Calendar

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< April 2020 >>

Recommend

MOBILE

qrcode

Link

Profile

Others

Search this site.

Blog

『飛騨紬』を歩く 5

2012.05.12 Saturday
 s-春雪2.jpg

春雪や神をいさめの赤き幡  普羅

s-春雪1.jpg 


*いさめ=元気づける なぐさめる

 

しばらくの間、町内の行事などで山へ行けそうもなく、鬱がたまりそうだ。

 

隠居生活に入る前、山の中に住もうと考えたことがある。


しかし、中国の古書に「大隠は朝市に隠れ、小隠巌藪に隠る」(偉い、たいした隠者は街の中に隠れ、たいしたことのない隠者は山の中に隠れてしまう)とあったので、かぶれやすい隠居は大隠にあこがれ、街に隠れて人間観察をすることにした。


ところが街では共同清掃や懇親会などいろいろとめんどうな地域のつきあいがあり、特に暖かくなるとそれらの行事が増えてきてなかなか山へ行けなくなる。


やはり偏屈でたいしたことのない小隠の隠居は、山の中での生活が必要だったようだ。

 

以下山岳俳人前田普羅論の続編です。

 

女性ばかりの句会


隠居が少しの間所属していた句会はほとんど女性でしたし、新聞の文芸欄を見てもこれまた女性ばかり。


貧しい句歴であまり俳句論など語る資格がないのですが、そもそも俳句というものは、森澄雄がいうとおり「人生の無常の思いを共有する男だけの優雅な遊び」だと思っています。


隠居が敬愛する司馬遼太郎も「同じ言葉の芸術でも俳句は男性的、短歌は女性的」、「男性が知で宇宙や人生や日常の些事をとらえてみようというのが俳句」であると言っているのです。


そして「無常の遊子西行は、本来剛気な人間なのに短歌を詠むために女性的な印象がつきまとう」にはうなずけます。


というわけで、「俳句を男性に返せ」などと叫んでも誰も相手にしてくれそうになく、女性からはにらまれるだけでありましょう。

 

 

comments(0) | trackbacks(0) | - | -

『飛騨紬』を歩く 4

2012.04.02 Monday
s-雪雲.jpg 


 一抹の雪雲はしる春夕日 
普羅

s-雪雲2.jpg 

 

先週末は雨で、予定していた山スキーは中止になりました。どうも雨男は隠居のようです。


俳句に興味のない方も、飛騨を愛し、飛騨の風土を多く詠んだ山岳俳人前田普羅の俳句の光景を、隠居の下手な写真を参考にイメージしていただければ幸いです。


隠居に普羅の句を評釈するほどの能力がないので。

 

 


普羅の「山恋い病」 


田部重治がワーズワスを経て行き着いたのは、孤独と漂泊を愛した芭蕉の世界であり、その世界は無限の広がりをもっていた。


普羅は俳句理論として芭蕉の「寂、栞」を論じてはいるが、行動面でも田部同様永遠のワンダラーであった芭蕉に関心を寄せていたのではないかと思うに至った。


話しは普羅が大正12年に横浜で関東大震災に遭遇する場面に飛ぶ。


以下は新学社の近代浪漫派文庫『前田普羅・原石鼎』121Pの「ツルボ咲く頃」
から。


普羅は当時報知新聞に勤務していたが、倒壊した事務所から命からがら自宅へ戻る。


なんとこのとき事務所から持ち出したのが1冊の本で、それは西田幾多郎著の『善の研究』。


幸い妻子は無事であったが自宅は全壊し、そのうち火がまわってきて三千冊の蔵書が灰燼に帰した。(後に富山でも空襲で多くの書籍を失う)

この少し前に普羅は持ってきた『善の研究』に別れを告げ、これをガレキの中へ捨てる。


この時書籍や家財をすべて失ったのだが、このことについて普羅はなんと「時が来た、時が来た。我らは放たれたのであると思った。物欲と闘った熱暑苦しい長い時は消えて、高く遠い朗らかな空が現れた。」と書き、

「以前からこの飽満からは脱しなければならないと思っていた。静かに思うと、此の大地震は自分に取っては単なる不幸ではなかったようだ。」とまで言っている。


単なる負け惜しみとはいえないこの抜けた明るい諦念、無常観に驚かざるを得ない。


これは最後まで持ち歩いていた本が『善の研究』であったことから、西田哲学等の影響があったのではなかろうか。


難解な西田哲学などは、とても浅学の隠居の手に負えるものではないが、どうも「絶対矛盾の自己同一」という言葉は、道元などがいう「心身脱落」の禅の境地と同じものであったようだ。

