石も見つかった
また三ノ丸には隅櫓があり、その櫓台の石垣と石段が見つかっている。
三ノ丸の隅櫓(青い丸の箇所)
さらに三ノ丸の石垣南側には、出桝形虎口と称する城への出入口が新たに発掘された。
三ノ丸出桝形虎口(青い丸の箇所)
壊された出桝形虎口(出入口)
また二ノ丸からは2組の礎石が発見されて新旧の建物があったといわれ、瀬戸美濃陶器などの破片が見つかっている。
礎石が見つかった二ノ丸(黄色い丸の箇所)
また、二ノ丸の南面、北面にも石積が残っていたという。
この城の石はもともとこの山にあった松倉石といわれる濃飛流紋岩で、割りやすい石材だという。
本丸の内側にも石垣があったことがわかったが、礎石や柱穴は発見されず、建物はなかったようだ。
本丸曲輪(山を削った平な面・緑の丸の箇所)
本丸の石垣
本丸の石垣
本丸
乗鞍岳
笠ヶ岳・槍穂高岳と市街地
北の飛越国境方面
城主、家臣とも平常時は城の下、今の「飛騨の里」あたりに居住していたという(下の赤色立体図参照)。
航空レーザー測量で作った赤色立体図で、草木で覆われた構造物などを発見した
もちろんこの日市の担当者からは「三木、金森説」については触れられなかったし、破城が誰の手でなされたかは不明とのことだった。
金森に攻められた時、三木自綱はすでにこの城を子の秀綱に譲り、国府広瀬の高堂城にいた。
よく知られているように、秀綱夫妻は夫人の実家がある信州松本の波田城へ逃れるべく、中尾峠まで一緒に登り、あとは目につくことを避けてここで別れた。(栃尾で別れたという説もある)
旧中尾峠 昔ここから硫黄岳(焼岳)の裾をまいて安房峠へ行く道があったが、噴火で消滅した。
2人は峠の手前の岩屋で一夜を明かしたともいわれ、そこにはこれを悼んで地元の方が祀った秀綱神社がある。
中尾峠途中の秀綱神社 夫妻はこの岩屋に泊まったとも
夫人は神河内から徳本峠を越えたところで、一方の秀綱は焼岳の裾をまいて安房峠を下った角ヶ平でそれぞれ金目当ての地元の杣人などの手にかかり、落ち合うこともなく落命した。
徳本峠を島々側へ下った島々谷のほとりの遭難場所に、昔たたりを恐れた杣が建てた祠があったというが、今は島々の神社へ合祀され、石柱だけが建っている。
徳本峠からの穂高岳、夫人はここでいつも見慣れていた岳(だけ)に別れを告げたことであろう
徳本峠道 島々側
徳本峠道 島々側
秀綱夫人の遭難場所
隠居は通過するときに手を合わせた。
さらに下ると、三木夫人の非業の最期を哀れんで民俗学者折口信夫(釈迢空)が詠んだ歌が、
地元島々集落の人の手で石に刻まれ、供養碑になっている。
釈迢空の歌碑
なお角ヶ平で殺された秀綱も神社に祀られていたが、その後ダムのため波田へ移された。
戦国時代というのは大河ドラマなどで今も人気があるが、自己の利益のために他を憎悪して殺しあった、殺戮、殺戮の時代。
あれからだいぶ経ったが戦(いくさ)はまだ続き、人間は少しも進歩していないようだ。
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青葉若葉の季節だと言うのに、まだスキーの話で恐縮です。
今シーズンは小雪だったので、一応5月11日の立山で滑り納めたということにしていた。
ところが例年は6月の初めが滑り納めで、昨年は6月5日の立山を最後にしている。
このためFさんともう一度だけ滑ろうということになり、乗鞍の蚕玉沢で再納めをしてきた。
信州側の春山バスが6月1日から大雪渓まで運行をはじめたので、これ幸いと天気がいい日に向かった。
平日なので空いていると思ったら、乗鞍高原観光センター8時30分の始発は満席。
山スキーヤーは少なく、ほとんどが歩きとあとは大雪渓下部で練習をする競技スキーヤーだった。
5月に取りついた位ヶ原の斜面はもう緑一色だったが、エコーラインの上部には雪の壁があった。
道路からすぐの大雪渓下部からシール登高。
気温が高いので雪面はやわらかいが、雨による深い溝が細かい間隔で一面についており、歩きにくかった。
いつもは左寄りに蚕玉岳へ登るのだが、上部で切れていたため右側へ入り、夏道に出る。
滑降予定の蚕玉沢がどうも切れているのではとの判断で、大雪渓を滑るべく朝日岳下の夏道にスキーをデポし、徒歩で頂上へむかう。
稜線はほとんど消えていたが、蚕玉沢を上部から偵察すると、雪渓が道路まで続いていて滑れることがわかり、頂上往復のあとスキーをとりに戻る。
いつものように稜線でスキーを履き、滑降を開始。
雪面の溝も苦にならず、快適に滑降。
途中で大雪渓へトラバースできないかFさんが偵察に向かったが切れていることがわかり、蚕玉沢に戻って再び滑降。
少し滑ると何カ所か岩が露出しており、これを避けて下部へ。
下部のSさん遭難地点で黙とうをする。
1回も転ばなかったので悦に入っている隠居の幽姿と、滑った沢(上に丸い小さな雲がある広いほう)
エコーラインまで滑って、今シーズンはほんとうに滑り納めた。
蚕玉沢はこのあとの雨で岩の露出が多くなったはずなので、この日がラストチャンスだった。
なおエコーラインは12日から月末まで工事に入り、バスは運休になる。
みたび頂上直下のペンキ標識のこと
頂上へ行く途中、問題のペンキ標識ルートを通った。
5月に来たときは雪の色にまぎれて少し目立たたなかったが、雪が消えたらまたひときわ目についた。
どう見ても過剰で、著しく景観を害している。
小屋は迷い防止などと言っているが、ロープがあって迷う所でない。
小屋へ行って文句を言おうと思ったら、まだ閉じていた。
要は「国立公園特別保護地域」なのに行政指導ひとつできない環境省の弱腰の対応が問題なので、昨年抗議文を出した高山市の「乗鞍岳と飛騨の自然を考える会」事務局へ問い合わせると、今年再度環境省と協議する由。
昨年できなかった行政指導で小屋が言うことを聞くかどうか疑問だが、なんとか夏山シーズンまでに消してほしいものだ。
隠居は若い時ならすぐに実力行使に及んだであろうが、残念ながら今はその気力体力がないので、所属している会の方針に従うほかない。
なお以前の写真と比較すると、8か所あったものが現在5カ所になっている。
写真を拡大して見るとどうも2カ所は岩を裏返し、大きい岩の1カ所は横に小さい岩を積んで隠したことがわかった。おそらく小屋の仕業であろう。
乗鞍岳は御嶽山同様信仰の山であったことを忘れてはならない。
御嶽山などは昔八合目から上を絶対神聖視し、排便などは紙の上で行ったというが、おそらく乗鞍も特に剣ヶ峰周辺は神聖なエリアだったはずだ。
そこに営業小屋を建て金儲けをしているのだから、もう少し山を敬ってほしいものだ。
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元気ぶっているこのじいさんも寄る年波には勝てず、思う山へ行けなくなってきたので、そろそろ山仕舞いです。
このためパソコンに入っている10年少し前からの山行写真を整理していましたら、皆さんにお目にかけてもいいのではないか(まさに自画自賛の極みですが)と思われるものがいくつか出てきました。
いつもの癖でつい調子に乗り、「山仕舞いの写真展」を昨日(6月1日)開きました。
場所は友人が経営している建設会社のギャラリー。
と言っても道路に面したショーウィンドーを改造したもので、中へ入らず散歩の途中などに気軽に見ていただけます。
飛騨での写真展(昔岐阜でやったことも)は、今までに山岳会などで何回か開催しましたが、いずれも文化会館など室内。
その会場ですと、見に来ていただいた方とお話ができ講評もいただけるのですが、この年になると皆さんとのやりとりが億劫になってきているので、この会場は今の隠居にうってつけ。
ギャラリー横(正面玄関)に駐車場(3台)もありますし、近くのバローホームセンターさんへの買い物にこられたときにでもお寄りいただければと思います。
なにせ今まで山岳写真を撮るために山へ行ったことはなく、すべて山行の途中に急いで撮ったものばかりです。
このためみな拙いものですが、なかなか行けない場所もありますので、ご高覧いただければ幸いです。
駄作ながらけっこう枚数が出てきましたので、今回途中で一部入れ替えをし、あとは別の機会にと思っています。
以下の写真は、今回未展示ものの一部。
近年の山行写真を次々開いて見ていましたら結構なつかしくて見入ってしまい、もう2度と行けない場所も多く、一抹の寂しさに襲われました。
ついでにここ10年間の山行回数の平均を数えたら、昔とくらべるとずいぶん減りました。
近年特徴的なのは、一時期行っていた低山にまったく行かなく(行きたくなくなった)なり、そのぶん多少のハラハラ、ドキドキ感が伴う山スキーと沢登り中心になったことでしょうか。
あとヤブを漕いで埋もれた峠探索をしていますが、これは山行回数に入れていません。
つい興がのって今までの山行記録を見てみましたら、山岳会に入ってからの去年(2022年)末まで山行回数は1,340回、山での滞在日数は1,941日、宿泊日数は641日でした。(小屋泊は少なくほとんどがテント泊)
なんと人生の5年半くらいは山に入っており、2年近く山で寝ていたことになります。
この数字、他の岳人と比べたことはないので多寡はわかりませんが、半世紀以上登山を続けていれば皆さんこんなものでしょう。
しかし山へ行かない一般人から見れば、アホを通り越して大アホ、空いた口がふさがらず、「肉体を酷使し、山に惚けて無駄な時間を費やした奇人変人の人生」ということになるのでしょう。
隠居は奇人変人には違いがないのですが、実は長年の間に山からいくつかの大切なものを授かり、気づかせてもらっており(たとえば人間の普遍的な真理のようなもの)、山には感謝のほかなく、山をやっていてほんとうに良かったと思っています。
これは長く山へ行っておられる諸賢ならおわかりいただけると思います。
好きな山と一体になるには、やはり星を眺め、吹き渡る風を感じながら大地に抱かれて眠るテント、ツエルト泊に限ります。
以下退屈でしょうが、近年のいとしい山の大地との抱擁、接吻の情景を。
沢登りでの宿泊は焚火ができて楽しい
雨の日のツェルト泊
6000mでのツェルトをかむっただけのビバーク。今まで冬山などで何回もビバークをしたが、山といちばん一体になれるのはビバーク。
こんな生活をしていましたので、今突然ホームレスになってもなんら困りません。実は家人に内緒ですが、あこがれています。
写真展の案内がとんでもない方向へいってしまいご容赦。ではお暇な時におでかけ下さい。
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もう30度を超す夏日が現れて半袖シャツを着ているというのに、スキーの話などすると笑われそうだ。
今シーズンの山スキーは、近年恒例になっている雄山頂上からの滑降で閉幕とした。
同行メンバーはいつものじいさん仲間Sさん(74歳)とFさん(63歳)に、ばあさんO(63歳)が加わった。
このコース、以前はバス道路開通直後の4月や5月早々に滑ったこともあったが、「納め」には少々早かったので、最近は梅雨に入る前の6月はじめにしていた。だが今年は雪が少ないので5月11日に実施。
7時10分発のケーブルで室堂へ。
昨年から運賃が上がり、室堂往復が7380円になった。
いつもは室堂と一の越の中間で一ヶ所と、小屋の手前で雪が消えていてスキーを脱ぐが、今回は小屋まで脱がずに歩けた。入る時期が早いからであろう。
一の越から雄山までの稜線は、まったく雪がない夏道を登る。
このコース、雪があってアイゼンが必要なこともあり、要注意。
以下の写真は2015年4月18日に山崎カールを滑った時で、アイゼンを履いた。
2015.4.18
いつものことながらこの登りはスキーを付けた荷が重く、おまけにスキー靴なので歩きにくく、老人にとっては難行苦行。
頂上社務所と滑る予定の斜面1
滑る予定の斜面2
滑る予定の斜面3 下部
それでも目の前に大滑降というこのうえなく美味いニンジンがぶらさがっているので、若い人にあまり遅れずまあまあのペースで雄山頂上へ到達。
雄山神社に世界平和などを祈願。
来年のことがわからないじいさんの幽姿
東沢は社務所のすぐ裏まで雪渓があり、滑降を開始。
上部は乗鞍の蚕玉沢より急で、いつもながら滑り出しの何とも言えない一瞬の緊張感を楽しむ。
先日の乗鞍ほどではないが、少し凍っていた。
あとは老骨を軋ませながら転倒もなく下部まで快適な滑降を楽しむことができ、おおいに満足した。
斜面上部
6月はじめには、滑りだしてすぐ右に小さいクレバス、下部にも右に大きいクレバスがあり、下部に落石が散らばっているが、今回は時期が早いので全く無かった。
ガスが出ているとこれが見えないので、この沢の滑降は晴れた日に限る。
浄土山へのはじごはやめて、室堂までの滑降を楽しむ。
滑ったところをバックにご満悦
浄土山から滑るとここへ出る
室堂から雄山を遥拝して礼を言い、メンバーと握手をしてこの山行を終えた。
今年もいい滑りで納めることができ、山と老骨に付き合ってくれた皆さんに感謝のほかない。
今シーズンは、昨年12月17日に平湯峠から夫婦松行きでの道具点検からはじまってこの立山で通算13回にとどまった。1月はじめに乗鞍でふくらはぎを痛め、20日間ほど休んだこともある。
この年になっても面白くてたまらない山スキーだが、果して来年も楽しむことができるだろうかと道具に語りかけつつ仕舞った。
頂上小屋のペンキ道標ついて
前回書いた乗鞍山頂の環境破壊問題について、初めて読まれる方もおられると思うので、広く知っていただきたくて再掲を。
剣ヶ峰直下で頂上へ直接行く道と小屋経由の道に分かれるが、昨年あたり小屋へ至る道の両側の岩に黄色いペンキでやたら大きい矢印が何カ所も書かれた。
小屋の仕業で、これはあきらかに小屋へ客を誘導するためのもの。
小屋では道迷い防止などと言い逃れをしているが、迷う場所でなく、既に道迷い防止のロープが張ってある。しかもペンキは小屋までで止まっTいる。
これは誰が見ても山岳景観を大きく害しているので、昨年7月、NPO「乗鞍岳と飛騨の自然を考える会」から環境省へ抗議と原状回復の文書が提出された。
環境省から小屋へ行政指導をしたようだが、今回行って見ても一向に改善されていなかった。
小屋主が応じないようだが、環境を守らなければならない小屋の経営者はいったい何を考えているのかまことに腹立たしい。
「あの行為はまずいので行政指導をします」と言いながら、1年近く経つのに説得ひとつできない環境省の弱腰にもあきれる。
最新の情報では、近々「乗鞍と飛騨の自然を考える会」が環境省と協議をするそうで、一刻も早い原状回復を期待したい。
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この年になっても急斜面を滑り出す刹那の緊張感が味わいたくてたまらないので、困った老人だ。
加齢で恐怖心が麻痺しているのかもしれないが、昔味わった岩登りでの快感と共通点がある気もする。
乗鞍高原三本滝から位ヶ原山荘までの春山スキーバス運行が始まったので、春光に誘われ、連休の合間の5月2日、60歳以上の老人(うち女性1名、70歳代は隠居ほか1名の男性)ばかり4名で頂上を往復してきた。
ポカポカ陽気の春山を期待したが、快晴だったものの前日寒気が入ってきて朝までマイナスの気温になり、終日気温が上がらず、寒い一日だった。
このため上部の雪面は一面クラスト(凍った状態)で、登りには早々とクトー(スキーアイゼン)を装着。
所々に新雪も
白山と朝日岳を遥拝
少ないとは言え穂高にもまだ多くの雪が
大日岳 屏風岳 薬師岳
雪山岳と白山
滑降の準備
頂上から蚕玉沢は凍ってカリカリの状態で、エッジをガリガリ言わせて滑り降りたが、それなりに楽しかった。
じいさんの幽姿
転倒者も ストックについたピッケルで停止
シュプールは以前のものが凍結
ここまでくると緊張感が解ける
いつも下るスキー場へのルートは雪が消えていたので、往路を位ヶ原山荘へ戻った。
いつもの慣習で、ここで無事下山の握手を交わしてからスキーを脱ぐ
帰ってから穂高での滑落事後続出のニュースを聞いたが、雪面が急に冬のように凍ったことが原因だったのだろう。
頂上小屋のペンキ道標ついて
こんなことをブログに書きたくないのだが、自然愛好者の諸賢に知っていただきたくて。
剣ヶ峰直下で頂上へ直接行く道と小屋経由の道に分かれるが、昨年あたり小屋へ至る道の両側の岩に黄色いペンキでやたら大きい矢印が何カ所も書かれた。
小屋の仕業で、あきらかに小屋へ客を誘導するためのもの。
これは誰が見ても山岳景観を大きく害しているので、昨年7月、NPO「乗鞍岳と飛騨の自然を考える会」から環境省へ抗議と原状回復の文書が提出された。
環境省から小屋へ行政指導をしたようだが、今回行って見ても一向に改善されていなかった。
小屋主が応じないようだが、環境を守らなければならない小屋の経営者はいったい何を考えているのかまことに腹立たしい。
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雪が消えたあとの老人の遊びは峠歩き。それも役目を終えて埋もれつつある古峠の探索だ。
変わり者のこの年寄りは、道がある人が多い山へ、しかも群れて行くのを好まないので、こういう独りでの山歩きが合っている。
飛騨代官所と江戸を結ぶ主要街道の江戸街道には、美女峠、猪之鼻峠、石仏峠、寺坂峠、そして信州境の野麦峠があった。
明治になってからは糸引きの工女さんが大勢通った。
そのうち石仏峠は距離が短く小さい峠なので、文献などから漏れていて知らない人が多いが、旧高根村上ヶ洞集落から橋場集落へ越す峠。北側に石仏山(1484m)がある。
明治34年(1901)上ヶ洞から野麦へ至る飛騨川沿いの道が開かれたが、狭隘で雨で崩壊することが多かったので、牛が通れるこの石仏峠と寺坂峠はその後も使われていたようだ。
ルートは国道361号から黍生集落への道に入ってすぐ右が取りつきで、現在は全長4.5?の市道上ヶ洞石仏線が橋場集落までついている。
市道と言ってもほとんど未舗装の細い車道で、通る車はほとんどない。
この道は以前通ったことがあるが、その時は峠道に関心がなかったためこの4月末に再度入って見た。
峠道入口には「中部北陸自然歩道・旧野麦街道糸引きのみち」の標識があった。
自然歩道は車道(野麦峠は旧道)だけがルートだが、どこでも歩く人を見たことがない。
はじめは小長谷沿いの平坦な地形なので車道と旧道が重なり、この間旧道は消えている。
車道は標高1,134?から右岸の山の方へ迂回する。古い5万分の1の地形図を見ると、旧道はここから尾根と谷沿いの左岸の両方についている。
谷の左岸に道の形状が残っていたので入ってみた。
長い歳月が経っているにもかかわらず、往時の主要街道だけあってまだしっかりした道が残っていた。
歩いていると、今にも大勢の娘たちの小鳥が群がって囀るようなにぎやかな話声や、明るい歌声が聞こえてきそうだった。
500?ほどで笹に没したので車に戻り、車道を登る。
上部でまた谷に近づいたので、車を置いて谷に入ると、ここにも旧道が残っていた。倒木をまたぎしばらく歩いたがまた不明瞭になぅたので戻る。
このあと車道は旧道から離れて北側へ大きく迂回し、再び旧峠(1249m)で重なる。
車道から対岸に旧道が見えた
石仏峠(1249m)旧道は右から左へ入る
峠の左側に御嶽教の不動明王と書いた大きい石があり、林間には丸太とトタンで囲われた中に7体の石仏がおられた。
糸引きの娘たちや多くの旅人が、旅の安全を願って手をあわせたことだろう。
豊川稲荷様から地蔵様、弘法大師様と宗派が多様なので、真言でなく般若心経を唱えて拝礼をする。
いままで緩傾斜だった峠道はここから急な地形になり、阿多野郷川沿いにある橋場集落へ一気に下る。途中木の間越しに御嶽の継子岳が見えた。
祠の前に旧道が残っていた
橋場側はしばらく谷沿いに下り、あと尾根をまく
御嶽継子岳
下流の阿多野郷集落が見えだす
乗鞍があらわれる
昔7軒あった橋場集落は20年ほど前から過疎になり、現在は1軒だけ新しく建て替えた家に残っておられる。
崩れかけた家屋だけ残っていた。
集落内の阿多野郷川では、小水力発電の工事が行われていた。
糸引きの娘たちはここで一休みしたあとまた目の前の寺坂峠を越えなければならず、大変だったろう。
はじめての娘たちは橋場集落を野麦集落と勘違いしたらしい。このため寺坂峠にはびっくり峠の別名がある。
集落からは雪を多く残した乗鞍がよく見え、桜はまだつぼみだった。
橋場集落下流の阿多野郷集落にはまだ多くの家があるが、ここもほとんど住んでおられない
以下糸引き工女たちのこと
娘たちの信州行きは、田植えの手伝いが済んだ6月頃だった。
他に交通手段がないとはいえ、5つの峠越えは12〜13才のいたいけな娘たちにとってはたいへんなことであったろう。暮れに飛騨へ帰る娘たちは特に雪の野麦峠越えで難儀し、谷へ落ちる子もいた。
工女たちは強欲な工場主によって、粗悪な食事、長時間労働、低賃金で奴隷のように働かされていたという話が定説になっているが、これは一部の偏った思想を持った人が「哀史」にしてしまったといわれている。これには山本茂実の本『ある製糸工女哀史―ああ野麦峠』(昭和43年・朝日新聞社)の影響も大きい。
しかし山本茂実は一方で、「飛騨の工女は皆信州へ行ってよかったと言っている」とも書いている。山本は実ていねいな取材をしており、旧河合村などで信州へ行ったことがある何人もの老女に聞き取りをしている。その結果彼女たちは、ほとんどが工場での食事、賃金などに満足していて、「行ってよかった」と答えているのだ。 これは当時の飛騨の農村がたいへん貧しく、それと比べると、ということであった。
当時の日本は富国強兵策で金が必要だったが、輸出品は生糸くらいしかなく、これを支えたのが彼女たちであった。明治42年、日本の生糸生産量は世界一になり、これは30年間続いた。
明治、大正期の詩人・歌人であり飛騨山岳会員でもあった福田夕咲は、高山大新町の自宅前を通って行く大勢の娘たちをいつもやさしい眼差しで見て案じ、歌を詠んでいる。
木曽山の山の彼方に糸採らす児等をしぞ思ふ雪の降れれば
いつとなく信濃言葉を口にするをみなとなりて旅さびにけり
追伸 今年も笠ヶ岳に代掻き馬が出現しました。5月4日高山市上野町。
この家では昔は馬が出ると田植えをやったとのこと
5月6日 中日新聞 上宝町蔵柱
]]>老骨を軋ませて怪?滑降中の隠居
花が終わったと言うのに、老骨の山スキー行脚はまだ続く。
毎年4月に行っている蓮華温泉は今年雪が少なく、振子沢などヤブが出ているとの情報があり、中止にした。
連休前に山スキー営業を終えるそうだ。
そんななか、Sさんから白馬乗鞍岳へのお誘いがあったので行ってきた。
ここでは3月末にアルパインスキークラブの集まりがあったのだが、その直前に足を少し痛めてしまい欠席している。
メンバーはSさんとOさん(女性)。
この日は晴天だったのでゲレンデスキーヤーと山スキーヤーでゴンドラは長蛇の列。
このため時間切れで乗鞍の頂上まで行けず、途中からの滑降とした。
栂池スキー場の下部は消えていた
山の神に拝礼
乗鞍へはアリの行列
近年ボーダーが多い
ほほえましい親子連れ
メンバーの雄姿 2人ともスキーがめっぽううまい
痛めた足もなんとかなって結構楽しめたので、老人を遊ばせてくれた山に感謝。
あとは乗鞍のスキーバスが運行を開始してから蚕玉沢を滑り、立山雄山からの滑降で板を納める予定だが、この年になると来年のこと、いや明日のことはわからない。
こちらの乗鞍にもまだだいぶ雪が(4月20日)
]]>天然記念物 荘川桜
「飛騨高山三大桜」という選定があるのを最近知った。
それは臥竜桜(一之宮町)、荘川桜(荘川町)と西光寺のしだれ(清見町)。
そのうち荘川桜の見ごろは例年5月の上旬だが、今年は4月11日に開花し、すでに14日に満開になっていることを聞き、あわてて昨日(19日)見に行った。