とすると、禅というものをほんの少しかじっている隠居にも、ほんの少しは理解できそうだ。

西田は清沢満之や国際的な禅者鈴木大拙の影響を受けたともいわれる。


ご存知のとおり、禅は中国で老荘思想の影響を受けてから日本へ伝わったが、芭蕉は『荘子』に傾倒していた。


万物斉同の哲学である『荘子』も禅同様解脱の思想であり、「心身脱落」を説いている。


読書家の普羅は、西田哲学、禅、老荘になどに通暁して、人間社会の束縛から解放された絶対的な精神の自由、自然と冥合した魂の安らぎを求め、登山という行動面ではでは田部同様芭蕉の漂泊にあこがれていたのではないか、とまで言うのは素人の牽強付会の説か。


そして俳句という芸術の世界に身を置いていた普羅は、虚空を遍歴する空しさをも感じていた人だった気がする。


普羅論などに首を突っ込み、しかも私見を文字にするのはどうも30年早かった気がして後悔していますが、ま、ブログでのお遊びということでご容赦。


それにしても普羅という人は、知れば知るほど魅力的な人です。



comments(0) | trackbacks(0) | - | -

『飛騨紬』を歩く 3

2012.03.22 Thursday
s-IMG_9760.jpg 

雪つけて飛騨の春山南向き 普羅

s-IMG_9747.jpg 



普羅の「山恋い病」


西山秀夫氏の論文(日本山岳会発行『山岳』Vol.105)で、飛騨のことを多く詠んでいる前田普羅という俳人が、隠居と同じ「山恋い病」をかかえていたことを知ってから、さらに親しみを抱くようになった。


俳句をはじめる前に山登りにのめり込んでいたのだ。


普羅が昭和4年5月に飛騨を旅したときの紀行文=「奥飛騨の春」の末尾には、旅を終えたあと「富山市に入るのがなんとなく苦痛だった」とあるが、この時期になっても普羅の病はまだ癒えておらず、むしろ膏肓に入った状態だったのであろう。


普羅は、自分が15歳のとき『日本風景論』を読んで「山恋い病」にかかったことを『辛夷』で告白している。


西山氏は、普羅がその後小島烏水の著書を読んで山への想いを高め、さらに静観派の元祖田部重治の影響をも受けていたのではないかと書いておられるが、言われてみればそうかもしれない。


田部の山岳紀行文の特徴は、素直で誇張や気取りがなく、あるがままの描写にあるといわれるが、普羅の紀行文も田部によく似ている。


周知のとおり明治期に移入された近代登山は、大正期に雪と岩を攀じるスポーツ的要素の強い先鋭派と、森や渓谷を活動の舞台として思索や瞑想を好む静観派に分かれたが、前者は大学の山岳部が主体で、大部分の社会人(といっても一部の恵まれた階層であったが)は、後者の田部重治や木暮理太郎などが行っていた日本版アルピニズムといわれる山旅的登山であった。


田部の最終段階は、初期のワーズワスの世界を脱し、宇宙的なものを表現した芭蕉の境地に行き着いたといわれる。


「山と渓谷」から「峠」、そして「街道」に移り、最後には芭蕉の『奥の細道』を歩き、「平和な山村を貫く坦々とした大道」に関心を示すようになっていったが、この最終段階は「平和な飛騨の山村」を好んだ普羅とよく似ている。


付会の難を恐れずに言うなら、普羅も寂人芭蕉の孤独な漂泊の人生に憧れていたのではなかろうか。


残念ながらつき合ったことはないが、普羅は常に寂寥感を漂わせていた人だったような気がする。


(つづく)

 


comments(0) | trackbacks(0) | - | -

『飛騨紬』を歩く 2

2012.03.16 Friday
s-183_8320.jpg

  色変へて夕となりぬ冬の山 普羅


序文と後記―飛騨への愛


『飛騨紬』の序文と後記を読み返してみると、普羅の飛騨への並々ならぬ思慕に改めて驚く。


昭和21年に書かれた後記には、序文の内容に迷ったあげく、昭和4年5月に飛騨を旅した時の紀行文=「奥飛騨の春」の前記(同年424日執筆)をそのまま充てたことが書いてある。


その理由は、「今思うと幼い小文だが、昔も今も飛騨に対する思慕の心に少しのかげりもない証拠なのでこれを充てた」「この古い小文は、今でも充分に私の心を具現している」というものであった。


序文には「哀弦は鳴る わが少年の夢は現実に結ばれようとしている」と、長年憧れてきた飛騨入りが今実現しようとしている喜びを表し、「奥飛騨の春、奥飛騨の春、わがファンタジー」と結ばれている。