はや一部葉が出かかっていたが、散り初めくらいで大丈夫だった。
光輪寺にあったもの
照蓮寺にあったもの
がんばっている樹齢500年といわれる巨体
今まで気が付かなかったが、そばに乃木さん揮毫の忠魂碑があった。 日露戦争終戦後全国を慰霊行脚され、各地に乃木さん書の慰霊碑があるが、庄川沿いも歩かれたようだ。
御衣ダムを過ぎ平瀬まで行って引き返したが、平瀬あたりの桜はすでに終わって山々新緑に覆われはじめ、その中に点々と山桜があった。
ダムサイトから、雪を残した三方崩山が見えた。
かつて5月の連休にこの雪渓(中央)を登り、白山まで歩いたことがある。 まだスキーで滑ったことがないのでなんとかと思っているが・・・。
御母衣の旧遠山家
白樺林と桜の対比が面白い。
以下荘川の里
来年のことはわからないこの年寄りの花巡りはこれで終わり、やっと落ち着ける。
昭和35年にダム水没地から移植されたこの2本の桜については、そのいきさつを映像作家古滝雅之氏が、『忘れ去られた御母衣ダム反対闘争』(令和2年発刊)に詳しく書いておられ、隠居はそれを頂戴している。
氏は子供の頃水没した旧荘川村中野地区に住んでおられたので、7年間にわたる激しいダム反対闘争が荘川桜移植の美談の陰に隠れてしまっていることを憂い、後世のためにその歴史を調べ、この本を出版された。
往時の村人の生活の写真も載せてあり、湖底に沈んだふるさとへ想いが詰まっている好著だ。
古滝氏の著書から
そして古滝氏はこの桜をテーマに「老桜のつぶやき」というすぐれたビデオ作品もものにされた。
毎年離村された村人が、今では唯一残った村のシンボル大桜の下に集まって旧交をあたためておられたが、近年高齢化で行われなくなったとういう。
すでに村人の多くが鬼籍に入られたと思うが、長年庄川沿いの人々の哀歓を見守ってきたこの2体の大桜だけが、その記憶を持ったまま今なお生き続けておられる。
]]>青屋神明神社のしだれ
にわか風流人の桜狩りは旧朝日村まで足をのばした。
ここへは美女トンネルができてから30分くらいで行けるようになり、乗鞍がよく見えていいところだ。
この地区の神社には大きい枝垂れがあり、毎年訪れている。そしてその神社にはどこにも円空さんの神仏がある。
美女トンネルを出ると、久々野町大西地区から乗鞍が一望できる
まずは浅井の神明神社へ
枝垂れより山桜と榎木が市の文化財になっている 円空仏も
文化財の山桜
浅井の円空さん
黒川天満神社のしだれ
黒川天満宮の円空さん
大廣白山神社のしだれ
ここにも円空さんが
拝殿にある狛犬がかわいい
シロ、クロと名付けた
木造の鳥居が倒れかけ
次は青屋の谷へ入る 乗鞍の上部だけがこのように
青屋神明神社
薬師堂のしだれ
薬師堂に円空さんがおられる
薬師堂の円空さん
昨日は春の祭りが行われたが、宮川べりの桜はほとんど散って、水面には花筏(いかだ)ができていた。
花筏くづれて見えし鯉の口 井出やすはる
本流の脇によどみて花筏 原田町子
今年の花もあと荘川桜をみて終わりだ。
以下また余談
知られているように、イケメンの在原業平は「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」と詠んだ。
はかない花の命を惜しんだ気持ち、すなわち花がなければ盛りを見たくて時期を心配したり、散るのが惜しいと嘆かなくてもよいのにという気持ちの裏返しだが、後世のえせ風流人隠居もこれに同感。
しかし業平の歌には「散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しけるべき」という詠み人知らずの返歌がある。
「桜は散るからいっそう素晴らしい。この世にいつまでも変わらないものなどないのだから」というものだ。この世の無常観がでていてこれにも頷ける。
なお、この歌と同じ題のアニメがあるらしいが、内容は知らない。
今年もあちこち老体を運んでだいぶ花疲れがたまったが、前述のようにあと荘川桜を見てようやく落ち着ける。
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北山のしだれ
にわか風流人は、高山市内をマウンテンバイクで徘徊すると、萩原に負けじと咲き誇っていました。
俳句の季語に「花疲(はなつかれ)」というのがありますが、今の隠居はまさにその状態。
宮川万人橋公園
苔(すのり)川沿い
川上川から乗鞍岳
川上川から笠ヶ岳 槍穂高岳
宮川万人橋付近
北山から位山
北山のしだれ
幽玄というよりむしろ妖艶な姿の北山のしだれ
北山しだれから乗鞍岳
北山公園から笠ヶ岳と槍穂高連峰
北山公園から黒部五郎岳 笠ヶ岳 槍穂高連峰
山口町 桜ヶ岡八幡宮
桜ヶ岡八幡宮のしだれ1
桜ヶ岡八幡宮のしだれ2 3
山口町 旧江戸街道沿いのしだれ
山口町からの乗鞍岳
山口町からの黒部五郎岳 笠ヶ岳 槍穂高連峰
山口町は昔から花が多いところ その昔飛騨国司姉小路基綱が詠んだ「おくふかく花をたつぬるあけぼのに 山口しろく雲そかをれる」の歌以来「花の山口」というようになった、とある。
一之宮町 臥竜桜
国の天然記念物「臥竜桜」は2週間早く満開に
ご老体がいたいたしい
赤い中橋周辺 インバウンドの外国人が、桜と柳の新緑に大喜びしていた
余談ながら、元俳人見習いで今は廃人に近い隠居は、時々歳時記を開いて見て日本人の四季の繊細な観察力に感心している。
花(桜)だけでもたくさんあり、このところの花巡りを季語=「 」で表すと、以下のようになる。
「花巡り」をしているにわか「花人」「桜人」はもう「花疲」。
桜の下に「花筵(むしろ)」を広げて花を愛で酒に浮かれる「花の宴」「観桜」をしたいが、人をあつめるのが億劫。でも「夜桜」見物は捨てがたい。
昨日はもう「花吹雪」がはじまり、隠居の服は「花衣」に。
今日の「花の雨」で「落花」しきりになるだろう。
このあとは奥山へ「山桜」を求めて「桜狩」に出かけたい。
さまざまのこと思ひ出す桜かな 芭蕉
遠き日の恋思い出す桜かな 北遊子
]]>山スキーの報告が続いて食傷気味になったと思われるので、ここらあたりで巷のお話を。
今年の桜前線は例年より10日以上早く到達し、春の高山祭り(14、15日)にはもう散っているかも知れない。
今年特徴的なのは、飛騨南部も北部も同時に開花していること。いつもは萩原から5日ほど遅れて高山あたりが満開になる。
近年この時期になるとにわか風流人になって、あちこち見て回るのが常になっている。来年のことはわからないので。
特に下呂市萩原町には花が多く、なかでも「岩太郎のしだれ」がいい。
すでに見られた方も多いと思いますが、ブログ花見を。
賢誓寺のしだれ
賢誓寺のしだれ
飛騨川公園(以下続く)
薬師様
永養寺のしだれ
永養寺の淡墨桜 根尾からの分枝
岩太郎のしだれ
森山神社のしだれ
春の妖精カタクリも満開
以下余談
この時期になると、生涯桜に偏執していた無常の遊子西行のことを思い出す。
にわか風流人になって西行のことを書くのでなく、漂泊の一生を送った西行は昔から憧れの人。
こちらは定住漂泊を余儀なくされているが・・。
山野を平気で漂泊し、真言密教にも造詣が深かったので、吉野から熊野への大峰山奥駈を2度も行っている。
この一時的漂泊老人は、彼が泊まって月の歌を詠んだという大峰山の平治ノ宿にひとり泊まったことがあり、ちょうど月が出ていて感慨にふけったことを思い出した。
西行が生涯に詠んだ歌は約2000首で、そのうち桜の花をうたったのが230首あるという。
西行は63歳で高野山から伊勢に移っているが、歳を加えるにしたがって花狂いの激情をつのらせ、その激情はときに耽美に傾き、濃艶の匂いが漂うようになった。
そのころの歌でいちばんわかりやすいのは、「春ごとの花に心をなくさめて 六十(むそじ)あまりの年を経にける」
若い時は心が定まらない「空になる心」だったが、晩年「虚空の如き心」になった西行は、73歳で生涯を閉じるが、隠居は未だ心が定まらず、妄執を離れぬままその歳を越えた。
人にもてはやされる里の花が終わっても、山の奧には人知れず咲いている花がまだある。
西行も「奥になほ 人見ぬ花の 散らぬあれや たずねを入らん 山ほととぎす」と詠んでいる。
5月に新潟県など豪雪地帯へ山スキーに行くと、待ちきれず雪の中に咲いていることがあり、これにも感動する。
]]>
妙高山の外輪山
このところ山行報告の日にちが古くなってきたのでご容赦。
この山惚け老人はまだ長いものをもって徘徊していて、まわりからは奇異な目でみられているようだが、この年になると他人の目は一向に気にならない。
3月のはじめ、鍋倉山へ行ったメンバーで妙高山の外輪山三田原山(2347m)の稜線から南面を滑降してきた。
このコースは最近毎年行っているが、スキー場から2時間ほどで登れ、滑降距離が長いので結構楽しめる。
途中の時々雪崩れる小さな谷2ヶ所は、今回安定していて問題なく通過。
平日なので人が少ない。
時には大きい雪庇がある尾根も今回ほとんどなく、問題なく通過。
あとダケカンバの急な斜面を登高。
数年前は稜線近くがクラストしていて、外人のツアーガイドがピッケルをふるって斜面を砕いていたが、今年はクトーもなしで通過。
老人性鈍足症侯群の隠居もなんとか遅れずに稜線へ到達。
少し休み、下降の準備をする。
大きい荷を背負った若い人のパーティがいたので尋ねると、テント泊で高谷池ヒユッテまで行くとのこと。
火打山は長いこと行っていないが、もう一度滑りたい山だ。
三田原山
木がまばらな広い斜面はもうパウダーは無かったものの、滑り易かった。
ほとんど木がない大斜面を思い思いに弧を描くこの一刻は、まさに値千金。
樹林帯に入るころから雪が腐ってきたが、ブナ林の滑降も楽しい。
下部の平地で一休みしてから平らな樹林帯を滑り、道路に出てスキー場まで滑降。
滑った斜面(左)
満足感に浸る老人クラブのメンバー
リフト1本に乗り、今朝のゴンドラ乗り場までゲレンデ内を滑降して駐車場所へ。
]]>温井集落からの鍋倉山
老体を労わり、だましながらの山スキー行脚はまだ続く。
飛騨ではもう滑れないので、3月のはじめSさんの発案で新潟県境まで出かけた。
60歳代2名(男1、女1)、70歳代2名(男2)の高年メンバー4名。
行く先は雪が多くてブナ林を滑ることができる鍋倉山(1289m)。
長野県と新潟県の県境を走る関田山脈の主峰で、全山がブナ林なので四季を通じて人気の山だ。
今の時期関田峠を経て新潟県へ通じる県道は集落末端から除雪がしてなく、ここに駐車。
平日だったがもう数台の車があった。
民家の裏の田から谷の左岸を登り、田茂木池のある平地に出てあとは裾をまいて谷沿いに頂上へ。
前回3月に来たときは吹雪かれて撤退したことがあるが、この日は春のような陽気。
以前は谷へ入ったが、今年は雪が少なく左岸のブナ林を登る。
主稜線を頂上へ
眺望を楽しんだ後はすばらしいブナ林が続く東尾根を滑降。
関田山脈
日本海と彦山
新潟県頚城山系の山
滑降する東尾根
途中で登りルートに合流し、往路を滑って駐車場所に戻った。
飛騨でこのようなブナ林が残っているのは、白山山麓と天生山系くらいだろうか。
昔スキーで天生集落から天生峠まで国道を歩き、猿ヶ馬場山へ登ったことがあるが、その帰り滑った籾糠山のブナ林はすばらしかった。だがここと違って遠い。
このところ天気がいい日にはまだたっぷり雪をつけた乗鞍がよく見え、飽かず眺めている。
そして特に目が行くのは優美なスロープをもった千町尾根(写真右)。もう一度滑りたいと思うが、この年では無理だろう。
春愁というべし山を見てばかり 加藤岳雄(やまお)=昔の隠居の俳句の師匠で故人
]]>高山市内から見た霊峰位山
いつも書くが、隠居は自然崇拝が本質の古神道に関心があり、飛騨一の宮「水無神社」のご神体である位山を一人信者として崇めている。
ご存じのとおりこの山は不思議なエネルギーに満ちていて、崇教〇光はじめいろんな宗教の崇拝の対象になっている。
2月末、ひとりで恒例の初詣に行ってきた。
今までは新年早々に行っていたが、雪が少ないことが多いので、ここ2.3年前から2月末か3月初めに行くようにしている。
帰路スキーで快適に滑りたいのがその理由。
笠ヶ岳 槍、穂高連峰
今年は雪が少ないのでスキーを使えるか心配だったが、問題なく歩けた。
笹のワナ、滑降時引っかかって転びふくらはぎを痛めるので怖い
静寂に包まれた森をひとり黙々と歩くのは、瞑想だといつも思う。
1時間半ほどでこの山のヘソで磐座がある神聖な「天の岩戸」に到着。
酒、塩、米などを捧げて、世界平和などを祈願した。
このあと頂上手前の広場へ行くと白山がよく見え、遥拝。
2組ほどが昼食中だった。知り合いの母娘さんがいて、一緒に写真を撮る。
次はパワーをもらうべく頂上三角点そばのピラミッド岩へ行ったがその上あたりに雪のブロックが積んであり、掘り出しを断念。
別の場所にある岩へ行って老体にパワーを注入した。ここは昔不思議な老人から教わった場所。
ここにはこの岩と、そばにピラミッド状の岩がある
あと「ご神水」まで滑降し、わずかにでている水を汲む。昨年はめずらしく凍結していて出なかった。
トラバースルートから御嶽山と乗鞍岳を遥拝。
御嶽山
乗鞍岳
隠居の人生のように屈折したカンバの木
天の岩に戻って捧げものを下げ、少し瞑想をしてから滑降に移る。
雪質もまあまあで、結構楽しめた。雪が少ないので、ワナにかからないよう注意したのは言うまでもない。
スキー場へ出ると、剣岳から乗鞍岳までの飛騨山脈と御嶽が一望でき、眺めていると飽きない。
こんなぜいたくな眺望が得られるところはめったにないだろう。
これで今年も老体にエネルギーを注入することができがんばれそうだが、今年飛騨での山スキーはもう無理なようだ。
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金剛堂山からの白木峰全容
今年の飛騨は寡雪のまま春になり、「山スキー渡世難儀の年」で終わりそうだ。
そんななかMさんから、富山県の大長谷には2m近くの積雪があるので、白木峰(1596m)なら滑れるのではとのお誘いがあり、老骨も参加させてもらった。
2月25日のことで、メンバーは山岳会の中高年男女7名。
往路途中までまったく雪がなかったが、大長谷川沿いを北上すると例年より少ないものの雪が現れた。そして昨夜も少し降雪があったようだった。
この道は、江戸期に飛騨の二ツ屋村から楢峠を越えて八尾から富山へ通じる幹線街道で、二ツ屋に口留番所が置かれていた。
今は国道になっているが、道も細く通る車もまれな峠道で、冬期間は閉鎖になる。
最奥の杉平集落にある大長谷温泉の駐車場へ。
いつもはすでに登山者の車が何台か停まっているのだが、この日は我々がはじめてだった。
閉鎖中の国道を南へ歩き、杉ヶ谷を過ぎてから尾根に取り付く。
いつもながら頂上が目的でないので、滑降地点は標高1400mあたり。
隠居はこの日体調が悪く、途中から一行に先に行ってもらった。加齢による鈍足症侯群?も加わった。(以下の写真にメンバーが写っていないのはこのため)
遅れて尾根に出てトランシーバで交信すると、先行組はすでに下降地点に到着したので待たせるわけにもゆかず、隠居はこの少し上から一人で往路を滑り、途中で合流することにした。
先行組はいつもの谷を滑降。
隠居は上の写真のブナ林の新雪を楽しんで滑り、下の林道で一行と合流。
ここで皆を待つ間に自撮り
ここから皆で登ったルートを滑降した。
あと地元の人専用の湯治場みたいな小さな温泉で汗を流す。今回は時間が早かったので我々専用だった。
ここへ寄ると、夭折した温泉所属のガイド犬=柴犬のことを思い出す。
5年前に上までガイドをしてくれた春ちゃん(春に生まれたという当時4歳のメスのシバ犬)は、その翌年お産の途中急死し、かわいそうに子供も亡くなったのだった。
ありし日の春ちゃん(2018年)
先頭に立ってラッセルしてくれ、下降も泳ぐようにして下り、随所でわれわれを待っていてくれた元気な姿を思い出した。
温泉の管理人は若い女性に代わっていたが、春ちゃんのことよく知っていた。
Mさんのおかげで今年最後のパウダーを楽しむことができ、感謝。
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老体を励まし、だまし、軋ませての山スキー行脚は続く。
今年の飛騨は雪が少なく、山スキー渡世にとって難儀の年になっている。
2月中旬に三方崩山の弓ヶ洞谷へ向かったが雪が無く、やむなく白川郷の野谷荘司山(1797m)へ転進した。
若い人3名は1時間前に高山を出発していて平瀬から連絡をもらったので、遅れて出た隠居とSさんの年寄り組はあとを追った。
豪雪地白川郷も雪が少なく、合掌集落も藁屋根が露出していた。
この庄川沿いの山域は、近年自動車道の開通で入る人が多くなり、特に山スキーは今まで気が付かなかった山やルートが対象になっていて驚く。
この野谷荘司山なども、昔は白谷に少し入ってすぐに右の尾根に取りつき、三方岩岳経由で縦走したものだが、今は白谷から直接頂上へ登っている。
このところ4月に入っている野谷荘司山の東谷は、「鶴平新道」がある東尾根の南側にある小さい谷。
東尾根の中間へ突き上げているこの谷は遅くまで雪があり、両側と上部に大きいブナ林があってなかなかいいコースだ。以前はここから頂上まで登ったことがある。
馬狩集落跡にあるトヨタ自然学校のはずれに駐車。
大窪集落跡へ入って道路を少し歩くと、谷の末端に出る。
道端にまだ残っている旧集落の消防ポンプ車庫 中にポンプ車があった
立木の間から谷へ入るが、思ったより雪があり雪崩の危険はなかった。
4月にはデブリや転石があるが、今年は雪が少ないためかほとんど見られなかった。
人形山の山塊
猿ヶ馬場山
左岸からのブロック雪崩
稜線近くまで登ると若いスキーヤー3名が滑降してきたが、皆うまかった。
合掌集落を俯瞰
このあと先行したわが仲間も降りてきた。「鶴平新道」の東尾根まで行って戻ったとのこと。
彼らは先に下って行ったので、我々は稜線近くまで登ってから滑降を開始。
雪が腐っていて快適とは言えなかったが、時々ブナ林へ入ったりして急斜面を楽しんで滑った。
滑り降りた沢の末端は、かつて集落があった大窪。
30数年前までは大窪にまだ人が住んでおられ、「白山の主」といわれた大杉鶴平さんがご健在だった。
彼は白山北縦走路の再興者で、野谷荘司山へもあらたに登山道をつけ、これは今も「鶴平新道」と呼ばれている。
隠居は山の帰りに大窪のご自宅へ寄って、山の話を聞かせてもらったことがある。
その後大窪も馬狩も廃村になり、トヨタが買った。
人の世はまさに栄枯盛衰。
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上野平から見た猪臥山の山塊 右の白いピークが頂上 北西尾根
「飛騨の展望台」といわれるくらい眺望がすばらしい猪臥山(1518m・いぶせやま・いのぶせやま・いぶしやま)は、昔から飛騨の岳人に親しまれてきた山スキーの山だ。
毎年北西尾根のきれいな雪稜を遠望しているとなぜか無性に登りたくなり、この年になっても年に一度は訪れている。
今まで何回登り、滑ったことだろうか。
近年猪臥山トンネルが開通し、それまで入れなかった南面の彦谷から登山道がついて短時間で登れるようになり、今やこちらがメインルートになって冬でも登る人が多い。
もともとの登山道は、北側の畦畑集落から小鳥峠経由で北西尾根をたどっていたことを知らない人も増えてきた。
高度経済成長期にこの北西尾根を削って頂上直下まで林道が敷設され、名山の価値を台無しにしてしまったが、冬期間だけは昔の姿を取り戻す。
このため隠居は、めったに人に会わない静かな畦畑ルートから登ることが多い。
畦畑集落の昔ながらの山村風景を見て安らぎ、小鳥峠の阿弥陀様にお参りするのも楽しみの一つだ。
今年も畦畑から登ろうと思っていたら、神岡のスキークラブのHさんからお誘いがあった。
ルートは彦谷からだったので、頂上から畦畑側へ下ろうと目論んだ。
ところが、その前日畦畑から登った古川のOさんから、畦畑上部の林道で大規模な伐採が行われていて、平日の通行は難しいとの情報提供があったため、急きょ畦畑下降は断念した。
平日だと言うのに、トンネル入口の駐車場にはすでに15台くらい停まっていた。
皆さん一様に歩行で、駐車場からアイゼンを着け、しっかり踏み固められたルートを往復していた。
スキーは我々だけ。珍しいのか声をかけられ、道具の説明を求められ、写真を撮られたことも。
昔の猪臥山を知っている老スキーヤーは、「スキーの猪臥はどこへ行ってしまったのだ」と、嘆かざるを得なかった。
今年は雪が少ない
メンバーは、神岡BCスキークラブのNさん(82歳)、Mさん(80歳)、Hさん(67歳)、Oさん(40歳代)と隠居。
時々ご一緒するNさんとMさんは、隠居より年上ながら未だ山スキー熱が衰えず、体力もお強いので、敬服し、励みにさせてもらっている。MさんとOさんはテレマーカー。
現役の消防士であるOさんはめっぽう強く、今回もあっという間に先へ行ってしまった。
頂上稜線が見えだす
既に下山してくる人に何組かすれちがう。
例年より雪が少ないが、1月のはじめ乗鞍で引っかかって怪我をした以来恐怖症になったヤブは幸いほとんど出ておらず、安堵する。
頂上の祠も雪が少ない
飛騨山脈を一望
頂上には高山からの男女混成老人パーティが10名くらいいたが、なかに知っている人もいた。
御嶽山を遥拝
霊峰白山を遥拝
人形山 三ヶ辻山の山塊
金剛堂山(奥の白い山) 尾崎山(手前の丸い山)
白木峰
乗鞍岳
黒部五郎岳 笠ヶ岳 穂高連峰
頂上で少し休んだあと、雪崩の心配がないことを確認し、頂上から直接彦谷へ滑降した。
雪質がよく、下手な隠居でもうまくすべることができて満悦。
谷へ下りると谷底は雪が少なくて滑れず、両岸の山裾のトラバースを余儀なくされたが、あっという間に林道へ出た。
そして林道を結構なスピードで滑り駐車場へ。
今日も年相応な満足が行く山行ができ、感謝、感謝。
老い先が短くなった偏屈隠居は、この年になったら世の中と折り合いをつけるのがめんどうになり、どうでもよいつきあいなどは一切り捨て、真に楽しいことだけに絞っている。
それは、面白くていまだに現を抜かしているこの山スキーを筆頭に、半ボケの頭での読書と少々の書き物、そしていつもの酒場で気が置けない友との取り留めのない談笑くらいだろうか。
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ひるがの高原から見た大日ヶ岳(上)と別山、白山(下)
ふくらはぎの肉離れがなんとか治ったので、また老骨を軋ませて山スキー行脚を開始。
このところパウダーを求めて毎年通っているのが大日ヶ岳(1,709m)。
今年も天気がいい2月のはじめの平日にFさん、Sさんと出かけた。
フロントへ登山届を出してゴンドラに乗る。
ゴンドラ1本で一気に標高1,550mまで運んでもらえるので、年寄りにはありがたい山だ。
平日なので登山者は少ない。
奥に日照岳の尾根
野伏ヶ岳
御嶽山に拝礼
乗鞍岳 御嶽山
日照岳
乗鞍岳(上)と飛騨山脈(下)
今年は雪が少なく、頂上の方向盤や大日如来石像は露出していた。
大日如来の真言「オンアビラウンケンバザラダトバン」を唱え、霊峰白山を遥拝。
宇宙そのものを神格化したものが大日如来で、山であう雨や風、森林や谷、滝などはすべて大日如来の語られる真理と言われる。
頂上から真北に落ちている大日谷のブナ林へ滑り込む。
トレースがほとんどなく、上質のパウダーが楽しめた。
下部まで滑ってから頂上まで登り返し、また滑った。
大日谷から見た別山と白山
頂上で少し休んでから叺谷へ滑り込む。いつもより灌木が多く、大日谷ほど快適ではなかった。
頂上からの荒島岳
あと叺谷からブナ林を稜線まで登りスキー場へ。
帰路荘川の桜香の湯に浸かって疲れた老体を労わってから帰った。