ここまでわが飛騨が普羅に慕われていたとはうれしい限りだが、少々こそばゆい気もする。


彼は昭和4年以降何回も飛騨を訪れており、特に富山の文化圏でもある神岡町へは、昭和10年代に三井金属神岡鉱業所の職員を中心とする句会の指導にきていた。


そして飛騨のことを多く詠んだが、そのなかから普羅が「私の心と、私の句の心にかなったもの」として厳選した216句が『飛騨紬』に収録されているのである。


「昭和21113日憲法公布祝賀の東京放送を聞きつつ」と付記した後記には「時勢は飛騨をいつまでも山奥としては残しておくまい、しかし飛騨を横断する鉄道が開通すると山奥はかえって取り残され、前より淋しくなった山村もある」と一抹の安堵を示し、「山、渓谷、小鳥の声、栗の木の多い雑木林、イチイ、ツガの森林、それらを貫く古い時代の通路、(略)チロルの山家に似た木造家屋などがやさしい飛騨人をはぐくんでいる」と、飛騨の山村に対する変わらぬ愛情が綴られている。

 

後記には「私が逍遙したとおりに、もしこの『飛騨紬』をふところにして歩く人があったら面白かろうと思う」とあるので、暇な隠居も普羅の意向に添って歩いてみたくなった次第。

 

 

 
comments(0) | trackbacks(0) | - | -

『飛騨紬』を歩く 1

2012.03.09 Friday
s-PC280010.jpg

  てり返へす峰々の深雪に春日落つ  普羅

以下は「山岳俳句」の話なので、俳句に興味のない方はご容赦ください。


かくいう隠居もあまり俳句を語る資格はないのですが・・・。


『飛騨紬』とは織物のことでなく、山岳俳人前田普羅(本名忠吉)の句集名。

s-hidatubugi2.jpg

普羅は大正末期から戦前に隣県の富山に住んで、奥飛騨の自然やそこに住む山人に深い関心を寄せ、飛騨のことを多く詠んだ。


普羅が虚子のホトトギスの「客観写生」に不満を抱き、飯田蛇笏などとともに袂を分かって越中で『辛夷』を主宰したことは以前から知っていた。


しかし普羅が「山恋い」という病気をもっていると自白するほどの山好きであったことを知ったのは、2010年発刊の日本山岳会機関誌『山岳』に西山秀夫氏が書いておられた「普羅小伝」からであった。


西山氏は、普羅を近代登山草創期に生まれた山岳俳人としておられたのだ。

そして普羅が、後に静観派といわれ、森林と渓谷の山旅を好んだ田部重治の影響を受けていたのではないかという論考も興味深い。


以前から越中在住の人ながら飛騨の山のことを飛騨人のごとく詠んでいる普羅のことが気になっていたが、これで納得できたのである。


たしかに句集『飛騨紬』の「序」には、普羅が少年期に『日本風景論』を読み、その表紙にあった「奥飛騨の春」と題した画を見て以来、奥飛騨の春の景色にあこがれて続けていたことが書いてある。

s-P3060071.jpg

s-P3060078.jpg

そして昭和4年には富山の八尾から牛首峠を越えて念願の飛騨入りを果たすのである。(この時の紀行文は「奥飛騨の春」)

普羅はこの年に報知新聞富山支局長の職を辞し、『辛夷』の経営に専念することになる。


その時期の飛騨の俳句界は、江戸期に加藤蘭亭(歩簫)が興した俳句結社「雲橋社」の灯が町の旦那衆によって継がれており、一方では新傾向俳句の普及で飛騨へも行脚してきた河東碧梧桐の指導による「新派」の句会も盛んになりつつあった。

この「新派」には瀧井孝作が折柴の号で加わっていた。


飛騨の地に棲んで、飛騨の風土を心とし体として生きてきた飛騨人の詠んだ句や歌はもちろんすばらしく、共感できるものであるが、旅人ながら飛騨に愛情を持ち、岳人の目で飛騨の山と人を詠んだ普羅の句も、同じ岳人の隠居としては無視できない存在だ。


普羅が高山線の全線開通によって飛騨のよさが失われてしまうと危惧した頃から既に100年近く経過し、飛騨のみならず日本の山村の大きい変貌ぶりは言うまでもないが、それでも奥飛騨の時間の流れはゆるやかで、まだ往時の片鱗を留めているところもある。


そこで暇な隠居は、カメラを片手に普羅の句とともに今一度飛騨を巡ってみるのも一興であろうと考えた。


普羅が見たであろう山岳や山村風景、あるいは心象風景と思われる写真を順次紹介してみたい。


普羅研究者からの偏見のそしりを覚悟で。

 




















comments(0) | trackbacks(0) | - | -

(C) 2020 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.