この年になっても面白くてやめられないのはなぜだろうと、惚けかけた頭でいつも考えているが、明治の登山家田部重治は山スキーを礼賛して次のような文を書いている。
「スキーによる冬山の登攀の実現性は、絶えず、それからそれへと希望によってつながれる現実性である。つまりそれは幻滅を感ずることのない理想の具現である。幻滅的な人生におけるもっとも理想的な刹那である。・・・私たちはそれにおいて凡てをただ現実の刹那に集中せしめて何等の後悔を感じない」(「冬山」・昭和7年)
哲学的で難解ながら、「理想の具現、理想的な刹那・・・・」少しわかる気がする。
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乗鞍で肉ばなれになった足もだいぶ治ったので、ならし運転のため、山岳会の山スキー研修=雪崩埋没者の探索訓練に参加した。
1月末の寒い日で、場所は乗鞍岳第3尾根末端の久手牧場。
ご存知のとおり山スキーヤーの必携装備は、?雪崩ビーコン(電波の受信・発信器)?プローブ(ゾンデ・探索用の長い棒)?ショベルの3点 で、万一の場合これを使いこなすことが雪山に入る者の義務になっている。
これをセルフレスキューと言い、救助隊到着を待たずにパーティメンバーが自らの能力で捜索し、発見する努力をする。
常人からは「そんな危険なところで行かなければいい」と、いつも言われるが・・・。
この日の訓練は、1つのビーコンを雪の中に埋め、自分のビーコンを探索モードに切り替えて短時間で探すのだが、これは年に一度は訓練が必要。
隠居のビーコンはもう旧型になっているが、若い人が持っている最新機器は感度がよく、表示もわかりやすくてすぐに埋没地点へ到達できた。
埋まった場所がビーコンでだいたい特定できたら、プローブを雪に突き刺してピンポイント捜索をし、探り当てたらすぐスコップで掘り出す。
5分以内にピンポイント作業で見つけ、10分以内に掘り出すと生存率が高い。
ヨーロッパのデーターでは、15分以内の発見救出は生存率93%、45分後26%、90分後18%になっている。
掘り出したあとはツエルトにくるんでの搬送が必要だが、今回は割愛して上部へ向かった。
今年は雪が少なくヤブが多いので、ヤブ恐怖症になった隠居は牧場上部までとし、あとの連中は夫婦松へ向かった。
一足先に下ったが、パウダーの新雪に加齢なシュプールを描くことができ、おおいに満足した。
隠居の加齢なシュプール 登り返して遊んだ
幸い足もなんともなく、これで復帰できそうだ。
以下は夫婦松までいったメンバーが撮った滑降の様子を拝借。
雪崩の話あれこれ(昨年掲載したものを改稿)
隠居は幸いにしてこの年まで雪崩に埋まったことはないが、小さいものに少し流されたり、何回か大きいものを目撃したことはある。
幸い今日まで生き延びてきたが、雪山では常にその危険にさらされているので運がよかったと言える。
それと生来臆病なので、そういう場所をできるだけ避けてきたということもある。
最近では2018年3月17日、白馬乗鞍岳の斜面で発生したのを天狗原で目撃した。
10分くらいの間に2ヶ所で発生したが、いずれもスキーヤーが誘発。
雪崩の下部に人が見える
別の場所で起きた破断箇所
2ヶ所ともスキーヤーが巻き込まれたが、幸い最下部まで流され、自力で這い出てきた。
発生は62%が誘発で、38%が自然発生といわれる。
このあたりでは先月外国人が2人亡くなっている。
雪崩のうち97%が表層雪崩で規模、破壊力が大きい。前述の外国人も爆風で飛ばされたと聞く。
隠居の若い頃は雪崩ビーコンがなかったので、「雪崩ひも」といって危険な個所を通過する時、赤い長い紐を腰に付けて引きずって歩いていた。
これは登山道具店で売っていた。
そして万一埋まったら、他の者が表面に出ている紐を伝って掘ればいいという原始的な方法を採っていたが、幸いお世話になったことはない。
その前に雪崩に遭わないようにすることが重要で、弱層テストや周囲の観察など、雪崩のメカニズムを勉強することも必要だといわれている。
雪崩学の専門家からは、「自己の感覚には距離を置け」と叱られるであろうが、隠居は雪崩発生を予知する「感」というものがある気がする。
これは子供のころから雪国で暮らし、冬山へもしょっちゅう登っている者のある種の「動物的感」であろうか。
今でも雪山へ行っていて、なんとなく「ここはやばい」と思うことがあるが、雪崩に埋まったベテラン猟師小林喜作の例もあり、やはり正常、楽観のバイアスにとらわれがちな自己の感覚には距離を置くべきだろう。
今では「雪崩ひも」にかわって「雪崩ビーコン」という電波発受信器だが、最近は認知症の徘徊老人用の簡易型が出回っているそうなので、隠居はまもなくそれを身に着けることになりそうだ。
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掲載が遅れたが、今年も岐阜県山岳連盟がカレンダーを作った。
毎年加盟の各山岳団体会員から写真を募り、山岳写真家を交えた選考会で選んでいる。
撮影場所は原則として岐阜県と隣県の山に限定したもので、今回も応募した。
隠居はこのところ毎年2点入選していたが、今年は4月の西穂沢スキー登山のみ。
そして表紙上には蓮華温泉からの朝日岳の朝焼けも選ばれた。
山仕舞い間近の隠居としては、お情けだろうが毎年選んでいただけ、光栄なことである。
1月 笠ヶ岳クリヤ谷からの槍穂高
2月 鈴鹿・霊仙山
十石山からの乗鞍岳
4月 西穂沢の登高 隠居の駄作 西穂高岳頂上北から滑降した
5月 北八ヶ岳の樹林
6月 笠ヶ岳小倉谷
7月 御嶽継子岳のコマクサ
8月 槍ヶ岳北鎌尾根
9月 黒部五郎岳のカール
10月 北の俣岳
11月 大倉尾根からの白山
12月 スポーツクライミング 岐阜聖徳学園高校のウォール 山岳写真ではないが、種目が山岳連盟の管掌なので毎年一点は入れてある
表紙 蓮華温泉からの朝日岳 2022年4月に撮った隠居の駄作 蓮華温泉からスキーで登り頂上から滑ってきたが、けっこう長いコースだった
いつも書くが、山岳写真は「1粒で2度おいしい」グ〇コのキャラメルみたいなもので、見ているとその時の山の記憶がよみがえり、風までも吹いてくるようだ。
ほんとうの(ほんとうがあるかどうかは自信がないが)山岳写真はあまり人物を入れず、光と影の絶妙なバランスを重要視しているが、山岳連盟のものは風景に登山者がいて、自分がそこにいるような、そこへ行きたくなるようなものも選考の基準に加えているような気がする。
隠居のものを除いて傑作ばかりなのでご高覧を。
雪山や岩山もいいが、無雪期の黒部五郎岳カールや北の俣岳の草原のびやかな広がりもいいものだ。
今年あたり冥途へのみやげにもう一度のんびりと歩きたくなった。
]]>今年になっても飛騨は寡雪で、高山市街地はご覧のとおり(1月19日)
毎年掲載していて代り映えがしないコースですが、新年の清澄な山の空気をお感じ下されば幸いです。
毎年年初めに行く乗鞍高原からの乗鞍だが、今年は雪が少なくダメだろうと思っていたら、2〜3日前に行ってきたNさんの情報で大丈夫だということがわかり、3人で行ってきた。
いつも書くように、乗鞍岳は剣ヶ峰から飛騨側に派生している千町尾根がいちばんすばらしい山スキーフィールドだと思うが、なにせアプローチが長いのでなかなか入りにくい。
このため、年に1〜2度はスキー場のリフトで標高2000mまで運んでもらえる信州の乗鞍高原から登ることにしている。
リフト2基を乗り継いで上部へ。
山は連休なのに登る人が少なかった。
やはり雪は少なく、上部の急斜面は灌木が出ていて、いつもと様相がちがった。
森林限界に出たが強風に雪が混じり、予報通り天気が悪くなってきて、視界も悪くなった。
このためしばらく登ってから上部はあきらめて滑降に移る。
森林限界のダケカンバの下を滑降中の隠居は、埋まったヤブにスキーがひっかかり、体だけ前に行って転倒して左のふくらはぎをのばしてしまった。
助けてもらってなんとか起き上がったものの、傷みがあって滑降できるかどうかわからなかったが、なんとかだまし、だまし下ることができた。
経年劣化した老体を騙しながら下る
家へ帰ったらさらに痛くなり、肉離れでまだ接骨院通いをしている。
今週末にはなんとか復帰できそうだが、今のところの飛騨は相変わらずの寡雪。
明日から大雪との予報があるので期待したいが、山だけ降って里は少なければありがたい。
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掲載が遅れましたが、正月の山のご報告を。
毎年同じことを書くが、普段書斎の片隅でおとなしくしている愛用のピッケルとアイゼンが、冬になると「吹雪の稜線が恋しいので連れて行ってくれ」とせがんでくる。
今はもう昔のように重荷を背負って深雪をラッセルし、テントで越年をすることがなくなったので、軟弱ながら、毎年ロープウェイを使って西穂高の稜線を歩いてくることにしている。
この正月の3日、同行予定のFさんが急に都合が悪くなったので、隠居1人で歩いてきた。
この冬の飛騨の雪は、昨年12月24日以降ほとんど降ってなく、西穂山荘までも例年より少なかった。
そして3日であったためか、登山者も少なかった。
余談だが、近年駅から山荘までの間で皆さん全員アイゼンを着用している。
古い登山者の隠居は、「アイゼンは森林限界から上のクラストしたところではじめて着用するもの」を金科玉条にしていて、今まで山荘まで着けたことがことがなかった。
ところが今回、状況によっては着けた方が体力の消耗が少ないことに気が付いた。
ほとんどの場合このコースは人の通過が多いので踏み固められ、特に急斜面ではキックステップの労力がいるからだ。
このため、中ほどの急登になる手前ではじめて着用したが、なるほど余分な体力を使わず済んだ。要はケースバイケース。
元旦から冬型の気圧配置が続いていて、稜線に出ると風雪が強く視界が悪かったが、そのぶん冬山気分を満喫することができた。
風雪が強いので途中から下る人が多く、独標向かうのは西穂頂上から先へ縦走しそうな重装備の若い人2人のほか誰もいなかった。
2人の後を登ったが、彼らは独標で休まず先へ進んで行った。
実は独標の登り手前で右のアイゼンが緩み、しめなおしてもまた緩んだで、だましだまし頂上へ。
頂上ではずして見ると、長さ調節部分の金具が折損していることがわかり、独標を下った所で外して片足で下った。
ひどいクラストでなかったので難なく下ることがきた。最近の外国製は着脱には便利だが、こういうことがある。
その前まで愛用していた国産のTANIアイゼンは調節もでき、すぐれものだと思う。
近年ロープウェイの始発時間が遅くなって、老人の足では日帰り西穂高往復が厳しくなり、独標までがせいぜいだ。
これもいつも書くが、この時期ロープウェイから眼下を見ていて思い出すのは、まだロープウェイのないころ新穂高からの深雪ラッセルにあえいでいた若き日の自分だ。
新穂高から鍋平へはいきなりの急登でたいへんだったし、このあと西穂山荘前のテント場まで途中で1泊が必要だった。
当時(約半世紀前)は、今よりずいぶん雪が多かった。
毎年楽しみにしているこの冬の稜線歩き、いつまでできるだろうか。
年を取るということは、思うような満足がゆく山行ができなくなるというあたりまえのことを、鈍感な隠居は今頃になってつくづく感じている。
1月12日の夕映え
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乗鞍岳( 12月28日)
明けましておめでとうございます
旧年中は下手なブログをのぞいていただき、まことにありがとうございました。
笠ヶ岳と槍ヶ岳
穂高岳
登山寿命(本体も)が短くなってきて、いつまで続けられるかわかりませんが、本年もよろしくお願い申し上げます。
諸賢も年頭には寺社に参拝されると思いますが、通る人がいなくなった峠で、役目を終えてさみしそうにしておられる神仏にもお参りいただければ幸いです。
千光寺峠(柏原峠)の地蔵様 (旧丹生川村柏原集落〜千光寺〜同下保集落)
消えつつある飛騨の峠を探し歩いてもう10年以上経ち、その数は30を越えた。
峠道に入ると大部分は既に笹ヤブに覆われ、倒木があったりしたが、そこには長い年月の間に人や牛馬によって踏み固められたしっかりした道が残っていた。
ヤブ漕ぎなどの苦労はあったが、その峠道が記憶しているはずの歴史上の出来事などに思いを馳せながら歩いていると、牛にうず高く荷を積んだ牛方(どしま)や、旅人など昔の人に出会いそうでまことに楽しいものであった。
そして深山でも時の流れをこえて人のぬくもりや息遣いが感じられ、なぜか懐かしささえ覚えた。
ある峠では、往時の旅人が野の花などを手向けて道中の無事を祈ったであろう地蔵様が、ポツンと孤独に耐えて?残っておられた。
この昔の人の小さな祈りの場に、今後おそらく訪れる人がないと思うと申し訳なく、去る時後ろ髪を引かれる思いがした。
不動峠の地蔵様(下呂市野尻集落〜同蛇之尾集落) この地蔵様は、昔峠の下で不幸な死に方をしたかわいそうな少女おはつを、今も供養しておられる。
青木峠の地蔵様(神岡町山之村下之本集落〜神岡町佐古集落) 春に富山へ出稼ぎに行く馬を家族皆で涙ながらに見送った峠。山之村が新緑に覆われるころ、馬は2ケ月半の労賃の米をもらって帰ってくるが、連日の田起こし、代掻きなどの激しい労働でガリガリに痩せていた。あとは家族の一員として大切にされ、給餌は一番先だったという。山之村の人が馬の無事を祈った地蔵様。
青木峠の馬頭観音 峠の途中で愛馬が谷に落ちて死んだので持ち主が建てたそうだ。 その方のやさしさそのままのお顔。
牧坂峠の石仏(神岡町旧笈破集落〜同牧集落) 旧笈破集落の子供たちは、毎日この前の道を下って漆山にある小学校へ通った。標高差600m。往復に小さな手を合せたのであろう。昭和の終わりに廃村になった。
からお峠の地蔵様(神岡町山之村和佐府集落〜富山県旧有峰集落) 北飛騨を支配していた江間家の重臣の子息2人が冬に遭難死、その姉が供養のため安置したという。
そのうちの1体が発見された。
笈破峠の男女神像(神岡町山之村 伊西集落〜旧笈破集落) 山之村から、あるいは笈破からの花嫁が歩いて越えた峠。 隠居が峠に着いた時、熊の仕業で祠が倒れ、石仏が枯葉に埋まっていた。水筒の水で洗って差し上げ、祠のなかへ戻っていただいた。
花嫁が越えた峠というと、串田孫一の次の詩がいい。
「登りに三里、下りに三里のこの峠を、花嫁は、老いた母に連れられて越した。
ミスナラの梢で頬白が鳴いていた。
たくしあげた着物の裾から、わらじの足が白かった。
かつて峠を越した花嫁は今は谷間の村の村はずれ、水車の廻る流れの脇で、孫を相手の、金褐色のおばあさんだ」
御坂峠(金山峠)の地蔵様 (旧丹生川村金山集落〜旧上宝村堂殿集落)
龍ヶ峰峠の道祖伸(旧清見村中野集落〜同楢谷集落) 珍しい男根の道祖伸は、縄文時代の生殖器崇拝のなごり。
有本峠の地蔵様(下呂町門和佐集落〜白川町佐美有本集落)
三川峠の馬頭観音(旧丹生川村柏原集落〜旧国府町三川集落)
山本峠の地蔵堂(旧国府町桐谷集落〜同山本集落)
有巣(あっそ)峠の千手観音(旧清見村坂集落〜同有巣集落) 真宗王国の旧清見村では、阿弥陀如来の従者である観音菩薩を安置。
伊佐峠の馬頭観音(下呂市門和佐集落〜白川町佐美吉田集落)
粟畠峠の馬頭観音(高山市滝町〜同塩屋町)
金山峠(御坂峠)役の行者像
平湯街道まこも坂の馬頭観音(高山市松之木町〜旧丹生川村) ウェストンが通った坂。登りきると飛騨山脈が一望でき、ウェストンが感激している。
大西峠の地蔵堂(旧久々野町大西集落〜高山市江名子町)
猪之鼻峠の石仏(旧朝日村黍生集落〜旧高根村猪之鼻集落) 信州へ糸引きに行く工女さんたちが手を合せた。
野麦峠の地蔵堂 峠手前(飛騨側)の標高1648mにござる地蔵様は、ある糸引き工女さんが峠で生み落として密かに始末をした赤子を、後年供養のために安置したという哀しいいきさつがある。
野麦峠信州側の観音菩薩様 工女さんたちが手を合せたのだろう
なお、自動車道路になったが通る車がほとんどなく、冬は雪で交通止めになる峠もある。それらは今も昔の峠の雰囲気を残していて、神仏がおられる。
坂本峠の地蔵様(旧清見村大原集落〜郡上坂本集落)
小鳥峠の阿弥陀如来堂 毎年スキーで猪臥山へ行く時参拝している。
森茂峠の地蔵堂 旧森茂集落に住んでいた木地屋の寄進といわれる。隠居は栗ヶ岳へ山スキーに行く時、いつもこの峠から尾根に取りついた。 森茂集落は昭和40年代に廃村に。 分校ができる明治40年代まで集落の子供たちは、片道3時間あまりを下の池本小学校まで通った。子供たちが手を合せた地蔵様は今も健在。
茂住峠の地蔵様
山中峠の地蔵様
楢峠の葛地蔵 麓の旧河合村二ッ屋集落の人が、飢饉のとき蓄えていた葛の粉で助かったので、そのお礼に建てたといわれる。
連坂峠の地蔵様
野多押峠の地蔵様
杉越峠の地蔵堂
保峠の地蔵様
現地で探索と言う肉体労働あとは、麓で実際峠を歩いたことがあるお年寄りに聞き取りを行う。
この「聞き取り」について在野の民俗学者谷川健一は、「柳田國男や折口信夫のころは田舎へ行って農家の縁側に腰をかけて梅干しなんかをしゃぶりながら座っていると、自然とそこに生きている民俗が伝わってくる時代だったが、高度成長期以降はたいへん難しくなっている」などと言っている。
確かにこの時期から生活様式が大きく変わり、峠を歩くこともなくなっていった。そして今では峠歩きを経験した方の多くが鬼籍に入られ、聞き取りが難しくなっている。
それでもお年寄りにお会いできた時は、一様に快く昔のたいへんなご苦労を今では懐かしみながら話していただけ、ありがたかった。
長年飛騨の風土とともに生き、そこの風土を体現しているような方とお話をするのは心がなごみ、まことに楽しいものだった。
今、お会いしたたくさんのお年寄りのお顔が目に浮かぶが、そのあと世を去られた方もおられるだろう。感謝の他ない。
以下余談
飛騨に限らず、日本中のたいていの峠には神仏が安置され、通過する人々が旅の安全を願って手を合せたが、その神仏には次のような種類があった。
・地蔵菩薩―お釈迦様が入滅されてから人間世界に如来がいなくなったので、56億年後弥勒菩薩が出現されるまで我々を救っ ていただいている。峠に一番多い。
・馬頭観音―観音菩薩は無限に姿を変えられるが、そのうちの一つが馬頭観音。天馬のように縦横無尽に駆け回り、あらゆる障害を乗り越えて目的を達成される。その奮闘ぶりは馬が草をむさぼり食うのに似て、人々のあらゆる煩悩を食い尽くすという。よく見られるのは、三面八臂像の立像。頭に馬の頭を載せておられる。
また日本では馬が重要な交通手段だったので、鎌倉時代以降に交通安全の守護神としての独自の信仰が生まれ、特に地方の農村地帯の街道にその石像が多く立てられ、馬を大切にした飛騨にもたくさんござる。
・道祖伸―村の守り神として村境に祀られ、村人が子孫繁栄や厄災の侵入防止等を祈願した。別名塞の神。いろんな種類があるが、男女二像で、肩をよせあっているほほえましいものもある。
・庚申様―中国道教の三尸説が日本に伝来し、習合と複合した信仰。かのえさる、こうしん。青面金剛と道案内の猿田彦神を祀る。青面金剛と三猿の像が多いが、文字だけのものも多い。
・山の神―山の民を守る神。祠に祀られることが多いが、自然石に字を書いたものもある。
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五色ヶ原入口から輝山
このところ飛騨にも降雪があって、今年も山スキーシーズンが到来した。
下手ながら半世紀以上続けている山スキーだが、毎年これで年貢を納めようと思いつつ、雪を見るとまたそわそわしてくるので困ったものだ。
若いスキー仲間Fさんから、恒例になっているシーズン初めの装備、服装の点検に乗鞍へとのお誘いがあったので行ってきた。
昨年は11月28日に出かけている。
隠居の場合は、老体の体力点検のほうが主目的だ。
このボケ老人、目覚まし時計のセットを間違えたので集合時間に間に合わず、夫婦松からさらに上へ行く予定の若いFさんNさんに先行してもらった。
待っていてくれた老人組Sさんと30分遅れで出発。
ほうのき平スキー場手前あたりから圧雪があった。平湯峠登り口で約20?、気温はマイナス7度。
いつも滑る対岸の第3尾根はまだヤブの山で、ほうのきスキー場もまだオープンしていない。
駐車する国道の路側帯にはすでに何台も停まっており、同好の士の考えることは同じだ。
平湯峠への道路のトレースをたどる。
第3尾根のようす
風が強い平湯峠はほとんど雪がない。
御存じのとおり、ここには若山牧水の「のぼりきて平湯峠ゆみはるかす飛騨のたいらに雲こごりたり」の歌碑がある。
白骨温泉からこの峠を越えで高山へ下った牧水は、早稲田で一緒だった詩人福田夕咲に会って大いに飲んだ。
2人とも、今で言う「アルコール依存症」であった。
峠の平湯側に、歩く時代に旅人を見守ってくれていた地蔵様などが祠に入ってさみしそうにしておられるので、真言を唱えて拝礼をする。
スカイラインに入る。
2020年7月の豪雨で崩落した個所は、全面復旧を終えて今年の9月10に開通予定だったが、どうしたわけかその前日にまた崩壊し、そのままになっている。
通過できるか心配したが、1ヶ所だけ30?くらいの幅の2mほどを通過すれば、あとは山側を歩けた。
予報通り途中から天気が崩れ、風雪となる。はや何人か滑ってきた。
焼岳も霞んできた
輝山の南尾根はまだこんな様子
輝山
夫婦松に着き、少し先に到着していたSさんと合流。
隠居より少し若いSさんは、日ごろジムでのトレーニングを怠らないのでめっぽう強い。
大崩山、猫岳へ行く尾根ルートはヤブが出ていて無理で、先行パーティは皆スカイラインを登っている。
年寄り組2人はここまでとし、風雪も強くなってきたので早々に滑降に移る。
この道路滑降ルートは、結構スピードが出てなかなか面白い。
登り約3時間を、下り20分少々で駐車場所に戻った。これだからやめられない。
今回の反省は、トランシーバーの電池が切れていたくらいであとは忘れ物もなく、登下降の準備もスムーズにできた。
少し靴擦れが起きたが、初回はいつもなので仕方がない。
肝心な体力の方は、老亀の歩みながら1回も休まず上まで行けたので、今シーズンはなんとかなりそうだ。
さて今シーズンはどこの山を滑ろうか。
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老体のエネルギーが枯渇してきたので、また飛騨のピラミッドに登り、充電してきた。
以前にも書いたが、ピラミッドというのは、古代科学にのっとったある種のエネルギー制御のタワーらしい。
人体には、解剖学で不可視の存在である「経絡」というものがあることは知られているが、大地にもそれがあり、昔から「龍脈」とか「風水」とか呼んでいた。
人体に生命のエネルギーが流れているように、大地にもエネルギーが流れていて、中国では「龍脈」といって、王宮や新都建設などに風水師がこの龍脈の焦点を探していた。
飛騨のピラミッド山の研究者上原氏によると、巨石群がある位山は山自体が巨大なエネルギー体であるが、飛騨に広がるピラミッドゾーンを統合する地点は旧丹生川村大谷の日輪神社であるという。
日輪神社の裏山には去年に秋に登り、今年はじめブログに載せた。
この日輪神社を中心として飛騨一帯を16方位に等分したところに飛騨の太古のピラミッド伝承の神山が点在するという。
このうちの一つが、旧朝日村と旧久々野町の境にある日ノ観ヶ岳。
昔久々野町の柳島から登ったことがあるが、今回は東側の旧朝日村小谷集落から入った。
どちらから登っても登山道はなく、読図が必要。
わかりにくい谷からの入口
道らしきものはここまで
道は主稜線への支尾根末端で消えており、あとは急峻な尾根を登る。
主尾根に出て、枯れ木で降り口の目印を置き、あとはひたすら尾根を歩いて頂上を目指す。
途中尾根上に何カ所も倒木があり、迂回しながら進む。
道がない山を独り黙々と落葉を踏んで歩くのは、そこに住む獣になったようで楽しいものだ。
背後の木の間越しに白い飛騨山脈が見えだすと、岩に囲まれた頂上に出た。
記憶になかったが、頂上には立派な祠があり、中に阿弥陀如来の掛軸があったので、「南無阿弥陀仏」を唱える。
下山後小谷の老婆に聞いた話では、頂上には木彫りの仏像があったが何者かに盗まれてしまい、今は掛軸になっているそうだ。
祠は小谷集落のものだが、最近では登る人はいないとも言っておられた。
頂上から北で出ている尾根を少し下ると飛騨山脈がよく見え、写真を撮る。西には白山が望めた。
乗鞍岳
霊峰白山を遥拝
槍、穂高岳
南岳 涸沢岳 奥穂高岳 吊尾根 前穂高岳
秀峰笠ヶ岳
黒部五郎岳
以前登った西側からのルートには頂上直下に大きい岩場があり、その上から舟山、位山、そして御嶽まで見えた覚がある。
この山から、そして飛騨山脈からエネルギーを貰い、往路を下った。
昔この山のことを何かの本に書いたような気がしたので帰ってから探してみると、平成5年に発刊された『続・ぎふ百山』(岐阜県山岳連盟・岐阜新聞社)であった。
頂上から見る乗鞍岳のご来光がすばらしいことが山名の由来で、昔は地元の青年が登山する慣わしがあったなどと、『朝日村史』を引いて駄文を書いている。
麓の小谷集落にある『長円寺由来記』に、この寺の開祖について「何れのころからか日ノ観ヶ岳より一仙人出て、小谷の麗女淵(現在飛騨川におな淵がある)より美婦一人現れ、両者和合して阿多野郷を開発した。後ある人がその初発を探り、元祖仙人を小谷正長と崇め、自らは小谷正安と名乗った」と書いてあることも紹介している。
そして前述の頂上付近にある岩場は、太古の太陽崇拝時代の祭祀遺跡である、などとも。
今も拙い文を書いているが、昔のはさらにひどく、今見ると恥ずかしい限りだ。
これで老体にエネルギーを注入できたので今シーズンもなんとか山スキーを楽しめそうだが、まだ雪が降らない。
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11月25日(金)の乗鞍岳
笠ヶ岳と槍ヶ岳(右)
今まで薄く冠雪していた飛騨山脈は、23日の雨でようやく白くなった。
飛騨人はこれを見て本格的な冬の到来が間近なことを知り、今年もまた厳しい季節を過ごさなければならないと、覚悟をあらたにするのである。
去年は11月28日、平湯峠からスカイラインを夫婦松まで(若い人は猫岳の下まで)スキーで歩き、帰路滑降を楽しんだが、今年はまだ無理だろう。
国土地理院の2万分の1の地形図にまだこの峠が載っているので、11月中旬に入ってみた。
隠居はこの峠を半世紀以上前に越えている。
昭和41年6月19日、山岳会主催の市民ハイキングが鈴蘭高原で行われ、入会間もない隠居も係員として参加した。
秋神の西洞までバスで行き、ここから歩いて高原に遊び、細尾峠らか阿多粕谷へ下って国道41号からバスで帰った。
飛騨には珍しいなだらかな広い地形の高原に鈴蘭など夏の花が咲き乱れ、御嶽山が眼前にそびえていた。
高原は放牧場になっていて、昼食を食べていたら牛が食塩を求めて寄ってきて逃げた記憶がある。
その後間もなくこの高原は、スキー場、ゴルフ場、別荘地として開発され、峠などは無くなってしまったのではないかと思っていた。
まず阿多粕集落側から入る。
集落入口の左側に江戸期の「口留番所跡」の表示があったので車を降りて石段を登ると、石積の屋敷跡が保存されていた。
ここは「中関」といって、飛騨国内の中間にある関所として金森時代に設けられたが、幕府領になってから順次廃止された。
『飛騨國中案内』には、「河内郷阿多粕村家数5軒、口留御番所1カ所あり、村より秋神の内、西洞村へ行道有り、字【やせ尾】といふ」とあるので、江戸中期にはまだ廃止されていなかったようだ。
このあと林道の様子を聞くため家の前におられたSさんに話しかけると、別棟の小屋へ案内された。
ログハウス調の建物には薪ストーブが焚かれ、テーブル式の囲炉裏もあって、骨董品も並ぶSさんの趣味の部屋で、ご友人と酒宴をやられるなど、接待所も兼ねているようだった。
ここでいろいろお話を伺った。
林道は一昨年の豪雨で何カ所も崩落し、現在復旧工事中だが、今日は休日なので入れるだろうとのことだった。
そして、昔阿多粕谷の奥に木地屋そうべいという人が住んでいて、どこかへ去る時集落へ大小の刀を寄付していったので神社に保管されていることや、細尾峠へ至る家の前の道は善光寺街道と聞いていることなどを話された。
辞去するとき、大根とブドウをいただいた。
林道はだいぶ奥まで入れたが、崩落個所の手前に駐車して林道を歩く。
六郎洞山
途中から地形図に載っている峠道に入った。道の形状は残っていたが、全面笹に覆われ悪戦苦闘。途中で力尽き、戻る。
国道41号からこんどは木賊洞と朝日町を結ぶ林道へ入り、朝日ダムサイトを秋神へむかう。
地形図を見ると峠の位置はゴルフコースと接している。
プレー中コースに入るわけにもゆかず、旧スキー場の道路から入って、コース周辺の笹原を迂回した。ここでもたいへんな笹薮漕ぎとなった。
旧鈴蘭スキー場の入口 国体まで行われたのに閉鎖
ここでもたいへんなヤブ漕ぎになり、ストックを紛失
峠の場所に到達したら、プレーしている人から猪と間違われたが、「古い峠を調べている」と説明し、納得してもらった。
実は隠居も昔このコースで何回かプレーしたことがある。仕方なく娑婆のつきあいをしていたころの話だ。
年をとったらゴルフ場でなく、ヤブの中を歩くようになってしまった。
秋神側は古地図では黒見谷へ下っているが、ゴルフ場の盛り土で消えていた。
稜線の半分はゴルフ場になっていた
阿多粕側の道はそのまま残っていたので、笹を漕ぎながらしばらく下ってみた。
ゴルフコースは3時を過ぎたら最終組が通過して人がいなくなったので、昔の地形図に従ってコースを横断し、黒見谷へ入る。
?14 PAR4 260YDS 眺望がいい
峠の位置
笹薮のなかに道が所々にあった。
道路を横断してからも谷沿いの笹の中に残っていたが、途中から戻る。
昔益田方面の人は、長野の善光寺参りにこの細尾(やせお)峠を越えて秋神に下り、こんどは宮の前から鳥屋峠を越えて旧高根村へ下り、江戸街道に入って野麦峠へむかった。
このため細尾峠道は善光寺道と呼ばれていた。
この峠に登り着いた善男善女たちは、眼前に現れた乗鞍と御嶽の威容に思わず手をあわせたことだろう。
西洞集落でお年寄りに話を聞くことができた。
Kさん男性・80歳は、
「この峠には昔鳥屋場があったので、地元ではトヤ峠と呼ばれている」
「自分は峠を越えたことはないが、親たちは熊よけに風鈴を鳴らして峠付近へワラビ採りにいった」
Oさん(女性・88歳)は、
「小学生のころ、遠足で峠を越えて阿多粕へ下り、高山線の線路を見に行った」
(汽車を見に行ったが、時間的にこなかったのだろう)
「昔はワラビ根を採って粉にするのが集落中の生業だったので、よく峠道から高原へ行った」
「高原への登りは、カラマツやヒノキの苗を背負って行って、ワラビ根を掘ったあとへ植樹した」
「集落にはどの家にも根を砕くための水車があった」
「昭和44年にスキー場ができたので、民宿をはじめた」
「ここから山を越えて奥有道へ下り、峠を越えて口有道から久々野へ行った」
と、重労働だったワラビ根掘り、ワラビ粉作りのことを思い出しながら話していただけた。
益田郡阿多野郷では江戸期からワラビ粉の生産が盛んで、『斐太後風土記』には絵図入りで粉の採取方法が解説してあるが、何工程もあり大変な仕事だった。
10?のワラビからとれる粉は、わずか70gほどらしい。
根の粉砕に水車を使うようになったのは昭和のはじめからで、それまでは木槌でたたいていた。
ワラビ粉は、食用のほか岐阜の提燈や和傘のノリとして使われたので、養蚕とともに貴重な現金収入源だった。
ワラビ粉採りはその昔弘法大師が伝えたとされ、だいじに祀ってある
<善光寺参りのこと>
「牛に引かれて善光寺参り」という俚諺はよく知られているが、飛騨でも江戸期や明治、大正期ごろまでは善光寺参りが盛んだった。主要街道の辻には「善光寺道」の道標がいたるところにあった。他に交通手段がないとはいえ、遠路歩いて往復したのだからたいへんだったろう。この細尾峠を秋神へ下った所にも石の標識があったが、一昨年の豪雨で流され、行方不明になっている。
豪雨で埋まった標識 右ハ村道 左ハ江戸道 善光寺とあった
美女峠入口にある標識にも善光寺とある
今年は善光寺の御開帳があり、飛騨のお年寄りたちはバスでお参りにいったようだ。
]]>登尾峠
変わり者の隠居は、相変わらず喧騒な山を避けて独り峠探索を続けているが、初冬の山の静けさはことのほか寂しさをともなう。
今回掲載の峠は、今年の夏に行ったもの。猛烈なヤブ漕ぎが思い出される。
国土地理院の2万5千分の1の地形図に、下呂市小坂町大島から大島谷を遡り、萩原町尾崎へ通じる峠(950?)があるのが以前から気になっていたので、入ってみた。
大正元年発行 陸地測量部作成5万分の1地形図
JR小坂駅の裏から大島谷沿いの林道を約3?遡ると、突然地形が開ける。
林道入口
標高700?の所に、かつて洞という5〜6軒の集落があった。つい最近まで酪農をやっておられた家が残っているが、今は無人になっている。
ちょうどそこへ60歳代くらいのご婦人が、家の様子を見に来ておられたので、峠のことを聞いてみた。
峠の存在は知っておられたが、歩いたことはなく現況もわからないということであった。
さらに林道へ車を乗り入れると、林道沿いで大規模な伐採作業が行われており、少し進むと森林管理署のゲートがあった。
ゲート前に駐車して林道を歩く。地形図をよく見ないで歩いたため、峠の分岐をはるかに過ぎてしまい、戻る。
GPSで峠道に入るが、いきなりひどいヤブだった。ヤブを漕いで谷に入り、渡渉してべつの小谷に入る。
下部は道の形状が所々に残っていたが、だんだん背丈より高い笹ヤブが濃くなり、峠らしき稜線が見えたところで力が尽き、断念した。
他日反対側の萩原町尾崎から入ってみた。県道の位山峠を越えて山之口から尾崎へ下り、ここも洞という集落が峠の入口。
入口にあるM家のご主人(65歳)に峠の様子を尋ねると、
「峠を歩いたのは自分の父親(90歳代)の世代までで、自分は歩いたことはない」
「下のほうへも近年入ったことはないので様子はわからないが、植林帯なので日が当たらず、笹などは茂っていないだろう」との話であった。
M家に車を置かせてもらい峠道へ。
林道は入っておらず、すぐ山道になるがしっかりした道がついており、途中には石畳の部分もあった。
左の谷に落差3?くらいのきれいな滝が現れた。
谷沿いの道は中ほどから判然としなくなり、倒木も多くなった。谷がいくつにも分かれ、おまけに植林の手入れ用と思われる道らしきものが何本もあって、ますますわかりにくくなった。
このため2回ほど違う道に入ってしまい、GPSを見て戻ったりして時間を食った。低山の登山で道迷い遭難が多いのは、こういう条件が重なるからだろう。
右に行きすぎたが、ようやく峠に到着。
先日峠手前で敗退した小坂側は、一面の笹原であった。
帰路はかすかな踏み跡がある尾根を下り、谷に入って順調に戻ることができた。
この峠道も幹線街道でないので踏み固められておらず、他ルートの自動車道がついで通る人がいなくなったら消滅の一途をたどったのであろう。
他日洞集落のⅯさん(81歳)から次のような話を聞いた。
「峠の名は、のぼりおと言う」
「自分の世代はもう峠越えの必要はなかったが、一世代前の人は、小坂の医者などへ行くためよく越えた峠だった」
「上呂にあった芸者置屋の芸者さんが、仕事がつらいのでこの峠を越えて高山へ逃げるのに出会ったと、昔年寄りから聞いたこ とがある」
「昔秋になると峠の下まで馬の餌を刈りに行き、背負って下った。重いので道の途中に何カ所か休み場が作ってあったが、今はもうない」
「途中の石畳は、あのあたりにいつも水が流れているので敷いてある」
「滝の名は、岩魚止めの滝」
田舎家の縁側でお茶をごちそうになりながら、長年そこの風土と共に生き、風土を体現しておられるような方からいろいろ話を聞くのはまことに楽しい。
]]>有峰湖からの薬師岳
昭和38年(1963)1月、愛知大の山岳部員13名が、後に「三八(さんぱち)豪雪」といわれる、連日の猛吹雪と異常低温で遭難死したことを知っている人は少なくなった。
その年に同大へ入学した隠居の友人が、以前から先輩たちの慰霊に行きたいと言っていたので、先日同行した。
神岡町の山之村から、昔なら歩いて「からお峠」を越さねばならないところを、今は大規模林道の飛越トンネルを抜ければもう越中の有峰湖。
久しぶりに湖畔の景色を楽しみながら走ると、薄く雪化粧した秀麗な薬師岳がよく見えた。
この重厚な山容は飛騨山脈中央部の鎮めにふさわしく、フアンが多い。
この日は日曜日とあって、ダムサイトは富山からの紅葉狩りの人が多かった。
登山口から30mほど入ったところにある遭難碑は、十三重之碑という立派なものだ。
友人が花と線香、ローソクを供えて慰霊し、隠居が般若心経を読経した。
それほど古くない花もあって、前穂岳東壁下とちがい、ここへは慰霊にくる縁者が絶えないようだ。
この年は歴史的にも稀な豪雪となり、12月末から一か月降り続いた雪は各地に激甚な雪害(家屋全壊750棟、死者228名、行方不明3名)をもたらしたが、山でも多くの命が失われた。
地元の乗鞍岳では、越年登山客のため畳平の「乗鞍山荘」へ小屋開けにむかった経営者、アルバイト4名が途中の桔梗ヶ原で吹雪に遭い、3名が亡くなった。
そのうちのアルバイト1名は、隠居の中学の同級生だった。
また北海道大雪山の旭岳では、北海道学芸大学函館分校(現北海道教育大学函館校)の山岳部員11名が遭難し、リーダーを除く10名が死亡している。
この大雪山の事故は、愛大の事故の影に隠れてあまり報道されなかったため、知る人は少なかった。
ここへ来たついでに、ダムのため湖底に水没した有峰集落のことを少々。
大正10年富山県がダムを造る予定で全域を買収したため、住民は順次各地へ移転し、昭和3年閉村になった。
ダム建設工事は戦争で中断したが昭和34年に完成し、集落は湖底に消えた。
標高1000?にあったこの村は、古くは「有嶺村」だったが、元禄のころ読み方が「憂い」に通じるのでよくないとして、「有峰村」に変えた。
江戸期には35戸あったが次第に減り、明治、大正期には12戸になっていた。
この集落の明治期の様子は、登山家田部重治が著書『山と渓谷』のなかの「薬師岳と有峰」に詳しく書いている。
この頃の有峰は、富山でも「絶海の孤島に異人種が住んでいる」などと言われ、まったくの秘境であった。
田部は明治42年の夏、飛騨の跡津川から大多和峠を越えて有峰に入り、民家に泊めてもらった翌日案内人と薬師岳に登っている。この時囲炉裏端で家人に聞いた山の話が面白い。
有峰の集落 田部重治著『山と渓谷』から
旧大山町H.Pから
中河与一著『天の夕顔』から
途中真川の上流で、「側(がわ)師」が小屋をかけて曲げ物などを作っているのに出会う。
側師は、木地師と同じ系統の流浪の民で、材料がなくなると他へ移動する。
田部は大正のはじめ、槍ヶ岳から立山、剣岳を経て早月川へ下る大縦走をしているが、薬師岳のあたりで側師の小屋をあてにしており、高山の飛騨山岳会員住広造へ小屋の有無を問い合わせている。
冠松次郎の紀行にも側師が出てくる。
側師の話になってしまったが、ふたたび有峰のこと。
大正13年には、厳冬期の薬師岳に登って映画撮影をした名古屋の資産家伊藤孝一が、この集落を拠点に入山準備をしている。
中河与一の小説『天の夕顔』の主人公も、大正末期に「この世から最も遠いところに隠れたい」と有峰へ入るが、2、3日いるうち何か落ち着かず、からお峠をこえて飛騨の山之村へ移っている。
有峰集落では昔から薬師岳を薬師如来の山と崇めており、山頂に祠を建て、毎年6月15日の祭礼には登山をして剣を奉納した。
薬師岳頂上の祠
以前頂上で、この金属の小さい剣がたくさんあるのを見たことがある。
同じく大正末期にスキーで入って民家に泊まった飛騨山岳会の笠井 亘が、住民に聞いた話を飛騨の郷土史学会紀要『ひだびと』に書き残している。
それによると「夏は集落から頂上にある薬師様の御堂がローソクを立てたようにポツンと見える」「昔は村の者で何か頼みごとがあると、裸足であの薬師様までお参りにいったものじゃ。足の裏はちっとも痛うなかった」と、2人の有峰人は語って聞かせたそうだ。
飛騨からも、山之村から「からお峠」を越えてお参りにいったという。
老人2人は帰路小見へ下り、大岩不動様にもお参りして帰った
]]>乗鞍も冠雪(10月24日)
穂高も冠雪(10月26日)
旧馬瀬峠
人が多い山には行きたくない偏屈隠居にとって、峠探索は人に会うこともなく独りで気ままに歩けるので、この老人にぴったりといえる。
道が消えていることも多いので、地形図を読みながら歩くのがまた楽しい。
さて今回は旧馬瀬村の古峠。
旧馬瀬村は、川上岳から南へ派生する2つの山脈に挟まれて流れ下る馬瀬川沿いの細長い地区だ。
その東西の2つの山脈には、昔からいくつもの峠があった。
東には連坂峠、鈴越峠、日和田峠、柿坂峠、深谷峠。西には、日出雲峠、馬瀬峠、浅谷峠、楢尾峠。
西の山脈は途中から美濃郡上との国境になっており、郡上側には小川という100戸くらいの大きい集落がある。以前は郡上郡明方村、現在は郡上市に属している。
この小川から西の旧明方村中心部へ出るには、小川峠という長い峠道を下らなければならず、地理的には東の旧馬瀬村のほうが近いくらいだった。
このため旧馬瀬村へ行くことも多く、その道が馬瀬峠で、小川では馬瀬の中切へ下るため中切峠と呼んでいる。
郡上へ下る小川峠とまぎらわしいが、『飛騨国中案内』には馬瀬峠を「小川峠」と記してあり、『斐太後風土記』にも「小川嶺 中切村より美濃小川村へ越」とある。
この峠に平成7年大規模林道がつき、一度通ったことがあるが、山の中に2車線の立派な道が通っていて驚いた。
狸か狐しか通らないなどと言われたが、地元小川の人にとっては萩原、下呂方面へ出るのにずいぶん便利になったことだろう。
このため旧道は無くなったと思われたが、地形図にはまだ一部点線が記載されているので、今年の新緑の頃入ってみた。
旧道は馬瀬の中切の馬瀬川対岸小川林から登るが、今はルート上に未舗装の林道が入っている。
とりあえず峠付近を探索しようと、大規模林道を峠のトンネルまで車で上がる。トンネル手前に駐車。
地形図にはトンネルの左側に点線がついていているので入って見たが、急峻で道の形跡が見当たらなかった。
戻って下から地形をよく見たら、常識的にトンネルの右側の沢あたりだろうと改めて入って見たら道が現れた。
はじめ少し沢に入り、尾根に取りつく。
杉檜、あとはブナ林のなかのジグザク道を登ると、V字型の地形の峠に出た。郡上側にも厚く積もった落葉のなかに道が続いていた。途中まで歩いて引き返す。
このあと大規模林道を郡上市の小川集落へ下る。
峠道入口あたりで歩いた時代の話が聞けないかと思っていたら、畑から帰る途中のおばあさん=Kさん(94歳)に出会え、以下の話をしてくれた。
「歩いて馬瀬の中切までよく行った」
「昭和40年頃には馬瀬までバスが1日4〜5回通うようになったので歩いて中切へ下り、バスで萩原までパーマをかけに行った」
「峠道としてはこの下の馬瀬の名丸へ出る浅谷峠のほうがゆるやかで歩きやすかった」
また別の場所で家の前におられたSさん(75歳)は
「子供の頃歩いて越えたが、10歳のころ(昭和30年代はじめ)に金山から道がつき、単車やオート三輪が通うようになって、峠道
を歩く人は減った」
「それでも集落総出で道の草刈りをやった」
Mさん(78歳)は
「自分も子供のころよく歩いて越えた。浅谷峠より馬瀬峠のほうが好きだった」
「小川集落のうち、東のほうの家は明方との付き合いが多く、西の馬瀬峠に近いほうは馬瀬との付き合いが深かった。小川から
馬瀬へ何人も嫁入りしているし、その逆もあった」
「わしの母親は馬瀬からきている」
地理的に山間の僻地である小川集落にとって、2つの峠は歩く時代の生命線だったが、先に小川峠に自動車道がつき、その後馬瀬峠にも大規模林道がついた。こんどは最近小川峠にトンネルが空けられ、郡上はずいぶん近くなったという。いつの時代も道ひとつで人々の生活は大きく変わる。
他日、トンネルの郡上側に旧道が残っているはずだと思い、入ってみた。
トンネル郡上側出口に駐車して、山腹をまいている古い林道に入る。この林道、トンネル出口の北側が大きく崩壊している。
道は崩壊地の上
しばらく進むと小さい谷の左岸に旧道が入っていたのでこれを登る。
よく使われた峠だけあって、谷沿いにしっかりした道が残っていた。あまりヤブもなく、先日立った峠まで難なく行くことができた。
往路を戻り、トラバース林道から下にも杉林のなかにしっかり道が残っていたので下ってみた。
だいぶ下ったとことで杉の倒木がひどいところに出たので引き返した。
このあと車で馬瀬へ下り、馬瀬側の旧道を探してみることに。
馬瀬川右岸の小川林集落へ行き、養魚場そばから旧道ルート沿いに未舗装の林道が入っているので車を乗り入れる。旧道は谷右岸にあるはずだがよくわからなかった。
約1.5?登ると小さい谷を渡ったところから先は林道が崩壊しており、手前に駐車する。
地形図を読みながら探すと、小谷の左岸に旧道が入っていた。
しっかりした道をたどると、トンネル入口の下に出た。ここから上は、道路工事の土砂で埋まっていた。
林道を引き返し、林道入口にある別荘風の建物におられた中年男性に峠道のことを聞いてみた。
名古屋から移り住んだ方で詳しいことは御存じなかったが、家の裏山に関所跡があると、白い標識を指して教えていただけた。
行って見ると、江戸期に峠を郡上へ越える人、越えてくる人を調べ、税を取り立てる飛騨代官所の「上馬瀬口留番所」跡であり、屋敷の石垣が残っていた。
旧道はここから山腹を通って峠へむかうが、途中で崩壊しているようだ。
これで峠の両側の残っている旧道をすべて歩くことができたが、やがて埋もれてしまい、峠道があったことも忘れられてしまうのであろう。
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登山寿命が残りわずかになったので、若き日に遊ばせてくれた場所へ訪れては別れを告げている。
一昨年は久しぶりに奥又白の池、そして前穂東壁の下まで行き、昨年は錫杖岳の烏帽子岩まで行ってきた。
今年は紅葉の時期に涸沢から前穂北尾根をと思ったが、横尾からのコースと涸沢テント場の混雑を想像すると腰が引け、人が少ない徳沢からのパノラマコース往復とした。
このコース、昔通ったことがあるがほとんど記憶になく、新鮮だった。そして案の定まったく静かだった。
北尾根の末端、屏風のコルあたりは紅葉が盛りで、これを入れて穂高や槍のいい写真が撮れた(自画自賛)。
あと昔屏風岩を登攀してから通った屏風岩の頭まで行こうと思ったが、時間的に無理になり、心残りのまま下山した。
以下コースの全景をご覧ください。
老体にはこたえる重荷
新村橋 奥又白の岩場にクライミングルートを拓いた昭和初期の登山家新村正一の功績を偲んで
前穂東壁で逝ったクライマーの慰霊碑 今では訪れる人も無い
中俣白谷 ここで奥又白池への中畠新道と別れる
分岐の標識
奥又白谷
途中から見える中畠新道の尾根 上部左奥又白池 右東壁
前穂高東壁
青春期の遊び場前穂高東壁 真ん中がDフエィス
慶応尾根乗越
屏風のコルが見えだす
早稲田尾根
屏風岩の頭
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